O・ヘンリーと蕎麦 (四)
前稿で《この「賢者の贈りもの」はO・ヘンリーの作品中,読後の後味の悪さでは屈指のものだ》と書いた.このことについては『賢者の贈りもの O・ヘンリー傑作選I』の翻訳者 (小川高義) は《訳者あとがき》で次のように書いている.
《いくつもの短編があって、いくつかの定型がある。ロマンスもの、人情ものといった主題からも、ニューヨーク、西部といった舞台設定からも、金持ち、貧乏人といった人物像からも、たしかにパターン化する傾向は見てとれる。だが、これだけ多くの作品のそれぞれに唯一無二の個性を求めるのは無理なことだ。それよりは作者の話芸、職人芸を楽しんだほうがよい。そして、いくら定型があるとは言いながら、「O・ヘンリーは、ほのぼのした心あたたまる物語を書いた人」という思い込みは避けるべきではなかろうか。
たとえば、心あたたまる代表格のように思われている「賢者の贈りもの」。もちろん、そのように読むこともできる。そのように読むのがよいのかもしれない。しかし皮肉な偶然にもてあそばれる人間と読めば暗い話にもなる。同時代の自然主義作家たちほどに深刻ではなかろうが、O・ヘンリーの作品にも運命論は読みとれる。自由な意志ではどうしようもない大きな力、つまり運命、偶然、社会環境などに、人間は動かされている。》
暗いお話としての「賢者の贈りもの」は,《皮肉な偶然にもてあそばれ》て,大切な宝物を失った若い夫婦の失敗談である.とはいえ,それでも夫のジムが妻のデラのために買った櫛は,全くの無駄ではない.夫へのプレゼントを買うために短くなってしまったデラの髪は,いずれ元のように長くなるからである.しかしデラが買った懐中金時計用のプラチナ鎖は,完全に無駄なものになってしまった.この夫婦の貧しい暮らし向きでは,ジムはもう二度と金時計を購うことはできないからである.
もしもデラがクリスマスプレゼントとして思いついたのがプラチナの鎖でなかったら,話は全く違っただろう.なにしろジムについて《痩せぎすで、ちっとも浮ついたところのない男だ。まだ二十二だというのに所帯の苦労を背負っていて、くたびれたコートを着たまま手袋もなしに歩いていた》と作者は書いている (小川高義訳) のだ.もしデラが聡明な女なら,ジムが冬空の下で寒い思いをせぬように心を砕いたであろう.もしかしたら新しい暖かなコートは,髪の毛を売った代金では買えないかも知れないが,それならジムへのクリスマスの贈り物は手袋と襟巻でいいではないか.温かい身なりで仕事に出かけてほしいと願う妻の思いやりを,ジムは心から喜んだであろう.しかしデラは愚かにも,一週間の生活費を上回る値段のプラチナの鎖を買い,そしてそれは無用の長物と化したのであった.この愚かな妻は,これからどれほど失敗をするのだろう.一生の不作とはこのことだ.まことに泣きたくなるほど暗い話である.
(続く)
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