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2015年10月12日 (月)

イムジン河 (三)

 前稿に,Wikipedia から抜粋した「在日朝鮮人の帰還事業」の経緯を示したが,Wikipedia 【在日朝鮮人の帰還事業】に書かれていないことを以下に補足説明する.

 共産主義政党による国際組織であるコミンテルン (1919年―1943年) の後身組織であるコミンフォルムがスターリンの指導によって1950年1月に「日本の情勢について」を発表し,日本共産党を批判した.
 これに対して日本共産党主流派の徳田球一らは反発したが,少数派の宮本顕治らはスターリンや毛沢東による批判を受け入れた.
 その一方で連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) のダグラス・マッカーサーが1950年5月,日本共産党の非合法化方針を示し,6月にマッカーサーは共産党の国会議員などの公職追放と政治活動の禁止 (レッドパージ) を指令した.
 翌7月には共産党幹部 (徳田球一,野坂参三,志田重男,伊藤律,長谷川浩,紺野与次郎,春日正一,竹中恒三郎,松本三益) に対し,団体等規正令違反で逮捕状が出された.
 このコミンフォルムによる批判と,GHQ による弾圧とにより,日本共産党は内部分裂した.
 公職追放と逮捕状が出された徳田球一や野坂参三らは共産党中央委員会を解体して中国に亡命し,非合法活動 (武装闘争) を開始した.
 当時の日本共産党に所属していた朝鮮人党員たちは,この非合法活動の全面に立った.
 北朝鮮旗を翻した朝鮮人も加わった血のメーデー事件は,このような状況下に起きた事件であった.
 しかし1953年に徳田球一が北京で死亡したことから共産党内部では宮本顕治が主導権を握ることとなった.主流派となった宮本らは,非合法活動に従事した党員を極左冒険主義であるとして批判を開始した.
 こうして血のメーデーから二年後の翌1954年8月30日,北朝鮮外相が,在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の公民であり,日本居住,就業の自由,生命財産の安全を保障するように日本政府に要求した.これは北朝鮮政府が在日朝鮮人の利益を代表するという立場を表明したものであった.
 次いで1955年5月に在日本朝鮮人総聯合会 (朝鮮総連) が結成され,これが主催して「朝鮮人帰国希望者東京大会」が開催された.朝鮮総連結成時には,それまで日本共産党中央の指導に従って非合法活動に従事したものの,共産党の方針転換により突然掌を返すように批判されることとなった朝鮮人党員が,大挙して日本共産党を離党したといわれる.
 そして二ヶ月後の7月,日本共産党第6回全国協議会 (六全協) が開かれ,それまでの武装闘争方針を完全に放棄した.在日朝鮮人活動家たちは日本共産党の指導を離れ,北朝鮮の指揮下に入るとともに,これ以後,日本社会党に接近していくこととなる.

 翌年,北朝鮮が内閣命令『日本から帰国する朝鮮公民の生活の安定に関して』を公布した.
 翌1958年7月,金日成が在日朝鮮人受け入れの意思を示し,ソ連に支援を求めた.
 続いて同年8月,神奈川県川崎市の朝鮮総連分会が金日成に帰国嘆願書を送ることを決議し,集団帰国運動が開始された.
 同9月,金日成が在日朝鮮人の帰国を歓迎すると言明し,10月には北朝鮮の金一第一副首相が帰国問題に関連した談話を発し,在日朝鮮人の帰国に要する船を用意することを明言した.
 言うまでもなく朝鮮総連は北朝鮮の在日組織である.従って朝鮮総連が金日成に帰国嘆願書を送った形をとっているが,これは金日成の意志に他ならない.朝鮮人帰国運動は金日成の指導の下に行われたのである.
(続く)

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