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2015年9月 6日 (日)

甘藷と馬鈴薯 (一)

[ 甘藷 ]

「百姓とはいったい何か」に関する議論は,私のような日本史の門外漢にとってはかなり難しい問題で理解しにくいところがある.
 Wikipedia【百姓】の「ノート」を読むと,
近世の百姓が農業民に限らないというのは網野説以前から近世史の通説
であるとして網野善彦の業績を否定する人と,
網野氏以前は、百姓=農民=悲惨な生活という図式が一般に広く普及し、あまつさえ学校教育でも教えられていた
として,網野善彦の果たした役割を否定すべきでないという人が議論している.
 私のように戦後すぐ生まれた世代の人間は《近世の百姓が農業民に限らないというのは網野説以前から近世史の通説》だなんていわれたら強く反感を覚えるに違いない.《網野説以前から近世史の通説》だというなら,なぜその「定説」を一般に普及させようとしなかったのだ.象牙の塔の中で,仲間内でコソコソと語り合っているだけでそれが「定説」だとは随分笑わせてくれるではないか.
 今だって,そこらの人に「お百姓さん」の意味を問えば「職業が農業の人」と答える人がほとんどだろう.網野善彦の一般向け著作を読んだ一部の国民がかろうじて《近世の百姓が農業民に限らない》と承知しているだけである.
 網野善彦の業績を否定する連中がどう事実を歪曲しようと,昭和の後半になっても《百姓=農民=悲惨な生活という図式が一般に広く普及し、あまつさえ学校教育でも教えられていた》のは事実である.いわゆる団塊の世代がそのことの生き証人だ.

 以上が前フリ.
 話は馬鈴薯のことである.
(続く)

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