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2015年10月

2015年10月31日 (土)

偽善者あるいは犯罪者

 専業主婦の贅沢ランチとか昼カラオケのマーケットはかなり以前からあるわけだが,今やいわゆる団塊世代がほぼ完全に年金生活に移行して暇をもてあました結果,「昼間の宴会=昼飲み」という新しいマーケットが生じた.
 昼飯時にビアホールとか気安く入れるレストランに行くと,爺さんたちがランチメニューを食いながらワインなんぞを飲んでいるのをよく見かけるようになった.
 昔は昼酒を食らうのはろくでなしであったが,昨今は普通の年寄りが昼酒をのむようになったのである.というか,団塊世代は元々がろくでなしであったのかも知れぬが.

 というのは言い訳で,先日,昔からの友人たちとの定期的昼酒会に出かけた.会場のレストランの最寄り駅まで一時間以上かかるので,車中の待ち時間つぶしにいい本はないかと駅ビルにある本屋に入ったら,『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文,新潮文庫) が目についたので購入した.
 この本は,昭和四十七年と平成十八年に発行された中学校の歴史教科書 (社会科の一部) を比較して,どこがどのように変化しているかを紹介している.変更された事項の多くは新聞などで記事になったものであるが,改めておさらいという姿勢で読んでみると,なかなか面白かった.

 なるほど,とおもしろく思ったことの一つ.
 私たちが使用した社会科教科書には,明治維新後,江戸時代の古い身分制度を廃止せんとする政府の一連の政策に関して,「四民平等」という言葉が書かれていた (白状すると,すっかり忘れていた) が,現在の教科書には「四民平等」の語はないのだそうである.

 明治四年 (1871) 八月二十八日の太政官布告すなわち穢多非人等の賤称廃止令 (正式な名称はなく,解放令あるいは身分解放令と呼ぶことも多い) によって,封建的身分制度における最下層の賤民身分 (穢多,非人など) は廃止され,その身分は平民と同様であるとされた.
 大切なことは,これが見かけだけの,偽りの改革だったことである.
 というのは,政府自身が旧賤民身分の人々を,新たに作った新平民という語で呼んで区別したのである.この区別は当然ながら差別を生んだ.何のことはない,身分の言い方がかわっただけで,「新平民」は庶民のあいだに差別用語として定着し,これが現在まで続く差別の始まりとなったのであった.すなわち言葉だけで実態のない「四民平等」は教科書に載せる価値がないというのが現在の教科書編纂者の立場であるとのことである.なるほど.
 そもそも明治政府は,賤称廃止令は天皇制と矛盾すると考えていたのである.それなのになぜ,この布告が公布されたかという事情は Wikipedia【解放令】を参照されたい.要点を以下に抜粋しておく.

明治4年8月28日の解放令公布の後、明治政府は実質的な解放政策を一切行わなかった。当初から解放令の公布は天皇制の否定に直結しかねない行為であり天皇制と矛盾する、といった意見が明治政府内から数多く出ていたため、明治政府としては部落解放政策は勿論の事、解放令の存在も到底認めがたい物でしかなかった。まして、明治政府から見れば解放令はあくまでも欧米諸国から押し付けられた物に他ならなかった。結果として、身分解放は「四民平等」理念による身分の解放ではなく、「地租徴収」実施のためだけに出された名だけの身分解放にとどまり、渋沢・杉浦の「四民平等」を追求した人権論に根ざした早期開放論も、大木・大江の「生活改善」による格差是正後の漸進開放論も最初から無かった事となった。被差別部落住民に対する集団リンチ事件といえる解放令反対一揆の取り締まりも皆無であった。

そして皮肉にも、解放令によって部落の生活水準は下降した。元被差別身分が差別から解放されることはなく、むしろ江戸時代に有していた所有地の無税扱や死牛馬取得権などの独占権を喪失した上、大木の構想した生活改善事業も行われなかったためであった。このため、洞村移転問題など解放令の趣旨とは全く正反対の事例も数多く発生した。また、解放令とともに戸籍法の手直しが行われたものの、現場担当者の事務処理の混乱や意識改革の遅れもあって翌年編製された壬申戸籍における「新平民」表記問題につながることになった。全国水平社の設立後も部落の生活水準の改善はほとんど行われず、完全なる平等を謳った日本国憲法の施行によってようやく実質的な解放政策が行われることとなったのである。

 さて昼酒の会.
 ある友人が,先月,信州を旅したときのことを話題に出した.『夜明け前』に「すべて山の中である」と書かれた木曽路を辿ったのだと.
 それで私は,上に挙げた文庫本のことと明治の賤称廃止令,そして島崎藤村の『破戒』を彼の話題に繋げた.
 島崎藤村は,『破戒』出版の前年,明治三十八年(1905) に,途中まで書き上げた原稿を持って上京した.これに妻冬子と三人の幼い娘を帯同した.
 上京してはみたが全く生活能力のない藤村は,この年と翌年の続けざまに,結核に感染した娘たちを貧窮故の栄養不良で死なせた.切り詰めた暮らしのために若い妻は夜盲症になった.
 悲惨な暮らしの中で冬子はさらに男児二人を生み,上京の五年後,四人目の女児出産のときに産褥で死んだ.
 冬子は,有体にいえば,藤村の節度ない性欲の犠牲となって短い人生を終えたのであった.

 性欲だけのことではない.藤村島崎春樹は,女性を人間として扱わなかった.そして恥知らずでもあった.不幸にも不倫相手に選ばれてしまった姪島崎こま子が藤村の犠牲者であることに異論を唱える人は少ないのではないか.

 妻と三人の娘と姪を我欲の犠牲にして,まだ平然と生き続けるような男が,よくまあ被差別民のことを小説にしたものだ.
 私がそう言うと,件の友人は「だけど漱石は『破戒』を絶賛したんだぜ」と答えた.彼は漱石の良い読者なのであるる
 負けずに私は「漱石といえども誤りはある.芥川龍之介は藤村を偽善者と呼んだ.花田清輝は藤村を犯罪者と言い切った」と返した.そして友人は苦笑して,この話題は終わりとなった.島崎藤村の弁護は難しいのである.

 中学の国語教科書は知らず,高校の現代国語教科書には,もしかすると『破戒』か『夜明け前』が抜粋されているかも知れない.
 昔の高校生なら,よほどの文学好きでなければ島崎藤村の人間像を知ることはなかっただろう.しかし今はネットがある.ネット情報から辿っていけば,藤村という男が偽善者あるいは犯罪者と呼ぶべき人間だったと容易に知ることができる.
 作者と作品は別物だという人がいるが,そんなことはない.獣が書いた小説は,題材が何であれ,またどんなに文学的な感動に誘うように書かれていようとも,結局は獣の心が作り出したものなのだと私は考える.
 あーオチがないのだが,『こんなに変わった歴史教科書』の感想文は以上.

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2015年10月29日 (木)

イムジン河 (十五)

 前稿まで,「在日朝鮮人の帰還事業」のあらましを書いてきた.
 この「帰還」事業は,北朝鮮の金王朝を樹立した金日成の悪魔の思い付きを,手先となった朝鮮総聯と日本共産党が実行したものであった.そしてこれに岸信介が政府のお墨付きを与えて推進した.
 後に路線の対立から朝鮮労働党と絶縁した日本共産党は,恥ずかしげもなく今では「あれはみんなでやったことだ」と,自分たちがこの大規模拉致事件に加担したことに知らぬ顔をきめこんでいる.
 日本共産党が朝鮮労働党と絶縁したあと,教祖金日成を信奉して朝鮮労働党の友党となった日本社会党は今はもうない.社会党は分裂改称して社会民主党となったが,社会党と社会民主党の党首であった土井たか子は,「在日朝鮮人の帰還事業」に社会党が協力したことを自己批判するどころか,金王朝二代目がやった多くの拉致事件に関しても「北朝鮮がそんなことをするはずがない」と言い張った.社会党の思想的後継者である福島瑞穂は,今も自らを土井チルドレンであると称しているが,「在日朝鮮人の帰還事業」については黙して語らない.土井が死んだ時,彼女が北朝鮮礼賛者だったことを書いた新聞は一紙もなかったが,福島瑞穂も,折角の土井を批判できる機会に何もしなかった.
 安倍政権は,北朝鮮による日本人拉致事件の担当大臣を,一億総なんとか大臣との兼務として,解決に努力する気がないことをあからさまにしたが,安倍晋三の息がかかったデマゴーグ青山繁晴は「岸信介は『在日朝鮮人の帰還事業』に反対していた」と歴史を捏造する大嘘を宣伝している.
 金日成に頼まれたわけでもないのに,北朝鮮こそ「地上の楽園」であるとはしゃぎ回って,日本人を含む約九万四千人の人々の背中を押した日本の「知識人」は,誰一人自己批判せずに鬼籍にはいった.
 新聞社も,統一記者団を北朝鮮に派遣したにもかかわらず,事実を報道せずに嘘でたらめを書いて,在日朝鮮人たちの地獄への道に善意という石を敷き詰めた.今に至るまで一紙も自己批判していないが,都合がわるくなると鮮やかに掌を返してみせる朝日新聞社だけは,こっそりとこんなものを出版して,かつて北朝鮮を褒めたたえた朝日新聞社の歴史を捏造しようとしている.

 最後に,この連載を「イムジン河」としたわけに触れる.
 戦後生まれの文筆家でザ・フォーク・クルセダーズのヒット曲「イムジン河」 と「在日朝鮮人の帰還事業」の関わりについて書いているのは関川夏央一人である.
 私と同世代であり,私と同じ時期に深夜放送で「イムジン河」を聴いた関川は,この曲は Wikipedia【イムジン河】に書かれているような北朝鮮のプロパガンダ曲ではなく,その旋律と日本に伝えられた時期からして,「在日朝鮮人の帰還事業」によって北に渡航してしまった在日青年の作ったものではないかと言う.歌われているイムジン河は,実は臨津江に仮託した日本海なのではないかとする.これは関川夏央の直感的な推測ではあるが,私にも,もしかしたらそうかも知れない思われ,それでこの連載のタイトルを「イムジン河」とした.
(了)

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2015年10月27日 (火)

奇妙な事件

 昨日,奇妙な事件が発生した.
 この事件を伝えた共同通信(10/26 23:55 配信) は次のように書いている.

東京都日野市の緑地で、近くに住む小学4年の10歳とみられる男児が全裸で手足を縛った状態で、木で首をつり死亡しているのを警視庁日野署員が見つけた。目立った外傷はない。

 遺体の状況は,共同通信によれば以下の通り.
遺体は崖地に横たわっており、首には約1・5メートル離れた木の幹にくくられたビニールひもがつながれていた。両手もひもで後ろ手に縛られ、両足も縛ってあった。衣類は遺体の近くにあった。

 読売新聞(Yomiuri Online 10/27 1:07) では次のようである.
同市内に住む小学4年生とみられる。男児は全裸で、両手足をひもで縛っていたが、縛り方は緩く、他人に縛られた形跡はないという。同庁は、自殺の可能性があるとみて、詳しい状況を調べている。

 朝日新聞の報道は共同通信とほぼ同じであり,どちらも,警察は自殺他殺の両面から捜査していると書いた.
 一方の読売は見出しにも《山林で男児が首をつって死亡…自殺の可能性》として,自殺を強く示唆している.

 しかし,である.
 第一に,遺体の手が後ろ手に縛られていた点の不思議.
 奇術のネタで,自分の両手を後ろ手に縛るのはあるだろう.だけれども十歳の児童が死に臨んでマジシャンの腕前を披露するだろうか.意味不明の行動である.
 第二に,遺体が枝にぶら下がっていたのではなく,地面に横たわっていた点の不思議.
木の幹にビニールひもを結び,これを結び目よりも上にある枝に引っ掛けて,これで首を吊れば縊死することは可能だ.しかしこの方法では,死んだあとで地面に横たわることができない.

 この事件には幇助者がいるのではないか.ふざけて自殺のまねをして遊んでいるうちに本当に死んでしまった可能性があるように思われるのだが,警察が自殺を示唆 (読売の報道が正しいとすればだが) しているのはなぜだろうか.
 他殺の可能性が出てこなければ,この種の事件に新聞が続報を載せることはないだろう.気になる事件である.

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2015年10月26日 (月)

イムジン河 (十四)

[3.同胞を労働力として]

 朝鮮半島事情に詳しい関川夏央は『昭和三十年代演習』や『やむを得ず早起き』に,「在日朝鮮人の帰還事業」は,朝鮮戦争で大きく失われた労働力を金日成が獲得しようとしたものだと書いている.
 しかし Wikipedia【在日朝鮮人の帰還事業】には,次のように否定的な見解が示されている.

また、朝鮮戦争で荒廃した国土を再建するための労働力補充も目的だったとする見方があるが、北朝鮮側の政策資料に日本から帰還した朝鮮人の影響が現れないことや、北朝鮮への帰還者には労働力としては期待できない被扶養世代が多く含まれていることから、このような大規模な移住を推進する直接の原因と考えにくいとして疑問視する声もある。

 上の引用箇所については,《北朝鮮側の政策資料に日本から帰還した朝鮮人の影響が現れないこと》は,そもそも北朝鮮には統計数字のような根拠に基づいて政策を決定するという能力がなかったとすれば不思議ではない.経済政策の資料が嘘であるのは,現在の中国が今もやっていることだ.
 また,経済が破綻し,当時の社会主義諸国からの経済援助が最大の「産業」であった北朝鮮には,「帰還」者には働きたくても働く場がなかったと考えられるのではないか.前稿に書いたように,「帰還」者からの生活物資援助要請は,それを示しているのではなかろうか.
 《北朝鮮への帰還者には労働力としては期待できない被扶養世代が多く含まれていること》も,労働力説を退ける根拠としては納得しにくい.
 私見だが,金日成の最初の目論見は「帰還」者を労働力として補充することだったのだが,日本で暮らしていた「帰還」者は北朝鮮の劣悪な労働環境に耐えられなかったので,棄民されたのかも知れない.ここは関川夏央の説に分がありそうだ.
(続く)

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2015年10月25日 (日)

イムジン河 (十三)

 前稿まで,金日成北朝鮮による帰還事業の目的の一番目として [1.韓国包囲網の形成] を長々と説明した.次は今も続く北朝鮮のタカリ体質についてである.

[2.同胞を金ヅルとして]
 (1) 「帰還事業」の窓口となった朝鮮総聯は,在日朝鮮人の北への「帰還」に際して,日本から持ち出してよい金額を一人四万円に制限し,それ以上の財貨は全額を朝鮮総聯に寄付させた.これにより金日成/朝鮮総聯は,「帰還事業」終了までに「帰還」した者約九万人四千人×寄付金という莫大な財産を労せずして手中にした.
 上にカッコ付の「帰還」としたのは,「在日朝鮮人の帰還事業」に応じた者のほとんどが半島南部の出身者であったとされており,実際上は異国への渡航であったため,「帰還」としたものである.
 (2) 「在日朝鮮人の帰還事業」が開始されて暫くすると,渡航した人々から日本にいる親族に奇妙な手紙が届くようになった.手紙には,北朝鮮は豊かなすばらしい国だと称賛しつつ,その一方で石鹸や古着などの生活物資を送ってほしいと懇願し,またなぜか日本に残った人は北朝鮮に来ないようにと書かれていたのである.
 後に北朝鮮からの脱出に成功した人や,日本共産党を除名された元党員などの証言,また事実を過たずに観察する見識を持った人の書いた出版物などによれば,「在日朝鮮人の帰還事業」によって北に渡航した人々は,北朝鮮社会の最底辺で差別,貧困,暴力の辛酸をなめた.
 この手紙に書かれた矛盾は,貧窮を強いられた「帰還」者の悲鳴と,それをあからさまに書くことができないという事情を示すものだった.もし書けば一家全員が殺されるという証言がある.
 こうして「帰還」者からの不思議な手紙の真意がやがて知れ渡り,北朝鮮の実態が明らかになって,「在日朝鮮人の帰還事業」は急速に終焉を迎えたのであった.
(続く)

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2015年10月24日 (土)

イムジン河 (十二)

 余談であるが,Wikipedia【寺尾五郎】に次のように書かれている.

1966年に中国で文化大革命が起こるとこれを熱烈に支持し、1967年の善隣学生会館事件の際にも中国共産党側に立ち、日本共産党に抗議して『日中不戦の思想』を著したため、1968年に「中国派」として日本共産党を除名された。

 さらに,引用中に下線をつけた善隣学生会館事件については, Wikipedia【善隣学生会館事件】には以下の記述がある.

このことに抗議するために、翌日の3月1日の午後6時に華僑学生と日本の友好団体のメンバーが集まり、善隣学生会館内150人ほどの抗議集会を開き、午後9時ごろに閉会し、解散したが、日本共産党は動員を続け、その人数は午後11時ごろには500名に達し、会館を包囲した。その後、小競り合いが続く中で、3月2日の午後に、ヘルメット、棍棒、竹ざおで武装した部隊が日中友好協会の事務所から飛び出してきて、対峙していた華僑学生らに暴行を加え、その結果華僑学生や友好団体のメンバー7人が重傷を負った。この現場付近には、日本共産党の当時の最高指導者たちが善隣学生会館の近くまで訪れ、日本共産党の部隊を指揮したとされる。

 昭和四十三年のことであるが,私の入った大学は全学ストライキに突入して講義が行われなくなってしまった.下宿にいてもやることがないから仕方なく大学には行くものの,同じ語学クラスの人を見かけると連れだって雀荘に行くことが多かった.

 そんな麻雀繋がりで,何年留年しているのかわからない共産党員の活動家と知り合った.彼は大学構内の道路でいつもアジ演説をしている有名人だった.
 上記の引用に《日本共産党は動員を続け、その人数は午後11時ごろには500名に達し、会館を包囲した》とあるが,彼はその五百名のゲバルト部隊の一人だったと,麻雀を打ちながら語った.(善隣学生会館事件は昭和四十二年に起きた暴力事件である)

 Wikipedia【善隣学生会館事件】は《この現場付近には、日本共産党の当時の最高指導者たちが善隣学生会館の近くまで訪れ、日本共産党の部隊を指揮したとされる》と曖昧な書き方をしているが,党員活動家氏が語ったところによれば,現場で善隣学生会館襲撃の指揮を執ったのは宮本顕治であった.
 おもしろい話だったので今も記憶しているのだが,襲撃のときに,まず学生党員が三人で騎馬を作る.小学校運動会でやる騎馬戦の騎馬である.その騎馬に宮本顕治が乗り,黄色のヘルメットを被った民青同ゲバ部隊に「行けーっ」と号令をかけて襲撃したのだそうである.
 ちなみに善隣学生会館襲撃の際に使われた工事現場風の黄ヘルメットと棍棒は,翌年,各大学における全学封鎖バリケードを解除するときに民青同とシンパが使用した.嗚呼往時茫々.
(続く)

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2015年10月23日 (金)

イムジン河 (十一)

 前稿で引用した日本共産党・不破哲三議長 (当時) の発言中,唖然とするのは次の箇所である.

私たちも、この運動には協力しましたが、運動そのものは、多くの政党・団体が参加して超党派の形で進められました。

 金日成/朝鮮労働党を「在日朝鮮人の帰還事業」という人道に関する犯罪の主犯に例えれば,宮本顕治/日本共産党が共同正犯であることは衆人が認めるところであるにもかかわらず,まるで他人事のようなこの無責任ぶりはどういう神経なんだろう.
 学生時代に共産党員 (党中央=宮本顕治を批判したために除名) だった評論家の森田実が次のように書いている.

共産党の大幹部のなかには、あまり常識的人物は見当たりませんでした。陰湿な権威主義者、官僚主義者が多かったと感じました。道徳的にすぐれた人物にもほとんど会いませんでした。自己中心主義者や観念論者が多かったと思います。1955年の六全協以後、私は事実上、共産党中央と対決し続けていました。訣別は時間の問題だと、十分にわかっていました。

 宮本顕治に引導を渡したのは不破哲三だとされており,もしかすると不破哲三は宮本顕治のような《陰湿な権威主義者、官僚主義者》《自己中心主義者》ではないかも知れないのだが,しかし仮にそうだとしても,スターリン批判を行ったフルシチョフほどの勇気が遂に不破にはなかったということになる.それは政党指導者としての不破の人格的欠陥であっただろう.
 いかなる過ちを犯しても反省せず,他に責任を押し付け,押し付けられぬ場合はスケープゴートを切り捨てて,党中央は関与していないと言い張る.あるいは,まるでなかったことのようにしらばくれる.それが日本共産党の特徴である.
 「しらばくれる」方式は,寺尾五郎の件が典型である.
 寺尾五郎は悪名高い北朝鮮礼賛本『38度線の北』の著者である.「在日朝鮮人の帰還事業」が動き始めた1958年に日本共産党本部の専従党員であった寺尾は,同年に『38度線の北』を出版した.そしてこの本に書かれている真っ赤な嘘を信じたために,多くの在日朝鮮人が北朝鮮に「帰還」し,人生をめちゃめちゃにされたのである.
 専従党員が党本部 (=宮本顕治) の指示なく勝手に本を出版することはありえない.北朝鮮礼賛本を書けとの党の指示があったはずである.
 寺尾は,北朝鮮が「地上の楽園」ではないことを承知で,『38度線の北』を書いたとの証言がある.党幹部の指示ならば平気で嘘をつく寺尾のような男を人間のクズ,卑劣漢というのであるが,書かせた宮本顕治はそれ以上のなにものかである.
 しかるに不破哲三は,寺尾五郎や宮本顕治のやったことを,まるでなかったことのようにして,知らぬ顔をしている.胸は痛まぬのであろうか.
(続く)

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2015年10月21日 (水)

イムジン河 (十)

[前稿末尾を再掲]
すなわち在日朝鮮人の帰還運動を開始し,経済発展著しく人道主義に立つ北朝鮮という大宣伝を行った.もちろん経済発展も人道主義も大嘘であったが,日本共産党の協力宣伝(*後述) により,社会党から自民党に至る超党派組織を作ることに成功した.そして日本の知識人もマスコミも,今から省みれば愚かとしか言いようがないが,まんまと金日成に騙されたのであった(**後述).

 金日成が,十万人近い在日朝鮮人を「帰還」させて悲惨な運命に落とし入れた,いわば大規模集団拉致とも言うべき「在日朝鮮人の帰還事業」について,日本共産党の果たした役割を記す.

 まず,2004年1月5日付の「しんぶん赤旗」に掲載された記事を紹介する.この記事の内容は現在も訂正自己批判されておらず,日本共産党の公式見解である.
 記事のタイトルと見出しは以下の通りである.

どう考える 北朝鮮問題/不破議長に聞く (2)/日本共産党の態度(その1)

 この記事は「しんぶん赤旗」の記者が不破議長 (当時) にインタビューするという形であるが,その中から不破議長の発言を引用する.

《[不破] 私が、党の本部で仕事をするようになったのは、一九六四年のことですが、私が直接経験した範囲でも、今年でちょうど四十年、北朝鮮との関係は、大きく分けると、三つの時期に分かれますね。
 最初の時期は、六〇年代の末ごろまで、正確にいうと、一九六八年が、次の時期に移る転機となった年でした。
 朝鮮戦争も一九五三年にすでに休戦協定が結ばれていましたし、五〇年代の後半から六〇年代というのは、北朝鮮の側で、あとの時期に問題になるような国際的な無法行為は見られない時期でした。
 日本との関係では、戦後、公的な交流はいっさいなく、一九六五年の日韓条約で韓国とは国交を樹立しましたが、その時点でも、北朝鮮とはなんの交渉もありませんでした。
 そのために、戦後の日本では、在日朝鮮人のなかでも、北朝鮮出身の人たちは、北へ帰ろうにも交通の便宜もない、北にいる家族との連絡もうまくゆかない、これが大きな問題でした。そこから、五〇年代末に北朝鮮への帰国をはじめ、北朝鮮との往来の自由を求める大きな運動が起き、赤十字がこれを取り上げ、最後には政府も承認して、北朝鮮への帰国事業が始まりました。私たちも、この運動には協力しましたが、運動そのものは、多くの政党・団体が参加して超党派の形で進められました。

 上の引用の中で筆者が下線をつけた箇所について以下に書く.
《[不破] そのために、戦後の日本では、在日朝鮮人のなかでも、北朝鮮出身の人たちは、北へ帰ろうにも交通の便宜もない、北にいる家族との連絡もうまくゆかない、これが大きな問題でした。

 出版された資料によれば,終戦直後の1945年8月,在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどであり,その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった.彼らの大部分は,日本政府の要請を受けて GHQ によって半島に送還された.Wikipedia【在日韓国・朝鮮人】には以下のように書かれている.

その後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により送還事業が開始され、翌1946年までに徴用者を中心に140万名が朝鮮半島に帰還する一方、1939年9月の「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達により朝鮮における雇用制限撤廃(自由募集)以前から滞在していた者を中心に約60万名が日本に残った。

 戦後の在日朝鮮人について書かれた資料には,私の知る限り「北朝鮮出身者が北朝鮮に帰国する手立てがないのが大きな問題であった」としているものはない.北朝鮮支配地域出身者はわずかだったからである.しかるに「大きな問題であった」とするならば,その根拠資料を日本共産党は提示する義務がある.

《[不破] 朝鮮戦争も一九五三年にすでに休戦協定が結ばれていましたし、五〇年代の後半から六〇年代というのは、北朝鮮の側で、あとの時期に問題になるような国際的な無法行為は見られない時期でした。

 この不破発言は,「在日朝鮮人の帰還事業」は国際的な無法行為ではないとするものである.もし無法行為であるとすると,それに積極加担した日本共産党も無法行為を犯したことになるから,どんな矛盾 (*「寺尾五郎」のところで述べる)が生じようと「在日朝鮮人の帰還事業」の非人道性を認めるわけにはいかないのである.
(続く)

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2015年10月20日 (火)

イムジン河 (九)

 あわや北朝鮮の壊滅という状況にスターリンは,米国との直接衝突を避けながら事態打開するべく,同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めた.毛沢東にはスターリンから参戦要請の手紙が届けられたとされる.

 林彪らが参戦に反対する中,毛沢東は開戦前の朝鮮民主主義人民共和国との約束に従って中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することを決定した.この出兵は「義勇兵」とはいいながら彭徳懐が指揮する正規軍であった.
 平江での武装蜂起を指揮して以来,日中戦争を戦い抜いてきた歴戦の雄である彭徳懐にしてみれば,たかだか抗日パルチザンの一人に過ぎぬ金日成が勝手に起こした戦争に出兵せねばならなかったことは,よほど腹に据えかねたことと思われる.作戦にあれあれと口を出そうとする金日成に彭徳懐は,下っ端は黙っていろと一喝したという.

 ともあれ中国人民解放軍は,ソ連製ジェット戦闘機 MiG-15 の投入と,兵の損失をいとわぬ人海戦術で国連軍を押し戻し,1950年12月5日に平壌を,1951年1月4日にはソウルを奪回した.しかし補給線の伸びた中国軍は前線を維持できずに後退し,戦況は38度線付近で膠着状態となった.

 ここに至り米トルーマン大統領は,過激な戦争継続論を主張するマッカーサーを解任して停戦への道を模索した.
 戦争当事国双方による幾度かの交渉を経て,1953年1月にアメリカではアイゼンハワー大統領が就任し,ソ連では3月にスターリンが死去たことから状況が変化し,1953年7月27日に北朝鮮,中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれた.

 この戦争の北朝鮮側の死者250万人,韓国側の死者133万人といわれ,また北朝鮮から共産党支配を嫌った多くの一般人が南に逃亡したという.戦線が南へ北へと移動したため国土の疲弊も著しく,もはや北朝鮮に戦争遂行力はなかった.そこで金日成は半島の武力統一ではなく,国際政治的に韓国よりも優位に立ち,韓国包囲網を作ることを目指した.
 すなわち在日朝鮮人の帰還運動を開始し,経済発展著しく人道主義に立つ北朝鮮という大宣伝を行った.もちろん経済発展も人道主義も大嘘であったが,日本共産党の協力宣伝(*後述) により,社会党から自民党に至る超党派組織を作ることに成功した.そして日本の知識人もマスコミも,今から省みれば愚かとしか言いようがないが,まんまと金日成に騙されたのであった(**後述).
(続く)

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2015年10月19日 (月)

イムジン河 (八)

 私は昭和二十五年の春,朝鮮戦争 (勃発から昭和三十年代には朝鮮動乱といったが今は朝鮮戦争と呼ぶのが普通;確かに「動乱」程度のことではなかった) の直前に生まれた.
 今はやりの「終活」は,身の回りを整理していつ死んでも家族が困らぬようにしておくのが主な意味で,これを「暮らしの終活」とでもいうなら,自分自身の内部での「人生の終活」もまたあるだろう.
 例えば,私が生まれてから流れた六十五年の歳月について,どれくらい世界史的な理解を自分ができているかというと,甚だ心許ない.会社員生活を終えてからしみじみと思ったのは,自分が生きたこの世の中の歴史について無知のまま死ぬのは嫌だということである.今からでもきちんと勉強して,すべてとはいわないが六割七割程度の理解をしてからあの世に行きたいと思う.

 そんなわけで,この記事を書くことになったきっかけは,青山繁晴という嘘つき評論家が「安倍総理の祖父である岸信介は在日朝鮮人の帰還事業に反対していた」「だから安倍総理にとって拉致被害者問題の解決は祖父岸信介以来の悲願なのだ」「小泉元総理は拉致問題について北朝鮮と密約をしたが,それは父の小泉純也が北朝鮮の傀儡だったからである」などとするデマをラジオで放言したのを聴いて,「それは私が知っている歴史と違うぞ」と批判することだったのだが,つい熱くなって長文の「人生の終活」のようになってしまった.
 熱くなってしまったのは,いわゆる団塊の世代が生まれてすぐに起きた朝鮮戦争は,私たちその世代の人生に大きな影響を与えたからであり,従って青山繁晴ごときデマゴーグが歴史を,ひいては私たちの人生を捏造するのは許しがたいと思ったからである.

 さて,仁川上陸作戦においては,兵員六万五千名と六十輌以上の M26重戦車が揚陸された.
 仁川上陸作戦の結果,北朝鮮軍の補給路は断たれて敗走が始まったのであるが,腰抜けは往々にしてお調子者であり,李承晩もその例に漏れなかった.李承晩は勝勢に浮かれて北進し,韓国軍は単独で38度線を突破した.するとなぜか米軍もこれに同調して38度線を越えた.Wikipedia【朝鮮戦争】は以下のように記述している.

さらにアメリカ軍を中心とした国連軍も、トルーマン大統領やアメリカ統合参謀本部の命令を無視し北上を続け、中国軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かずに敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続け、日本海側にある軍港である元山市にまで迫った。さらに先行していた林富澤大佐率いる韓国陸軍第6師団第7連隊は10月26日に中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた。
(続く)

[筆者註]
 前回と今回の記事に,北朝鮮軍が使用したソ連製のT-34戦車と,米軍のM26戦車にリンクを設定して説明を加えたのは,両戦車が朝鮮戦争において重要な役割を果たした兵器だったということが一つ.
 もう一つは,昭和三十年代に,第二次大戦で使用された兵器のプラモデル製作に熱中したおとーさんたちに,昔を懐かしんでもらいたいと思ったからである.こらこら.

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2015年10月17日 (土)

イムジン河 (七)

(前稿末尾)
さて後回しになったが,金日成の指揮下に行われた「在日朝鮮人の帰還事業」の目的とされているものを次稿で紹介する.

 これまで「在日朝鮮人の帰還事業」について書かれた資料をまとめると,金日成北朝鮮による帰還事業の目的はおよそ次のようなことであったと考えられている.

[1.韓国包囲網の形成]
 Wikipedia【在日朝鮮人の帰還事業】には次のようにある.
朝鮮は日本との対話チャンネルを確保し、国交正常化のきっかけとしたいという思惑があった。同時に進められていた日本と韓国との国交正常化を牽制する目的もあった。在日朝鮮人の「北送」を理由として、日韓会談は一度ならず中断している。
冷戦時代、資本主義国から共産主義国への集団的移住には、体制の優位性を宣伝する効果があった。北朝鮮は帰国事業を推進する過程で朝鮮総連を指導下に置く一方、事業を推進した日本側支援者を通して北朝鮮の「実績」を宣伝することで、北朝鮮支持の運動を日本に広めることができた。

 日本が1945年8月15日にポツダム宣言を受諾して連合国に降伏したのち,朝鮮半島はソ連と米国が分割占領する事態となった.これに続いて,海外で活動していた李承晩や金日成が帰国した後の半島の政治状況はこの短い記事では省略せざるを得ないが,1948年8月15日にソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言し,金日成はこれに対抗して9月9日に《ソ連の後援を得て》朝鮮民主主義人民共和国を成立させた.《ソ連の後援を得て》とは Wikipedia【朝鮮戦争】にある記述だが,スターリンの意図は金日成を傀儡に仕立ててソ連による半島支配することだったと考えられ,事実,金日成は政敵をすべてスターリン的方法で粛清し,半島の北半分を支配することに成功した.
 《アメリカ合衆国の後援の下》(Wikipedia【朝鮮戦争】から引用) に大韓民国を成立させて大統領となった李承晩も,金日成と同様に全朝鮮半島を支配することを目論んでおり,朝鮮半島は南北二人の独裁者が対立するに至った.そしてここから金日成の暴走が始まる.
 金日成はスターリンに半島南半部への武力侵攻の許可を求めたが,米国との直接戦争を嫌ったスターリンは許可を与えなかった.すると稀代の二枚舌,金日成はスターリンと毛沢東の両方に嘘をついて騙し,両者の支援を取り付けたのである.
 こうして準備整った金日成は1950年6月25日,宣戦布告なしに南への進軍を開始した.李承晩は独裁者のくせに恥というものを知らぬ意気地なしであり,金日成の奇襲を知るや慌てふためき,軍や民を打ち捨て (漢江人道橋爆破事件)て各地を逃げ惑う (日本への亡命も画策) などしたため,米軍に叱責される始末であった.
 兵の練度に劣りかつ地上戦に必須の戦車を保有していなかった韓国軍が総崩れとなる中,1950年7月7日の国際連合安全保障理事会によって国連軍の創設が決議され,ダグラス・マッカーサー元帥が7月10日に初代国連軍司令官に任命された.そして7月14日,李承晩大統領は大韓民国国軍の指揮権を国連軍司令官に移譲した.
 しかしその後の二ヶ月,戦況は悪化した.押し寄せるソ連製のT-34戦車によって劣勢に追い込まれた米軍に悲観論が生まれるに及び,マッカーサーは起死回生の賭けに出た.

 「仁川の勝算は五千対一だ しかし私は賭に勝つことに慣れているのだ」
         ―― マッカーサー ――

 マッカーサー国連軍司令官は9月15日,ワシントンの軍首脳の反対と説得を歴戦の将としての信念で押し切って仁川上陸作戦を決行した.(参照;Wikipedia【仁川上陸作戦】)
 実にこのマッカーサーの上陸作戦こそが金日成の野望を砕いたのであった.言い換えれば,現在の日本があるのは,仁川上陸作戦の成功によるものであると言っていい.
(続く)

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2015年10月15日 (木)

イムジン河 (六)

 この連載記事を書き始めたきっかけは,今月七日に行われた安倍内閣改造で,拉致問題担当相に初入閣の加藤勝信氏が就任したことであった.(記事「新内閣と拉致被害者問題」10/8)
 改造内閣人事を伝えた時事通信によれば,拉致被害者家族会代表の飯塚繁雄さんは《担当相が次々代わる上に兼任となったことに「本当にやる気があるのか政府に問いたい」と苦言を呈した》という.
 まことにその通りであると思う.しかし,怪情報と嘘をばらまく青山繁晴がニッポン放送「ザ・ボイスそこまで言うか!」でしゃべったことによれば,北朝鮮による日本人の拉致問題解決は,祖父岸信介以来の安倍晋三の悲願だというのである.
 何を言うか青山繁晴,としか言いようがない.何を隠そう,金日成の息子の金正日が熱中した外国人の一本釣り拉致 (中には,自分が映画マニアであるため韓国の映画監督申相玉とその妻で女優の崔銀姫を拉致したなどのふざけた拉致もある) どころか,北朝鮮への大量拉致あるいは集団拉致とも言うべき「在日朝鮮人の帰還事業」を国の公認事業として後押ししたのは岸信介に他ならないのである.

 鳩山一郎にとって「在日朝鮮人の帰還事業」は「友愛」の実践だったかも知れない.小泉純也にとっては選挙区の朝鮮総連からの強い要請であったかも知れぬ.だが岸信介にとって「在日朝鮮人の帰還事業」は何であったか.
(ちなみに,青山繁晴に言わせると鳩山一郎はソ連の秘密資金援助で財を成した売国者であり,そのことをプーチンに脅された鳩山由紀夫は今もロシアの言いなりなのだそうだ.そして小泉純也は北朝鮮の傀儡だったが,いずれも根拠は公表できないとしている〈笑〉)

 岸信介の第二次内閣は1958年6月12日に発足したが,その政治課題は日米安全保障条約改定であった.翌年3月,日本社会党,日本労働組合総評議会 (総評),原水爆禁止国民会議 (原水禁) などが安保条約改定阻止国民会議を結成して反対運動の気運が起きつつある時に,岸としては在日朝鮮人による治安上の懸念を払拭しておきたかったのではないだろうか.まさに Wikipedia に書かれている「厄介払い」だったろう.
 しかし昭和の妖怪岸信介も,北朝鮮への「帰国」者を待ち受けていた運命までは予測できなかったと思われる.「帰国」が始まって間もなく,北朝鮮の恐るべき実態が明らかになる前に亡くなった鳩山一郎と岸信介は,自分たちがどれほど非人道的なことをしてしまったか悔やまずに済んだわけだが,1969年まで生きた小泉純也は,明らかになってしまった自分の失敗をどう思ったろうか.

 さて後回しになったが,金日成の指揮下に行われた「在日朝鮮人の帰還事業」の,北朝鮮側の目的とされているものを次稿で紹介する.
(続く)

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2015年10月14日 (水)

イムジン河 (五)

 人は,何不自由なく暮らすことができるなら誰も共産主義者にならない.貧しく差別に苦しむからこそ,共産主義者になる.在日朝鮮人の日本共産党員がそれであった.在日問題は日本革命によってのみ解決されると信じられていた時代があったのだ.
 前稿で,日本共産党の一翼を担ってきた在日朝鮮人党員が,日本共産党の武装闘争方針によって多大な犠牲を出したことを書いた.
 大須事件のように,逮捕者全269人中の半数以上が在日朝鮮人だったのをみると,日本人党員は党の指示に従わずに一体どこで何をしていたのだと誰しも思うだろう.こうして在日朝鮮人の中に日本共産党への不信感が生じた.
 その時,既に述べたように血のメーデーから二年後の1954年8月30日,北朝鮮が日本政府に対し,在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の公民であり,日本居住,就業の自由,生命財産の安全を保障するように要求した.北朝鮮政府が在日朝鮮人の利益を代表するという立場を表明したのであった.
 これが,1955年5月25日の朝鮮総連結成の伏線であった.
 こうして在日朝鮮人活動家たちは日本共産党と離れて,金日成の直接指導下に入った.ただし両者は反目絶縁したわけではなく,1960年代に日本共産党とソ連,中国との間で激しい論難が行われて日本共産党が国際共産主義運動の中で自主独立路線を打ち出すまでは,朝鮮労働党と日本共産党は友党として協力関係にあった.従って日本共産党は「在日朝鮮人の帰還事業」に積極的に関与した.
 これ以後は先に述べた通り,朝鮮総連側が北朝鮮への帰国を要望し,北朝鮮が歓迎するという筋書きで「在日朝鮮人の帰還事業」が進行することとなった.

 この「在日朝鮮人の帰還事業」に関して金日成が何を目的としていたかは後述するとして,その前に日本その他の動きをまとめてみる.

 まず朝鮮総連は,赤十字を巻き込む動きに出た.詳細は Wikipedia【在日朝鮮人の帰還事業】に譲るが,結果的に,インドのニューデリーで開かれた第十九回赤十字国際会議は,《各国の赤十字に離散家族への注意を喚起するとともに、「あらゆる手段を講じて、これらの大人及び子供が、その意思に従い、幼少の子供にあっては、何処に居住するとを問わず、家長と認められる人の意志に従って、その家族と再会することを容易ならしめる」責任を課すことを、決議第20として採択》した.(Wikipedia【在日朝鮮人の帰還事業】から引用)
 これで「在日朝鮮人の帰還事業」は,人道に関わることであるという道ならしができたのである.

 続いて日本の政治上では,1958年11月に鳩山一郎を会長 (後に顧問) とする在日朝鮮人帰国協力会が結成された.これは朝鮮総連が働きかけて実現したとされていて,協力会代表委員は,自民党岩本信行衆議院議員,同小泉純也衆議院議員,日朝協会山本熊一会長の三名であった.
 他に顧問として日本社会党浅沼稲次郎委員長,日本共産党宮本顕治書記長が就任した.この他に著名有識者を役員に迎えたようだ (個々の人名については手元に資料がないため伝聞としておく).こうして,在日朝鮮人の帰還 (北朝鮮へ) は人道問題であるという認識の下に超党派組織が成立したのであった.

 さて朝鮮労働党・朝鮮総連,日本共産党,日本社会党という運動の枠組みは容易に理解できるが,保守政党がなぜ協力したのであろうか.
 Wikipedia【在日朝鮮人の帰還事業】等の資料は,当時の政府と保守党の側には,これを好機に治安上の大問題である在日朝鮮人を「厄介払い」したかった側面があったと推測している.おそらく人道上の見地よりもこちらが政府保守党の本音だったろうが,鳩山一郎にとっては例の「友愛」の発露であったかも知れない.
 また小泉純一郎の父である小泉純也が在日朝鮮人帰国協力会の代表委員を務めたことについては,Wikipedia【小泉純也】には
在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導
1950年代末、在日朝鮮人の帰還事業に中心的な役割を果たした。当時、自民党の国会議員でありながら「在日朝鮮人の帰国協力会」の代表委員に就任し、在日朝鮮人の北朝鮮送還のため積極的に活動したことが確認された。国際政治経済情報誌「インサイドライン」編集長歳川隆雄は小泉純也が在日朝鮮人の北朝鮮送還に積極的だった理由について「当時、純也氏の選挙区である神奈川3区に多数の在日朝鮮人が居住している川崎市が含まれていたためと推定している」とし、「冷戦の真最中だった当時、自民党議員の身分で社会党や共産党と超党派の会合を開くこと自体が異例だった」と述べた。また歳川は「純也が、1930年代に朝鮮総督府で事務官として働いたこともあった」と述べた。

とあるが,今となってはよくわからないといっていい.
(続く)

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2015年10月13日 (火)

イムジン河 (四)

 前稿の
公職追放と逮捕状が出された徳田球一や野坂参三らは共産党中央委員会を解体して中国に亡命し,非合法活動 (武装闘争) を開始した
から
そして二ヶ月後の7月,日本共産党第6回全国協議会 (六全協) が開かれ,それまでの武装闘争方針を完全に放棄した
までの記述は不十分であったかも知れない.少し補足しておく.

 日本共産党という政党の歴史は実に奇々怪々で,一般の人はこの党の正史ではなく Wikipedia【日本共産党】に書かれているような一般的客観的な記述を読んでも,裏切りとかスパイとか,転向とかの人間の暗黒面が大盛りで,何がなんだかよく理解できないのではなかろうか.
 一例を挙げると,平成四年 (1992年) に,戦前からの古参幹部である野坂参三が除名された.この野坂という男はひどい野郎で,ソ連にいた無実の日本人同志党員をソ連の秘密警察に讒言して売り渡し,処刑させるなどの人でなしであったが,亡命先から帰国する時にソ連秘密警察のスパイとなり,平然と「凱旋」して最高幹部になりすました.そして1956年から1977年まで四期にわたって参議院議員を務め,1958年に共産党議長となり,1982年に退任して以後名誉議長となったあとは党から年金を受けていた.しかし青天の霹靂とはこのこと,週刊文春の大スクープでその汚れた過去が暴露されて党を除名されたのであった.
 この事件も奇怪ながら,もっと奇怪なのは最高幹部の恥ずべき人間性が暴露されたときに,私の知人の党員たちが全く動揺しなかったことだ.それまで「野坂参三さん」と敬称つきで呼んでいたある党員が平然として掌をヒラリと返し,「野坂」と呼び捨てにして罵倒するのを見て私は驚き呆れたのであった.
 それはさておき,この党が戦後に合法政党として出発したあとも,右にブレ左にブレる思想的混乱は尋常ではなく,それによる犠牲者も多かった.
 まずレッドパージで徳田球一や野坂参三らが中国に逃れた頃,日本共産党は在日朝鮮人を日本における「少数民族」と既定していた.この規定によれば,在日朝鮮人は外国人ではなく,従って日本革命の成就なくして在日問題の解決はないとされたのである.そのため共産党は在日朝鮮人を党員として組織化し,党民族対策部の指導下においていた.
 この時期に開かれた共産党第二十回中央委員会総会 (1951年8月) で,平和革命の可能性を全面的に否定する,いわゆる「51年綱領」の草案が提出された.この綱領に基づいて,山村工作隊活動や火炎ビン闘争を各地で展開することになった.
 しかしこんなチャチで荒唐無稽な武装蜂起が国民に受け入れられるはずもなく,1952年10月の総選挙では全員が落選して議席を失い,また多くの離党者を生む結果となった.
 先に述べたように,亡命中の徳田球一が1953年に死去したあと,宮本顕治が党内主導権を握り,遂に1955年7月に開かれた第六回全国協議会 (六全協) で武装闘争路線の放棄を決議した.
 これで誤謬は正されたのであるが,問題はそのときの,誤謬の総括にあった.
 この党は他の政党と異なり,自分自身は党の決定に反対であっても,党の決定には従うことを党員の基本姿勢としてきた.そのため,党の武装闘争方針にも多くの在日朝鮮人党員が忠実に従った.
 いわゆる血のメーデー事件 (1952年) では在日朝鮮人はデモ隊の先頭で警官隊に対峙したという.この事件では在日朝鮮人から多くの逮捕者 (逮捕者全1232人中130人) が出た.皇居前広場に突入した二万人のうち,五千人が在日朝鮮人だったと資料にある.
 同年6月25日,大阪で起きた吹田事件では逮捕者全250人中92人,同じく7月7日に起きた名古屋の大須事件では逮捕者全269人中,なんと半数を超える150人が在日朝鮮人だった.
 このように,中国に亡命した党幹部の方針に忠実だった朝鮮人に対して,武装闘争方針を転換した共産党は何といったか.Wikipedia【山村工作隊】によれば《誤りをおかした党員であっても、分裂と武装路線の誤りを認め、新しい方針を支持してまじめに努力する意思のある人は排除しない》としたのである.これは Wikipedia の勝手な記述ではなく,共産党の正史である『日本共産党の八十年 1922~2002』(日本共産党中央委員会出版局,2003年,126頁) にある.
 もしも宮本顕治が真っ当な人間であったなら,徳田球一や野坂参三らの過ちを正すことができなかった己の力不足を,党幹部として,武装闘争方針の犠牲となった党員たちに詫びたであろう.しかし宮本はそうしなかった.「自分の間違いを認めた党員は許す」という傲慢極まりない姿勢をとったのであった.
 これを聞いた朝鮮人党員たちの気持ちは,わかりやすい言葉を用いれば「お前が言うな」であったろう.この六全協の結果,多くの党員が失意のうちに党を去ったという.日本人党員のことはこの稿の本題ではないので触れないが,日本国内の在日朝鮮人組織であり,日本共産党の指導下にあった在日朝鮮人統一民主戦線は,1955年に浅草公会堂で開いた大会翌日の5月24日に解散し,同時に5月25日,在日本朝鮮人総聯合会 (朝鮮総連) が結成された.この時,在日朝鮮人党員は一斉に離党したのであった.
 歴史に「もし」はないが,日本共産党の愚かな武装闘争と惨めな失敗,そして犠牲となった党員の逆鱗に触れる傲慢な総括がなかったとしたら,北朝鮮と在日朝鮮人を巡る状況は,今と少し異なったものになったのではないかと思われるのである.
(続く)

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2015年10月12日 (月)

イムジン河 (三)

 前稿に,Wikipedia から抜粋した「在日朝鮮人の帰還事業」の経緯を示したが,Wikipedia 【在日朝鮮人の帰還事業】に書かれていないことを以下に補足説明する.

 共産主義政党による国際組織であるコミンテルン (1919年―1943年) の後身組織であるコミンフォルムがスターリンの指導によって1950年1月に「日本の情勢について」を発表し,日本共産党を批判した.
 これに対して日本共産党主流派の徳田球一らは反発したが,少数派の宮本顕治らはスターリンや毛沢東による批判を受け入れた.
 その一方で連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) のダグラス・マッカーサーが1950年5月,日本共産党の非合法化方針を示し,6月にマッカーサーは共産党の国会議員などの公職追放と政治活動の禁止 (レッドパージ) を指令した.
 翌7月には共産党幹部 (徳田球一,野坂参三,志田重男,伊藤律,長谷川浩,紺野与次郎,春日正一,竹中恒三郎,松本三益) に対し,団体等規正令違反で逮捕状が出された.
 このコミンフォルムによる批判と,GHQ による弾圧とにより,日本共産党は内部分裂した.
 公職追放と逮捕状が出された徳田球一や野坂参三らは共産党中央委員会を解体して中国に亡命し,非合法活動 (武装闘争) を開始した.
 当時の日本共産党に所属していた朝鮮人党員たちは,この非合法活動の全面に立った.
 北朝鮮旗を翻した朝鮮人も加わった血のメーデー事件は,このような状況下に起きた事件であった.
 しかし1953年に徳田球一が北京で死亡したことから共産党内部では宮本顕治が主導権を握ることとなった.主流派となった宮本らは,非合法活動に従事した党員を極左冒険主義であるとして批判を開始した.
 こうして血のメーデーから二年後の翌1954年8月30日,北朝鮮外相が,在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の公民であり,日本居住,就業の自由,生命財産の安全を保障するように日本政府に要求した.これは北朝鮮政府が在日朝鮮人の利益を代表するという立場を表明したものであった.
 次いで1955年5月に在日本朝鮮人総聯合会 (朝鮮総連) が結成され,これが主催して「朝鮮人帰国希望者東京大会」が開催された.朝鮮総連結成時には,それまで日本共産党中央の指導に従って非合法活動に従事したものの,共産党の方針転換により突然掌を返すように批判されることとなった朝鮮人党員が,大挙して日本共産党を離党したといわれる.
 そして二ヶ月後の7月,日本共産党第6回全国協議会 (六全協) が開かれ,それまでの武装闘争方針を完全に放棄した.在日朝鮮人活動家たちは日本共産党の指導を離れ,北朝鮮の指揮下に入るとともに,これ以後,日本社会党に接近していくこととなる.

 翌年,北朝鮮が内閣命令『日本から帰国する朝鮮公民の生活の安定に関して』を公布した.
 翌1958年7月,金日成が在日朝鮮人受け入れの意思を示し,ソ連に支援を求めた.
 続いて同年8月,神奈川県川崎市の朝鮮総連分会が金日成に帰国嘆願書を送ることを決議し,集団帰国運動が開始された.
 同9月,金日成が在日朝鮮人の帰国を歓迎すると言明し,10月には北朝鮮の金一第一副首相が帰国問題に関連した談話を発し,在日朝鮮人の帰国に要する船を用意することを明言した.
 言うまでもなく朝鮮総連は北朝鮮の在日組織である.従って朝鮮総連が金日成に帰国嘆願書を送った形をとっているが,これは金日成の意志に他ならない.朝鮮人帰国運動は金日成の指導の下に行われたのである.
(続く)

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2015年10月11日 (日)

非正規雇用で活躍しろってか

 東洋経済オンラインに《「中年フリーター」のあまりにも残酷な現実 就職氷河期世代が今、割を食わされている》と題した記事が掲載されている.
 非正規雇用者の現状について,短い記事ではあるが,日本経済の暗部を指摘して正鵠を射ている.
 この記事に《厚生労働省「就業形態の多様化に関する総合実態調査」によると、非正規を活用する理由について「賃金の節約のため」と回答した企業が4割超と最多。企業が非正規を活用してコスト削減した分が、将来的に行政の負担として跳ね返ってくるようにも映る》とある.
 東洋経済オンラインの記事に指摘されるまでもない.いつの間にか,としか言いようがないが,国民の多くが実感しているように,日本経済は沈没衰退して久しい.しかるに多くの企業は,賃金のみならず人件費の削減によって破綻を糊塗してきた.民間企業の社員には常識であるが,会社が人件費圧縮に手をつけたら,もう会社は死に体なのである.
 個々の企業は破綻を免れても,現状三人に一人の非正規雇用者は,いずれ疲弊して健全な労働力ではなくなるだろう.その時に日本社会の本当の破綻がやってくる.高齢者と生活保護受給者が現役労働力の肩にのしかかるのだ.
 この破綻がスケジュール化している時に,石破地方創生相が「最近になって、突如として登場した概念だ」と困惑して語ったように,単なる思いつきの「一億総活躍社会」で安倍は国政を運用していくらしい.
 安倍の「一億総活躍社会」は
1.国内総生産 (GDP) 六百兆円
2.希望出生率 1.8
3.介護離職ゼロ
がその中身だというのであるが,三人に一人が非正規雇用者である現状とどのように整合性をとっていくのであろうか.介護離職ゼロということは,介護業界の非正規雇用者を増やすだけのように考えられるのだが.

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2015年10月10日 (土)

イムジン河 (二)

 帰国した金日成は,ソビエト連邦の独裁者スターリンの傀儡として活動を開始した.
 朝鮮半島の民族主義者,社会主義者の中で金日成は全くの少数派であったが,ソ連国籍を持つ親ソ派朝鮮人と共に,まず軍と警察を手中にした.
 続いてスターリンを後ろ盾とした金日成は,日本統治時代の朝鮮における独立運動すなわち三・一運動以来の古い民族運動家 (その多くは社会主義者であったが) を逮捕,拷問,見せしめ裁判,処刑というスターリン直伝の手法で粛清し殺し尽くした.金日成のこの残虐性は子と孫に増幅継承され,遂には政敵を粛清するに際して,対空機関砲を打ち込んで一片の肉片も残さず殺戮するという金正恩の破滅人格となって顕現した.
 こうしてすべての政敵を葬った金日成は,1972年12月28日,前日に公布された朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法に基づいて国家元首として国家主席の地位に就いた.同時に朝鮮労働党総書記および朝鮮人民軍最高司令官として党と軍の最高権力を掌握して独裁体制を確立した.さらに1977年,金日成は共産主義者の仮面を脱ぎ捨て,マルクス・レーニン主義すら捨てて「主体(チュチェ)思想」を唱え,いわゆる金王朝を樹立したのであった.
 権力闘争にはかくも長けた金日成であったが,政治の根本すなわち国民を養う国家運営については全くの無能者であった.金王朝の北朝鮮における主産業は農業でも工業でもなく,社会主義諸国からの援助だった.そして国家としての体を成していなかった北朝鮮は,社会主義諸国の経済が傾くとともに主産業=援助を失い,やがて多くの北朝鮮国民は飢えて餓死することとなったのである.
 そのような状況下に,北朝鮮への在日朝鮮人の帰国運動が活発化した.Wikipedia【在日朝鮮人の帰還事業】から以下に主要な事実を抜粋列記する.

1955年2月  北朝鮮の南日外相が日本へ国交正常化を呼びかけ。
    5月  在日本朝鮮人総聯合会 (朝鮮総連) 結成。
    7月15日、朝鮮総連の主催で「朝鮮人帰国希望者東京大会」が開催される。全国の帰国希望者415名、うち東京に100名と発表。

 1956年6月20日、北朝鮮が内閣命令第53号『日本から帰国する朝鮮公民の生活の安定に関して』公布。
    7月16日、赤十字国際委員会が日本・北朝鮮・韓国の赤十字に対して、在日朝鮮人問題を解決するために赤十字国際委員会が貢献することを提案。書簡・覚書の形で翌年まで数次にわたる。

 1957年10月、第19回赤十字国際会議がインドのニューデリーで開かれる。各国の赤十字に離散家族への注意を喚起するとともに、「あらゆる手段を講じて、これらの大人及び子供が、その意思に従い、幼少の子供にあっては、何処に居住するとを問わず、家長と認められる人の意志に従って、その家族と再会することを容易ならしめる」責任を課すことを、決議第20として採択する。

 1958年3月18日、衆院外務委員会で在日朝鮮人問題の審議
    7月14~15日、金日成、ソ連代理大使 V・I・ペリシェンコと会談。金日成が在日朝鮮人受け入れの意思を示すとともに、ソ連に支援を求める。
    8月11日、神奈川県川崎市の朝鮮総連分会が金日成首相(当時)に帰国を嘆願する手紙を送ることを決議。集団的な帰国運動の嚆矢と位置づけられている。
    9月8日、金日成が在日朝鮮人の帰国を歓迎する旨言明。
    9月16日、南日が「在日朝鮮公民の帰国問題と関連して」との声明を発表。
    10月16日、北朝鮮の金一第一副首相が帰国問題に関連した談話を発する。その中で帰国に要する船を用意することを明言。
    11月17日、在日朝鮮人帰国協力会(鳩山一郎会長)の結成総会が衆院第一議員会館で開催。

 1959年2月16日、北朝鮮が内閣決定第16号『日本から帰国する朝鮮公民の歓迎に際して』決定。
    2月13日、日本政府が在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関する閣議了解を行なう。
    8月13日、インドのカルカッタにて、日本赤十字社の葛西副社長、朝鮮赤十字会の李一卿副社長との間で「日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会との間における在日朝鮮人の帰還に関する協定」(カルカッタ協定)が結ばれる。
    9月7日、同日付の週刊「朝鮮総連」に『地上の楽園』という言葉が掲載。
    12月14日、第1次帰国船が新潟港を出港。
    12月16日、第1次帰国船が清津港に入港。


(続く)

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2015年10月 9日 (金)

イムジン河 (一)

 昨日の記事で触れた「在日朝鮮人の帰還事業」に幾つかの補足をする.

 現代国際政治の不幸は,そもそもはマルクスとエンゲルスの空想から始まった.
 すなわちマルクスは次のように主張した.労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する.ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている.収奪者が収奪される運命の時は近づいている.共産主義への移行は歴史的必然である,と.
 しかしマルクスの主張には,収奪する側に立ったプロレタリア (に属する人間) がろくでなしだった場合にどうなるかという,あるべき見通しが欠落していた.
 考えるまでもないことだが,支配階級と被支配階級,どちらにも高貴な精神の持ち主はいるし,また低劣な精神の者もいる.そしておそらくこの世には,高貴な魂よりも,低劣なそれのほうがずっと多い.従って共産主義への移行を担うのはろくでなしである可能性が高い.
 それは,旧ソビエト連邦とソビエト連邦が支配した東欧諸国の歴史を振り返れば一目瞭然である.レーニンは,民主主義とはプロレタリアによる独裁であると言ったが,レーニンの後継者たちは,民主主義=プロレタリア独裁ではなく,我欲に燃えて個人独裁を欲するろくでなしばかりであったのである.

 昔,昭和四十年代に新左翼と呼ばれた諸派の一つである革マル派は,革命が成就したあとは反革命に決起するだろうという広く知られたジョークがあった.これは東大闘争の折に文学部かどこかの便所に書かれた落書きであったと記憶しているが,プロレタリア革命というものの本質をよく言い当てていたと思う.つまりプロレタリア革命を成就させるものは労働者階級であるが,資本家の多くがろくでなしであるのと同様に,労働者の多くもろくでなしなのである.それ故,プロレタリア革命は達成されたとたんに腐敗するということが落書きの意味であった.

 さてプロレタリア革命業界三大ろくでなしは,スターリン,毛沢東,金日成だろう.
 金日成は1932年頃に中国共産党に入党し,中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加した.
 その後,東北人民革命軍が再編された東北抗日聯軍に対して,日本軍が大規模な掃討作戦を開始したために東北抗日聯軍は壊滅状態となり,金日成はわずかな部下とともにソビエト連邦領沿海州へと逃げこんだ.
 ここで金日成は,ソビエト連邦が第二次世界大戦中に創設した民族旅団の一つで,主に中国人と朝鮮人から編成されたソ連極東戦線傘下の第八十八特別旅団に中国人残存部隊とともに編入され,同旅団の第一大隊長となった.
 ソ連軍は1945年8月に北緯三十八度線以北の朝鮮半島北部を占領したが,金日成は翌月ソ連邦軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸,ソ連軍の一員として帰国したのであった.
(続く)

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2015年10月 8日 (木)

新内閣と拉致被害者問題

 ニッポン放送「ザ・ボイスそこまで言うか!」にレギュラー出演している青山繁晴というデマゴーグがいる.
 Wikipedia の記述を読むとリベラルな人物像が想像されるのだが,実際は大違い (誰が執筆したんだか〈笑〉) で,「ザ・ボイスそこまで言うか!」でしゃべっていることを聴くと,とんでもない陰謀史観屋であることがわかる.政府関係の役職につくことが多く「私は政府関係の情報ルートを持っている」として,出所不明の「情報」をラジオなどでしゃべりまくっている.
 時の権力にすり寄るのを得意として,かつては激しく安倍晋三批判をしていたはずだが,掌返しをして現在は安倍総理万々歳という見苦しい有様である.掌返しをした理由についてはネット上に書かれているので,興味ある向きは検索されたい.

 それはともかく,青山繁晴が以前「ザ・ボイスそこまで言うか!」の放送中,「北朝鮮拉致被害者の救出は小泉総理と北朝鮮との密約でだめになりかかったのだが,その密約を覆して拉致問題に取り組んだのが安倍さんだ.北朝鮮にいる日本人の救出は,お祖父さんの岸元総理大臣の悲願を受けついだ安倍さんの悲願でもあるのだ」と語った.

 何も知らない若い人たちは「そうなのか」と信じてしまうだろうが,1950年代から1984年にかけて行なわれた在日朝鮮人とその家族の北朝鮮への集団的な永住帰国事業 (参照;Wikipedia【在日朝鮮人の帰還事業】) を政府公認事業としたのは,岸信介内閣であった (1959年).
 この在日朝鮮人帰還事業の結果,多くの日本人女性が夫に伴われて北朝鮮に渡った.その人々は北朝鮮で過酷な労働を強いられ,拷問や差別をされ、囚人や奴隷と変わらない生活に陥ったとされている.
 青山繁晴が「北朝鮮にいる日本人の救出は,お祖父さんの岸元総理大臣の悲願を受けついだ安倍さんの悲願でもあるのだ」とラジオで語ったのは,岸信介が在北朝鮮の日本人を救出したいと願っていたのだとの意味でしゃべったのだが,事実は全く逆で,北朝鮮に日本人女性を送り込んだ張本人が安倍の祖父岸信介なのであった.

 昨日七日の内閣改造で,新しい拉致問題担当相に初入閣の加藤勝信氏が就任した.加藤氏は野党に言わせれば意味不明あるいはパクリの「一億総活躍社会」実現のための担当相を兼務する.この改造人事について,《拉致被害者家族会代表の飯塚繁雄さんは,担当相が次々代わる上に兼任となったことに「本当にやる気があるのか政府に問いたい」と苦言を呈した》と,時事通信が伝えた.

 青山繁晴がどう言おうと,本当のやる気は,安倍にはない.拉致被害者問題は在北朝鮮日本人問題に繋がり,岸信介の大失敗 (北朝鮮にまんまと騙されたのではあるが,しかし責任は岸信介にある) をほじくり返してしまうから,安倍には触れたくない政治課題なのである.

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2015年10月 7日 (水)

今年のノーベル賞

 今年の日本のノーベル賞受賞者は,一昨日の五日に医学生理学賞受賞が発表された大村智・北里大学特別栄誉教授と,昨日のノーベル物理学賞受賞の梶田隆章・東京大学宇宙線研究所長のお二人となった.

 受賞後に大村先生は「私自身は微生物がやってくれた仕事を整理しただけ」と謙遜なさっていたが,これは坂口謹一郎・東京大学応用微生物研究所初代所長に始まる我が国の応用微生物学者の常套句なのである.
 坂口謹一郎先生 (全くの余談だが作家の星新一は坂口研究室に所属していた) の有名な「微生物にお願いして裏切られたことがない」という言葉は,「こういうことを微生物を用いて実現したい」と目標を立て,適切な研究方法を用いれば必ずそのような微生物が見つかるということを意味している.
 言い換えれば,何を微生物を用いて実現したいか,という志のところで大村智先生は非凡だったのである.
 私も三十代から四十代にかけての十年間を,微生物探しに費やした.大村先生は,どこに行くにもポリ袋とスプーン (いずれも土壌採取に使う) を持ち歩いていたとインタビューに応えていらっしゃったが,私もポリ袋とスプーンを持ち歩いていた自分の若い頃を思い出して,しみじみとした.
 私が見つけた微生物の生産する物質は,博士論文と幾つかの特許となったが,実用化はできなかった.それは私の才能が凡庸だったためであるが,同じように志を果たせなかった人たちが全国にたくさんいるだろう.その人々とともに大村智先生の受賞を喜びたい.

 梶田隆章・東京大学宇宙線研究所長は,2008年にがんで亡くなられた戸塚洋二・東京大学特別栄誉教授のニュートリノ研究を引き継いで今回の受賞となった.
 戸塚先生は,スーパーカミオカンデ (Super-Kamiokande) に世界中から集まった研究チームを率いて,ご存命中は我が国でノーベル賞に最短距離にいると評された研究者であった.
 梶田隆章先生は受賞インタビューで,ニュートリノ振動の発見は戸塚先生の功績が大きいと感謝の言葉を述べられた.
 戸塚洋二先生とは,戸塚先生のご友人に紹介頂いて,二度ほど親しく食事を共にする機会に恵まれた.講演も拝聴したが,物理学門外漢にも大変興味深いお話だった.若くして亡くなられなければ,梶田隆章先生と共同受賞であったろう.あるいは戸塚先生の単独受賞だったかも知れない.避けがたく人間には不運というものがある.これまたしみじみと感慨深い昨夜であった.

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2015年10月 6日 (火)

図書館ビジネス (追記)

 朝日新聞DIGITAL(10/5 19:16) が伝えたところによれば,「ツタヤ」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ (CCC) が指定管理者になっている神奈川県海老名市の市立中央図書館で,新規に購入した蔵書にタイの風俗店案内が含まれていると報道されたことに関して,市教委は『大人のバンコク極楽ガイド』など三冊の貸し出しを中止にする方針を決めた.
 朝日の記事によれば,市教委が精読した結果だという.はて?精読した結果「問題ない」と言っていたはずだが,またもや精読したのか.二度も精読するなよ.頼みます.

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2015年10月 5日 (月)

図書館ビジネス

 私は図書館を利用しない.
 私はいわゆる団塊の世代の最後尾 (昭和二十五年早生まれ) なので,義務教育の一学年生徒数がベラボーだった.あー,「ベラボー」はどう書くんだ.漢字で書くのは当て字だから「べらぼう」でいいんですね.はい.
 記憶が確かでないのだが,私の通った前橋市立城南小学校 (廃校) では,私の学年は九学級あったのではないか.
 それが中学になると,複数の小学校から生徒がくるから,一学年十三学級にふくれた.しかも一クラスが六十人近いのである.
 こういう時代だったから,小学校の時に蔵書の少ない図書室に本を借りにいっても,残っているのは抹香くさい『仏教説話集』(宇治拾遺とか今昔を種本にしたものだ) みたいな本ばかりで,あまり少年の心を未来に向かって豊かに育んでくれる種類の書物ではなかった.
 つまり前橋市教育委員会主催の小中学校読書感想文コンクールで,まじめな女子生徒が『ジェーン・エア』の感想文で入賞したりしているときに,京の都を荒らした盗賊が極楽往生した話を読んでいる子はどうしたらいいのか.いわんや悪人をや,では落選して当然である.
 その年頃に図書室にはロクな本がないものと思い込んだ私は,中学では図書室に一度も行かなかった.校舎のどこら辺にあったのかも記憶がない.もしかしたら図書室なんかなかったかも知れない.なにしろ全校で二千数百人の生徒がいるのだから,先生が生徒たちに本を読ませたくても,大きな図書館が必要になってしまうのである.
 高校も以下同文.こうして,読みたい本は自分の金で購入する私ができあがった.
 
 さて,書店・レンタルの大手「ツタヤ」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ (CCC) の図書館ビジネスに黄色信号が灯り始めた.
 まず,CCCは佐賀県武雄市図書館の指定管理者になり,続いて神奈川県海老名市と「図書館流通センター」共同事業体を作ると発表した.さらには宮城県多賀城市,山口県周南市,宮崎県延岡市でも協力することになっている.
 ところがしょっぱなの武雄市図書館で躓いた.CCCが,グループ会社のネットオフの不良在庫書籍を武雄市図書館に購入させたとの疑惑が報道されたのである.この問題に関しては,CCC運営図書館事業を推進した武雄市長樋渡啓祐の人格的問題もあり,市は日本書籍出版協会,日本文藝家協会などを敵に回すこととなった.さらには市民の猛反発によって訴訟に発展して,この事業は事実上の失敗となっている.
 
 またCCCが運営に関与する図書館としては二例目の神奈川県海老名図書館では,武雄市図書館に対する批判を考慮して,市教育委員会の教育長らが,CCCが新規購入する予定の書籍リストの確認作業を行った.
 しかるにこの適否を確認した書籍の中にタイ風俗店ガイドなどの,公的図書館にふさわしいとはとても思われぬ本が含まれていると報道された.つまり教育委員会公認のエロ書籍というわけだが,これについて市教育委員会は,問題ない,他の自治体での購入実績があると新聞取材に回答した.他の自治体とはどこだ.武雄か.
 
 昨日の四日,愛知県小牧市の名鉄小牧駅前再開発事業の一つである新図書館建設計画を巡る住民投票が投開票され,反対が賛成を上回った.
 山下史守朗小牧市長は,計画に明らかな問題があれば見直すと新聞取材に答えたが,これは明らかな問題がなければ見直さないという意志表明である.
 大体,図書館で駅前活性化を図るというのが,そもそも本好き,読書好きの発想ではない.武雄市長樋渡啓祐もそうだが,文化事業に対する見識に問題があるのではないか.
 
 武雄市長樋渡啓祐,小牧市長山下史守朗らの愚昧は,図書館を文化事業ではなくビジネスであると考えたことにある.そこがCCC=ツタヤに付け込まれたのであろう.図書館は利用しないが読書好きの私はそう思う.
 ツタヤは営利を目的とする法人であるから,愚かな市長を抱き込み,市民の利益よりも自社の利益優先で,公共図書館の書架にエロ本を並べることくらい平気だろう.しかし企業には社会的責任がある.責任を果たさない企業に儲けさせてはならない.小牧市民は,市長のリコールとか,ツタヤの不買運動とか,書物に唾を吐きかけるような輩には,思い知らせてやるべきである.あー,齢とるとどんどん物言いが過激になるなあ.はは.

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2015年10月 4日 (日)

甘藷と馬鈴薯 (十五)

(前稿末尾再掲)
ロココの王妃,マリー・アントワネット.馬鈴薯栽培史に咲いた一輪の紅いバラである.

 ここから暫く,芋の話から離れる.私が日記のような雑文のようなものを書き連ねているのは,もしかしたら文章を書くことが痴呆防止に幾分なりとも役立つのではないかとの希望的観測があるからであり,だから書くこと自体が目的化していて,従って話の脱線なんか全く構わんのである.おいおい.

 というわけで,話は「ロココの王妃」だ.
 ひと月程前に,北村薫『太宰治の辞書』について

『太宰治の辞書』は,ミステリィ読者に「日常の謎」ジャンルを初めて提示した「空飛ぶ馬」に始まる「円紫さんと私シリーズ」の最新作であるが,謎が解決されるという意味でのミステリィではない.「私」シリーズの形をとって北村薫の太宰治観が語られている作品である

と書いた.(太宰治の辞書 水仙 前橋)

 もう少し詳しく書くと,太宰の『女生徒』の中に

それから、もう一品。あ、そうだ。ロココ料理にしよう。これは、私の考案したものでございまして。……(中略)……
 料理は、見かけが第一である。たいてい、それで、ごまかせます。けれども、このロココ料理には、よほどの絵心が必要だ。色彩の配合について、人一倍、敏感でなければ、失敗する。せめて私くらいのデリカシイが無ければね。

ロココといふ言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されてゐたので、笑つちやつた。名答である。美しさに、内容なんてあつてたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまつてゐる。だから、私は、ロココが好きだ。

 とあるのだが,《こないだ辞典でしらべてみたら》の「辞典」を巡って『太宰治の辞書』の物語が進行するのである.

 もちろん北村薫は,太宰のロココ観すなわち《美しさに、内容なんてあつてたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまつてゐる》に共感しているのであるが,その共感は北村薫だけのものではないと思われる.かつてロココが《内容空疎の装飾様式》とされた時代・時期がありはしたが,しかし少なくとも多くの現代日本人はロココというものについて,共感するとまではいかずとも,完全に否定的な見方をしてはいないだろう.

 ここで思い起こされるのは,『ベルサイユのばら』である.
(続く)

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2015年10月 2日 (金)

ペテン師郡司和夫

 世の中には「食の安心・安全」について社会に警鐘を鳴らしている人々と,「食の安心・安全」を飯の種にしている輩がいる.

 前者と後者の見分けはとても簡単で,両者の書いた文章を読んでみれば一目瞭然である.

「食の安心・安全」で飯を食っている不届き者は,ただもうそれで金を稼ぐ世渡りが第一目的なので,食品安全に関する見識を支える科学的知識や法律知識を身に着けようとしない.勉強にはまじめな努力が必要であるからだ.あるいは勉強しようにも頭が悪すぎるのかも知れない.

 その勉強しない,あるいは頭が悪い輩の例を挙げてみる.

 Business Journal に食品ジャーナリストを自称する郡司和夫という男が《山崎製パン「ランチパック」「芳醇」、発がん性物質指定の添加物使用、厚労省が表示要請》と題した雑文を掲載した.(掲載日9/11)

 その冒頭に次のような文章がある.

トランス脂肪酸は牛肉などにも含まれていますが、これはシス型のトランス脂肪酸で、含有量はごくわずかなため心配はありません。

 脂肪酸 (に限らないが) の二重結合にシス型とトランス型の二つがあるというのは,たぶん高校の化学の知識である.(参照; Wikipedia【トランス脂肪酸】)
 言い換えると,郡司が言う《シス型のトランス脂肪酸》というものは存在しない.
 さらに言い換えると,郡司和夫には高校程度の学力がない.中学生並の頭である.
 そういう野郎が食の安全について,ああだこうだとトンデモ本を書き,あちこちで嘘八百講演をし,ネットに馬鹿文を寄せて金を稼いでいるのである.嘘をついて金を稼ぐ野郎をペテン師というが,郡司のごときペテン師がこのように大手を振ってまかり通っている.末法の世とはこのことだ.

 上記の引用箇所に続いて郡司は,パン製造に用いられる臭素酸カリウムについて,たとえ分析で検出されなくても安心できないと書いている.その論理ならば,牛肉のトランス脂肪酸は微量でも検出されるのだからもっと安心できないはずだ.このように郡司和夫の頭は非論理的なので,たぶん高校の化学の授業にはついていけなかったと思われる.それが現在の似非「食品ジャーナリスト」郡司和夫を作ったわけだ.

 「まじめに働いていてもなかなか暮らし向きが思わしくならぬ青年たちも多いというに,この嘘つき野郎は」との怒りに任せて罵倒の限りを尽くしてみたが,郡司和夫については,既にきちんと批判をしているブログがあるので,ここでは繰り返さない.そのブログはここ.併せて読んで頂ければ幸いである.

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2015年10月 1日 (木)

貧相なカレー (10/2に追記をした)

 Yomiuri Online のコンテンツ『大手小町』に《加工食品高級仕様…500円台で「プチ贅沢」》と題した記事が掲載されている.(掲載日 9/22)

 記事によると,レトルトカレーでは今年二月に大塚食品が発売した「The ボンカレー」が税込み五百四十円で,従来品のレトルトカレーの三倍以上する.
 ハウス食品も先々月,同価格帯で「カレーマルシェスペシャリテ イベリコ豚とマッシュルームのカレー」を発売した.こちらは高級レストランの味を謳っている.
 どっちもまだ食べていないなあ.買ってこなければ.

 先月の初め,静岡市に住む知人からレトルトカレーを一つ頂戴した.
 浜松市の鈴代商店が販売者のご当地商品で,静岡県産黒毛和牛を使用した「絶品のカレー」である.製造者は不明.
 後述の理由ですぐにリンク切れになると思うが,楽天の商品ページはここ.(← [追記]10/2 に確認したところ削除済みであった)

 画像を見て頂くとわかるように,紙製パッケージの全面にごちゃごちゃと書かれていて,いかにも垢抜けない.商品名にしてからが「絶品のカレー」なのか「絶品のカレー も~うまい!!」なのかが不明だ.元食品会社社員だった私は,このパッケージを見ただけで「だめかもなー」と思った.
 実はレトルトカレーは,レシピを指定すれば小規模な数量で製造してくれる業者がある.場合によってはレシピも,その製造業者が提案してくれる基本的なレシピに多少のアレンジをするだけでよい.「絶品のカレー」もそういうお手軽商品なのではないかと思われたのだ.
 しかしせっかくの到来物だ.鍋に湯を沸かして三分間温め,買い置きしてあるマルちゃんの包装米飯「玄米ごはん」と一緒に食べてみた.

 試食の感想.辛くも美味しくもなく,出来の悪いハヤシライスみたいな味である.調べてみたら,この商品の価格は,大塚食品やハウス食品高級イメージ新商品と同じ価格帯のものであった.しかしながら訴求ポイントである静岡県産黒毛和牛は小さいサイコロほどのものが二つ入っているだけで,まことに貧相な内容である.一度食べたら二度とと買う気にはなれない.そういう商品であった.
 で,今日,ふと販売者の鈴代商店をネット検索してみたら,八月二十一日に静岡地裁浜松支部において破産手続きの開始決定がなされていて,同社のサイトは閲覧不能になっていた.破産の理由は販売不振のためであるらしい.負債額は約二億円という.
 いかに不出来な商品とはいえ,委託製造のレトルトカレーだけで二億の負債ができるとは思われないから,色んなことに手を出した結果の破産なのだろう.
 というわけで,楽天には商品サイトが残っているが,いずれ閉鎖されるのであろう.

 ところで,このできの悪い貧相なレトルトカレー「絶品のカレー」だが,ほめている人 (たとえばこのブログ) がいて驚いた.ステマのようでもないし,一体どういうことなんだろう.

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