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2016年2月26日 (金)

画家ドガについて (一)

 私は,ドイツ文学者の中野京子先生による美術エッセイ (『怖い絵』〈角川文庫〉シリーズ他) のファンだ.中野先生が多くの著書を通じて私たちに提示する絵画鑑賞法は,分析的な鑑賞方法とでもいったらいいのだろうか.例えば一枚の絵に数人の人物が描かれているとして,それぞれの人は一体誰で,なんのためにそこに描かれているのかを明らかにすることで,その絵の意味や画家の意図を知ろうというものだ.
 これは映画の鑑賞方法に似ている.大抵の映画監督は,ナレーションで観客に説明をすることはせず,映画のあちこちに伏線を張り,またその伏線を回収することで作品にふくらみを持たせる.そして観客は,伏線とその回収を分析することで監督が作品に埋め込んだメッセージを理解する.一例を挙げると,先日書いた記事《『フラガール』について》の中では触れなかったが,映画『フラガール』の導入部に,平山まどかが「私のハワイ どこ?」と言うシーンがある.この「私のハワイ どこ?」は伏線の一つであり,物語の後半,クライマックスに向けての展開の中で回収されるのである.
 またやはり導入部で,谷川家の家族三人が卓袱台を囲んで夕食を食べるシーンがある.この場面では紀美子の兄洋二郎の背後に押入れの板戸があり,そこに大判雑誌の一ページと思しき女性の写真が貼ってある.この写真は物語の伏線ではないのだが,写っている女性は誰か,などということを詮索するのも映画を観るときの楽しみの一つである.

 ま,『フラガール』のことは横に置いて,話は『怖い絵』だ.
 同書で解説されている二枚目の怖い絵はドガの"Ballet - L'étoile"である.(同書では題を《エトワール または舞台の踊り子》としている)
 中野先生は,ドガが生きた時代のフランスにおいては,今と違ってバレエは芸術ではなかったと言う.バレエの踊り子たちは貧しい労働者階級の出身であり,彼女たちは何とか少しでもよい暮らしを手に入れようとして踊り子になったのだ.しかし身分制社会の底辺にいる彼女らにとって「よい暮らしを手に入れる」とは,せいぜいのところ,金持ちのパトロンに気に入られて,愛人の地位につく程度のことであった.一方,上流階級に属するドガにとって踊り子たちは単なる画題にすぎなかったようで,そのことについて『怖い絵』には次のように書かれている.(同書 p.33-34)

どの絵も踊り子と描き手との交流、あるいは温かな交感といったものが全く見られない。「ドガの描いた踊り子は女ではなく、平衡を保った奇妙な線である」とゴーガンが評したが、ある意味それは当たっているように思われる。
けれど確かなのは、この少女が社会から軽蔑されながらも出世の階段をしゃにむに上がって、とにもかくにもここまできたということ。彼女を金で買った男が、背後から当然のように見ているということ。そしてそのような現実に深く関心を持たない画家が、全く批判精神のない、だが一幅の美しい絵に仕上げたということ。それがとても怖いのである。

 つまりドガは踊り子を人として見ていなかったということであろう.私はドガの絵を直接に観たことがない (画集など印刷されたものしか知らない) ので,中野先生のドガ評が当たっているかどうかわからないのだが,説得力はあるように思う.
(続く)

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