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2015年9月18日 (金)

甘藷と馬鈴薯 (十一)

(前稿末尾再掲)
昭和三十一年の経済白書には《もはや「戦後」ではない》と記述されたが,庶民の食生活はそれからあとも五年ほどは戦後状態が続いた.
 私が覚えている最も古い頃の記憶では,食事は麦飯と芋やかぼちゃの煮物と漬物であった.魚がちゃぶ台に乗るようになったのは昭和三十年代後半であり,豚の細切れ肉の登場はもう少しあとのことである.

 ここでちょっと横に逸れる.
 古谷経衡というデマゴーグがいる.いわゆるネトウヨと同じ思想基盤に立つ若い男だ.
 この男が書いた『戦後イデオロギーは日本人を幸せにしたか 「戦後70年幻想論」』を基に,おそらく若いと思われるブログ筆者がトンデモ説を展開しているのを最近知った.
 トンデモ,というのは「先の戦争の敗戦時に日本は大した打撃を受けていなかった」と論じているからである.
 このブロガーの主張を以下に一部引用してみる.
日本の農村は戦争に敗れてもなお健全であった。
もちろん、「徴兵」によって農家の成年男子が出征しており、戦死者も数多くいた。
しかし、農村は直接の戦災を受けておらず、無傷で終戦を迎えたのだ。

「焼け野原」「ゼロかのスタート」というのは都市に限ったことである。
軍事面から見ても「ゼロからのスタート」というのはウソであるという。……武器弾薬はともかく、500万人以上の将兵がまだ存在していたのだ。

 上の《》内は,戦争を実際に経験した人々から何の知識も受け継ごうとせず,読むものといえばネット掲示板だけという世代が,ネトウヨ的デマを再生産していく図式である.
 日本の機能が農村にあったと思い込んでいるらしいこの阿呆ブロガーに一々反論するのも愚かなのでそれはせぬが,《500万人以上の将兵がまだ存在していたのだ》は古谷経衡が《終戦時に日本本土に約200万人強、日本本土以外において実に300万人以上の将兵が残存している状態であった》と書いていることを鵜呑みしており,見過ごせない.その本土外の《300万人以上の将兵》がどのような敗残状態にあったかを知らぬとみえる.そして間違いなく,このブロガー (と古谷経衡) は大岡昇平の作品を読んでいない.その名前すらも知らないであろう.戦後七十年とは,こういうことなのである.

 横道から戻る.
 ともあれ我が国の物流網は敗戦時点で大きく損耗していたので,都市部の人々は自力で農村に統制外のヤミ食糧を調達にでかけた.筆者 (江分利万作) の父親は海軍の一兵卒で,戦後は前橋刑務所看守として出発したのだが,公務員であるからこの違法な買い出しができなかった.見つかったらクビになるからである.
 従って私の両親は,配給される豆雑穀と自分で作った芋とかぼちゃで食いつないだ.母親は後に,あの頃は栄養不良で半分失明したと子供たちに述懐した.そして父親は,サツマイモとかぼちゃが嫌いになった.東京農業大学の熊谷明子氏が甘藷について《窮乏する生活への登場で普及した経緯から、意識の上で、イモと貧困は連携する》と書いていることが,江戸期から遠く経って戦後に再現されたのである.
(続く)

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