画家ドガについて (五)
(《画家ドガについて (四)》からの続き)
実は『ヘンタイ美術館』の冒頭にこう書かれている.
こやま淳子《そう、もちろん性的倒錯など、ホンモノな方々も美術家にはいらっしゃいますが、ここではもっとライトに、ちょっと変わった美術家さんのキャラクターにスポットを当てていこう!という趣旨です。》
山田五郎《というわけで、ホンモノの変態の方々へのリスペクトも込めて、変態ではなくヘンタイと、あえてカタカナ表記してあります。》
そして山田館長は,この本に取り上げたレオナルドからモネまでは「あえてカタカナ表記」のヘンタイとした上で,ドガについては,ドガのどこがどのように変態性なのかを例を挙げて説明していき,
《この、最先端の近代文明と古い禁欲主義の軋轢が生む歪から、新しい時代のヘンタイが芽生えてくるんですよ。胸やお尻といった性徴部より脚や背中といった中性的な部位、個性より匿名性、リアルよりフィギュアと、どんどん生身の人間から遠ざかっていくタイプのヘンタイが。
ドガはそれを19世紀末の時点で先取りしていた天才だった。》
《今日の日本で漢字で書く「変態」は、19世紀末のドガの時代に出てきた病理ですからね。》
《ヘンタイ美術館としては、「真の変態」ドガの登場をもって一段落。》
と結論している.
私は《画家ドガについて (一)》で,
《 上流階級に属するドガにとって踊り子たちは単なる画題にすぎなかったようで,そのことについて『怖い絵』には次のように書かれている.(同書 p.33-34)
《どの絵も踊り子と描き手との交流、あるいは温かな交感といったものが全く見られない。「ドガの描いた踊り子は女ではなく、平衡を保った奇妙な線である」とゴーガンが評したが、ある意味それは当たっているように思われる。》
《けれど確かなのは、この少女が社会から軽蔑されながらも出世の階段をしゃにむに上がって、とにもかくにもここまできたということ。彼女を金で買った男が、背後から当然のように見ているということ。そしてそのような現実に深く関心を持たない画家が、全く批判精神のない、だが一幅の美しい絵に仕上げたということ。それがとても怖いのである。》
つまりドガは踊り子を人として見ていなかったということであろう. 》
と書いたが,中野京子先生が『怖い絵』の中で書いている
《そしてそのような現実に深く関心を持たない画家が、全く批判精神のない、だが一幅の美しい絵に仕上げたということ。それがとても怖いのである。》
が,実を言うともう一つピンとこなかったのである.しかし山田五郎館長の,作品の画像を例に示しながらの解説で充分に理解できた.中野先生が,あからさまに「ドガの変態性」について解説していないのは,女性としては書きにくいことであったからかも知れない.
さて,試みに「ドガ×ヘンタイ」と「ドガ×変態」でウェブを検索してみた.
すると,六年前に横浜美術館で開催されたドガ展以降に,ドガ=ヘンタイ(or変態) 説がブログ等に現れてきたことがわかった.そのブログのほとんどは「ドガ=変態」と言うだけで,ドガのどこがどのように変態なのかちゃんと書いていない.それらのブログは,たぶん誰かがドガ展の開催時に書いた批評を丸呑み&拡散しているだけのように思われ,それならばドガ変態説のオリジンがどこにあるのかを知りたいと思ったけれど,残念ながら突き止められなかった.(山田五郎氏の可能性もある)
ちなみに,「ドガの変態性にかなり近いと思われる感性の人」がドガの作品を論じているブログが一つあった.しかしそのブログにリンクを張るのは少々憚られたので,関心ある向きは探してご覧になるのも一興かも知れない.
[参考書]
中野京子『印象派で「近代」を読む』(NHK新書)
山田五郎『知識ゼロからの西洋絵画入門』(幻冬舎)
山田五郎『知識ゼロからの西洋絵画史入門』(幻冬舎)
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