イムジン河 (十)
[前稿末尾を再掲]
《すなわち在日朝鮮人の帰還運動を開始し,経済発展著しく人道主義に立つ北朝鮮という大宣伝を行った.もちろん経済発展も人道主義も大嘘であったが,日本共産党の協力宣伝(*後述) により,社会党から自民党に至る超党派組織を作ることに成功した.そして日本の知識人もマスコミも,今から省みれば愚かとしか言いようがないが,まんまと金日成に騙されたのであった(**後述).》
金日成が,十万人近い在日朝鮮人を「帰還」させて悲惨な運命に落とし入れた,いわば大規模集団拉致とも言うべき「在日朝鮮人の帰還事業」について,日本共産党の果たした役割を記す.
まず,2004年1月5日付の「しんぶん赤旗」に掲載された記事を紹介する.この記事の内容は現在も訂正自己批判されておらず,日本共産党の公式見解である.
記事のタイトルと見出しは以下の通りである.
《どう考える 北朝鮮問題/不破議長に聞く (2)/日本共産党の態度(その1)》
この記事は「しんぶん赤旗」の記者が不破議長 (当時) にインタビューするという形であるが,その中から不破議長の発言を引用する.
《[不破] 私が、党の本部で仕事をするようになったのは、一九六四年のことですが、私が直接経験した範囲でも、今年でちょうど四十年、北朝鮮との関係は、大きく分けると、三つの時期に分かれますね。
最初の時期は、六〇年代の末ごろまで、正確にいうと、一九六八年が、次の時期に移る転機となった年でした。
朝鮮戦争も一九五三年にすでに休戦協定が結ばれていましたし、五〇年代の後半から六〇年代というのは、北朝鮮の側で、あとの時期に問題になるような国際的な無法行為は見られない時期でした。
日本との関係では、戦後、公的な交流はいっさいなく、一九六五年の日韓条約で韓国とは国交を樹立しましたが、その時点でも、北朝鮮とはなんの交渉もありませんでした。
そのために、戦後の日本では、在日朝鮮人のなかでも、北朝鮮出身の人たちは、北へ帰ろうにも交通の便宜もない、北にいる家族との連絡もうまくゆかない、これが大きな問題でした。そこから、五〇年代末に北朝鮮への帰国をはじめ、北朝鮮との往来の自由を求める大きな運動が起き、赤十字がこれを取り上げ、最後には政府も承認して、北朝鮮への帰国事業が始まりました。私たちも、この運動には協力しましたが、運動そのものは、多くの政党・団体が参加して超党派の形で進められました。》
上の引用の中で筆者が下線をつけた箇所について以下に書く.
《[不破] そのために、戦後の日本では、在日朝鮮人のなかでも、北朝鮮出身の人たちは、北へ帰ろうにも交通の便宜もない、北にいる家族との連絡もうまくゆかない、これが大きな問題でした。》
出版された資料によれば,終戦直後の1945年8月,在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどであり,その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった.彼らの大部分は,日本政府の要請を受けて GHQ によって半島に送還された.Wikipedia【在日韓国・朝鮮人】には以下のように書かれている.
《その後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により送還事業が開始され、翌1946年までに徴用者を中心に140万名が朝鮮半島に帰還する一方、1939年9月の「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達により朝鮮における雇用制限撤廃(自由募集)以前から滞在していた者を中心に約60万名が日本に残った。》
戦後の在日朝鮮人について書かれた資料には,私の知る限り「北朝鮮出身者が北朝鮮に帰国する手立てがないのが大きな問題であった」としているものはない.北朝鮮支配地域出身者はわずかだったからである.しかるに「大きな問題であった」とするならば,その根拠資料を日本共産党は提示する義務がある.
《[不破] 朝鮮戦争も一九五三年にすでに休戦協定が結ばれていましたし、五〇年代の後半から六〇年代というのは、北朝鮮の側で、あとの時期に問題になるような国際的な無法行為は見られない時期でした。》
この不破発言は,「在日朝鮮人の帰還事業」は国際的な無法行為ではないとするものである.もし無法行為であるとすると,それに積極加担した日本共産党も無法行為を犯したことになるから,どんな矛盾 (*「寺尾五郎」のところで述べる)が生じようと「在日朝鮮人の帰還事業」の非人道性を認めるわけにはいかないのである.
(続く)
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