« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »

2015年12月

2015年12月29日 (火)

続・フォースと共に

 先日の記事《フォースと共に 》で書いたように,『スター・ウォーズ フォースの覚醒』は新三部作のイントロに過ぎない.物語の内容は旧三部作へのオマージュ (焼き直しというか,あからさまに言えば惑星破壊兵器「デス・スター」の破壊を完全にパクっている) と新しいヒロインの紹介だけなので,期待が大きかっただけに,がっかりした人も多いだろう.

 新三部作への期待は,ファンたちの書いたブログ記事にも表れていて,まだ公開前なのに「ネタバレあり」などと断り書きのなされたブログがいくつもあった.
 それらを改めて見てみたら,新ヒロインであるレイが,レイア姫とハン・ソロの娘であると予想して大外れしたブログがあった.まだ確定ではないが,レイはルーク・スカイウォーカーの娘である可能性が高い.『スター・ウォーズ フォースの覚醒』のラストシーンは,行方知れずであったルークをみつけたレイがルークに,ルークの武器であったライトセイバーを渡す場面だからである.
 しかし「レイはレイア姫とハン・ソロの娘である」とする予想は無理もないことで,なぜかというと最後のジェダイであったルークは,ジェダイの掟に従えば結婚してはならないからであった.
 思い起こせばアナキン・スカイウォーカーは,掟を破って女王パドメを愛し,結婚したがために,心に執着を生じてフォースの暗黒面に落ちたのであった.
 まことに男にとって,女を愛して結婚することこそが暗黒面への入口なのである.それは,ジェダイの歴史の教訓なのである.違いますか.あってますね.はい.

 それではなぜ,父アナキンが暗黒面に落ちた理由を知るルークに娘がいるのであるか.
 それはこれから続く遠い銀河の果ての物語の中で語られるであろう.心して待て.

 あと,ファンのブログでも,Newsweek 日本版などの出版物でも触れられていないのであるが,果たして新登場人物であるフィンは何者であるか.
 『スター・ウォーズ フォースの覚醒』においてライトセイバーでの戦いを見せているところをみると,やがて覚醒し,ジェダイの後継者として銀河一の剣士となる可能性がある.
 そう書けば,ファンは,アナキンの裏切りで非業の死を遂げたメイス・ウィンドゥを想起するであろう.私は大胆にも予想するのであるが,フィンこそはメイス・ウィンドゥの後継者なのである.もし外れたら謝る.すまぬすまぬ.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月27日 (日)

包丁のこと

 半年ほど前のことになるが,中国事情通によると,電気製品や便座に続く次の中国人の爆買ターゲットは,日本製の包丁だといわれていた.
 なるほど今月の12日,中国版ツイッターである微博で,日本の包丁の切れ味がいかに良いかを紹介する投稿があったという (Record China 12/12 12:40 配信).この記事に添えられている画像は日本の出刃包丁である.
 しかしこの報道で私が「ん?」と思ったのは,次のごときネットユーザーの反応が書かれていたことである.

「だから日本に行って包丁を買ってくる人があんなにもたくさんいるのか」
「この包丁はいいな。どこで買えるんだ?」
「こんなにもよく切れる包丁なら私にも1本ください」

 私の知る限り中国料理で用いられる包丁は,非常に身幅が大きいいわゆる中華包丁であり,和包丁のように色々な形状の包丁はない.(画像)
 中国料理において食材を「切る」というのは,薄刃の中華包丁の切っ先で小さな野菜などを刻むこともするが,基本は「叩き切る」か,または包丁の重みを利用して上から落とすようにして切ることである.このような使い方では,刃の切れ味はあまり意味をなさない.
(中国のまな板が分厚くどっしりとした円筒形なのは,この包丁の使い方に最適である)
 すなわち軽くて鋭い切れ味を旨とする和包丁は,中国料理では使いにくい包丁なのである.だから上に引用したネットユーザーの反応は「ん?」なのである.料理などしたこともない若い者の声なのではないだろうか.
 Record China の記事には次のような声も紹介されている.

「すぐに指を切ってしまいそうだ。実用的とは思えない」
「切れ味の良すぎる包丁は使う勇気はないな。自分の指まで切ってしまいそうだから」
「こんな切れ味のいい包丁を使う勇気はない。野菜と一緒に指まで落としてしまいそうだ」

 私には,こちらの声のほうが常識的な反応ではないかという気がする.別に日本製品に対するやっかみとは思われない.

 大昔,私がまだ二十代の頃の『暮しの手帳』に書かれていた記事であったか,それとも後に『吉兆味ばなし』(暮しの手帖社) で読んだことであったか記憶が判然としないが,吉兆の創業者湯木貞一が概ね次のようなことを書いていた.

「刺身を切るとき,包丁の刃は細胞と細胞のあいだを切らなければいけない.」

 そうしないと切断面が滑らかにならないからであるというのだが,生物学的物理学的事実なんぞは物ともせず,ここまで刃物の切れ味に精神性を持たせる物言いは,いかに吉兆主人といえど如何なものか.私には《すぐに指を切ってしまいそうだ。実用的とは思えない》との中国人の感想の方が微笑ましく好感が持たれるのである.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月26日 (土)

過ちの始まり

 日韓関係の長期的混乱が始まるかも知れない.慰安婦問題をめぐる岸田文雄外相と尹炳世外相による日韓外相会談開催のことである.

 日本政府は,日韓間における賠償問題等は,1965年の「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」および「日韓請求権並びに経済協力協定」で解決済みであるとの立場を取ってきた.日本政府は今もその立場を崩していないが,人道的な見地から元慰安婦への支援を拡大することを材料にして,韓国側がこの問題を今後は蒸し返さない約束を取り付けようとしている.

 しかし,私見だが,たとえ日韓の合意文書に「元慰安婦への支援拡大をもってこの問題の最終解決がなされた」と明記されても,韓国はこれをいずれ反故にして慰安婦問題を何度でも蒸し返すであろう.
 すなわち現韓国政府は,元慰安婦への支援などは第一の問題とは考えていないからである.まず第一に,問題解決には日本の首相の謝罪が (そしてできれば天皇の謝罪も) 必要だと彼らは考えているはずだ.そうやって日本に頭を下げさせることによって,民族的自尊心を満足させたい.民族的自尊心,これが現韓国政府にとっての慰安婦問題なのである.だから,お金で解決しようとするのは,事態を混乱させるだけである.解決を急いではならないと思う.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月25日 (金)

続・猫物語

 記事《猫物語 》と《やっぱり猫が》を書いたあと,群ようこの「猫物語」を何冊も続けて読んだ.
 その中から,彼女と関わりのあった猫たちとの日常を雑誌に連載したものを時期順に挙げると『ビーの話』『しいちゃん日記』『おやじネコは縞模様』であるが,この他に『たかが猫、されどネコ』や『トラちゃん』なども読んだ.

 人と猫たちとの日常には,波瀾万丈のことは起きない.猫は寝て食べてまた寝るを毎日繰り返す生き物であるからだ.
 では群ようこが,何年も同じことの繰り返しのような話を書き続けているかというと,そうではない.
 例えば隣人 (もたいまさこ) の飼い猫であるビーちゃんと群ようこは『ビーの話』の中で次のように描かれる.

十五分ほど亀さんになったあと、ビーは
 「うにゃっ、うにゃっ」
 と鋭く鳴きながら、駆け寄ってきた。
 そして
 「どうしたの」
 といった私に、
 「わあお、わあお」
 と必死に訴える。
 「ビーちゃん、心配しなくても大丈夫だから、ねっ、ちょっと行ってきてごらん」
 そういって抱っこしても、すぐ体を揺すって床に降り、
 「うわあ、うわあ」
 と鳴いて落ち着きがない。

 これは至って普通である.それが,『しいちゃん日記』のあとに書かれた『おやじネコは縞模様』になると,野良猫のしまちゃんとの対話は次のようになる.

「どうしたの? お腹すいているんでしょ。いやなの? なんで?」
  (これよー、食べ残しじゃねえかよー)
 「こっちはそうだけど、新しいのも入れてあげてるじゃないの」
  (きらいなんだよ、これ)

 人語を解する猫なのか,猫語を話す人なのか.
 いずれかわからぬが,猫のしまちゃんを相手に,群ようこは直接の会話をかわす高みに到達しているのである.そして彼女の飼い猫のしいちゃんに対して,しまちゃんを「あのヒト」と呼んで噂話をするのであった.
 ここに至って読者は,群ようこが猫界に足を踏み入れた人となったことを知る.
 だから彼女は,寿命を全うしたビーちゃんや,人知れずあちらに旅立ったしまちゃんの霊が彼女のマンションを訪れると,その存在を感知して,飼い猫のしいちゃんと一緒に彼らを懐かしむのである.

 群ようこの一連の「猫物語」は,人よりも早く一生を終える猫たちを,愛情をこめて見送る物語である.私は犬の飼い主であるが,いつか私の犬が旅立つとき,彼女と猫たちのよう(*) にありたいと思う.

[(*) 追記]
 彼女の優しい眼差しは猫に対してだけ向けられるものではない.「犬のピーター君の話」(集英社文庫所収) という哀切な作品もある.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月22日 (火)

フォースと共に

 昨日は,湘南テラスモールの中にある 109シネマズに『スター・ウォーズ フォースの覚醒』を観にいってきた.
 先週あらかじめ,2D字幕版のチケットをネット購入しておいたのだ.
 観客の中にはちらほらと私と同じくらいの年輩者の姿が見えて,その皆さんと懐かしい画面を楽しんできた.
 ひょっとすると今作から,テイストが本編六部作とはがらりと変わってしまっているのではないかと思ったのだが,それほどでもなかったのは,まあよかった.
 ではあるけれど,『フォースの覚醒』は内容的に,新しい登場人物の紹介と前六部作へのオマージュであり,映画作品としては自立していない.これは次の二作品へとファンを誘うイントロであると言っていい.それ以上のものではない.
 ところが,先週の東京新聞に掲載されたレビューがネタバレであるとして,《【炎上】東京新聞にスターウォーズ最大の秘密が掲載されて完全ネタバレ / ファンがマジでブチギレ おもしろさが半減するほどのネタバレ 》という騒ぎが起きている.

 何をいってんだろうね.まず第一に,鑑賞前にネタを知ったから《おもしろさが半減》したのであれば,もともとその程度の映画だったのだ.ディズニーと監督の巧妙なマーケティングに踊らされて過大な期待を抱いた己を阿呆だったとあきらめなさい.
 次に,『スター・ウォーズ』ファンなら,なぜネタバレ記事を読んだのだ.自分でおもしろさを半減させたのだから,文句を言ってはいけない.
 万引きして補導された中学二年生が「盗みやすいように商品陳列しているコンビニが悪いんだ僕は悪くない」と言い張るのに似ている.似てないか.まあいいや,自ら進んで暗黒面に落ちた己を阿呆だったとあきらめなさい.
 余談だが,今作に登場したちんぴら悪玉で,ダース・ベイダーを小型にしたようなカイロ・レンが見事に中学二年生である.古いファンは大笑いしてくだされ.(ということは,今作で許されざる罪を犯し人道を踏み外したカイロ・レンが,次作以降,ちんぴら悪玉から巨悪化していく過程がきちんと描かれるのかどうか,興味持たれるところだ)

 上に《これは次の二作品へとファンを誘うイントロであると言っていい.それ以上のものではない》と書いたが,その意味で,登場した新ヒロインがこれからどのような活躍を見せるか,大いに期待できるイントロではある.
 ともあれ,この爺さんは事前に出たネタバレ記事には目もくれず,クライマックスでトイレに行きたくなったらどうしようと心配した尿意に襲われることもなく,映画を楽しんできた.尿意と共にあらんことを.違うな.まあいいや.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月19日 (土)

やっぱり猫が

 昔々『やっぱり猫が好き』という毎週一話完結の人気テレビ番組があった.放送されていたのは昭和六十三年から平成三年までである.ボックスDVDが今も販売されているし,YouTube に動画がたくさんアップされていて,今でも観れば爆笑のコメディーである.
 出演者は もたいまさこ,室井滋,小林聡美の三人が演じる恩田三姉妹(*1) で,タイトルは『やっぱり猫が好き』だが,特に猫が話の中心となるわけではない.それなのになぜ『やっぱり猫が好き』なのだろうと,当時から不思議に思っていた.

 昨日の記事に書いた群ようこの『ビーの話』(ちくま文庫版) 読了.
 この「猫物語」は,シャム猫のビーと,ビーの元の飼い主のアリヅカさん,現在の飼い主のモリタさん,そしてモリタさんの隣の部屋にすんでいる群ようこが主な登場人物である.
 そして文庫の巻末にはこの三人の鼎談が掲載されていて,ここでアリヅカさんとは安藤由紀子さんで,モリタさんは もたいまさこであることが明かされる.
 安藤由紀子さんはなぜか Wikipedia【やっぱり猫が好き】のスタッフ一覧に名前の記載がないのだが,次にあげる巻末鼎談からの引用からすると,『やっぱり猫が好き』の制作関係者と思われる.

安藤  小さいころから怒ったことなかったよ。とにかく人を嫌うということがなくて。『やっぱり猫が好き』という番組名も、ハタノ(*2) さんと私が、うちで話してて、「あとはタイトルなんだよねえ」と言ってたときに、人好きなビーがチョロチョロッと来て、それで「あ、猫……猫が好きでいいんだよね」って決まったのよ。
 もたい  あの番組のきっかけになった猫が、いまや老いてたれ流し状態という……涙を誘う物語です(笑)。

 これでようやく,あの番組のタイトルがなぜ『やっぱり猫が好き』なのかという,三十年近く前の疑問に答えが得られた.すとんと腑に落ちるとはこのことだと私は思った.

(*1) 放送の最初の頃,姉妹の姓は「恩田」ではなく「安藤」であったことと関係があるかも知れない.
(*2) 演出家の波多野健と思われる.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月18日 (金)

猫物語

 関川夏央が《昔私は群さんに猫でも飼ったら、となにげなくいったことがある。そのとき彼女は猫嫌いとはいわなかったが、飼うなんてとんでもない、と少し眉をひそめたのではなかったか。それが、いつの間にこれほど猫に愛着するようになったのか。そして、これほど巧みな「猫物語」を書くようになったのか》と書いている (『文学は、たとえばこう読む』,岩波書店).群さんとは,群ようこである.
 それで群ようこの「猫物語」を四冊買って読み始めた.まだ最初の一冊『ビーの話』の途中なのだが,しかし関川が群ようこの書くものを「猫随筆」ではなく「猫物語」とした理由がすぐ理解できた.

 犬のトレーナーは,限られた命令語だけで犬との意志疎通ができると聞く.たぶん猟犬の飼い主も同じだろう.何か犬に仕事をさせようとする場合は,そうするのがよいのだと思われる.
 ところが犬には愛玩犬というのがあって,これは人から特に仕事を与えられない.人と一緒に暮らすことが仕事のようなものだ.
 この種の犬は,命令語だけ理解できれば飼い主と意志が通じるというものではない.飼い主はもっといろんな言葉を発する.例をあげれば,犬がドッグフードを食べていると「おいちいでちゅか,あーそう,おいちいの,よかったねえ」などと言うのである.

 猫の場合は,犬と異なって仕事猫というものはないので,人との意思疎通には命令語が使われない.愛玩犬と同様に専ら人と人との会話に用いられる言葉で意志の疎通が図られる.
 例えば群ようこが世話している猫のビーが「うわおうわお」とか言うと,群にはそれが「遊んでください,お願いします」だと聞き取れるのであり,遊んでやるとビーは「んにゃっ」と喜ぶのである.
 犬の飼い主には少ないが,猫の飼い主には「私は猫語がわかる」と言う人が少なくない.群ようこもきっとそう言うだろう.彼女と猫の間には会話が成り立っていて,心が通い合っている.だから群の本は「猫随筆」ではなく「猫物語」なのだ.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月17日 (木)

『ホビット』三部作

 リリースから一ヶ月程経ったが,映画『ホビット』の〈エクステンデッド・エディション トリロジーBOX ブルーレイ版(9枚組/デジタルコピー付)〉をアマゾンで購入した.
 アマゾン掲載の商品説明を引用すると次のようである.
内容紹介
「ホビット」3 部作のエクステンデッド版が収録された完全数量限定⽣産】トリロジーBOX!
■収録ディスク
【ホビット 思いがけない冒険 エクステンデッド・エディション】
【ホビット 竜に奪われた王国 エクステンデッド・エディション】
【ホビット 決戦のゆくえ エクステンデッド・エディション】
・2Dブルーレイ エクステンデッド版本編:各1枚
・2Dブルーレイ特典:各2枚
■初回封入特典: キャラクターカード(9枚組)
■期間限定特典:デジタルコピー by Flixster
【ホビット 思いがけない冒険 エクステンデッド・エディション】
【ホビット 竜に奪われた王国 エクステンデッド・エディション】
【ホビット 決戦のゆくえ エクステンデッド・エディション】
■豪華ハードケース仕様

 劇場公開エディションの三部作BOX ブルーレイ版はかなり前に販売されていたのだが,エクステンデッド(*脚註)・エディションの発売を待っていたのである.
 第一部【ホビット 思いがけない冒険】は劇場で観たので,劇場版とエクステンデッド・エディションとどう違うかという興味もあったからである.

 さすがに三部作を一日で観るのは疲れるので,昨日は第一部を,今日は第二部と第三部を観た.
 簡単にいうと,『ホビット』のエクステンデッド・エディションと劇場公開版の違いは,暴力表現である.立ち回りの殺戮シーンがかなり過激なので,小さな子供のいる家庭ではエクステンデッド・エディションの購入・鑑賞は避けるべきである.
 ただし,というか従ってというか,冒険活劇映画としてはおそらくエクステンデッド・エディションのほうが完成度が高いのであろう.
 また,映画『ホビット』には,第二部から原作にないエルフのヒロインが登場し,これが成功していることも指摘しておきたい..
 トールキンの創造した作品世界には,ファンタジーの金字塔である『ホビットの冒険』『指輪物語』以外にも周辺の物語があるのだが,この映画二作品と Wikipedia の関連項目を芋蔓式に手繰り読むことでおよそを知ることができるだろう.しかしその際には,トールキンの原作と,映画『ホビット』は全くの別物であることは知っておかねばならない.トールキンの小説はファンタジーであって冒険活劇ではない.そこには過激な暴力シーンは皆無なのである.

 さて明日は『スター・ウォーズ/フォースの覚醒 (エピソード7)』が公開だ.若い頃なら何はさておいても初日に観たろうが,私は老いた.こんな長尺物を劇場で観ると,映画のクライマックスの頃に尿意が我慢できない可能性が高い.どうしようかなと迷っている.

(*脚註) 違和感のある片仮名表記だが,アマゾン等で用いられている表記に従った.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月14日 (月)

片岡義男『歌謡曲が聴こえる』(補遺)

 少し前に書いた記事《片岡義男『歌謡曲が聴こえる』()》で,書き落としたことがあったので補足しておく.
 
『歌謡曲が聴こえる』(新潮新書) の p.231 で片岡義男はこう書いている.
 
そのようにして彼 (江分利万作註;ピンク・マティーニトマス・M・ローダデイル) は、美輪明宏の『黒蜥蜴の唄』や由紀さおりの『夜明けのスキャット』、さらにはマヒナ・スターズの『菊千代と申します』を、発見した。
 
 ここにある由紀さおりの『夜明けのスキャット』は,Wikipedia【夜明けのスキャット】

盗作説
1970年、日本テレビ系『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』にて、大橋巨泉は「夜明けのスキャット」と「いいじゃないの幸せならば」をピアニスト中島一郎に弾かせた上、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」とサンバの名曲「クマーナ」を弾かせ、「これは明らかに盗作である」と言った。対象が1969年のレコード大賞受賞曲だったため、巨泉のこの指摘は大きな話題を呼んだ。
1970年3月28日付の新聞で、作曲家の塚原哲夫は「もし盗作でないというなら、訴えたまえ、いずみ君。それが出来ないならレコード大賞は辞退すべきだ」と呼びかけたが、いずみたくは何も反応しなかった。巨泉は2004年の自伝の中で「今やいずみさんもこの世にないが、これもボクは主張を変えていない」と記している。

 
と記述されている.ネット上でも『夜明けのスキャット』は盗作であると書いたブログやサイトがゴマンとある.
 しかし片岡義男は『歌謡曲が聴こえる』の中で,このよく知られた盗作説を無視している.私も片岡義男と同じで,『夜明けのスキャット』は盗作だとは思っていない.楽譜上では似ていても,これだけ曲想が異なれば盗作云々は問題にならないと思う.
 
 ところが世の中には鬼の首を取ったように『夜明けのスキャット』盗作説を振りかざして由紀さおりを罵倒している人がいる.
 その一つが《澎湖島のニガウリ日誌》.
 このブログから一部を引用しよう.
 
これを見ると、私の意見は、独りよがりではないことが分かる。由紀さおりが歌う「1969年」は、「夜明けのスキャット」がヒットした年。この年は、学園紛争が最高潮に達し、東大、東京教育大学(現・筑波大学)の入試が中止になった。このころ、青春時代を送った世代にとっては、「夜明けのスキャット」は懐かしい歌というよりも、悪夢を思い出させる亡霊のような歌と言っていい。しかも、当時の日本は、今の中国のように平気で米国産品をパクッていたという、動かぬ証拠がこの曲だ。今になって、由紀さおりが外国で「夜明けのスキャット」を歌うことは、「国辱」に近い行為だと言っておく。このことを当時を知らない世代に伝えなければならない。
 
「国辱」とはまた随分と大時代な言葉を使うものだ.これだけで頭の中身が見て取れるが,しかも《このころ、青春時代を送った世代にとっては、「夜明けのスキャット」は懐かしい歌というよりも、悪夢を思い出させる亡霊のような歌と言っていい》などと見てきたような嘘を書いている.そんなことを誰から聞いたんだ.少なくとも私の高齢な友人たちは『夜明けのスキャット』を懐かしみこそすれ,誰も《悪夢を思い出させる亡霊のような歌》だなんてことは言わない.
 
 ま,それはそれとして,若いやつが勝手なことを書いているなあというだけのことだが,この《澎湖島のニガウリ日誌》なるブログの筆者は,『夜明けのスキャット』盗作説を補強するために,記事中に YouTube から動画ファイルを違法に二つ貼り付けている (2015年12月14日現在;当該ブログの筆者が修正したときのために事実確認した日時を記しておく).サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』と『夜明けのスキャット』だ.この二つを聴き比べれば盗作だとわかるというわけだ.
 
 ところがこの動画『サウンド・オブ・サイレンス』は元の投稿から音源が削除されてしまっている.また動画『夜明けのスキャット』は著作権法違反であるとして投稿が丸ごと削除されている.
 つまり《澎湖島のニガウリ日誌》の筆者は『夜明けのスキャット』が盗作であることを主張するために,盗作で作られた動画ファイルを,さらに盗用しているわけだ.(爆笑)
 馬鹿につける薬はないなあと,爆笑しつつしみじみ思う次第である.
 ちなみに,由紀さおりとトマス・M・ローダデイルのコラボCD『由紀さおり ピンク・マルティーニ 1969 』が米国で盗作を指摘されたとは寡聞にして聞いていない.また米国音楽事情に詳しい片岡義男が『夜明けのスキャット』盗作説に与していないところをみると,米国人は『夜明けのスキャット』盗作説を問題にしていないと思われる.

| | トラックバック (0)

2015年12月13日 (日)

コロンブスの焼きそば

 私は麺類が好きで,カップ入りインスタント麺や袋入りインスタント麺,冷凍うどんなどを台所に常備している.茹でた野菜,冷凍てんぷら等々も冷蔵庫に欠かさず蓄えており,これを麺類にトッピングして変化をつければ食い飽きることはない.

 これらの長期保存可能麺と比較して,生麺や蒸し麺は保存性が悪くて困る.
家族が多ければ三食入りの「マルちゃん焼そば」なんか一回の食事で食べてしまうだろうが,老人には量が多いのである.
 そこでインスタント焼きそばが重宝するのであるが,しかし蒸し麺の食感に比べると袋入りインスタント焼きそばは,ロングセラーにして日本焼きそば界における孤高の独立峰「日清焼そば」でも残念ながら,やはり一段落ちる味と言えよう.

 ましてやカップ入りインスタント焼きそばは,「ペヤング」だろうが「日清焼そばUFO」であろうが,これらは「焼きそば」と称してはいるが麺の食感の点で「焼きそば」とは別の食べ物であるとしか言いようがない.
 その原因は,調理温度の低さにある.容器に注いでから次第に低下していく湯温のせいである.「焼く」ではなく「ふやける」なのである.
 ならば試みに容器から「日清焼そばUFO」を取り出し,「日清焼そば」と同様に調理してみられよ.
 調理者は,グンと向上した食味をそこに発見するであろう.

 と,ここまではよく知られたことである.
 しかし「日清焼そばUFO」の容器から中身の麺を取り出してフライパンで調理するなら,そもそも袋入りの「日清焼そば」にすればよいのである.そのほうが省包装資材で環境負担が少なく,栄養的には野菜やハムなども入れて作れるから,はるかに優れている.
 そういうわけで,「日清焼そばUFO」をフライパンで作るのは,理論的には食味向上が望めるが実行する価値のないことだったのである.

 が,しかし最近,カップ入りインスタント焼きそば界に衝撃が走った.
 容器から麺を取り出してフライパンで調理するのではなく,電子レンジで調理するのである.
 そのやり方はこれ

 言われてみればコロンブスの卵.なるほどと感心した.(末尾に註)
 ただし,容器のフタを取って電子レンジに入れる際に,冷蔵庫にストックしてある茹でキャベツとか茹でもやし,ハムの切り落としなどを乗せてから加熱調理すれば,オリジナルよりもさらに美味しい焼きそばができあがることを追記しておきたい.
 これで大晦日を待たずに今年の「輝け!日本即席麺大賞 焼きそば部門特別賞」は確定したも同然である.よかったよかった.

(末尾註)
 クックパッド投稿者はこんなことを書いている.
昔、インスタントラーメンを作っていた際にふきこぼれを防ごうとして水を足した。この時、麺が透き通ったのです。今から思えば「びっくり水」ってやつですね。この原理を応用して、市販のカップ焼きそばを「びっくり」させてみたところプリプリになったのです

 しかし,これは調理科学的には明らかな誤りである.余計なことは書かないほうがよろしい.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月11日 (金)

ふるさとへ

 毎日放送のテレビ番組『プレバト』がおもしろいので,欠かさず録画して観ている.
 昨日の放送には宝塚男役のトップスター (といっても私は宝塚出身の女優さんをほとんど知らぬのであるが) だった姿月あさとさんが俳句のコーナーに登場した.美人だなあ.
 お題は雪景色の中を走る列車である.
 姿月さんの作品は
    大晦日 古里向かう 母想い
であったが,これを夏井いつき先生は酷評してから添削し,
    古里へ向かう車窓や 大晦日
とした.
 この添削句だが,誰でも次の句を思い起こすだろう.
    古里へ回る六部は気の弱り
 夏井先生による添削句は,句の調子がこの古川柳に似ている.例えば
    古里へ向かう六部や 大晦日
でも,なんとなくありそうな雰囲気がする.
 
 それはともかく「故郷へ回る六部は気の弱り」の解釈だが,YAHOO知恵袋で,この川柳の意味を訊ねた質問にこんな回答がベストアンサーになっていた.
 
(六部は) 六部僧ともいう。
若いころ古里で良くないことをしでかして
罪滅ぼしに諸国行脚に修行に出かけます
お経を故郷のお寺に納めないといけない
ところが近所の人には会いたくない
気が弱くなります

 
 この回答者は自分が何を書いているのか理解しているのだろうか.《若いころ古里で良くないことをしでかして》だの《罪滅ぼし》とか《お経を故郷のお寺に納めないといけない》はどこから出てきたのか.《ところが近所の人には会いたくない 気が弱くなります》に至っては妄想としか言いようがなく,しかるにこれをベストアンサーにした質問者は思いっきりの大馬鹿野郎のコンコンチキである.知恵袋の質問を読むと発作的に嘘を回答してしまう阿呆には「気が弱る」の意味くらい調べてから書けと言いたい.
 
 このブログで口がすっぱくなるほど書いてきたが,現代日本のネットで最悪の嘘情報発生源は読売の『発言小町』と,この『YAHOO知恵袋』だ.
 諸国を廻って霊場に法華経を納める修行を積んできた六部であっても,高齢になると気が弱り,旅の野に行き倒れるならやはり古里の近くで死にたいと思うようになる.
 そういう,軽い調子の中にもしみじみとした味わいの川柳が,知恵袋に巣食う「教えて君」と「教えたい君」の手にかかっては完膚なきまでに破壊されてしまうのである.
 
 藤沢周平に随筆集『ふるさとへ廻る六部は』がある.
 上に述べた『YAHOO無知袋』の馬鹿者二人だけでなく,『ふるさとへ廻る六部は』を紹介したブログも,この川柳の意味を取り違えている.(下の画像は,ブラウザ画面のコピーである)
 
20151211a
 
 このブログの筆者は《この川柳は、その六部がふるさとへ向かうのは気の弱りからだ、と揶揄しているのだと思います》と書いているが,そうではない.揶揄ではなく,人生の終末が近くなると六部でも気が弱るものだ,仕方がないよ,人間はそういうものなんだからという温かい眼差しがこの川柳の価値なのである.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月10日 (木)

雑多感想 (12/10)

(一)
 北京など中国の都市部における大気汚染が深刻さを増しているとの報道が続いている.
 ただの憶測だが,中国はこの大気汚染を克服できない可能性があるのではないか.何でもできる一党独裁下でのこの状況は,政府に解決する気がないことを示している.反政府の動きが生じれば武力で圧殺すればいいことだからである.

(二)
 朝鮮中央通信が十日に伝えたところによれば,金正恩は北朝鮮が核保有国 (水素爆弾) になったと述べた.
 これに対して韓国国防省関係者は,北朝鮮に水素爆弾を作る能力はまだないとの見解を述べた.
 米国と日本の軍事専門家の見解はどうなのだろう.
 韓国は北朝鮮に対して民族主義的同胞意識を持っているから,テロ国家である金王朝がどんなことをしても,決定的な批判をすることができない.歴代大統領を見れば瞭然である.
 国民も同じ.北朝鮮が実際に核保有国となったら,庇うならまだしも支持する声があがるのではないか.

(三)
 焼け跡闇市派を称し,戦争反対の立場から一貫して発言を続けた野坂昭如が亡くなった.
 ただただ冥福を祈るのみ.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月 9日 (水)

牽強付会の説

 読売新聞(Yomiuri Online) に《濃い「2B」や「B」主流に…鉛筆》と題した記事が掲載されている.
 この記事だけ読めばどうということのない内容であるが,どうも既視感があるので調べてみたら,今年の五月十四日に放送されたNHKテレビ『所さん!大変ですよ』と似たような趣旨 (昔に比べると今の子供たちの筆圧が極端に低下している) の内容である.
 ただし私はこの回の『所さん!大変ですよ』を,PCデスクの横においてあるテレビで放送されていたのを見る気もなく「ながら見」していたので,確認のために改めてネットにある動画をきちんと見てみた.
 そして驚いたのが,テレビ画面に映し出される子供たちの鉛筆の持ち方である.ことごとく鉛筆を紙に対して垂直に立てて持っているのだ.ひどいのになると,鉛筆の芯の先が自分の方を向いてしまっている.
 大人でも子供でも,鉛筆の持ち方が異常であることと箸が正しく持てないことは同じことを意味している.箸を正しく持てない者は鉛筆や万年筆を正しく持てないから,必然的に字が下手なのである.今の日本では,字のきれいな人と箸遣いが美しい人は本当に少数派になってしまったのであるが,小学校で教師が鉛筆の持ち方を指導しない (『所さん!大変ですよ』に登場した女性の小学校教師は,自分の生徒たちが鉛筆で書いているところを目で見ておらず,子供たちが使っている鉛筆の硬度を知らなかったという.授業中に何を見ているんだこの教師は) し,たぶん教師も正しく鉛筆を持てないだろうから,これは情けなくも当然の事態なのであろう.
 それはともかく問題は,『所さん!大変ですよ』の制作担当者が,もしかすると異常な鉛筆の持ち方を「正しい持ち方」だと思っているのではないかという心配があることだ.そうでなければ,あんなに何度も異常な鉛筆の持ち方をアップで撮影はしないだろう.

 ところで,字を書くのが仕事の作家などは,書痙を防ぐために芯の軟らかい鉛筆やペン先の軟らかい万年筆を好むという.
 ところが『所さん!大変ですよ』に出演していた脳科学者の澤口俊之氏は,低筆圧でも書ける軟らかい鉛筆は思考力の低下につながると指摘した.
 だとすると,軟らかい鉛筆や万年筆を使い,書痙にならぬよう低い筆圧で原稿用紙に書いていた時代の職業作家は思考力が低下していたということになる.また筆記具ではなくキーボードからの入力で文章を書く現代作家たちの思考力はどうなのか.澤口説に従えば思考力ゼロなんだろうね.前頭葉がどうのこうのと,まことに大胆な説である.大丈夫かこの先生の前頭葉は.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月 7日 (月)

人の上に降る雪

 昨日の記事《軽佻浮薄 》で,勝部元気をボロクソに貶した.その前は《フードファディズム業界 》を南清貴を槍玉に挙げ,さらにその前は《ペテン師郡司和夫 》で郡司和夫を罵倒した.    

 私はこの連中のような,文章を書くに際して調べものをするわけでなく,勉強をするでなく,ネット上でテキトーな思い付きを書き殴って金を得ているやつらが大嫌いなのである.そもそも文章の中身を支えるべき彼らの仕事自体がテキトーな嘘八百だから,文章の質の低さにはまことに嘆かわしいものがある.

 これに対して,紙媒体を中心にものを書いてきた人々はさすがに違う.
歳月の雪は人の上に均等に降る。積もったかたちは人それぞれだが、高度経済成長時代を生きて、いま老いようとしている男たちの上に降る雪は、大筋「ショージ君」と似た積もり方をするだろう。
 これは東海林さだお『そうだ、ローカル線、ソースカツ丼』(文春文庫) に関川夏央が書いた巻末解説からの引用である.
 人の生きてきた年月を降る雪に例えるのは,関川夏央のオリジナルではないかも知れぬが,上に引用した文章は確かに関川夏央の文体であり,それ故に私たち還暦過ぎの男たちの胸にしみじみと沁みる.

 今週は友人たちとの昼食会がある.酒を酌み交わしながら互いの肩の上に降った雪を見れば,それはきっと似たような形に積もっていることであろう.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月 6日 (日)

軽佻浮薄

 朝日新聞デジタルの有料コンテンツ WEBRONZA に掲載されている記事《五郎丸歩の真似を一般人がしてはいけない メディアによる「良妻幻想」の再生産 》を導入部だけ読んだ.筆者は勝部元気という男である.
 なぜ導入部だけ読んでやめたのかというと,もちろん私が有料会員ではないからだが,話はそういうことではなくて,この《五郎丸歩の真似…》は導入部だけで筆者の頭の程度が知れるということを言いたくて上にリンクを示したのである.

 さてこの無料で読める導入部に《確かに五郎丸選手は福岡県出身の九州男児だからという背景もあるかとは思いますが、男女対等な社会を実現しようという近年の一般的な考えに対して真逆の考えを堂々と述べる様子にはかなり驚かされました》とある.
 私はこの「真逆(まぎゃく)」という単語を聞くと極めて不快になる.「真逆(まぎゃく)」と言ったり書いたりする人間は全員無知無教養の馬鹿野郎のロクデナシだと思っている.
「真逆(まぎゃく)」は十年ほど前の流行語大賞候補だったというから,そのあたりに誰かがはやらせた造語であろう.こんな造語をむりやりこしらえた人間は無知無教養の馬鹿野郎のロクデナシに違いない.
 まずなによりその語感が汚らしい.「真逆」は「まぎゃく」でなく「まさか」と読むものである.「真逆」は古くから「まさか」の当て字として使われてきたもので,昔の本には「真逆の友 (まさかのとも) は真の友」などとある.このような用例を「まぎゃくのとも」と読む者がいたら,そいつは無知無教養の馬鹿野郎のロクデナシなのである.(「無知無教養の馬鹿野郎のロクデナシ」は単語登録してある.こらこら)
 正反対というきれいな語感の言葉があるのに,何故に汚らしく「真逆(まぎゃく)」と書くのか.もちろん正反対という言葉を知らぬからである.小説でも随筆でも論文でも何でもいいから,まともな文章を読む経験を積んで成長すれば,勝部元気は無 (以下省略) な大人にならずに済んだであろうに,哀れである.見た目がよさそうだから,文章なんぞ書かずにルックスを売り物にして生きていきなさい.爺さんからのアドバイスである.

[追記 1]
 勝部元気は自分のオフィシャルサイトの自己紹介欄に,保有している資格として以下のものを列記している.

・販売士3級
・日本ダイエット健康協会認定インストラクター
・ほめる達人検定2級
・ビジネスキャリア検定営業2級
・ビジネスキャリア検定マーケティング2級
・ネットショップ検定
・ネットマーケティング検定
・microsoft office specialist
・ビジネスキャリア検定財務管理2級
・ビジネスキャリア検定人事・人材開発2級
・ビジネス文書検定2級
・経営学検定中級
・秘書検定2級
・ほめる達人検定3級
・銀行業務検定財務2級
・マーケティングビジネス検定B級
・防災管理者
・食品衛生責任者
・ダイエット検定1級プロフェッショナルアドバイザー
・整理収納アドバイザー2級
・ビジネス会計検定2級
・建設業経理士2級
・ビジネスキャリア検定経営戦略2級
・ファイナンシャルプランニング技能士2級
・甲種防火管理者
・税務会計能力検定所得税法2級
・税務会計能力検定法人税法2級
・税務会計能力検定消費税法2級
・ビジネスキャリア検定総務2級
・ビジネスキャリア検定経理2級
・経営学検定初級
・上級救命講習
・ダイエット検定2級
・日商簿記1級
・日商簿記2級
・食生活アドバイザー検定3級
・ビジネス能力検定3級
・ファイナンシャルプランニング技能士3級
・ビジネス会計検定3級
・ビジネス実務マナー技能検定2級
・ビジネス実務マナー技能検定3級
・ニュース時事能力検定2級
・日商簿記3級
・マナー検定中級
・マナー検定初級
・環境社会検定
・TOEFL CBT 194
・スペイン語検定4級
・ハングル能力検定3級
・国内旅行地理検定3級
・国内旅行地理検定4級
・中国語検定3級
・ドイツ語検定4級
・フランス語検定3級
・ハングル能力検定4級
・中国語検定4級
・スペイン語検定5級
・フランス語検定4級

 履歴書に書ける資格は一つしかない.あとはみんな自己紹介に書くのも恥ずかしいクズ資格だ.勉強にちょいと手を付けただけで止めてしまう性格なのであろう.さもありなん.

[追記 2]
 お若い人は聞いたことがないかも知れぬので,書いておく.
「真逆 (まさか) の友」は「まさかの時の友」を語呂よくしたもので,「真逆の友は真の友」は「我が身に困ったことが起きて切羽詰まった時に助けてくれる友人こそが真の友である」という意味である.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月 5日 (土)

時には (続)

 いや,話は昨日のNHK山形のニュース番組中に気象予報士の岡田さんが泣いてしまった件の続きだ.
 この事件でスイッチヤーという言葉を初めて知った.天気予報などの画面を切り替える操作を行う担当者のことだが,この番組のスイッチヤーは,岡田さんが話し始めると,話の流れにお構いなしに画面を切り替えてしまう.これに何とかついていこうとした岡田さんであるが,あまりのことにとうとう泣きだしてしまったというわけである.
 そしてカメラは岡田さんが泣いているところを晒し者として映すのであるが,原稿を置く小さな台の上には,混乱した岡田さんの気持ちそのままに原稿が散らばっていた.

 公共の電波を使って,どうしてこのようなことが行われたのか.
 一人のスイッチヤーの意志では実行できるわけもなく,当然NHK山形のニュース番組制作責任者の承知のもとに行われたと思うしかないだろう.

 会社の中にもイジメは多々ある.
 ただしその社員イジメを顧客の前で行う会社は異常である.
 私は若い頃,勤めていた一部上場会社のS専務 (後にその会社の社長と会長を歴任し,業界団体の会長にもなって旭日中綬章〈昔でいうところの勲三等だ〉を得た) から命じられた違法行為 (ばれれば業務上傷害罪で刑務所だ) の実行を拒み,ために研究所の室長のポストを追われて地方の工場勤務になった経験がある.
 このSという野郎は社長在任中に,東南アジアからある食品添加物を食品と偽って違法に輸入するなど悪事の限りを尽くしたのであるが,それでも馬鹿ではないから,顧客の前で私を辱めるなんてことはしなかった.全社の管理職を集めて行った社長訓示の際に私を名指しで給料泥棒と呼んだり,社長の部屋に呼ばれて行くと「辞める決心はできたかね」とネチネチいびられたりはしたが.
 NHK山形は放送局まるごと,何をしたら世間に悪事がばれるかもわからぬほど低能であるらしい.

[註] 
(1) S経営者の会社はその後,業界再編成の波の中で吸収合併されて消滅した.あれだけ違法行為を働いてもなお業績不振だったのだから,どれだけ無能だったのだろう.
 皮肉なことであるが,会社が吸収合併で消滅したあと,吸収した会社側の人たちによって私はSの陰湿なイジメから救い出されたのであった.世の中,悪いことばかりではないなあと,その時に思ったことである.岡田さんはこの件で番組降板だろう.今後の人生にも大きな影響が生じるだろう.しかし世の中,悪いことばかりではない.涙を拭いてがんばれ.
(2) 当時の社会には,企業犯罪を内部告発するという概念がなかった.私にも内部告発するということは思いもつかなかったが,それが今では悔やまれる.
 企業犯罪の内部告発が世間に認知されるようになったのは平成十四年以降であり,Wikipedia【内部告発】によれば最初は次の事件のようである.

告発者に対する制裁・報復
日本国内において、告発者に対して組織が制裁・報復行為(不利益処分としての不当懲戒処分)をした実例を例示する。
1974年にトラック業界の闇カルテルを告発したトナミ運輸元社員(2006年9月20日定年退職)串岡弘昭が、告発が匿名されなかった為に、32年間も閑職しか与えられなかった。串岡はこの処遇を内部告発に対する不当な報復行為として、2002年1月にトナミ運輸に対して訴訟を起こし、2005年に勝訴判決を得ている(富山地判平成17年2月23日)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月 4日 (金)

時には

 NHK山形放送局から放送された夕方のニュース内の天気予報で,気象予報士の岡田みはるさんが泣きだして原稿を読めなくなったという事態が発生した.
 動画を見ると,事前の打ち合わせと全く異なるカメラ操作が行われ,そのために岡田さんは原稿が読めなくなったと思われた.
 そしてこのことがネット掲示板などで流布され,ちょっとした話題となった.
 掲示板の書き込みによると,局内で岡田みはるさんはいつもイジメにあっていて,今回の異常なカメラ操作に混乱して,とうとう泣いてしまったのだとの憶測が流れたのである.
 泣いている岡田さんの姿を晒し者のようにして放送し続ける番組スタッフの態度は私にも異常と思われた.

 ニッポン放送のワイド番組『垣花正のあなたとハッピー!』でもこのことが取り上げられ,リスナーの反応を紹介していたが,垣花正アナによると,ほとんどの男性リスナーの反応が「めげずにがんばれ応援するぞ」というものであるのに対して,女性たちは圧倒的に「仕事中に泣くなんて甘えがすぎる」と岡田さんを批判し,男女ではっきりと事件への反応が異なったという.
 まあ何十年も仕事をしてきた私のような年寄りの見解では,やはり「仕事中に泣くなんて甘えがすぎる」という女性たちの反応が正しいように思われる.

 それはそれとして,これをmsnニュースはこう伝えた.
NHKお天気キャスター、生放送中に号泣 予定と違う画面に… 山形放送局 》(記事タイトル)

 しかし実際の放送をアップした動画では,岡田さんは涙ぐんではいたが号泣なんかしていなかった.
 数年前から,泣くことを「号泣」と表現する誤用がネット上で一般化していたが,遂にニュースでもこの誤用が使われるようになったのである.

 しかもmsnニュースは,記事本文で次のようなことも書いている.
NHK山形放送局で1日、夕方のニュース内の天気予報コーナーで気象予報士の女性が号泣で原稿を読めなくなり、あわや放送事故というハプニングが起きた。

 放送事故とはどういうことかというと,Wikipedia【放送事故】に次のようにある.
放送事故ではないもの
いわゆる「NG集番組」等で取り上げられる映像は、あくまでも正常な範囲の放送である(NGを参照)。
バラエティ番組等では、タレントがハプニングを指して「放送事故」と揶揄するシーンがあるが、放送として当然支障は起きておらず、放送事故として扱われない。

 つまりmsnニュースは,バラエティ番組に出てくる馬鹿タレントと同じレベルであるわけだ.

 言葉の誤用に関する私の小言幸兵衛的意見はそこまでとして山形放送局のことに戻ると,岡田さん,めげずにがんばってください.応援してます.こらこら.
 さっきと言うことが違うが,正しい意見が良い意見であるとは限らぬ.リチャード・キンブルによれば,正しかるべき正義も時として盲しいることがあるのだ.なんだそれは.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月 3日 (木)

片岡義男『歌謡曲が聴こえる』(三)

 片岡義男『歌謡曲が聴こえる』の帯には《あの歌が僕の記憶を甦らせる。極私的ヒット曲の戦後史》とある.
 この本の中で片岡が力を入れて書いているのは,戦後すぐに活躍したナンシー梅木と美空ひばりである.
 ナンシー梅木 (本名は梅木美代志,海外での芸名は Miyoshi Umeki) は1929年生まれだから,同じように進駐軍キャンプから芸能活動を開始したとはいえ,江利チエミよりずっと年上である.
 私の記憶のなかに歌手としてまた女優としての江利チエミの活躍は今も鮮明だが,ナンシー梅木のことは記憶がない.片岡義男もナンシー梅木の芸能活動を直接目の当たりにしたのではないようだが,それでも彼女のことを語れるのは,やはり彼女と世代が近いことがあるのだろう.
 片岡が,ナンシー梅木が歌う英語を大層ほめているので,ネットにアップされている彼女の出演する映画『サヨナラ』を視聴してみた.『サヨナラ』については Wikipedia【ミヨシ・ウメキ】に次のように書かれている.
 
1957年、マーロン・ブランド主演の映画『サヨナラ』で高美以子と共にスクリーンデビュー。この映画の演技でアカデミー助演女優賞を受賞した。これは東洋人の俳優としては初のアカデミー賞受賞であり、また助演女優賞を米国・英国以外の俳優が受賞したのも初めてであった。
 
 しかし残念ながらネットの動画は音質が極めて悪く,ナンシー梅木の歌唱がどのようなものであったか,全くわからない.残念だなーと思ったらCD『ナンシー梅木 アーリー・デイズ1950~1954』が今も購入できることがわかった.収録曲をアマゾンで試聴してみたが,やはり録音の悪さは否めず,買って聴くほどのものではないというのが正直な感想である.ナンシー梅木は,私よりずっと年上の人々の記憶に残る歌手としておいた方がよさそうだ.

余談.
 片岡義男は『歌謡曲が聴こえる』の中で,戦後のヒット商品について触れている.その中に「ホンダA型」がある.これは本田技研が開発販売した自転車用補助エンジンである.
 片岡はこの製品について全く記憶がないと書いているが,私は見たことがある.資料を探したらみつかった.それがこれ.実に堂々たる日本製品であった.

| | トラックバック (0)

2015年12月 2日 (水)

片岡義男『歌謡曲が聴こえる』(二)

 片岡義男は昭和十四年生まれだから,私よりも一世代前の人だ.
 その片岡が書いているように,戦後から昭和三十年代にかけては,家の中ではラジオが,商店街では街頭放送のスピーカーや電器店の店頭のレコードプレイヤーが,流行り歌のジャンルであった「歌謡曲」を流し続けていた.
 これは,「酒」や「女」や「涙」などの手垢の付いた言葉を順列組合せのようにして製造される「演歌」が登場する前のことであり,この時代の「歌謡曲」は抒情歌と呼ぶにふさわしいものが多かった.
 片岡義男は「歌謡曲」の最大の主題は恋であるとし,「歌謡曲」を四つに分類している.
  一.かなえられそうな気配の恋
  二.どうやらかなえられそうにない恋
  三.やはりかなえられなかった恋
  四.かなえられなかった恋への未練
 三と四の区別がはっきりしないが,一から三には,恋が始まってから終わるまでの動的な状態が歌われるということらしい.
 対して四は,すべてが終わって静的な心のままを歌う曲である.恋の思い出といえばわかりやすい.片岡はその代表例として昭和二十一年のヒット曲,二葉あき子の『別れても』を挙げているが,私はもっと美しい抒情の例を挙げよう.松下詩子『喫茶店の片隅で』である.松島詩子が,あの恋の夢はどこに消えてしまったのだろうと歌う『喫茶店の片隅で』の,歌唱としての完成形は,オリジナルの歌詞と一部異なるが,倍賞千恵子『喫茶店の片隅で』だと私は思っている.
 そして流行り歌のジャンルとしての「歌謡曲」が消え去ってしまったあと,『喫茶店の片隅で』の抒情を受け継いだ数少ない曲の一つが,夏川りみ『あなたの風』であるとも指摘しておこう.しかし残念ながらこれはネット上にない.

| | トラックバック (0)

2015年12月 1日 (火)

片岡義男『歌謡曲が聴こえる』(一)

 私はこれまで,片岡義男の書いたものを一冊も読んでこなかった.
 片岡義男は1970年代の後半に現れて多彩な活動を開始し,その当時の若者たちの絶大な支持を得たが,片岡の振りまいていた軽々しい雰囲気が私には気に食わなかった.貧しい家に生まれ育ち,貧乏学生として大学生活を過ごし,社会人になってからは地方の工場勤務となって,まるでパッとしない毎日を過ごしていた私には,片岡はまるで別世界の人のように思われたのである.
 これはもう食わず嫌いとしかいいようがないが,エッセイを『ポパイ』などの軽薄雑誌に載せているというだけで,昭和の貧乏青年に片岡は毛嫌いされても仕方なかったのではあるまいか.
 しかし先日どういうわけの事柄か,本屋の棚にあった片岡義男の本を買ってしまったのである.気の迷いというやつだ.
 購入したのは『歌謡曲が聴こえる』(新潮新書) だ.発行日は昨年の十一月二十日で,ちょうど一年前の出版である.
 片岡はこの本の中で戦後にヒットした歌謡曲について語っているのだが,これが意外にもおもしろかった.
 例えば,戦後のヒット曲第一号として知られる並木路子の『リンゴの唄』に歌われる「リンゴ」が何を意味しているかについて,片岡は独自の解釈をしてみせる.なぜそのような解釈が可能かを片岡は説明しきれていないのだが,しかし「リンゴ」の意味をそのように受け止めた片岡の感性には,戦後生まれの私にも,なるほどと納得しうるものがある.
 死ぬまでに読みたい本は山のようにあるので,片岡義男の小説を読むことがあるかどうかはわからないが,しかし食わず嫌いはよくないなあと思った一冊である.

| | トラックバック (0)

« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »