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2016年3月

2016年3月31日 (木)

会津の旅 (七)

 風評というものの怖さは,一旦信じてしまうと,なかなか頭から追い出しにくいことだ.例えば福島県の農産物や食品は私たちの身近にある例の一つだ.今これを忌避している人たちは,誰に何を言われようと今後も忌避し続けるだろう.
 風評は,正しい情報が適切に提供されない時に発生する.会津戦争が終わったあと,新政府軍から遺骸埋葬の禁止が命令されたという風評が広まった時に,世の中には新聞もラジオもなかったから誰もそれを打ち消さなかった.埋葬禁止の件だけでなく他の事情もあるのだが,こうして会津人のあいだに根付いた薩長への憎悪,特に長州に対する怨念は消えることなく現在にも続いている.例えば Wikipedia【会津戦争】は,後世への影響例として以下のことを挙げている (抜粋).

1986年 (昭和61年) には長州藩の首府であった萩市が、会津藩の首府であった会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は『まだ120年しか経っていない』と、これを拒絶した。
2007年 (平成19年) 山口県の衆議院議員で山口県第4区選出の内閣総理大臣安倍晋三は、会津若松市を訪問したときに「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語った。
2011年 (平成23年) 3月11日に発生した東日本大震災において、会津若松市は萩市から義捐金や核事故避難者用の救援物資の提供を受け、会津若松市長が萩市をお礼の意味で訪問したが、会津若松市長は「和解とか仲直りという話ではない」と述べた。

 上記の最後に挙げた会津若松市長の例などは,子供じみているとしか言いようのない無礼さであるが,そう言わないと選挙に響くことを恐れたのかも知れない.
 そういえば什の掟には「礼儀を欠いてはなりませぬ」がない.「戸外で物を食べてはなりませぬ」とか「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」なんぞより余程大切かと思うぞ.

 さて話が旅行記から会津の怨念史観へと横道に逸れてしまった.この辺りのことは Wikipedia【宮崎十三八】Wikipedia【観光史学】に譲って,白虎隊士の墓前広場のことを書く.

 まず第一に自刃白虎隊士の墓.

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 この白虎隊士墓前広場から少年たちが自刃した場所に至る一帯は現在,大正六年に設立認可された財団法人会津弔霊義会が管理している.会津弔霊義会は平成二十四年の法改正により公益財団法人の認定を受け,公益財団法人会津弔霊義会となった.
 ほとんどの公益財団法人は,時代の要請を受けて法人情報の開示に努めており,公式サイト上で理事等の役員名,事業報告書と決算報告書等を開示しているが,この会津弔霊義会は一切の情報を開示していない.理由は不明.所在地は飯盛山だから,私が会津若松市民なら直接出向き,同会の役員会構成,決算報告書および資産台帳の開示を求めるところである.どなたか近くにお住いの定年退職者で,興味とお暇のある向きは,個人的に公益財団法人運営の監査をやってみたらいかがだろう.

 次に会津藩殉難烈婦碑.

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 会津藩の殉難烈婦といえば,この連載の最初《会津の旅 (一) 》に書いた中野竹子が有名だ.他には家老西郷頼母の家族と,同じく家老梶原平馬の実家である内藤一族の婦女子がよく知られるところ.
 ちなみに,歌人であった飯沼貞吉の母は,貞吉に与えた
    梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士の道
で知られるが,会津戦争後まで生きたと思われるものの,その後はよくわからない.

 郡上藩凌霜隊之碑.

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 慶応四年,美濃国郡上藩の国元は朝廷に帰順すると決めたが,江戸家老朝比奈藤兵衛は佐幕派であり,息子茂吉を隊長とする藩士四十七名を脱藩させて凌霜隊を結成し,同年四月十日,会津に差し向けた.
 凌霜隊は江戸から現在の千葉,群馬,栃木各県を経て同年九月四日に会津城下に入った.時既に若松城は籠城戦に入っていたが,九月六日に凌霜隊は城内に入った.
 若松城内ではこの時,白虎隊士中二番隊のうち,自刃した隊士たちと別に作戦戦闘していたと思われる少年兵たちが帰還しており,これと一番隊とを合わせて再編成した新たな一番隊が結成されていた.これには八月二十三日の戦闘に参加しなかった旧二番隊長日向内記が再び隊長となっていたので,凌霜隊はただちに日向内記の配下に編入され,再編された白虎隊士らと共に籠城防衛戦を戦った.
 会津戦争終結後,隊士の三分の一を失った凌霜隊は故郷の郡上八幡に護送された後,罪人として死罪を言い渡された.しかし郡上領内の寺の住職たちの尽力により,牢内で生き残った隊士たちは明治三年二月に釈放された.

 篤志碑 (吉田伊惣次).

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  白虎隊士殉難予飯盛山
  也牛墓里正吉田伊惣次
  悼之私葬其屍官賜金若

と碑面に彫られている.里正は庄屋のこと.
「白虎隊士殉難は予め飯盛山なり 牛ヶ墓の里正吉田伊惣次は之を悼み 其の屍を私葬すること官賜金の若し」と読めばいいのだろうか.「官賜金若」がよくわからない.埋葬費用は新政府軍に任命されて戦後処理にあたった会津藩士が有志を募って拠出したとの文献がある.だとするならば官賜金ではなく私費だが,それを敢えて官費と呼んだところが会津人の矜持であろうか (会津人は新政府を「官」とは認めない).「私費を投じてあたかも会津公から官費を賜ったかのように立派に葬った」と私は解釈したのだが,それでよかろうか.この「官賜金若」についてご存じのかた,ご教示頂ければ幸いです.
 案内板には,自刃した白虎隊士の遺骸を,滝沢村牛ヶ墓の肝煎であった吉田伊惣次が飯盛山と妙国寺の二ヶ所に仮埋葬したと記されている.これが会津弔霊義会の筆による白虎隊士中二番隊殉難の「正史」であろう.ここに飯盛正信の名はない.
(続く)

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2016年3月30日 (水)

会津の旅 (六)

 会津へ観光に出かける前から,飯盛山へ行く計画だったので,白虎隊について一応の知識は頭に入れておいたのだが,帰って旅行記を書く段になってまた色々と調べてみると,これは迂闊なことは書けないなあと思うようになった.
 知人にも「白虎隊のことはデリケートだからあまり書かないほうがいいのでは?」とアドバイスされた.
 その「デリケートなこと」の一つに会津側戦死者の埋葬問題がある.
 詳しくいうと,会津戦争後,新政府軍側が会津側戦死者の埋葬を禁止したため,遺骸が鳥獣に荒らされて悲惨な状態となったと会津では固く信じられている.そしてこれが,埋葬禁止は人間にあるまじき振る舞いであるとして,会津人の薩長に対する憎悪を甚だしく掻きたてた.
 しかし会津側戦死者の埋葬を禁じたとされる新政府軍側の通知にはそのような記述が見られないことから,これは事実ではないとする冷静な批判が行われた.しかるに埋葬禁止を信ずる側からの再反論があり,歴史家ではない一般人同士の論難は泥仕合の様相を呈した (ネット上では今も互いの論難が行われている).

 私の観るところ,その原因は信用できる資料が少ないことである.考えてみれば,インタビューとノンフィクションの方法論を弁えたライターが登場するのは,はるか後世の1960年代である.戊辰戦争当時は,事実だろうが伝聞や嘘であろうがお構いなく文字で記録され,現代に伝えられたと思われるのだ.
 甚だしきは,当事者なのに矛盾した言説を弄する人がいるのである.何度も登場してもらって申し訳ないが,例の飯盛家の見解を「飯盛分店」の公式サイトから二ヶ所を引用する.

[飯盛山のみどころ]
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたために白虎隊の遺体を明治政府はそのまま放置しておくよう命じ(埋葬禁止令』埋葬の許可がされませんでした。風雨に晒される少年たちの遺体は、衣服遺留品は盗賊に盗られ、動物に食べられ酷い状態でした。不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと夜な夜なコッソリと骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬をしました。しかし、このことが西軍にわかり、正信爺は伊惣次と共に処罰され、その後許され出てきた時には正信爺は縄のようにやつれておりました。
 (ブログ筆者註;文中最初の一行の〈(埋葬禁止令』〉は原文のまま)

[会津若松・飯盛山 歴史のおはなし]
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされ白虎隊士の遺骸も埋葬を許可されず、密かに妙国寺に仮埋葬されておりました
明治2年にようやく飯盛山の中腹に合葬がゆるされ、私ども飯盛一族は、土地三反歩を旧藩主に献納し、自刃19士の白虎隊墓地が新設されたことで、「飯盛山は、わしが守る」と、初代「飯盛キン」が慰霊を尽してから、 二代目・三代目と継承し、現在で四代目となりました。

 自刃した隊士たちの遺骸は《今の墓前広場の一角に仮埋葬》されたのか,それとも《密かに妙国寺に仮埋葬》されたのか.同じサイト内の記述なのに,飯盛家の見解はこの有様なのである.(妙国寺は,現在の飯盛山墓前広場から500mほど離れたところにある)

 ちなみに,今井昭彦 (1983年成城大学文芸学部文芸学科卒,同大学大学院文学研究科日本常民文化専攻修士課程修了後,埼玉の県立高等学校社会科教員) という人物が「会津少年白虎隊士の殉難とその埋葬」という論文 (成城大学常民文化専攻紀要『常民文化』第24号,2001年3月発行;これは pdf をネットで検索して閲覧可能) を書いている.

 この論文は,白虎隊士の遺骸が埋葬禁止されたとする人たちが論拠の一つとしているものであるが,いくつも問題点がある.
 例えばその一つに,今井論文は平成になってから書かれたものであるのにもかかわらず,引用文献として,基本的資料である飯沼貞吉『白虎隊顛末略記』と酒井峰治『戊辰戦争実歴談』ではなく,何を血迷ったかNHK取材班『堂々日本史』(中央出版) を挙げている〈爆〉.これでは論文の体を成しておらず,ほとんど雑文であるので以下では今井雑文と呼ぶ (大学の紀要というのは学術論文誌が受理してくれないものを掲載するのが通り相場であるとはいえ,成城大学はよくまあこんなものを大学紀要に載せたものだ) .
 また今井雑文は,自刃した白虎隊士の遺骸を埋葬したのは,滝沢村の肝煎である吉田伊惣次の曽孫である吉田赴夫の証言を根拠 (ただし出版物からの孫引き) として,伊惣次の妻左喜であるとしている.埋葬地は吉田家の菩提寺である妙国寺であり,遺骸は四体だったらしいとしている.さらに今井雑文は《また妙国寺だけではなく飯盛山にも埋葬されたともいわれているが、その数も明らかではない》(上記紀要の p.80) としており,これはつまり飯盛正信の白虎隊士埋葬への関与を無視し,飯盛家側の主張を否定するものである.前述の「飯盛分店」サイトの体たらくを見れば飯盛家を信用できないのかも知れぬが,それならそれとはっきり書けばよい.
 さらにまた今井雑文は妙国寺の位置を《飯盛山から2キロ離れた》(上記紀要の p.80) としているが,Google マップ上で計測すると,既に上に述べたように飯盛山からの距離は約500mである.つまり今井昭彦氏は「会津少年白虎隊士の殉難とその埋葬」を書くに際して現地へ行っていないようなのである〈爆〉.
 要するに,白虎隊士の遺骸の埋葬一つとっても事実関係が確定していないのだ.
(続く)

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2016年3月29日 (火)

会津の旅 (五)

 昨日の記事の末尾に,「飯盛分店」公式サイトの記述を引用し,白虎隊自刃事件の生存者である飯沼貞吉の手記『白虎隊顛末略記』の記述と矛盾することを指摘した.
 Wikipedia でも,【白虎隊】と【飯盛山】では書いてあることが異なる.Wikipedia【飯盛山】は「飯盛分店」公式サイトと同じく,次の引用に示すように,「落城と誤解して悲観し自刃」説に立っている.

士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや帰るところもないと自刃した地でもある。

 両説 (以下,白虎隊生存者飯沼貞吉の『白虎隊顛末略記』に基づくものを「武士の本分」説,「飯森分店」サイトに記述されているものを「落城と誤解して悲観し自刃」説と呼ぶ) のいずれが広く支持されているのだろうか.話は横道に逸れるが少し調べてみた.ただし,『白虎隊顛末略記』については記憶違いやいくつかの矛盾があり,中には飯沼貞吉は集団で自刃した隊士たちと一緒でなかったのではないかと推測して資料的価値を疑う指摘もある. だから,幕末の会津藩史について門外漢の私が軽々に「武士の本分」説が真実だと主張するわけではない.以下は,飯盛山に立って往時を偲んだ一人の旅行者が,興味を持ったというに過ぎない.

 まず一般財団法人会津若松観光ビューローが運営するサイトの一部である《会津の歴史 》から《白虎隊のお話7 (白虎隊の悲劇)》を閲覧してみよう.ちなみに一般財団法人会津若松観光ビューローは私的組織であるが,会津若松市議会の議決を経て公の施設の管理運営を行う指定管理者の一つである.

体験したことのない凄まじい戦闘と、敗走、睡眠不足と少年たちは疲れ切っていました。
 そして、高台からみた鶴ヶ城は黒い煙につつまれ、五層の天守閣の白壁には赤い炎が燃えさかっているようにみえました。また、ほんど火の海となった城下からは、絶え間なく砲声と銃声がとどろいています。
 少年たちは予想もしなかった この光景に思わず息をのみました。命とたのむ鶴ヶ城ももはや、落城の運命かと思うと全身の力が一度に抜けていってしまうような悲しさが、少年たちの胸にこみ上げてきました。
「城を枕に討ち死にするつもりでここまできたが、もうお城へ入ることはできない。すべてはおわったのだ。」
 一人がこういってがっくり首をたれました。
すると傷ついた一人がいいました。
「このままぐずぐずしていれば、敵の手にかかって後の世までも恥じをさらすようなことになるぞ」
「そうだ、最後まで会津の武士らしく、いさぎよく、みんなここで切腹しよう。」
 こうして、少年たちは、遥かにお城をのぞむといずまいをただし一礼してから自刃しました。
 少年たちの静に閉じたまぶたのうちにはなつかしい父や母の姿がまた、可愛らしい妹や弟の顔が、そして楽しかった数々の思い出が、美しくうかんでいました。


 この記述は,小説的修飾はあるものの,《「このままぐずぐずしていれば、敵の手にかかって後の世までも恥じをさらすようなことになるぞ」「そうだ、最後まで会津の武士らしく、いさぎよく、みんなここで切腹しよう。」》という箇所は一応『白虎隊顛末略記』を下敷きに書いてある.従って一般財団法人会津若松観光ビューローの見解は「武士の本分」説である.(実際には,少年たちの自刃は血みどろにして凄惨な地獄絵図なのだから,最後の一行みたいに能天気な爽やか物語にしてしまうのは,介錯もなく苦痛のうちに死んでいった白虎隊士を愚弄するものであり,不見識甚だしいと思うが)

 次に会津若松市と同市教育委員会だが,資料集と論文集は発行しているが,公式な郷土史編纂事業は行っていないようである.また会津若松市文化課および行政機関である会津若松市歴史資料センター (平成二十六年にオープン) は所蔵・展示資料をウェブ公開していない.どうやらこの機関の白虎隊に関する見識は,同センターに出向いて調べるしかないようだ.しかし市サイトからは一般財団法人会津若松観光ビューローのサイトへリンクは張られている
[3/31 訂正;上の取り消し線部分は「会津若松市史が刊行され頒布されている.しかもその歴史篇7には,新政府側が会津側戦死者の埋葬を禁止したとする従来の説が事実でないことを認める重要な記述がある.」と訂正する]

 

 もう一つ.飯盛山の近くで妙なものを見つけた.観光者向けの掲示物だが,設置者が書かれていないのである.土産物屋,駐車場とか食堂など,この付近の業者が据えたものだろうか.

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 自刃に関する箇所を拡大すると下の画像.

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 文中に《命と頼む鶴ヶ城も最早落城の運命かと思うと》とある辺りは会津若松観光ビューローの記事をパク,いやコピ,いやいや踏襲してはいるが,隊士たちの会話がなくなっているために「落城と誤解して悲観し自刃」説のようだ.

 さてこの旅行記,話が長くてなかなか先に進まないのをどうしよう.まだ一日目の昼過ぎなのだ.
(続く)

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2016年3月28日 (月)

会津の旅 (四)

 慶応四年(1868年) 八月二十二日,戸ノ口原方面へ進軍した白虎士中二番隊は,翌二十三日の開戦に備えて途中野営した.この時,隊長の日向内記は友軍との連絡のために一人で隊を離れるが,敵軍と遭遇した上に道に迷ったために若松城に帰還したという.副隊長格の水野佑之進らは戦闘中に少年兵たちとはぐれたという.
 残された白虎士中二番隊の少年兵三十七名は,実戦経験なく装備は旧式銃,しかも隊長は行方不明.このような状況下,鳥羽伏見の戦い以来,会津藩士に予め約束された敗北の運命に,少年たちは戦いを挑んだのである.
 翌二十三日未明,隊長他指揮官たちの不在に呆然とする隊士たちを,十七歳の篠田儀三郎が立ち上がって鼓舞した.
 この時の様子は,士中二番隊士のうち,会津戦争を生き延びて後世に白虎隊自刃の経緯を伝えた飯沼貞吉の手記『白虎隊顛末略記』によれば

此の時早くも教導の一人なる篠田儀三郎、揚言すらく、腰抜け隊長何の狗□、吾は教導の首席なるを以て、代わりて隊長の任務を執らんと直に気を付けの号令を□し、人員点呼を行えり。其の点呼終わらずや否や、進めの号令を発せり。流石に死を決したる隊士、一人として篠田の進軍の令に違背するものなく、全軍粛然として戸ノ口差して行進す》 (ブログ筆者註;引用中の「□」は不明字)

であったという.(以下,士中二番隊の状況は『白虎隊顛末略記』の記述による)

 戸ノ口原に到達する前に,士中二番隊は敵の銃声を耳にした.既に敵兵は戸ノ口原に出兵した友軍を破り,銃を撃ちながら進軍してきたものと思われた.ちょうどそこに溝があったので士中二番隊は溝に潜んだが,その敵が百メートルほどに迫った時,突然横方向にも敵兵の姿が現れた.
 これを見て,隊の指揮を執る篠田儀三郎が撃てと命ずるや,隊士たちは銃撃を開始した.
 敵軍は一度は散乱するも,やがて態勢を整えて反撃に移った.再び『白虎隊顛末略記』から引用する.

茲に隊士死力を尽くし、銃身熱し手にすること能わざる迄発射すれども、僅かに一個中隊の能く防御し、得べきにあらず。味方の死傷、殊に多く、殆ど全滅に垂んとす。茲に於いて、流石に篠田も最早当り難きと思いけん、引け引けの号令を為し、白刃を振りて真先に立ち、退却す。

 篠田儀三郎に率いられて二十丁ほど退却すると,ようやく敵の追撃を逃れることができたが,それでもまだ砲声は遠くに聞こえていた.ここで一旦足を休め,人員点呼したところ,わずか十六名であった.退却の途中で副隊長格の山内蔵人と遭遇したが,少年たちと意見を異にしたため去った.(山内のことは,自刃した少年たちとはぐれてしまった少年兵酒井峰治が後に書き残した『戊辰戦争実歴談』に記載されている)
 ここまで生き延びた隊士十六名は疲労と空腹を覚えたが,前夜の残り飯を持っていた者がいたので,これを水に加えて混ぜ,交互に手ですくって口に入れた.これでようやく気力が回復したので,若松城へ戻るべく南進したが,道を誤って若松街道滝沢坂の麓に出た.
 ここで隊士たちは若松城を目指して行軍する隊列を目にした.友軍か敵軍か不明であったため試みに合言葉を発したところ,これに応えぬどころか銃撃を受けたので,ただちに南側の山腹に沿って退却した.
 敵の射撃を逃れて飯盛山に登って遠く若松城を望めば,その方角には黒煙が立ちのぼり,また街道には幾多の敵軍の進むのが見えた.
 これを『白虎隊顛末略記』は次のように記す.

今や満目の有様、斯の如し。血気の少年、茲に始て悄然たり。

 ここにはじめて悄然たり.立ち尽くした少年兵たちの心中はいかばかりか.『白虎隊顛末略記』中,読者の胸を打つ下りである.
 やがて合流した者を加えて隊は二十名となったが,この隊士二十名について Wikipedia【白虎隊】は,

このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、唯一喉を突いた飯沼貞吉 (のち貞雄と改名) のみが一命を取り留め、その他19名が死亡した。一般に白虎隊は若松城周辺の火災 (もしくは城周辺から上がる湯気) を目にし落城したと誤認して悲観したとされているが、飯沼が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(飯沼からの聞き書きに飯沼本人が朱を入れたもの) によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ激論を交わし、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したという。

と記述している.
 上の引用中に《一般に白虎隊は若松城周辺の火災 (もしくは城周辺から上がる湯気) を目にし落城したと誤認して悲観したとされている》とあるが,確かにネット上にもこの風説が散見される.
 この風説の出処だが,白虎隊自刃の直後から埋葬に関わり,後に彼らの悲劇を明治大正昭和三代にわたり流布してきた飯盛家ではあるまいか.事実,飯盛家が経営する「飯盛分店」の公式サイトには次のように書かれているのである.

会津藩は、15歳から17歳の少年で「白虎隊」を 編成し、その中でも、二番隊は、明治元年(1868)8月23日、戸の口原での戦いで決定的打撃を受けて潰走し、 負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びました。
だがここから眺めた戦闘による市中火災の模様を鶴ヶ城が落城したものと早計し総勢20名が自刃。

(続く)

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2016年3月27日 (日)

会津の旅 (三)

(昨日の記事《会津の旅 (二) 》には,最初の投稿後,これ以降の旅行記記述に必要な補足と推敲を多く行った)

 そもそも飯盛山とは何か.
 かつて戊辰戦争の前のこと,現在の飯盛山一帯は,幕末まで山中にあった旧飯盛山正宗寺および現在も山の中腹に祀られている厳島神社が所有するところであり,神仏習合の信仰が行われていた.
 戊辰戦争後,正宗寺住職の宗潤は,会津藩藩医佐藤青龍の次男である佐藤正信を養子とした.

 その後,慶応四年(西暦1868年) から明治元年(同左) にかけて明治新政府により発せられた神仏分離令の結果,無檀家寺であった正宗寺は廃寺となり,最後の住職であった宗潤は正宗寺の山号から名字を採って還俗し,飯盛正隆と名を改めた.
 このことに関して《白虎隊の飯盛山は、山の麓に飯盛さんというお宅があり、そのお宅の所有だと言う、だから、飯盛山という名が付いたそうだ》と記したブログがあるが,これは話が逆のデタラメである)

 正宗寺を廃寺とした際に,飯盛正隆の養子,飯盛正信は厳島神社の初代宮司となった.この時に仏像は他寺に移されたが,旧正宗寺の土地は明治新政府の登記を受けて飯森家の所有となった.飯盛山に現存する円通三匝(さんそう)堂 (通称「会津さざえ堂」または単に「さざえ堂」) と宇賀神堂は飯森家本宅に付属する建物として,またその境内は宅地として飯森家の所有地となった.旧飯盛山正宗寺から神道が分離されたあと郷社の社格で存続した厳島神社は,現在は福島県神社庁の系列下に近郷滝沢部落の総代が管理している.
 一方,飯森家はさざえ堂脇に茶店を営みつつ農耕と畜産に従事していたが,第二次大戦後は飯盛山の参詣客が増加したため,社堂の管理と店舗経営を家業とするようになった.これが現「有限会社山主飯盛本店」である.飯盛家は飯盛山上の白虎隊墳墓のすぐ近くに土産物屋を経営しており,これが「飯盛分店」である.

 会津さざえ堂
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 上に述べてきた飯盛家と白虎隊の関係は会津戦争後に始まる.会津戦争は,戊辰戦争のうち会津藩と新政府軍が戦った局面をいう.
 ここでは詳しい記述を避けて,Wikipedia【松平容保】 から一部を引用する.

会津戦争
8月21日、会津藩は各国境へ主力を送り出し守備に付かせていたが石筵口である母成峠の戦いにて東軍が破れ、西軍は破竹の勢いで進行した。

8月22日、容保、滝沢本陣にて宿陣。戸ノ口原の守備を固めるため白虎士中二番隊もここより出陣。

8月23日、戸ノ口原の戦いにて東軍が崩れ、西軍が若松城下に侵入。城下の戦い。籠城始まる。これより一ケ月余りの長い籠城戦の中で会津藩の家臣達は婦女子や子供に至るまで戦い、又は自決をし、会津の武士道に殉ずる道を選び、多くの悲劇を生んだ。西郷頼母の家族に代表される婦女子の自刃は140家族239名にのぼり、白虎隊の飯盛山での自刃、中野竹子ら娘子隊の戦いなどがおこり、その他多くの会津藩士が胸に辞世の句を入れるなどして戦った。対する西軍は32藩からなり大砲100門、3万ないし4万人に上り城を包囲し一昼夜鶴ヶ城へ砲弾を打ち続けた。

9月22日、会津藩降伏。鶴ヶ城開城。容保は滝沢村の妙国寺へ移される。
10月19日、容保、会津を発し東京へ護送、池田邸に永預けとなる。

 上の引用にあるように,慶応四年(1868年) 八月二十二日,会津藩主松平容保は飯盛山に近い滝沢本陣に出陣した.この時,容保は藩士をその身分により,年輩武士で構成される予備役の玄武隊,実戦部隊である朱雀隊,国境守備隊である青龍隊,予備役少年兵の白虎隊の四隊に編成した.
 各隊は,士中隊 (上級武士),寄合隊 (中級武士),足軽隊に分かれ,士中隊と寄合隊はさらに一番隊と二番隊を構成した.
 容保は滝沢本陣に出陣した時,白虎士中一番隊を自分の護衛に残し,白虎士中二番隊を戸ノ口原 (会津若松から越後街道を東へ行くと,猪苗代湖の手前に古戦場跡がある) の戦闘に差し向けた.

 白虎隊出撃の本陣跡
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 そもそも実戦経験皆無の少年兵に旧式銃を持たせて,新式銃を装備した精鋭新政府軍と戦わせるなどはこれ以上の愚はない.当然の如く,たちまちのうちに白虎士中二番隊は散り散りに敗走し,辛うじて飯盛山に逃げてきた少年兵たちは,出陣のわずか翌日に飯盛山の中腹で自刃したのであった.

 白虎隊士自刃の地
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(続く)

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2016年3月26日 (土)

会津の旅 (二)

 会津若松駅舎
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 駅前の白虎隊士像
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 腹拵えが済んだ私は駅舎の外に出た.福島県地方の天候と服装に関する情報 (このサイト) によれば,この日は「マフラーと手袋が必須」とのことであったが,実際には全くそのようなことはなかった.私の服装は,ロングTシャツの上に秋葉系オタク風味のチェック柄ネルシャツを重ね,その上に中綿入りブルゾン着用であったが,昼頃の気温はおそらく15℃前後であり,防寒はこれで充分すぎた.
 寒かった場合に備えてリュックにもう一枚上着を入れてきたのだが,この日の日差しには春の到来を感じさせるものがあり,また風もなく,用心をし過ぎてダウンコートなんかを着てさらに「マフラーと手袋」なんぞで固めてきたら汗と恥をかくところであった.
 平日のこととて駅前広場は閑散としていたが,それでも数人の若い女性旅行者の姿があった.おそらく歴女というカテゴリーの娘さんたちなのだろうが,服装は春らしい明るい色のコートであった.

 駅舎の外壁に掲げられた市内観光案内プレート
 なぜか「北」が右方向である.駅舎の向きが東向きなのでこのように描きたい気持ちはわからぬでもないが…

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 会津若松市内には,路線バス以外に主に観光客を対象にした循環バス (まちなか周遊バス「ハイカラさん」,同「あかべぇ」) が走っている.

 「ハイカラさん」はレトロバスだが「あかべぇ」は普通の赤いマイクロバス
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 会津若松は初めての土地なので,とりあえずネット上の観光モデルコースを参考にして,初日は最初に飯盛山の白虎隊史跡を訪問し,それから観光施設「会津武家屋敷」→鶴ヶ城→東山温泉 (宿泊) と廻る行動予定を立てた.
 まちなか周遊バスには,三回乗車すると運賃がお得になる一日乗車券 (五百円也) があるので,観光案内所でこれを買った.その窓口でもらった路線図を見ると,私の観光コースは「あかべぇ」に乗るのが好都合のようである.
 若松駅前をスタートして程なく「飯盛山下バス停」に到着下車.

飯盛山史跡へ登る坂道の入口
20160326e

 飯盛山史跡の概略図はここ. 
 この坂道には有料の斜行オートウォーク (上記の概略図にはスロープコンベアとある) があるので,それに乗って上まで行った.私は腰痛持ちだから用心したのである.
 この日,坂道の左右にある土産物屋のうち三軒が営業していた.Wikipedia【飯盛山】には

この土産屋一帯は、昔から存在し、無料の看板で駐車場へ誘うものの一定の土産物屋で買い物を迫る「買うように迫る商法」とよく言われ、強烈な誘いで有名。

と書かれているが,まだオフシーズンの三月だからであろうか,坂道には全く商売する気のない雰囲気が漂っていた.
 山の上の終点で降りると,営業はしているようだが店番の姿も見えぬ寂れた土産物屋 (飯盛分店) があり,その先が市内を見渡せる荒れ果てた展望台になっている.ま,ここは白虎隊自刃の地であるからなあ,うら哀しい佇まいのほうが感懐深いというものだ.

 山上には石碑の類がたくさん建てられているのだが,その中に,昭和三年(1928年) に,イタリアの国家ファシスト党を率いて独裁権力を掌握する直前のムッソリーニから寄贈された「ローマ碑」と,昭和十年にドイツ大使館書記官から贈られた「ドイツ碑」と呼ばれる二つの石碑がある.ちなみにヒトラーが総統と称して独裁を開始したのは昭和九年(1934年) であるから,このドイツ大使館書記官はナチ党員であったはずである.ローマ碑はかなり大きい石柱状のモニュメントだが,ドイツ碑は普通の墓碑くらいの大きさである.
 この二つの石碑の由緒についてはここに書かれている.それはそれでよいのだが,ドイツ碑には鉄十字章彫刻されているので,ちょっとびっくりした.しかしよく見ると鉄十字の中心にナチスのシンボルである鉤十字 (ハーケンクロイツ) が刻まれていないので,これはヒトラーが制定して第二次大戦中に使用したナチスドイツの鉄十字章ではなく,現在も使われている伝統的なドイツの鉄十字章であることがわかる.

ナチスドイツの鉄十字勲章(出典;Wikipedia【鉄十字】)
Ironcross

 しかるに,ところが,なのである
(続く)

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2016年3月25日 (金)

会津の旅 (一)

 元禄二年三月二十七日,松尾忠右衛門宗房は唐突に思い立って深川の庵を引き払い,旅に出た.
 江分利万作が会津へ出かけたのは,暦の違いを無理矢理無視すれば三月二十三日で,松尾芭蕉の旅の出立日と四日違いである.ホテルを予約したあとでこのことに気が付いたが,日をあわせなかったのは,単に予約取り直しが面倒くさかったからである.

 満員の東北新幹線やまびこ127号を郡山で降りて磐越西線に乗り換え,終点の会津若松に着いたのは,午前十一時の少し前であった.

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 私はいつも未明の朝四時過ぎに朝食を摂り,昼飯は十一時なので,何か腹に入れるにちょうどいい頃合いである.というか,元々昼食を済ませてから観光するつもりの行動予定でやってきたのだ.
 昨日の記事に書いたように,会津に着いたら何はともあれ蕎麦である.會津の蕎麦を食べねばなりませぬ.ならぬことはならぬものです.
 事前に飲食店批評サイトで調べると,市内に評判のよい店はあるのだが,土地勘のないところで初めて訪問する店を探すのは想定外の時間を要するかも知れず,そんなことやらを種々検討の結果,店は「一會庵」に決めた.理由は,蕎麦がうまいことはもちろんとして,会津にこの酒ありと知られた「飛露喜」(廣木酒造本店) を置いていることだ.しかも,会津若松駅の改札口から歩いて二十秒という,旅行者でも決して迷うことなき好立地(笑).つまり改札口を出るとすぐ待合室の横に土産物屋と一會庵があるのだ.

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 十一時の開店と同時に私が店内に入り,テーブル席に着いて品書きを開いたところでもう一人の客が入ってきた.
 会社を定年退職後,私は堂々と昼酒をくらう身分であるが,毒くらわば皿までと言うから,ここは一歩を進めて朝酒を頂こうと気合を入れ,品書きに大きい字でどーんと書かれている飛露喜の一合 (特別純米,酒肴三品付) を頼んだ.酒を売るほうも気合が入っているようだった.
 もう一人の客は「會津セット」を注文した.品書きを見ると,これは地酒「栄川」(栄川酒造) 一合にやはり肴が三品付いたセットである.ということは,この人も地元の人間ではなく私と同類の飲兵衛旅行者と思われた.

 飛露喜は,やや甘口ではあるが,実によろしい塩梅の酒であった.一合がするすると胃の腑に落ちていってしまった.
 その飛露喜に付いてきた肴は棒鱈煮と鰊の山椒漬,それと蕎麦を揚げたおつまみの三つであった.
 揚げ蕎麦は蕎麦屋のつまみの定番であるが,棒鱈煮と鰊の山椒漬は,農水省選定郷土料理百選の候補にもなった福島の郷土料理であるという.棒鱈煮は干した鱈を甘く煮たもので,見た目で想像できる通りの味である.砂糖や水飴をたくさん使うので昔は贅沢な料理だったとされるが,今の私たちの舌ではそれ程おいしいと感じられるものではない.しかしもう一つのほうの鰊山椒漬は大層おいしかった.これは身欠き鰊と山椒の葉を酢漬けにしたもので,酒肴に好適であるのは無論だが,飯のおかずにしてもいいだろうと思われる.
 さて飛露喜をあっと言う間に飲んでしまったので,もう一合追加しようかとも思ったのだが,折角ここまで来たのだから他の地酒も飲んでみるのがよいだろうと考え直し,同じく会津の地酒「会津娘純米吟醸」(高橋庄作酒造) を一合追加注文した.会津娘は飛露喜よりも辛口で,これまたなかなか旨い酒であった.甘口の酒を好まぬ人は,飛露喜よりこちらの方が上等であると言うかも知れない.
 全国に○○娘という酒はあるが,会津の娘と聞いて人が思い浮かべるのは
    ものゝふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも
の辞世を残し,破竹の勢いで押し寄せる官軍相手に薙刀を振るって奮戦した幕末の美貌の烈女中野竹子ではあるまいか.とすれば会津娘と名乗る酒は甘口であってはならぬのが理というものである.

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 こんな調子で酒を飲んでいたら正午近くになってしまったので,切り上げて蕎麦を食うことにした.手打ちの十割蕎麦である.小さな蒸籠二枚に盛った蕎麦で,量はやや少ないので蒸籠三枚にもできるとのことであったが,酒のあとの〆なら二枚で充分に腹は膨れた.勘定してもらって店を出て,というか駅舎を出て,私はバス停に向かったのである.
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(続く)

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2016年3月24日 (木)

旅先で食べるもの

(この記事は予約投稿で,現在は福島県を旅行中)

 Wikipedia【カツ丼】 には

日本国内において現在最も一般的なカツ丼のスタイルは、「豚カツを卵とじにしたもの」である。単に「カツ丼」と呼んだ場合は、一部地域 (特に福井県・山梨県・群馬県・岡山県) を除いてこの形態を指す。

と書かれているが,ほんとなんだろうか.

 というのは,会津へ観光しに出かける前に福島県の食べ物を調べていたら「○○食堂のソースカツ丼がおすすめ!」みたいな記事が散見されたので,むむ福島県もソースカツ丼地帯なのかと思ったのである.
 日経の編集委員だった野瀬泰申氏が長年にわたりネットに掲載していた記事によると,ソースカツ丼=カツ丼である地方は全国各地に存在する.Wikipedia【カツ丼】の記述《一部地域 (特に福井県・山梨県・群馬県・岡山県)》どころではなく,むしろソースカツ丼のほうが一般的なんじゃないかと思われるくらいだ.

 二十年くらい前のことかと思うが,東京にもソースカツ丼を食わせる店がぼつぼつ現れた頃のこと.会社の後輩に「ソースカツ丼で有名になった店があるので行きましょう」と誘われて,東京駅日本橋口から歩いていけるその店でソースカツ丼を食べた.
 この店のソースカツ丼は,丼の底に飯を入れ,その上にソースまみれのトンカツを置き,そのまた上に飯を敷き詰め,そのさらにまた上にソースまみれトンカツを置くというスタイルで,結果的にトンカツだけでなく飯までもがソースまみれになり,ソースカツ丼ではなくソース丼になっていた.しかもそのソースの味が非常に濃い.喉が渇く.仕方なくコップの水を飲まざるを得ない.しかし世の中で水を飲みながら飯を食うのはカエルだけだと思っている私はしみじみと情けなく思い,半分食べてギブアップした.

 以来,私はソースカツ丼によい印象を持っていない.私の郷里は群馬だが,「群馬では昔からカツ丼といえばソースカツ丼」とか言われると腹が立つ.大体において群馬の人間は勝馬に乗るのが好きなお調子者が多く,ソースカツ丼デフォ@群馬説は,ソースカツ丼が世の中に知られるようになったら「実は群馬 (桐生あるいは前橋) が発祥の地です」と言い出しただけの嘘である.群馬のソースカツ丼なんてのは,そこら辺の大衆食堂が拵えた,トンカツ定食の手抜きバージョンだ.そういえば昭和四十年代に札幌発祥の味噌ラーメンが全国的に有名になったときにも群馬中のラーメン屋が味噌ラーメンを始めて「味噌ラーメンはうちが本家」などと言っていたなあ.
 そういうわけで,「○○食堂のソースカツ丼がおすすめ!」と言われても,飯が濃厚ソースまみれのソース丼が出てくるおそれがあるので,敬遠したい.東日本の初めての土地で何か食うなら,やっぱ蕎麦でしょ.蕎麦.会津の蕎麦って,イメージ的になんかこうかなり期待できるような気がするのだ.というか,會津の蕎麦と書くともっとうまそうだな.そういうわけで,會津に行ったら蕎麦を食わねばなりませぬ.ならぬことはならぬものです.

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2016年3月23日 (水)

ここに幸あり (補遺)

(この記事は予約投稿で,現在は福島県を旅行中)

 先日の記事《ここに幸あり》の終わりに

上記の (一) にはキャプションがないが,動画画面に書かれているように最初の録音盤と思われる.(二) は大ヒットとなった時に再録音されたシングル盤.(三) はその後,「ここに幸あり」が紅白歌合戦などで親しまれた頃の歌唱である.(一), (二) はCDに入っていない貴重な音源なのではなかろうか

と書いたが,そのあと少し調べたら訂正が必要なことがわかった.

 まず (一) は,記事《ここに幸あり》を書いたあと確認のために注文しておいたキングレコードのCD『SP原盤再録による大津美子ヒットアルバム』(KICX3177) に収録されていた.またこの音源は,現在入手可能ないくつかの大津美子ヒット曲集にも入っていて,アマゾンの商品ページにおいては モノラルであると明記されているようだ.モノラルであると書かれていないCDは後年のステレオ録音であるし,(一), (二) と編曲が全然違うので聴けばすぐわかる.

 大津美子さんはテレビに出るようになったあと,「ここに幸あり」を,(一), (二) よりもキーを下げて朗々と歌う歌唱に変えた.私が以前から持っているCDはこのバージョンで,(二) よりも少しあとに録音されたLP盤から再録されたものものだろうと思う.これと『SP原盤再録による大津美子ヒットアルバム』の若々しい声とを聴き比べてみたが,甲乙付けがたい.
 では (二) だが,これが収録されているCDがあるかどうか,今のところ不明である.

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2016年3月22日 (火)

みちのく一人旅

 さて今週は会津若松へ観光に行ってくる.
 福島観光というと思いだすのは稲村重信という人物だ.彼と,その煽動に乗って福島県民を誹謗した連中は今どうしているのだろう.一昨年,糸井重里さんが福島の桃を買ったときの画像をネットに上げた際に,叩きまくろうと騒いだけれどあまり世間の注目を集められなかったようだったが.

 稲村重信という人はなかなか狡猾で,有名な反福島県民アジテーションの一部を引用すると以下の通り.

福島を忘れないで下さい、でも、福島に来ないで下さい、福島を忘れないで下さい、でも、福島のものを食べないで下さい。皆さんが福島に観光にいらっしゃると、子供が逃げられなくなります。皆さんが福島のものを食べると、福島の子供達が放射性物質を食べることになります。

 彼は,福島の被災地で奮闘した自衛隊員やボランティアに行った人々や,復興支援のために福島の産品を取り寄せて購入したり旅行に出かけたりする人たちを直接攻撃するのはいかにもまずいので《皆さんが福島に観光にいらっしゃると、子供が逃げられなくなります。皆さんが福島のものを食べると、福島の子供達が放射性物質を食べることになります》という奇妙な理屈をこねくり出したのだった.
 加えるに,彼は《福島に来ないで下さい》とアジったが,この「来ないでください」という言い方が狡猾極まりない.自分は被災者でもなんでもなく,東京でアジってるのだから,日本語としては「福島に行かないでください」と言わねばならぬ.しかるに《福島に来ないで下さい》と意図的に言うあたりが,この人物の人間性をよく表している.
 本気で《福島に来ないで下さい》と言いたいなら,東京ではなく福島県内の飲食店の店頭で観光客に向かって言わねばならなかったのだ.そして,これまで何度も福島県を訪問された天皇と皇后にも,不審者は近寄れないだろうからマイクとアンプを使ってでも,《福島に来ないで下さい》と現地でお二人にちゃんと聞こえるように言えばよかったのだ.「天皇と皇后が福島に来ると福島の《子供が逃げられなくなります》だから《福島に来ないで下さい》」と.

 ま,いいや.ああいうやり方で世渡りする人のことは放っておいて,話は会津若松だ.
 ネットで福島の郷土料理について色々調べてはみたのだが,食い物は食べてみないとわからぬから,隔靴掻痒とはこのことだ.
 こういうときに便利なのは,ブフェで提供される料理だろう.ブフェなら,色んな郷土料理を少しずつ賞味できる.そう思って色々調べたら,東山温泉に朝食も夕食も郷土料理を揃えたブフェで食べられる旅館があったので,そこに宿泊予約をとった.
 朝と夜はそれでいいとして,あとは昼飯を二度,市内の店で食べることになるが,これはもう出たとこ勝負にしよう.

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2016年3月21日 (月)

懐古的ウイスキー銘柄

 昔からそうだけれど,サントリーって会社はテレビCMがうまいなあ.最近のだとトリスクラシックの「『ロックで』篇(2/9 から放送)」がいい.
 昔の,私がまだ二十代の頃のトリスは全くの模造ウイスキーで,そりゃあ酷い酒だった.喉越しが非常に悪くてたくさんは飲めないから,健康的ではあったが.

 さて昨日,スーパーの食品売場でトリスクラシックの小瓶 (180ml) を見つけたので買ってみた.
 模造ウイスキーが売られていた時代から長い時が流れて,若い人たちは強い酒をあまり飲まなくなった.そんな時代にCMを打っているトリスクラシックってのがどんな酒か,興味が湧いたのである.

 で,ストレートで口に含んだ結論.
 昔のトリスという銘柄が模造ウイスキーだと知っている世代はもうすぐ絶滅する.ということは,若い人向けにトリスという古いブランド(笑) を再活用できるわけだ.トリスに「クラシック」を付けて,何となく日本ウイスキーの歴史を感じさせようという広告宣伝戦術が「『ロックで』篇」なのだろう.
 それはそれで結構なのだが,この酒はエタノール臭が強すぎるし,エタノールの甘味に似た刺激も強い.模造ウイスキーではないが,要するに着色したエタノールだ.だからハイボールにすると,ただの炭酸水になってしまう.これではテレビCMのターゲットであろう若い人たちに受けないのではなかろうか.

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2016年3月20日 (日)

春の懐石

 二ヶ月ほど前に娘からメールがあり,三月の私の誕生日においしいものを御馳走すると言う.何が食べたいかと問われたので,鵠沼の「幸庵」でランチをおごってくれと返信した.

 藤沢の鵠沼にある懐石料理の幸庵は,地元では人気店の筆頭 (レストランガイドで三ツ星) であるが,私はこれまでこの店で食事をしたことがなかった.私の仕事が東京だったから,わざわざ藤沢に戻って会食するという機会がなかったからであるが,なかなか予約がとりにくい店だということもあって,足が向かなかったのだ.
 ところがまた娘から再返信があり,誕生日は過ぎてしまうが,三月十九日に運良く一組だけ席が空いていたから予約を入れたとのことだった.それが一月のこと.

 さて昨日は息子も片道二時間かけて来てくれて,娘と二人で私の誕生祝いをしてくれた.
 案内されたテーブル席につくと,プリザーブドフラワーでデコレーションしたカードが置かれていて,カードに「お誕生日おめでとうございます」と書いてある.娘が,予約の時に「何かお祝い事でしょうか」と訊かれたので「父の誕生日です」と答えたからだね,と言う.はは,と照れ笑いしていると,和服をきちんと着付けた接客係の若い女性がやってきて,にっこりと微笑んで「お誕生日おめでとうございます」と挨拶.いやあ良い気分の食事会になりそうだと嬉しくなった.

 そのあと,ゆっくりとしたペースで運ばれてきた料理自体もおいしかったが,いかにも春らしい器や,桜の小枝を飾りつけるなどの演出が行き届いていて,さすが鵠沼の人気店である.水菓子を載せて運ばれてきた盆にはミニチュアの雛人形が飾ってあり「ホウ,きれいですね」と言ったら,接客係さんが「本日のお席はお祝いバージョンでございます」と笑顔.
 親子で食事するのは正月以来久しぶりで,それぞれの旅行の土産話などで盛り上がり,楽しい食事会であった.
 検索すると幸庵をボロボロにディスっているブログが見つかるけれど,私はそうは思わない.湘南にお住いの皆様,幸庵のホスピタリティは快いです.

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2016年3月19日 (土)

コンビニ弁当以下

 昨日,病院に行った帰りに,崎陽軒の売店で昼飯用の弁当を買った.これまでに一度も食べたことがないが「横濱チャーハン」だ.
 帰宅して包みを開いて食べ始めたのだが,中身のチャーハンと筍煮が異常にまずい.アレの味がする,と思って原材料表示を見たら,以下のように書かれていた.

[原材料名]
チャーハン(ご飯、卵、チャーシュー、長ねぎ、その他)、シウマイ、鶏のチリソース、筍煮、海老、付合せ、醤油、辛子、pH調整剤、保存料(ポリリジン)、調味料(アミノ酸等)、トレハロース、リン酸塩(Na)、増粘多糖類、グリシン、着色料(カロチノイド、カラメル、紅花色素、クチナシ)、酸味料、加工澱粉、甘味料(ステビア)、 (原材料の一部に卵、乳成分、小麦を含む)

 コンビニ弁当に多用される食品添加物のうち,味を決定的にダメにしてしまうのは「pH調整剤」「グリシン」「酸味料」だが,コンビニ弁当の製造者は添加物の使用技術に熟練していて,添加物そのものの味が露骨に舌に感じられるほどは添加しないのが普通だ.
 しかし昨日買った崎陽軒「横濱チャーハン」は,口に入れて咀嚼したとたんに「これはまずい」とわかるくらい入れている.これは間違いなく,出荷前に試食していない.こんな商売をしていていいのか崎陽軒.

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2016年3月18日 (金)

ここに幸あり

 大津美子さんは,昭和三十年代の日本歌謡史に燦然と輝く星の一つであるが,現在はどうしておられるのだろうと思っていたら,昨年がデビュー六十周年(*) で,記念に新曲「夜空に光るあの星よ」をリリースされたと新聞で知った.
 〈(*) 昭和三十年七月,キングレコードから「千鳥のブルース」でデビュー.同年九月「東京アンナ」でブレイク〉

 彼女のヒット曲は多くない.と言うよりも,昭和三十一年に発表されて同三十三年に爆発的なヒットとなった「ここに幸あり」(作詞;高橋掬太郎,作曲;飯田三郎) 一曲で昭和歌謡史に名を刻んだと言っていい.戦後すぐの流行歌には,現在のジェイなんとかだの演歌だののように量産されてただちに消費されたりはせずに,歌としての格調の高さによって六十年余にわたり人々の記憶に残り続けたものが多いのだが,その中で「ここに幸あり」は,映画の主題歌として作られたのち,草創期のテレビがヒットに貢献したという点で他の歌と少し違っている.
 映画主題歌としての解説は著名ブログ《二木紘三のうた物語》に付け加えるところはないが,惜しむらくは結婚披露宴をテレビ放送するという番組「ここに幸あれ」(昭和三十四年~,フジテレビ) の主題歌にもなったことが抜けている.よく似た趣向の番組がTBSで先行したのだが,フジテレビのほうが高齢者の記憶に残っているであろう.それは大津美子「ここに幸あり」があったればこそである.

 さてその「ここに幸あり」は,大津美子さんが若いときから現在に至るまでの,いくつもの歌唱が YouTube にアップされているので,年代順にピックアップしてみる.

(一) 《ここに幸あり
(二) 《ここに幸あり(1961年再録音盤)/大津美子
(三) 《ここに幸あり 大津美子

(四) 《AEF563 ここに幸あり 大津美子③
(五) 《ここに幸あり 大津美子
(六) 《AEF561 ここに幸あり 大津美子①

 上記の (一) にはキャプションがないが,動画画面に書かれているように最初の録音盤と思われる.(二) は大ヒットとなった時に再録音されたシングル盤.(三) はその後,「ここに幸あり」が紅白歌合戦などで親しまれた頃の歌唱である.(一), (二) はCDに入っていない貴重な音源なのではなかろうか.あればぜひとも欲しいのであるが.

[ 関連記事 ]
ここに幸あり (補遺) (2016年3月23日掲載)

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2016年3月17日 (木)

少しの心配り

 週刊文春(3月24日号) の巻頭特集《5年目の3.11》に,《不肖・宮嶋が見た 被災地に差す希望の光》と題した写真ページがある.これは,撮影した写真家の宮嶋茂樹氏が文も書いているのだが,文章の冒頭を引用する.
五年前の三月十一日、午後二時四十六分。日本人なら、誰もがどこで何をしていたか覚えているはずである。

 昨日書いた記事《雑多感想 (3/16) 》で,山本おさむ作のコミック『今日もいい天気 原発事故編』(双葉社;2013/2/12,Kindle版) を紹介したが,あの未曾有の災厄のあと,自身が被災した漫画家や,日を置かずに現地取材に入った漫画家たちが,いくつかの記録あるいは証言集的な作品(*) を残した.
 それらを読んでいると,震災発生当日の記憶が曖昧だという証言がみつかる.あまりに現実離れした光景を見た精神的ショックが記憶の再生を妨げているのではないかと思われる.
 宮嶋茂樹氏は,根は善人なのだろうが多分に軽率かつ国粋的なところがあり,それが《日本人なら、誰もがどこで何をしていたか覚えているはずである》と書かせたのだろう.被災地の人々に対するほんの少しの心配りを望む.

(*)
『わたしたちの震災物語〜ハート再生ワーカーズ』
   (井上きみどり;集英社,Kindle版)
『漫画で描き残す東日本大震災 ストーリー311』
   (ひうらさとる他;角川書店,Kindle版)
『漫画で描き残す東日本大震災 ストーリー311 あれから3年』
   (ひうらさとる他;角川書店,Kindle版)
など.

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2016年3月16日 (水)

雑多感想 (3/16)

(一)
 全国紙では朝日新聞DIGITAL が今日(3/16) 掲載した次のニュースが,目を引いた.
 先週(3/9),北海道立オホーツク流氷科学センターが題25回「オホーツクの四季」写真コンテストの審査を行い,北見市の塩浜郁夫氏の作品「征服」が最優秀賞の道知事賞を受けたという報道である.
 朝日新聞の記事および掲載されている「征服」の画像を見ると,砂浜に流れ着いた小型クジラの死骸の上にどっかの兄ちゃんが乗っかって「イエーイ」とか言ってる写真らしい.この写真のどこがいいのか皆目理解できないのは私の写真鑑賞力がないためだとしても,クジラと戦って倒したわけでもなく死骸に乗っかっただけで「征服」ってのは,日本語になっていない.これを最優秀賞にした審査員の藤井恵子氏 (北海道写真協会役員) は小学校からやり直 (以下略).

(二)
 グーグル傘下のグーグル・ディープマインド社が開発した囲碁の人工知能「アルファ碁」と,世界最強棋士の一人である韓国の李セドル九段の五番勝負が終わった.成績はアルファ碁の四勝一敗であった.今後「アルファ碁」開発陣は,李九段に負けた第四局の敗因を分析して「アルファ碁」に反映させると思われる.囲碁だけは,人が容易には負けないと思っていたんだがなあ.

(三)
 先日のテレビ番組で「ふるさと納税をすると貰える返礼品のランキング」をやっていた.ふるさと納税って,そういう趣旨だったのか.いやーな世の中だ.

(四)
 山本おさむ作のコミック『今日もいい天気 原発事故編』(双葉社;2013/2/12,Kindle版) を読んでみた.作者と多少意見を異にする部分はあるが,原発事故の記録として貴重な作品だと思う.

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2016年3月15日 (火)

花の散りたるこそ

 昨日の記事に,飯館村からの報道番組中継のときに雪が降っていたと書いた.中継画面のアナウンサーもしっかりと防寒スタイルであった.
 しかも昨日は関東地方は一日中雨が降り続いて寒かった.
 ところが昨日夕方の天気予報では「週末には暖かくなり,桜が開花するでしょう」と言うではないか.

 驚いてばっかりだが,慌ててネットで桜前線を検索したら,なんと東京の桜開花は三月十八日だと書かれているし,さらに《一方で、1月末以降も気温が高い日が多く、この先も15日火曜日ごろから再びかなりの高温傾向となる見込みです》だとさ.テレビとネットで言うことが違うが,早ければこの週末に関東南部は春になっちゃうらしい.
 以上は《桜開花予想2016 》(3/14 更新) からの引用だが,他の予想サイトも大同小異だ.

 さて私は四月下旬催行の三春滝桜観光ツアーを申し込み済みだが,これは催行予定日から想像するに,旅行会社の判断ミスと思われ,現地に行ってみたらもう散っていたとなるかも.
 もっと頻繁に桜前線の状況を確認していれば,このツアーの申込みをしなかったかも知れない.どうやら見込み違いになったようで,残念ではあるけれどキャンセルはしないで参加しようと思う.なぜなら,古の法師が次のように書き留めているからである.

花は盛りに 月は隈なきをのみ見るものかは
雨に対ひて月を恋ひ 垂れこめて春の行衛知らぬも
なほあはれに情深し
咲きぬべきほどの梢 散り萎れたる庭などこそ 見所多けれ
歌の詞書にも 花見にまかれりけるに 早く散り過ぎにければ
とも
障る事ありてまからで なども書けるは
花を見て と言へるに劣れる事かは
花の散り 月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど
殊にかたくななる人ぞ
この枝 かの枝散りにけり 今は見所なし などは言ふめる

 なるほどなあ.散ってしまった桜の枝こそ,私のようにもうすぐお迎えが来る爺が眺め愛でるにふさわしいものなのであろう.本居宣長は「花は盛りを見るのがいいに決まってる」として兼好を罵倒しているけどね.

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2016年3月14日 (月)

気が早かったかな

 先月,会津若松を観光しようと思い立ち,福島県の気候についてウェブを検索してみた.すると,ある旅行関係サイトに「三月に入ると気温が上がり始め,例年なら四月中頃から桜が咲き始めて下旬に満開」と書いてあったので,会津東山温泉の旅館に三月下旬の宿泊予約を入れた.同時に四月下旬催行の三春滝桜観光ツアーも申し込んだ.

 さて一昨日,テレビのニュースで飯館村からの中継があり,それを見たら雪がしんしんと降っているではないか.
 驚いて福島の三月の気候と服装を詳しく検索してみたら,三月下旬はダウンジャケットを着用し,マフラーと手袋が必要と書いてある.うむー,そもそも私はマフラーや手袋を持っていない.東北を,郷里の北関東と同列にしてナメていたようだ.雪が降ったりするのかなー.

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2016年3月13日 (日)

公務員給与の欺瞞

 新聞等の報道によれば,佐賀県議会は一昨日の11日に本会議を開き,県職員の給与とボーナスを引き上げる条例改正案を全会一致で可決した.この佐賀県職員の給与引き上げの理由は「民間給与との格差を縮める」である.
 ところが実は「民間給与との格差を縮める」は,地方自治体職員の給与を上げるときの常套句であり,大嘘なのである.
 どの自治体でも職員給与を上げる際には県人事委員会の勧告が行われる.この勧告は,県内の大企業あるいは業績優良企業の給与を調査し,そのデータを根拠として行われる.
 当然の結果として,その県内の民間企業全体の平均よりもずっと県職員給与は高額になる.
 この,民間よりも高い地方公務員給与はボーナスにも退職金にも反映される.さらに税金から共済年金への支出があるため,我が国の地方公務員の生涯賃金 (年金を含む) は民間平均よりもはるかに高くなっているのである.実際に,私が定年まで勤めた会社 (上場大企業) の給与水準は地方公務員に及ばなかった.現在私が受給している厚生年金は,地方公務員の年金よりかなり少ない.
 これは政党ならずとも,親兄弟に地方公務員がいる人間には周知のカラクリであるが,一般国民にはあまり知られていない.佐賀県議会においては自民党などはもちろんのこと,日本共産党までもが改正に対して無批判に賛成したが,もし共産党が地方公務員を敵にまわしたくないのであれば,県人事委員会の勧告作成の欺瞞的な仕組みを議会で質問した上で,採決は賛成または棄権すればよかったのである.一般の民間人は,公務員給与のからくりを知る権利がある.共産党の,正義の党という建前はどこにいった.

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反社会的社労士 (補遺)

 二年前に発生した食品テロであるが,マルハニチロホールディングス (当時) の子会社であるアクリフーズ (当時) 群馬工場で製造された冷凍食品からマラチオンが検出された事件 (Wikipedia【アクリフーズ農薬混入事件】) があり,群馬県警は平成二十六年一月二十五日,同工場の契約社員阿部利樹容疑者を偽計業務妨害容疑で逮捕した.
(この事件の影響で,事件の三ヶ月後,マルハニチログループは再編成してマルハニチロ株式会社として発足した)

 この事件に関した所感を私は《マラチオン混入冷食事件 》 と《反社会的社労士》に書いた.

反社会的社労士》は,特定社会保険労務士の「しのづか」と名乗る人物が,食品テロ事件の容疑者阿部利樹が起こした事件を,ブログ《特定社労士しのづか 「労働問題の視点」》の中で《正義の戦い》と呼び,阿部容疑者を称賛したことを批判したものである.

 ところが今日現在,ブログ《特定社労士しのづか 「労働問題の視点」》は閉鎖されており,一部の記事がネット上に痕跡をとどめているだけである.調べてみたら,昨年亡くなっていたようである.[関連記事]
 私のブログ記事《反社会的社労士 》に最近アクセスがいくつかあったので,補遺として記しておく.

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2016年3月12日 (土)

買い物失敗三件

(一) よく知られているように素麺は,紐状にした麺帯を二本の細い竿あるいは棒を用いて細く引き伸ばして製造する.この際に竿や棒に接している部分,またはそれに近い部分は,素麺よりも太いので,素麺としては売り物にならない.また副産物なのでとれる量も少ない.
 しかし,ちょっとおもしろい食感で,味噌汁の具にして食べるとなかなかおいしい.素麺の産地によりこのものの名称は色々だが,素麺ばち,素麺はぎ,素麺かんざしなどと呼ぶ
 私は二十年ほど前の昔々,奈良を旅したときに長谷寺に近い旅館に泊まったのだが,旅館前のお土産屋で,二~三百グラムほどを無造作に袋に入れて売られていたのを買って帰った.
 そんなことを思い出したのでアマゾンで探してみたら,奈良の三輪素麺ではなく「揖保乃糸 バチ 500g袋入り」というものが見つかった.
 早速注文したのだが,届いた商品を見てがっかりした.素麺の端っこはほとんど入っておらず,おそらく普通の素麺を短く折ったものを混入して水増ししたと思われた.この販売業者であるジャ○ンギ○トの商品は二度と買わないことにしようと思った.

(二) 私が東京の中野に住んでいた学生時代,GSブームも終焉の兆しを見せ始めた1969年にリリースされたザ・タイガースのシングル『美しき愛の掟』のB面は『風は知らない』(作詞・岩谷時子,作曲・村井邦彦) で,これが少しだけヒットした.青春時代の懐かしい曲の一つである.
 それで,この歌が入っているCDを探したら,アマゾンで販売されている『ザ・タイガース』に収録されていた.
 早速注文したのだが,聴いてみてがっかりした.録音が平板で音質も酷いのである.これなら YouTube にアップされている「To Julie (a poem) - 沢田研二 (風は知らない)」の方がはるかによいと思った.

(三) テレビでKFCが四十五周年とかでやたらCMをやっている.それを見ているうちにチキンが食べたくなったので,買いにでかけた.
 「テイクアウト四ピース」と注文したら,ドラムが売り切れていて,あばら,胸二つ,腰の四ピースだという.えーっ,胸肉は好きでないんだよ.がっかりだ.
 普通,四ピース買えばドラムが一本入るように作っているんじゃないの,ケンタッキーは.これならコンビニに行けばよかったと思った.

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2016年3月11日 (金)

欺瞞

 今日行われた東日本大震災五年追悼式において総理大臣は,

被災地では、いまだに、多くの方々が不自由な生活を送られています。原発事故のために、住み慣れた土地に戻れない方々も数多くおられます。被災地に足を運ぶたび、「まだ災害は続いている」、そのことを実感いたします。その中で、一歩ずつではありますが、復興は確実に前進しています。住まいとともに、なりわいの再生も本格化しています。
(時事通信 2016/3/11 15:47配信)

と述べた.

 また追悼式に先だって THE HUFFINGTON POST は,東電福島第一原発に勤務する井手愛里という女性社員にインタビューし,

井手さんは廃炉に向けて少しずつ前進していると強調した。
「『あの地域は、放射線量が高くて被曝するんだろう』と思われるかもしれない。でも、APD(線量計測器)では計測されないほど低い数値のところもあるんですよ」

(2016/3/7 17:46)

との発言を掲載した.
 東電福島第一原発は,どのような状態にすれば「廃炉」としてよいのか.またその状態にするための技術を我が国は開発可能なのか.この基本的な問題について政府は議論すら行っていないのが現状だ.
 東電に廃炉化を進める技術がないことは,この五年の時間経過の中で明白になってしまった.しかるに総理大臣は追悼式辞で《一歩ずつではありますが、復興は確実に前進しています》と語った.原発事故処理はあの日から一歩も前に進んでいないことが誰の目にも明らかだろうに.
 また,発言に責任持つ立場にない一介の東電社員が《廃炉に向けて少しずつ前進している》と語り,またそれを THE HUFFINGTON POST は無批判に掲載した.「廃炉」とはどのような状態を言うのか.そのために必要な技術はどうやって開発するのか.目的地が不明なのに,到達手段が不明なのに,人は《前進》できるものなのか.それを THE HUFFINGTON POST と井手愛里氏は国民に説明する義務がある.

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画家ドガについて (五)

(《画家ドガについて (四)》からの続き)

 実は『ヘンタイ美術館』の冒頭にこう書かれている.

こやま淳子《そう、もちろん性的倒錯など、ホンモノな方々も美術家にはいらっしゃいますが、ここではもっとライトに、ちょっと変わった美術家さんのキャラクターにスポットを当てていこう!という趣旨です。
山田五郎《というわけで、ホンモノの変態の方々へのリスペクトも込めて、変態ではなくヘンタイと、あえてカタカナ表記してあります。

 そして山田館長は,この本に取り上げたレオナルドからモネまでは「あえてカタカナ表記」のヘンタイとした上で,ドガについては,ドガのどこがどのように変態性なのかを例を挙げて説明していき,

この、最先端の近代文明と古い禁欲主義の軋轢が生む歪から、新しい時代のヘンタイが芽生えてくるんですよ。胸やお尻といった性徴部より脚や背中といった中性的な部位、個性より匿名性、リアルよりフィギュアと、どんどん生身の人間から遠ざかっていくタイプのヘンタイが。
ドガはそれを19世紀末の時点で先取りしていた天才だった。

今日の日本で漢字で書く「変態」は、19世紀末のドガの時代に出てきた病理ですからね。
ヘンタイ美術館としては、「真の変態」ドガの登場をもって一段落。

と結論している.
 私は《画家ドガについて (一)》で,

《 上流階級に属するドガにとって踊り子たちは単なる画題にすぎなかったようで,そのことについて『怖い絵』には次のように書かれている.(同書 p.33-34)
《どの絵も踊り子と描き手との交流、あるいは温かな交感といったものが全く見られない。「ドガの描いた踊り子は女ではなく、平衡を保った奇妙な線である」とゴーガンが評したが、ある意味それは当たっているように思われる。》
《けれど確かなのは、この少女が社会から軽蔑されながらも出世の階段をしゃにむに上がって、とにもかくにもここまできたということ。彼女を金で買った男が、背後から当然のように見ているということ。そしてそのような現実に深く関心を持たない画家が、全く批判精神のない、だが一幅の美しい絵に仕上げたということ。それがとても怖いのである。》

 つまりドガは踊り子を人として見ていなかったということであろう. 

と書いたが,中野京子先生が『怖い絵』の中で書いている
そしてそのような現実に深く関心を持たない画家が、全く批判精神のない、だが一幅の美しい絵に仕上げたということ。それがとても怖いのである。
が,実を言うともう一つピンとこなかったのである.しかし山田五郎館長の,作品の画像を例に示しながらの解説で充分に理解できた.中野先生が,あからさまに「ドガの変態性」について解説していないのは,女性としては書きにくいことであったからかも知れない.

 さて,試みに「ドガ×ヘンタイ」と「ドガ×変態」でウェブを検索してみた.
 すると,六年前に横浜美術館で開催されたドガ展以降に,ドガ=ヘンタイ(or変態) 説がブログ等に現れてきたことがわかった.そのブログのほとんどは「ドガ=変態」と言うだけで,ドガのどこがどのように変態なのかちゃんと書いていない.それらのブログは,たぶん誰かがドガ展の開催時に書いた批評を丸呑み&拡散しているだけのように思われ,それならばドガ変態説のオリジンがどこにあるのかを知りたいと思ったけれど,残念ながら突き止められなかった.(山田五郎氏の可能性もある)
 ちなみに,「ドガの変態性にかなり近いと思われる感性の人」がドガの作品を論じているブログが一つあった.しかしそのブログにリンクを張るのは少々憚られたので,関心ある向きは探してご覧になるのも一興かも知れない.

[参考書]
中野京子『印象派で「近代」を読む』(NHK新書)
山田五郎『知識ゼロからの西洋絵画入門』(幻冬舎)
山田五郎『知識ゼロからの西洋絵画史入門』(幻冬舎)

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2016年3月10日 (木)

『ひとりぐらしも……』

 アマゾンがしきりに勧めてくるコミックエッセイのカマタミワ『ひとりぐらしもプロの域』(メディアファクトリー,2016/2/19;Kindle 版) を読んでみた.
 このカマタミワという人,本業はイラストレーターだが,ブログが大人気なんだそうだ.『ひとりぐらしもプロの域』は,副業というかブログに掲載した漫画をまとめたもの.彼女の最初の著書だ.
 この本の内容は,彼女が実家を出て独り暮らしを始めたはいいが生活がグダグダで経済的にも追い詰められ,一念発起して暮らしぶりを立て直すまでのことなどを綴っている.その辺りは,自堕落になりがちな高齢者の私にも大変に参考になり,このカマタミワさんはきっとしっかりした女性なんだろうと感心した.
 漫画としては絵がヘタだけれど,エッセイ部分がとてもよいし,ギャグマンガ家としての才能もなかなかのものだと思われる.

 読み終わってから本屋に行き,最近出版された女性漫画家のコミックエッセイを二冊買ってみた.伊藤理佐『おんなの窓 そうなの独身、まさかの結婚編』(文春文庫,2016/2/10) と益田ミリ『オトーさんという男』(幻冬舎文庫,2016/2/9) だ.
 上にカマタミワさんは絵がヘタと書いたが,伊藤理佐の汚い絵 (ずっと読んでいると頭が痛くなりそうだ) に比べればむしろかなり上手なんじゃないかと思えてきた.益田ミリのは,エッセイになってない.漫画だけ描いているほうがいいよと言ってあげたい.絵は小学生よりずっと上手だから,がんばってね.

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がんばれ若いひと

 一昨日のテレビ東京「ガイアの夜明け」に家電メーカーのUPQが取り上げられていた.三十一歳の女性がたった一人で立ち上げた会社である.
 ネットには,これみたいに,社名の揚げ足を取ったり,否定的な批評をする人が多いかも知れないが,私はそうは思わない.番組の中で社長の中澤優子さんが「私のブランドは色が大切です」と言っていたが,もうそれだけで応援したくなる.それに,画面で観たところでは「スマホを充電できるリュック」は,リュックとしての基本がきっちりと抑えられていて,かなり重い荷物を収納できる (装備して長時間歩いても疲労が少ない形だ) ことがわかる.充電機能がなくてもこれは「買い」だ.これで色がビビッドなら文句ない.
 私は思うのだが,これからの爺さんは老けた気分にならんように素敵な色の物を身に着けるのがいい.UPQがんばれ.ただし,UPQは製造を全面的に中国企業に頼っているようだが,中国ビジネスは一筋縄ではいかない.例えばアマゾンにアップしているカメラが既にクレームつけられているようだが,スマホに妙な仕込みをされたりしないよう,くれぐれも中国企業には注意してほしい.

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2016年3月 9日 (水)

『スープ屋しずくの……』

 東海道線藤沢駅の南口側駅ビルに小さな書店がある.先日,その入口近くに友井羊『スープ屋しずくの謎解き朝ごはん 今日を迎えるためのポタージュ』(宝島社文庫,2016/2/18) という長いタイトルの文庫本が積まれていたので買ってみた.友井羊は2011年に『僕はお父さんを訴えます』で第10回『このミステリーがすごい!』大賞の優秀賞を受賞してデビューした作家だそうだが,私はまだ一冊も読んでいないからである.
 さてこの本に書かれている著者紹介に《國學院大學文学部を卒業後、ライターや契約社員、ニートなどを経て……》とある.著者は会社にきちんと勤めたことがないためだろう,この連作短編集に収められた第一話「モーニングタイム」の中で,「コスト」と「ヘッドハンティング」を誤用している.使い慣れない言葉は調べてから書くようにしなければいけない.またさらに悪いことに,p.57 にミステリーとして致命的な瑕疵がある.
 第一話だけで三つも欠陥がある短編推理小説集を,よくまあ出版したものだと感心した.担当編集者は一体何をしていたのだ.
 この本の目次を見ると短編四つとエピローグが入っているのだが,これ以上読む価値なしと判断してゴミ箱に叩き込んだ.友井羊,才能なし.あ,本と燃えるゴミは分別しなければ.

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2016年3月 8日 (火)

生食用牡蠣

 日曜夜(3/6) のテレビ番組「林先生が驚く初耳学」を観ていたら「広島で養殖されたカキの生食用と加熱調理用の違いは?」という問題がゲストに出題され,正解は「(養殖場の) 陸からの距離」であるとされた.
 正解の追加説明として,沿岸部にある養殖場で採れたものは加熱調理用であり,陸から 7km 沖合の養殖場で採れたものは生食用であるとナレーションがなされ,次に地元養殖業者が画面に登場して「県が決めた清浄海域で採れたものは生食用」と説明した.
 ここに二つの「正解」が示されたわけで,娯楽番組とはいえちょっといい加減である.下記の二つの「正解」のどっちなんだと疑問に思った視聴者が多いのではないだろうか.

(1) (養殖場の) 陸からの距離で決まる.つまり沿岸部にある養殖場のカキは加熱調理用,陸から 7km 沖合の養殖場のカキは生食用である.
(2) 広島県が定めた清浄海域で採れたものは生食用である.(このブログ筆者註;清浄海域の指定は,食品衛生法の規定により海水の検査結果に基づいて行われ,陸からの距離とは無関係である)

 本当の正解は広島県庁のサイトのここに書かれている.
 生食用のカキと加熱調理用カキの違いは,上記の (1) ではない.上記の (2) が正解に近いが,しかし完全な正解ではない.
 というのは,指定海域 (清浄海域) で養殖されたものは生食用であるが,その他に条件付指定海域という海域があり,ここで養殖されたカキも人工浄化 (概ね二十時間,清浄海水槽で換水する〈末尾註参照〉) を行うことで生食用カキとして出荷できると定められているのである.
 「林先生が驚く初耳学」は雑学を集めた娯楽番組ではあるが,情報番組的な面もあると思われるから,誤情報を拡散せぬよう正しいクイズ解答を示して欲しいものだ.

[註]
食品衛生法に定められた生食用かきの規格基準 (抜粋)
〈成分規格 〉
(1) 細菌数は,検体1gにつき50,000以下でなければならない.
(2) E.coli (大腸菌) 最確数は,検体100gにつき230以下でなければならない.
(3) むき身にした生食用かきの腸炎ビブリオ最確数は,検体1gにつき100以下でなければならない.(H13年から)
〈加工基準 〉
 原料用かきは,海水100ml当たり大腸菌群最確数が70以下の海域で採取されたものであるか,またはそれ以外の海域で採取されたものであって100ml当たり大腸菌群最確数が70以下の海水または塩分濃度3%の人工塩水を用い,かつ当該海水もしくは人工塩水を随時換え,または殺菌しながら浄化したものでなければならない.

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2016年3月 7日 (月)

画家ドガについて (四)

 さて『ヘンタイ美術館』の内容だが,山田五郎を美術館長に見立て,コピーライターこやま淳子を相手に公開の四回の対談を行い,それを基に構成されている.
 アマゾンの『ヘンタイ美術館』商品説明に

美術家たちの生涯やビジネスの方法、人間関係のあり方、はては性志向まで。わかりやすくカジュアライズした美術本は数あれど、「ヘンタイ」という誰もが興味を抱かずにはいられない切り口により、最後まで飽きずに読み進めることができます。

とあるが,対談部分の字数が少ないためもあって《最後まで飽きずに読み進めることができます》というより,すぐ読み終わる.
 しかしそれじゃ内容が薄いかというとそうでもない.
 この対談で取り上げられている画家は,レオナルド・ダ・ヴィンチ,ミケランジェロ,ラファエロ,カラヴァッジオ,ルーベンス,レンブラント,アングル,ドラクロワ,クールベ,マネ,モネ,ドガであるが,それこそ一昔前の,何言ってんだかわからない小林秀雄的評論と異なり,あるいは絵画の技術的批評でもなく,山田五郎館長は画家の人間性とか性格とか,その画家がなぜそんなものを描いたのか,などについて説明をしていく.例えば「ドラクロワと中二病の仲間たち」(p.175),「19世紀の島耕作」(p.180) の如き評言を使いながら.
 そして山田館長はレオナルド・ダ・ヴィンチ,ミケランジェロ,ラファエロ,カラヴァッジオ,ルーベンス,レンブラント,アングル,ドラクロワ,クールベ,マネ,モネらは「ヘンタイ」という切り口で批評しているが,ドガは別格であるとし,「現代でも立派に通用する本物の変態性」という.
(続く)

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2016年3月 6日 (日)

公認会計士の倫理観

 かなり前からのようだが,いわゆる識者たちによる田中角栄再評価の動きがあり,田中没後二十年 (平成二十五年) にはこれが盛り上がりを見せた.現在も,先々月に出版された石原慎太郎『天才』(幻冬舎,2016/1/22) がアマゾンでベストセラー一位になっている.
 森永卓郎は角栄を手放しで褒め称えているし,私自身で確認したわけではないので真偽不明だが,立花隆までが角栄を再評価しているという噂もある.識者ではないが,昨日もニッポン放送の「徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー」で司会の徳光が角栄を絶賛していた.角栄礼賛と読売巨人軍礼賛は同じ土俵の話ではない.公共の電波なのだから少しは遠慮したらどうだ.
 さて「田中角栄」×「再評価」でウェブ検索したら,村山公認会計士事務所の村山秀幸という人物が,『田中角栄100の言葉』(別冊宝島編集部編,2015/1/24) から長い引用をして角栄を高く評価している.村山秀幸氏の文章から一部を以下に引用する.

田中角栄が軽井沢でゴルフをする際はいつも、40人近い長野県警の警察官が元総理でロッキード事件の被告の「警護」に当たるのが常だった。ゴルフが終わるとパーティがある。角栄は秘書の早坂茂三を呼び、人数分の白封筒を渡すと「若い警官たちを楽にさせてやれ」と配慮を忘れなかった。翌朝、警官たちは東京へ戻る角栄を敬礼で見送ったという。そのなかには涙ぐんでいるものも少なからずいたという。

 これはつまり,職務として角栄の警護にあたった長野県警の警察官たちが,秘書の早坂茂三を通じて角栄から不正な金を受け取り,涙ぐみながら角栄に敬礼して感謝したというとんでもない話だ.
 村山秀幸氏は田中角栄が好きだという理由にこの話を挙げているのだが,公認会計士という職業は,法治国家における倫理観に欠けていても勤まるもののようだ.あるいは,もしかすると倫理観があったら勤まらない仕事なのかも知れない.いずれであるかは知らぬが,このような文章を世間に晒して恥じない村山秀幸氏の堂々たる態度は大したものである.

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2016年3月 5日 (土)

成仏

 テレビタレントの類が最近,「願望が満たされる,成就する」などの意味で「成仏する」と言っている.
 私がこれを耳にしたのは,しょこたんが使ったのが最初だ.彼女がギャグでそう言うのは三十歳だけど可愛らしいので大変結構であるが,読売の発言小町あたりの掲示板で一般人が使うと腹が立つ.
 発言小町の編集者はこの種の日本語破壊が大好きで,言葉を敢えて誤用すると投稿が採用されやすくなるかららしいが,発言小町は影響が大きいだけに新聞社としての良識はどこにあるのだと言いたい.そこら辺の阿呆連中も,希望が叶ったことを成仏などと言ってんじゃないぞっ.(しょこたんを除く)

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画家ドガについて (三)

 最近まで私は山田五郎氏 (以下敬称略) については,テレビ番組のコメンテーターとして時折見かけるなあという程度で,ほとんど知るところがなかった.あの独特の容貌だから,まさか美術評論家だとは思いもしなかったのだが,アマゾンで美術関係の書籍を漁っていたら,『ヘンタイ美術館』(山田五郎,こやま淳子共著;Kindle版) が「おすすめ商品」として目に入ったのである.
 それでアマゾンで『ヘンタイ美術館』を探して商品説明を読むと

巷の美術展が軒並みいっぱいになり、西洋美術に興味のある人口はとても多い昨今。
けれどその実、本当のおもしろさがわからないまま、漫然と絵を眺めている人が大多数なのではないでしょうか。または次々開催される美術展のどれから行っていいのかさえ、わからない人も多いのではないでしょうか。
この『ヘンタイ美術館』は、美術評論家・山田五郎さんを館長に見立てた架空の美術館。美術に興味はあるけれどどこから入っていいのかわからない、という方々に向けた、西洋美術の超入門書です。

とあり,購入者の評判がとてもいいので読んでみて,ようやく山田五郎が美術評論家であると知った次第.(汗)
 この本の内容に関しては後述するが,購入者レビューにも書かれているように,美術関係の本でありながら掲載されている絵画の画像が白黒でしかも小さく,この点は読者に対する配慮に大きく欠けているのだが,しかし私の購入したのが Kindle版であるため,ウェブ上にある絵画の画像をブラウザに表示させ,その横に『ヘンタイ美術館』を開けば,これはソフトカバー版を読むよりずっと快適に読書できる.買うなら Kindle版をぜひ勧めたい.
(続く)

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2016年3月 4日 (金)

都市伝説

 先月のことだが,読売の発言小町に,童謡『うれしいひなまつり』の歌詞を貶めるトピが立てられた.
 トピ主が言うには,「お嫁にいらした姉様」は嫁に来た義姉のことであり,この義姉を女雛ではなく官女に例えたのは嫁の立場が低いことを意味しており,しかも官女の「白い顔」は厚化粧を意味しているというのである.
 歪曲ここに極まれり.あまりの無知蒙昧に呆れたが,このトピに付いたレスに私はさらに驚き,脱力して椅子から転げ落ちた.
『うれしいひなまつり』の作詞者サトウハチローが少年のとき,嫁ぐ直前に結核で亡くなった実姉がいたのだが,『うれしいひなまつり』はその姉に捧げたレクイエムであり,「白い顔」は結核患者の顔色を意味していると言うのだ.一例をレスから直接引用すると《だから「白い顔」は厚化粧だからではなく、結核病末期の白い顔をあらわしているのだとか》とある.

 愕然としつつ「うれしいひなまつり」×「本当は怖い」でウェブ検索すると,最近その説が流布していることがわかった.Wikipedia【うれしいひなまつり】にも

嫁ぎ先が決まった矢先に18歳で結核で亡くなったサトウハチローの姉のことを歌っているものであり、この曲が短調なのはハチローの姉へのレクイエムだからであるとの解釈もある。

と書かれていて,出典は読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』(岩波現代文庫,2013/10/17) である.
 話の出どころはまたも読売.世も末としか.

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2016年3月 3日 (木)

五目ずし

 Wikipedia【雛祭り】を引くと次のように記載されている.

この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。

 そして Wikipedia【ちらし寿司】  には以下のように書かれている.

「五目ちらし」あるいは「五目すし」・「ばら寿司」・「ばらちらし」とも呼ばれる。
酢飯の中に混ぜ込む具として、一般に干し椎茸や干瓢の煮しめ、茹でたニンジン、酢蓮根などをベースに、たとえば桜の花びらの甘酢漬け、筍の水煮などで季節感を出すなどの工夫が可能で、さらに竹輪や蒲鉾、田麩、油揚げの煮つけ、味を付けた高野豆腐、茹でた蛸・海老、焼穴子、烏賊の煮付けなどさまざま。これに茹でた絹莢・隠元で青い彩りを加えるなど、地域・家庭ごとに多様な具が用いられる。具を混ぜ込んだのち、錦糸玉子や刻み海苔、ガリまたは紅生姜、イクラなどをあしらう。

 私には姉がいるが,私たちの母親が料理嫌いであったため,姉の小学生時代は三月三日に五目ずし (上の引用中に「五目すし」とあるが慣用表現では「五目ずし」である←連濁を参照) を拵えてもらったものの,中学に入ったら「子供じゃないから」という理由で母は五目ずしを作らなくなった.これは理屈のようであるが,ただのものぐさである.

 私の郷里の群馬県は内陸地方であるから,戦後暫くのあいだは生鮮魚介は高級食材であった.従って魚屋の売り物は干物や塩蔵魚,味噌漬け,粕漬などの加工品であった.鮨屋もあったろうが,当時聞いた話では,まだ暗いうちに築地へ仕入れに行き,昼前にようやく帰って来るのだとのことだった.
 それはさておき,昭和三十年代の群馬県における庶民的家庭料理の五目ずし,つまり生鮮魚介類を使わないレシピがクックパッドにあるか見てみた.
 中には永谷園の「すし太郎」を混ぜるという投稿もあって,それはわざわざ教えてくれなくてもいいですと申し上げたい.
 全部読んだわけではないが,なかなか「これだ!」というものがみつからない.しかしこの《五目寿司 》から材料のサーモンを除き,インゲンをもっと薄く切ってそれを数多く散らして載せ,さらに錦糸卵をもっと豪華に載せると,春らしく黄色と緑の彩りが華やかになり,私の五目ずしイメージに近いものになる.それから,このレシピの調理写真は深い桶に入れているが,私のうちでは浅い鮨桶に入れて,そこから銘々の皿に取って食べたものだ.

 さて五目ずしは一般に酢飯に具材を混ぜるものだが,クックパッドの幾つかの投稿では,煮た具材を酢飯に混ぜ込むことはせず,酢飯の上にドサッと載せるだけという作り方が示されていて驚いた.それはきっと投稿者の母親が作ってくれた家庭料理だったのだろう.地方によって,そういう作り方もあるんだなあと興味深かった.

 拙宅に近い藤沢駅周辺のデパ地下とか宅配鮨では,昔の田舎で作られていた家庭料理の五目ずしはみたことがない.生鮮魚介を酢飯に載せるいわゆる「ばらちらし」が普通で,こんな感じ.これは Wikipedia【ちらし寿司】の画像と同じく,日本経済の高度成長期以後に全国的画一化されたものであり,時代の刻印も郷土色もなく,私には懐かしくもなんともない.

 余談だが,《簡単に時短短縮!雛祭り&お祝いちらし寿司 》は,時短をさらに短縮するという日本語破壊力に大いに感心した.

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2016年3月 2日 (水)

低俗テレビ番組

 昨日は,会社員時代の友人たちが月に一度集まる昼食会だった (実は昼宴会).
 私を含めてみんな口の悪い連中なので,大笑いしながら誰彼問わず当たるを幸いに貶しあうのだが,まず槍玉にあがったのが私の郷里の群馬県だった.

 日本テレビ「秘密のケンミンSHOW」は,私は観ない.話題に取り上げられた県の県民が全く知らないことでも「○○県は△△だ」と囃し立てる低劣番組だと思っているからだ.この番組の嘘八百で自分の故郷を笑いものにされて不愉快な思いをした人はさぞ多かろう.
 で,先日の放送で「群馬県民は日本で一番,肉を食わない」と放送されたのだそうだ.
 西日本の多くの地方において食肉消費量が多いのに比べ,北海道を除く東日本では一部の地方を除いて食肉消費量が少ないのはよく知られた事実で,その境界は他の食文化と同様に,関ヶ原近辺に存在する.(食文化の東西境界に関するこの種のデータは,日経新聞特別編集委員野瀬泰申氏が日経サイトで十三年間にわたり連載した「食べ物 新日本奇行」や「食べB」でかなり知られるところとなった)
 食肉消費量に関する東西の違いは,このデータを見れば一目瞭然である.青森県,埼玉県,神奈川県,静岡県が平均をやや上回っているが,あとの東北,関東甲信越,北陸東海諸県はおしなべて肉をあまり食べない地方なのである.
 とりわけ群馬,福島,茨城,長野,栃木各県は食肉消費量が少ない.こと日本人の肉食については明治時代に大きな変化が生じたわけであるが,それ以後この各県においてなぜそのような食文化的特徴ができたかというと,言うまでもなく広域流通網未発達の時代に畜肉生産量が少ない地方だったからである.畜肉生産量が少ないのは,これまた言うまでもなく畜産飼料の生産量に関係していた.
 現在では食肉は広域流通しており,ある地方の食肉消費量と畜産飼料生産量は無関係になっているはず (しかも飼料は工業製品である配合飼料が主になっている) だが,食習慣というものは非常に保守的であるため,群馬,福島,茨城,長野,栃木各県では今でも食肉消費量が少ないと考えられる.
 私自身,そういう土地で育ったので,今でも肉はあまり好きでない.旨いうどんと肉汁したたるステーキのどちらか選べといわれたら,うどんを食うかもしれない.(苦笑)

 さて「群馬県民は日本で一番,肉を食わない」のは事実として,「群馬県では酢豚の肉の代わりに高野豆腐を入れる」と放送されると「嘘八百並べてるんじゃねえぞ」と凄みたくなる.それは酢豚ではなく,どこかの家庭の工夫料理にすぎない.少しは調査してから放送しろと言いたい.

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