『フラガール』について (三)
MA さんの『フラガール』批評で感心したのは,投稿《私の考えるフラガール-ここはこう直すべき ネタバレ 2006/11/18 22:33 》中の
《●駅のシーンの見せ方―「伏せられたままの第二の伏線の意味は?」
駅のシーンをもう一度おさらいします。》
から書き始められている考察である.MA さんの考察を,少し長いが引用する.
《ここで、紀美子は先生は何故頑張るのと問いかけ、どこにも行くとこがないからと答えるまどか先生。続けて
紀美子「んなことねえべさ、先生めんこいのに」 まどか先生「めんこいのに追い出されてばっかりだ、炭坑夫と同じだ」 紀美子「したら・・・・・ずっといわきにいだらいいべさ」 まどか先生「よそ者にそっだらこと言っていいのけ?」 紀美子「意地わりぃこと言わねぇでくんちぇ・・・・先生・・・・」 まどか先生「ん?」 紀美子「なんでもねえ・・・・」
紀美子が言いそびれたのは、直前に「ずっといわきにいだらいいべさ」と言ったことから考えると、レッスン場の暴言の謝罪か、あるいは自分たちの為に頑張ってくれていることに対する感謝か、いずれにせよ自分の気持ちをまどか先生に伝え「完全なる和解」をしようとしたが、言い出せなかったと見るべきでしょう。
すると、田舎道をまどか先生を追って駅を目指し泣きそうな顔で走る踊り子たちですが、他の踊り子たちが「まどか先生を引き止めなきゃ」と念じていたのに対し、紀美子だけは「まだ、自分の思いを伝え切れていない」というのが頭にあったはず。
この解釈は、駅のホームで紀美子が、最初にフラのハンドモーションを始め、先生に思いが伝わったとアイコンタクトで確信した後に、列車が動き始めても放心したようにその場に佇んだ行動に合致しているように見えます。
まどか先生も紀美子の意図をある程度気づいており「バカじゃないの?でれすけ !!」は「もっと早く(言葉で)言いなさいよ!」と言う意味が含まれていると考えるのは、うがち過ぎでしょうか?》
MA さんの考察に感心したのは,私も『フラガール』初見のときに,キャラバンの帰路のバス中で交わす紀美子とまどかの会話が,駅のホームでのフラのハンドモーションシーンの伏線であると感じたからである.
ただし MA さんが
《紀美子が言いそびれたのは、直前に「ずっといわきにいだらいいべさ」と言ったことから考えると、レッスン場の暴言の謝罪か、あるいは自分たちの為に頑張ってくれていることに対する感謝か、いずれにせよ自分の気持ちをまどか先生に伝え「完全なる和解」をしようとしたが、言い出せなかったと見るべきでしょう。》
と書いている部分は,私は違う意見を持っている.
《ずっといわきにいだらいいべさ》は,素直に読み取れば,暴言の謝罪でも熱心な指導に対する感謝でもない.これは「私は先生とずっと一緒にいたい」ということである.とすれば,《……先生……》に続くはずだったのに紀美子が《なんでもねえ》と飲み込んでしまった言葉は「先生が好きだ」に違いない.そのように考えれば,「……涙をぬぐって……愛しています……愛しい人よ」というハンドモーションは「先生が好きだ」と同じ意味であることが容易に理解される.
愛しています,愛しい人よ.思春期の少女が年上の女性に抱くほのかな恋心である.
そしてまどかの《でれすけ!》は,踊り子の少女たちみんなに向けて言った言葉ではない.紀美子の告白を受け止めたまどかは,紀美子に顔を向けて,てれくささを隠すために《でれすけ!》と言い,自分の思いが伝わったことを理解した紀美子は《先生もでれすけだべ!》と言うのである.
MA さんの解釈も,私の解釈も,いずれもアリだと思う.多様な解釈が可能であるということが,映画作品の豊かさに繋がるのである.
『フラガール』に描かれた昭和四十年は,高度経済成長期の只中であり,日本の社会が貧困から脱却していく時代であったが,斜陽産業であった石炭産業は置いていかれた.
エンドクレジットに「常磐興産OB OGのみなさん」などとあり,当時の炭鉱住宅における生活についての考証はしっかり行われているのだと思う.とすると,炭住に暮らしていた人々は,昭和四十年頃の平均的な低所得階層家庭の姿より,さらに五年以上は生活水準向上が遅れていたようだ (映画の冒頭で千代はタライと洗濯板で洗濯していた).
言い換えると,私は『フラガール』を観ると自分が小学生だった頃の我が家を思い起こすのである.
あの貧しい時代から,よくぞここまで生きてきたものだと,『フラガール』を観るたびに私は深い感慨を持つ.
そして,ぼた山のてっぺんでの木村早苗(徳永えり) と紀美子の別離のシーン,世話所の庭でまどかや仲間との別離のときに早苗が大きな声でまどかに感謝の言葉を言うシーン,紀美子と夕張へ向かうトラックの荷台に乗った早苗が,互いに「じゃあなー!」と呼びかけあうシーンを観ては,何度でも私は泣くのだ.人の心にあのような感性が確かに存在した時代がかつてあったのである.同じ思いをこの映画に抱く人々はまだ多かろうと思う.
『フラガール』は良い映画である.この作品に織り込まれたメッセージを一つも読み取れぬ三文「映画批評家」が,《お涙頂戴がくどすぎ 》と言いたければ言えと思う.
| 固定リンク
「 続・晴耕雨読」カテゴリの記事
- エンドロール(2022.05.04)
- ミステリの誤訳は動画を観て確かめるといいかも(2022.03.22)
- マンガ作者と読者の交流(2022.03.14)
コメント