甘藷と馬鈴薯 (六)
美しくもまた勇気ある娘の吹雪が鬼面山の向こうの地方から持ち帰った「米のかわりになる草」は甘藷であった,と聞いて諸賢はただちに「時代が違うぞっ」と思われるに違いない.
ここで我が国における甘藷=サツマイモの歴史をまとめておこう.
[日本列島におけるサツマイモ栽培略史]
《》は Wikipedia【サツマイモ】からの引用
1594年 フィリピンから中国に伝来した
1597年 宮古島の村役人であった長真氏旨屋が中国から宮古島へ苗を持ち帰ったのが日本最初の伝来となる.
1604年 宮古島への伝播とは独立に琉球王国沖縄本島に伝播
1612年 宮古島,沖縄本島とは独立に与那国島に伝播
1694年 宮古島,沖縄本島,与那国島とは独立に石垣島に伝播
1698年 (元禄十一年) 沖縄本島から種子島に伝わる.
《領主種子島久基 (種子島氏第19代当主、栖林公) は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、琉球の尚貞王より甘藷一籠の寄贈を受けて家臣西村時乗に栽培法の研修を命じた。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したという。》
1705年 薩摩山川の前田利右衛門が琉球から甘藷を持ち帰る.この甘藷がやがて薩摩藩で栽培されるようになった.
1711年 (正徳元年) 《薩摩を訪れた下見吉十郎が薩摩藩領内からの持ち出し禁止とされていたサツマイモを持ち出し、故郷の伊予国瀬戸内海の大三島での栽培を開始した。》
1732年 (享保十七年) 《享保の大飢饉により瀬戸内海を中心に西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、大三島の周辺では餓死者がまったく出ず、これによりサツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。》
冒頭に《諸賢はただちに「時代が違うぞっ」と思われるに違いない》と書いたのは,白土三平『はごろも』では永禄五年 (1562年) に既に近畿北陸地方の辺りにまでサツマイモ栽培地域が拡がっていたとしているが,周知の事実として,確からしい史実では十六世紀半ばにはまだ中国にすら南方から伝来していなかったからである.
この点に関して白土三平を批判した評者を私は寡聞にして知らない.白土三平が何を根拠に時代設定を川中島の戦いの頃にしたのか不明であるし,白土本人ももう忘れたかも知れない.古い時代の漫画家と作品なのである.
さて上記略史に記した伊予国大三島の六部僧である下見吉十郎と,吉十郎に甘藷の種芋を分譲した薩摩国伊集院村の無名農民であった土兵衛の二人こそが,我が国のサツマイモ栽培史における最重要人物である.
Wikipedia【下見吉十郎】から引用する.
《下見吉十郎は伊予国の豪族河野氏の子孫であり、寛文13年(1673年)に大三島の瀬戸村で生まれた。4人の子供を儲けたが、幼くして皆亡くしたことから、正徳元年(1711年)6月23日に六部僧として大三島から諸国行脚に発った。広島、京都、大阪を経て九州を巡っていたところ、同年11月22日、薩摩国の伊集院村の農民である土兵衛に一夜の宿を頼み、土兵衛から甘藷(サツマイモ)を振舞われた。サツマイモがやせた土地でも簡単に栽培できることを知った吉十郎は、故郷の大三島でサツマイモを育てたいと考え、土兵衛に種芋を譲ってくれるよう頼み込んだ。瀬戸内海は、地形や気候などが独特であり、大規模な飢饉に見舞われることが多い地域であったためだ。薩摩藩は芋の持ち出しを固く禁じていたため、当初は土兵衛も吉十郎の頼みを断ったが、吉十郎が涙ながらに再三懇願したことからついに種芋を譲り渡した。吉十郎は仏像に穴を空けてそこに種芋を隠し、命懸けで薩摩国から持ち出した。このことについて吉十郎は「公益を図るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず」と記している。吉十郎は種芋を大三島へ持ち帰り、栽培に成功すると、島の農民に配って栽培法を伝授した。》
《公益を図るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず》とは,胸震えるほどの決意断言である.
下は貧農から上は薩摩藩主に至るまで,下見吉十郎以前の者は私利我欲に囚われて甘藷の伝播を妨げてきたのであるが,ようやく下見吉十郎の手によって甘藷は救荒作物として世に顕れたのであった.まさに偉人というべきか義人というべきか.この下見吉十郎と土兵衛に比べれば,後にサツマイモの効用を説いた「蕃藷考」を著して普及に功あった青木昆陽の業績などさしたることはないのである.
(続く)
| 固定リンク
「 続・晴耕雨読」カテゴリの記事
- エンドロール(2022.05.04)
- ミステリの誤訳は動画を観て確かめるといいかも(2022.03.22)
- マンガ作者と読者の交流(2022.03.14)
コメント