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2016年2月27日 (土)

画家ドガについて (二)

 昨日の記事の末尾に『怖い絵』(中野京子;角川文庫,2007年第一刷,p.34) から《彼女を金で買った男が、背後から当然のように見ているということ》を引用した.
 《彼女を金で買った男》とは,『踊りの花形』(オルセー美術館蔵) の左手前に書割が描かれているが,その陰にいる黒服の男である.
 いま舞台の中央で踊っている踊り子が,オペラ座の花形である理由は,書割の陰から彼女を見ている男の愛人だからである.男はオペラ座の有力者であり,自分の愛人を花形にする力があった.つまりオペラ座の踊り子が舞台で脚光を浴びるのに必要なものは,バレエの才能ではなく,性的魅力なのであった.このように,あからさまに言えば当時のパリにおけるバレリーナは娼婦に他ならなかったのであるが,しかしそれでも彼女たちは,底辺の生活から這い上がるために,体を売りながら踊ったのだった.
 このような哀しい彼女らの境遇にドガは関心がなかったとされる.例えば私たちがモネの『日傘を差す女』(ナショナル・ギャラリー蔵) を観るときに感じる,描かれた二人に対するモネの温かな視線が,ドガの描いた踊り子からは伝わってこないのだ.
 では,画家の人間性とその作品の価値はどのような関係にあるのか.
 『怖い絵』の四年後に書かれた『印象派で「近代」を読む』(中野京子;NHK出版新書,2011年第一刷,p.190-191) から下に引用する.

作り手の人格と芸術が乖離していることは、少しも珍しいことではなく、文学も音楽も、いえ、芸術以外の世界でも、こんな人間なのにこんな素晴らしいものを生み出したのか、こんな下劣な人間が、こんな崇高な行ないをすることがあるのか、という例は枚挙にいとまがない。こんな社会状況で、こんな意図で、こんな経緯で描かれたのに、それでもなおオーラを放つ。
 「にもかかわらず美しい」――それこそが芸術の毒であり魅力です。またそれでこそ、絵画は鑑賞者のものになるのではないでしょうか。

 私は全くの美術オンチである.有名な絵画が日本にやってきたりすると「よくわからんけど取り敢えず観ておこうか」と考えるレベルの人間である.そんな程度だから,高校生の時に大学入試問題の定番であった小林秀雄の芸術批評文を読んで,なんでこの人はこんな小難しい文章を書くのかと思った.頭に浮かんだ平易な表現を,わざと難解にこねくり回してから書いたとしか思えなかった.その時以来,美術批評というものは一般人の理解の外にあるのだとして,絵画や彫刻の解説は最初から読む気がなくなったのであったが,ひょんなことから中野先生の著書を読み,「ああ絵画にはこういう鑑賞の仕方があるのか」と,長年の蒙を啓かれたのであった.
 ところが私は最近,中野先生とは別の切り口でドガという人物と作品にアクセスするおもしろい批評を見つけた.
(続く)

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