O・ヘンリーと蕎麦 (一)
一昨年の夏,まだ東京で仕事に就いていたときに心筋梗塞で倒れ,救急車で救急外来のある総合病院に担ぎ込まれた.その病院から都立多摩センターに転院し,冠動脈バイパス手術を受けて生還したことは以前書いた.本当に幸運であった.
退院後は普通の生活をしているが,半年に一度,最初に入院した総合病院で術後フォローの検査を受けている.退院後に神奈川に転居したため,現在の住処から病院までは結構遠いのだが,私の担当医が若くてきれいな女医さんなので,往復に何時間かかろうが物の数ではない.たとえ死んでも通う決意である.
さて昨日がその検査の日であった.
病院というものは待たされるものなので,何か本を持って行かねばならない.それで藤沢から電車に乗る前に,有隣堂の文庫フロアに行った.
棚の間を歩いていて目についたのが,新潮文庫のレーベル「Star Classics 名作新訳コレクション」である.たぶん一昨年から刊行が始まったこのレーベルの文庫各冊に挿み込まれている小さなリーフレットから,刊行の趣旨を引用する.
《1914年の創刊以来、新潮文庫は世界の名作の翻訳作品を刊行し続けてきました。その数は3000点以上にのぼります。100年、200年も前に書かれた作品が、文化、言語の壁を越えて、現代人の心を揺さぶることは、奇跡的であり、感動的ですらあります。このたび、新潮文庫は近年刊行した新訳を「スター・クラシックス」と名づけました。名翻訳家による新しい作品解釈のもと、より読みやすく、心に響く新訳にして刊行いたします。新潮文庫の「スター・クラシックス」にぜひご期待ください。》
まずは文章の添削.
《100年、200年も前に書かれた作品が、文化、言語の壁を越えて、現代人の心を揺さぶることは、奇跡的であり、感動的ですらあります》は,日本語になっていない.「すら」は,「甲であり,乙である」場合の甲乙二つの事象のうち,程度が大きい,あるいは希であるなどのほうにつけるものである.つまり正しくは「感動的」と「奇跡的」を入れ換えて「100年、200年も前に書かれた作品が、文化、言語の壁を越えて、現代人の心を揺さぶることは、感動的であり、奇跡的ですらあります」とする.「感動的」はよくあることだが,「奇跡的」は滅多にないことだからである.
次にその内容.
《このたび、新潮文庫は近年刊行した新訳を「スター・クラシックス」と名づけました》と書いてあるが,同レーベルの一冊であるトルーマン・カポーティ『夜の樹』(川本三郎訳) は1994年の出版である.二十年も前の出版物を《近年刊行した新訳》としてよいのか.そりゃ新訳が出るまでは百年前の翻訳でも新訳に違いないが,この『夜の樹』を新しく翻訳されたものと思って購入した読者はどう思うだろうか.
新潮社は,新レーベルのコンセプトを「新潮文庫は近年刊行した新訳を含む名翻訳群を『スター・クラシックス』と名づけました」とでもすべきであった.
(続く)
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