甘藷と馬鈴薯 (十五)
(前稿末尾再掲)
《ロココの王妃,マリー・アントワネット.馬鈴薯栽培史に咲いた一輪の紅いバラである.》
ここから暫く,芋の話から離れる.私が日記のような雑文のようなものを書き連ねているのは,もしかしたら文章を書くことが痴呆防止に幾分なりとも役立つのではないかとの希望的観測があるからであり,だから書くこと自体が目的化していて,従って話の脱線なんか全く構わんのである.おいおい.
というわけで,話は「ロココの王妃」だ.
ひと月程前に,北村薫『太宰治の辞書』について
《『太宰治の辞書』は,ミステリィ読者に「日常の謎」ジャンルを初めて提示した「空飛ぶ馬」に始まる「円紫さんと私シリーズ」の最新作であるが,謎が解決されるという意味でのミステリィではない.「私」シリーズの形をとって北村薫の太宰治観が語られている作品である》
と書いた.(太宰治の辞書 水仙 前橋)
もう少し詳しく書くと,太宰の『女生徒』の中に
《それから、もう一品。あ、そうだ。ロココ料理にしよう。これは、私の考案したものでございまして。……(中略)……
料理は、見かけが第一である。たいてい、それで、ごまかせます。けれども、このロココ料理には、よほどの絵心が必要だ。色彩の配合について、人一倍、敏感でなければ、失敗する。せめて私くらいのデリカシイが無ければね。》
《ロココといふ言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されてゐたので、笑つちやつた。名答である。美しさに、内容なんてあつてたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまつてゐる。だから、私は、ロココが好きだ。》
とあるのだが,《こないだ辞典でしらべてみたら》の「辞典」を巡って『太宰治の辞書』の物語が進行するのである.
もちろん北村薫は,太宰のロココ観すなわち《美しさに、内容なんてあつてたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまつてゐる》に共感しているのであるが,その共感は北村薫だけのものではないと思われる.かつてロココが《内容空疎の装飾様式》とされた時代・時期がありはしたが,しかし少なくとも多くの現代日本人はロココというものについて,共感するとまではいかずとも,完全に否定的な見方をしてはいないだろう.
ここで思い起こされるのは,『ベルサイユのばら』である.
(続く)
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