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2016年1月 7日 (木)

オリンピック映画のこと (一)

( 私は人生を基本的に理系の仕事人間として生きてきたので,専門外のことはあまりよくわからない.定年後,それまで飯を食っていくための仕事に費やしてきた時間の,かなりの部分を読書 (ネット上の文章も含めて) に使えるようになったのだが,そうしたら「ああそうだったのか!」と驚くことが多くて,心細い老後資金と年金に頼る日々の暮らしではあるが,お金と時間を秤にかければやはり時間が大切だよなあ,さっさと仕事をやめて正解だったと思う今日この頃である.よかったよかった.おわり.ヾ(--;)違う

 話はサントリー財団が発行している論壇誌『アステイオン』のことだ.
 正直に言うと私は『アステイオン』という本の存在すら知らなかったのであるが,昨年末に刊行された『アステイオン 083』(つまり83号) に掲載された時評《映画《東京オリンピック》は何を「記録」したか 》が,ニューズウィーク日本版に転載され,それを読んで感じたことがあった.

 この《映画《東京オリンピック》は何を「記録」したか》の筆者は渡辺裕・東京大学大学院人文社会系研究科教授.私より少しお若いかたである.
 さて《映画《東京オリンピック》は…》の冒頭部分を引用してみる.

二〇二〇年の東京オリンピックの開催が、国立競技場やエンブレムの問題などで最初からつまずいている。そんな折、一九六四年の東京オリンピックの記録映画《東京オリンピック》をじっくり見る機会があった。オリンピック映画史上最高とも評される市川崑監督の作品である。見直してみると、この五〇年余の間の世の中の変化の大きさをあらためて感じる。

 いきなり余談だが,このイントロを読んだだけでもう私たち年寄りは「ん?」と違和感を持ってしまう.
 このような不審な点があったので,ニューズウィーク日本版に転載されたものではなく,アマゾンで『アステイオン 083』の Kindle 版を購入して読んでみた.原文は縦書きである.
 不審な点とは,前回の東京オリンピック開催を渡辺先生が「一九六四年」と漢字で書いているからには,次の東京オリンピックは「二千二十年」かと思いきや,せっかくの縦書きなのに「二〇二〇年」と書いていることだ.
「○」はマルと読む記号だ.数字じゃない.ま,年号の場合,くだけた口語では 2020年を「にーまるにーまるねん」と言うこともあるから,それはいい.年号以外では“007”をダブルオーセブンと発音することもあるしね.
 しかし「この五〇年余」はどう読むのか.「ごーまるねん」なんて普通言うか?
 「五十」を「五○」と書いていいなら,「十」は「○」と書いてよいことになる.しかし「会社設立十周年記念祝賀会」を「会社設立○周年記念祝賀会」と書く馬鹿は,頭の悪い中学生以外にはいない.「ごじゅうねん」と読ませたいなら,きちんと「五十年」と書いて欲しいものだと思うのは私だけではあるまい.
(ちなみに,この渡辺裕先生の数字表記は某新聞社が採用しているもので,高島俊男先生が著書で厳しく批判されておられる)

 それから渡辺先生は《オリンピック映画史上最高とも評される市川崑監督の作品である》と書いているが,それは誰が言っているのだろうか.寡聞にして私はそのような評価を耳にしたことがない.すなわちオリンピック映画史上で最も有名な作品はレニ・リーフェンシュタール監督のベルリンオリンピック記録映画,通称『オリンピア』(参照;Wikipedia【オリンピア (映画)】) であり,これに異論を唱える者は渡辺裕先生以外にはいないであろう.

 ここで百科事典を引用しよう.Wikipedia【オリンピア (映画)】に次のような記述がある.
しかし第二次世界大戦後にはナチ賛美のプロパガンダ映画として糾弾され、監督をしたレニ・リーフェンシュタールは映画監督としての生命を絶たれることになった。そのような政治的な非難とは別にして、芸術的および映画史的な評価は今日までも高く、戦後の映画制作者のいくどない挑戦にも関わらず、この作品を超えるオリンピック映画は生まれていないとされる。
 Wikipedia【オリンピア (映画)】の記述は,《芸術的および映画史的な評価は今日までも高く、戦後の映画制作者のいくどない挑戦にも関わらず、この作品を超えるオリンピック映画は生まれていないとされる》との評価の出典として,『オリンピック辞典』(日本オリンピック委員会監修,日本オリンピックアカデミー編,1981) を挙げている.
 当事者の日本オリンピック委員会が『オリンピア』をオリンピック映画史上最高の作品としているのであるからして,渡辺先生が《オリンピック映画史上最高とも評される市川崑監督の作品》と言うなら,その根拠を示さなければならない.それが学者としての責任というものである.

 本題に入る.(といいながら次稿に続く)

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