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2015年10月13日 (火)

イムジン河 (四)

 前稿の
公職追放と逮捕状が出された徳田球一や野坂参三らは共産党中央委員会を解体して中国に亡命し,非合法活動 (武装闘争) を開始した
から
そして二ヶ月後の7月,日本共産党第6回全国協議会 (六全協) が開かれ,それまでの武装闘争方針を完全に放棄した
までの記述は不十分であったかも知れない.少し補足しておく.

 日本共産党という政党の歴史は実に奇々怪々で,一般の人はこの党の正史ではなく Wikipedia【日本共産党】に書かれているような一般的客観的な記述を読んでも,裏切りとかスパイとか,転向とかの人間の暗黒面が大盛りで,何がなんだかよく理解できないのではなかろうか.
 一例を挙げると,平成四年 (1992年) に,戦前からの古参幹部である野坂参三が除名された.この野坂という男はひどい野郎で,ソ連にいた無実の日本人同志党員をソ連の秘密警察に讒言して売り渡し,処刑させるなどの人でなしであったが,亡命先から帰国する時にソ連秘密警察のスパイとなり,平然と「凱旋」して最高幹部になりすました.そして1956年から1977年まで四期にわたって参議院議員を務め,1958年に共産党議長となり,1982年に退任して以後名誉議長となったあとは党から年金を受けていた.しかし青天の霹靂とはこのこと,週刊文春の大スクープでその汚れた過去が暴露されて党を除名されたのであった.
 この事件も奇怪ながら,もっと奇怪なのは最高幹部の恥ずべき人間性が暴露されたときに,私の知人の党員たちが全く動揺しなかったことだ.それまで「野坂参三さん」と敬称つきで呼んでいたある党員が平然として掌をヒラリと返し,「野坂」と呼び捨てにして罵倒するのを見て私は驚き呆れたのであった.
 それはさておき,この党が戦後に合法政党として出発したあとも,右にブレ左にブレる思想的混乱は尋常ではなく,それによる犠牲者も多かった.
 まずレッドパージで徳田球一や野坂参三らが中国に逃れた頃,日本共産党は在日朝鮮人を日本における「少数民族」と既定していた.この規定によれば,在日朝鮮人は外国人ではなく,従って日本革命の成就なくして在日問題の解決はないとされたのである.そのため共産党は在日朝鮮人を党員として組織化し,党民族対策部の指導下においていた.
 この時期に開かれた共産党第二十回中央委員会総会 (1951年8月) で,平和革命の可能性を全面的に否定する,いわゆる「51年綱領」の草案が提出された.この綱領に基づいて,山村工作隊活動や火炎ビン闘争を各地で展開することになった.
 しかしこんなチャチで荒唐無稽な武装蜂起が国民に受け入れられるはずもなく,1952年10月の総選挙では全員が落選して議席を失い,また多くの離党者を生む結果となった.
 先に述べたように,亡命中の徳田球一が1953年に死去したあと,宮本顕治が党内主導権を握り,遂に1955年7月に開かれた第六回全国協議会 (六全協) で武装闘争路線の放棄を決議した.
 これで誤謬は正されたのであるが,問題はそのときの,誤謬の総括にあった.
 この党は他の政党と異なり,自分自身は党の決定に反対であっても,党の決定には従うことを党員の基本姿勢としてきた.そのため,党の武装闘争方針にも多くの在日朝鮮人党員が忠実に従った.
 いわゆる血のメーデー事件 (1952年) では在日朝鮮人はデモ隊の先頭で警官隊に対峙したという.この事件では在日朝鮮人から多くの逮捕者 (逮捕者全1232人中130人) が出た.皇居前広場に突入した二万人のうち,五千人が在日朝鮮人だったと資料にある.
 同年6月25日,大阪で起きた吹田事件では逮捕者全250人中92人,同じく7月7日に起きた名古屋の大須事件では逮捕者全269人中,なんと半数を超える150人が在日朝鮮人だった.
 このように,中国に亡命した党幹部の方針に忠実だった朝鮮人に対して,武装闘争方針を転換した共産党は何といったか.Wikipedia【山村工作隊】によれば《誤りをおかした党員であっても、分裂と武装路線の誤りを認め、新しい方針を支持してまじめに努力する意思のある人は排除しない》としたのである.これは Wikipedia の勝手な記述ではなく,共産党の正史である『日本共産党の八十年 1922~2002』(日本共産党中央委員会出版局,2003年,126頁) にある.
 もしも宮本顕治が真っ当な人間であったなら,徳田球一や野坂参三らの過ちを正すことができなかった己の力不足を,党幹部として,武装闘争方針の犠牲となった党員たちに詫びたであろう.しかし宮本はそうしなかった.「自分の間違いを認めた党員は許す」という傲慢極まりない姿勢をとったのであった.
 これを聞いた朝鮮人党員たちの気持ちは,わかりやすい言葉を用いれば「お前が言うな」であったろう.この六全協の結果,多くの党員が失意のうちに党を去ったという.日本人党員のことはこの稿の本題ではないので触れないが,日本国内の在日朝鮮人組織であり,日本共産党の指導下にあった在日朝鮮人統一民主戦線は,1955年に浅草公会堂で開いた大会翌日の5月24日に解散し,同時に5月25日,在日本朝鮮人総聯合会 (朝鮮総連) が結成された.この時,在日朝鮮人党員は一斉に離党したのであった.
 歴史に「もし」はないが,日本共産党の愚かな武装闘争と惨めな失敗,そして犠牲となった党員の逆鱗に触れる傲慢な総括がなかったとしたら,北朝鮮と在日朝鮮人を巡る状況は,今と少し異なったものになったのではないかと思われるのである.
(続く)

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