« 甘藷と馬鈴薯 (六) | トップページ | 甘藷と馬鈴薯 (八) »

2015年9月12日 (土)

甘藷と馬鈴薯 (七)

 前稿に示したように中国大陸からの甘藷の伝播は遅々としていた.
 中国から琉球に伝わったが,琉球の島から島へとは伝わらなかったとされる.
 それはなぜか.
 まさに甘藷が,この日本の支配制度の中で,支配される貧者が生きのびるための救荒作物であったからに他ならない.
 白土三平『はごろも』が,時代設定を誤りつつも価値を失っていないのは,鬼面山の向こうの村の男が語った次の台詞があるからである.

これは 武士たちには秘密なのだ。
よいことに これは土中に実ができるから見つからないのだ。
しかし むかしは、ひどいもんだった。
日でりがつづいたり 領主のとりたてが きびしいときは すぐに 飢え死にするものがでたものだ。
だが、このいもが南の島からつたわってきてからは そういうことはなくなった。
だがこれは ぜったいに秘密なのだ。
領主はおろか 他国の者といえども けっして知られてはならないのだ。
百姓たちだけの秘密なのだ。百姓たちだけによって守られている秘密なのだ。

 琉球から薩摩藩に甘藷が持ち込まれたのは,琉球が薩摩の支配下にあったからである.そうでなかったら,「百姓たちだけの秘密」の伝播にはもっと長い時間が必要であったに違いない.
 その薩摩は,甘藷が他国に伝播することを禁じた.島津にとって,他藩の農民が飢えて死ぬのなどは一向に構わなかった.薩摩さえ富めばそれでよかったのである.
 しかしその薩摩藩の私利我欲を打ち砕いたのが,前稿に記した下見吉十郎の《公益を図るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず》という義によって立つ志であった.

 上に《支配される貧者が生きのびるための救荒作物》と書いた.
 東京農業大学の熊谷明子氏はこれについて《救荒作物として民衆の飢えを救い、飢えによる人口減少から国家を救ったイモは、その大役にもかかわらず、窮乏する生活への登場で普及した経緯から、意識の上で、イモと貧困は連携する》と記している.(*)

(*) [PDF]新大陸原産植物サツマイモ その呼称にみる日本人の思考と表現/熊谷明子・東京農業大学

 意識の上での貧困との連携,これが実は同じ救荒作物でありながら,馬鈴薯と甘藷の歴史的な違いなのである.我が国ではジャガイモには貧困のイメージが付きまとわなかったのだ.

 甘藷の項目の終わりに参考書を一つ.
『サツマイモと日本人 忘れられた食の足跡』(伊藤章治,PHP新書)
 専門書ではないが,ここから文献をたどれる.

(続く)

|

« 甘藷と馬鈴薯 (六) | トップページ | 甘藷と馬鈴薯 (八) »

続・晴耕雨読」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 甘藷と馬鈴薯 (七):

« 甘藷と馬鈴薯 (六) | トップページ | 甘藷と馬鈴薯 (八) »