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2015年9月

2015年9月30日 (水)

甘藷と馬鈴薯 (十四)

 世に万巻の書はありて,人生は余りにも短い.

 新聞,週刊誌,ネット上の「老後の人生設計」と題した山のような文章を読むに,そのことごとくが「数千万円の預貯金と年金だけでは老後破産が待っています」「動けなくなるまで働きましょう」「資金の目減りを防ぐためには資産運用が必要です」と言う.
 しかしよく読むと,すべて某生命保険会社がかなり前に算出した「老後世帯の月額支出は三十数万円」を根拠にしていることがわかる.
 実はこの「老後世帯の月額支出は三十数万円」は,かつて某生命保険会社が実施したアンケートで「これくらいお金があったら豊かな老後がすごせそうだ」という回答が多かったことに過ぎないのであるが,その願望的回答がいつの間にか「老後の必要生活費」にすり替わったものである.誰がすり替えたか.ネット上の記事を調べてみると大変おもしろい.すり替えたのは,当然のオチであるが,そのことで得をする奴であった.生命保あわわ.
 さて私は年金受給前に心筋梗塞で倒れ,もう無理をすることはやめようと陋屋に逼塞して読書の日々である.
 こうした生活の実感だが,私が会社員だったときの同僚たちのように年に何度も海外旅行に行くなどの濫費をしなければ,最近ようやくもらえることになった厚生年金で,本代には事欠かない程度の暮らしはできる.
 そしてそれをいいことに,今や私の枕頭は本の山積み状態である.

 会社員時代はあまり自由時間がなかったから,書籍を購入するときは読むに値するか否かよく考えたものだが,今はもうコミックだろうが教養書だろうが専門書 (食品学や農学) だろうが手当たり次第だ.こうしていると,「あ,こんな本があったのか,知らなんだ!」という本にぶち当たることが実に多い.実に,世に万巻の書はありて,だ.

 もっと早く読めばよかった本の一つに,中野京子さんの著作がある.私は中野さんの書いたものを読んで,ロココの王妃すなわちマリー・アントワネットについて何も知らなかったことに我ながら驚き呆れることになったのである.
 ロココの王妃,マリー・アントワネット.馬鈴薯栽培史に咲いた一輪の紅いバラである.
(続く)

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2015年9月29日 (火)

フォースと共に

 昨日(9/28),The Huffington Post に《【スター・ウォーズ】ストームトルーパーが戦争のない銀河に住んでいたら多分こうなる 》と題した記事が掲載された.
 アーティストのホルヘ・ペレスイゲラさんが発表した《The Other Side.》という作品からの抜粋であるが,これが実に楽しい.スター・ウォーズのファンは必見.

 それで昨日,ネトゲをやりながらギルドの仲間と音楽や映画の話題になったときに「スター・ウォーズの新作が楽しみだ」と言ったら,全員が四十歳以下であるギルドメンバーの中に,スター・ウォーズを観た者が一人もおらず,それどころかどんな映画かも知らないというので私は腰が抜けてディスプレイの前で椅子から転げ落ちた.

 そうかそんな時代なのか.ていうか,六十過ぎてネトゲやるな自分.

 で,新作はどういうストーリーなんだ.ストームトルーパーは戦争のない銀河に住んでいるのだろうか.
 ハン・ソロ以外は,みんな見た目からして年老いたらしいではないか.嗚呼,哀れレイア姫.見たいような見たくないような.本編六作品を観ていない若い人には,見てほしくはないなあ.とまれ我ら年寄り映画ファンがフォースと共にあらんことを.

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2015年9月28日 (月)

甘藷と馬鈴薯 (十三)

 欧州に馬鈴薯が持ち込まれたのは十六世紀後半らしい.スペイン人が新大陸から本国にもたらしたものと言われ,やがて欧州各地に伝播したとされるが明確でない.

 鑑賞植物ではなく明確な食糧,つまり「芋」として位置づけられて馬鈴薯が栽培されるようになったのは,ヨーロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルク家と,それに対抗する勢力間の国際戦争として1618年から1648年にわたって戦われた三十年戦争の時代とされる.

 三十年戦争後,国土荒廃したプロイセン王国のブランデンブルク地方は寒冷で痩せた土地が多く,そのためしばしば食糧難に悩まされた.しかしこのような土地でも栽培可能な馬鈴薯を,フリードリヒ二世が勅命をもって普及させたという.

 ドイツなどに比較するとフランスで馬鈴薯が普及したのはかなり遅れた.
 欧州というところは戦争ばかりしていたのであるが,七年戦争でプロイセン軍の捕虜となった農学者アントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエは,捕虜の時に馬鈴薯に接した.パルマンティエがパリに戻った十八世紀後半,フランスでは法律で馬鈴薯の栽培が禁止されるなど強い偏見が支配的だったが,彼は精力的に馬鈴薯の普及に取り組んだ.
 ここで馬鈴薯栽培史に一輪の紅いバラが登場する.
(続く)

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2015年9月27日 (日)

文春は見識を (9/28 に追記あり)

 週刊文春が最近,二週連続で例の近藤誠氏 (元慶應義塾大学医学部講師) への提灯記事を掲載した.
 近藤氏によれば,治療できた,あるいはできるように見えるのは「がんもどき」であって「がん」ではない.「がん」は早期に発見できても既に転移しているので,治療は無意味な行為であるとする.
 この「がんもどき理論」は極めて思惟的観念的であるため,医学や生命科学の研究者からはほとんど無視されている.著名な研究者としてはシカゴ大学医学部血液・腫瘍内科教授の中村祐輔先生が時折マスコミで近藤理論批判をされる程度である.
 近藤氏には工藤憲雄と称する妙な応援団がついていて,この男はネットをいつも「近藤誠」とか「がんもどき」とかの検索語でサーチしているらしく,この語をみつけると食いついてきて近藤理論を講釈する.前に一度,僻地で細々とやっている私のブログにもやってきて,コメントを書き捨てていった.ステマ,ご苦労さまです.

 ところが,週刊文春の最新号は,国立がん研究センターなどの研究者に取材した《肺がん対策「最新ガイド」》という特集記事を掲載した.しかし近藤誠氏を支持する立場なら,《肺がん対策「最新ガイド」》なぞあり得ないはずだ.近藤理論が正しければ,国立がん研究センターなんぞは税金の無駄遣いということになるのだ.
 実際に執筆するライターは,編集部の要請があれば,近藤批判でも近藤提灯記事でも何でも書くだろう.だからこそ週刊文春の編集長は,近藤「理論」を支持するのか支持しないのか旗幟鮮明にして,文春としての見識を示さねばならない.

 もしかすると,またステマ工藤憲雄先生が現れるかもしれないなあ.期待して待つことにする.はは.

[追記 9/28]
 また現れるかもと書いてから確認したら,既に過去記事の方にコメントが書かれていた.固定リンクはここ
 この御仁は,コメントを書き込むのはいいが,短すぎて何がいいたいのか不明だ.このブログだけではなく,あちこちのブログに,記事に何が書かれているか全く無関係に自分の言いたいこと (私はパテントを取ったということ) を書き込む.スパムのようなものだ.ネット上にも礼儀と作法というものがある.困った人である.

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2015年9月26日 (土)

嘘ジェクトX

 ちょっと前に,waiwai さんのブログに,ウリミバエのことが書かれていた.
 蔬菜等の農業に甚大な被害をもたらすウリミバエについてのコメントを書くために,記憶の再確認をしようと資料を探していたら,Amazon で

「8ミリの悪魔VS特命班」~最強の害虫・野菜が危ない ―起死回生の突破口 プロジェクトX~挑戦者たち~ [Kindle版]

が百円で売られていた.

 このシリーズはテレビ番組を基にしているからパンフレット程度の内容だが,百円は安い.
 そう思ったのだが,安かろう悪かろうだった.内容がまるでデタラメなのである.

 テレビでの放送は観ていないのだが,少なくともこの書籍版では沖縄本島のことを「沖縄」としたり,他の島も含めて「沖縄」としたり,ほんとにテキトーである.だからほとんどの読者はわけがわからなくなること確実である.
 そしてあちこちに嘘が書かれているが,一番ひどい嘘の部分を次に引用する.(Kindle 版の位置No.633中の104)

沖縄が本土復帰を果たすと、その瞬間から日本の法律「植物防疫法」が施行される。その法律によれば、一匹でもウリミバエが見つかれば、その島からは本土に野菜を持ち込むことは一切できない。

 植物防疫法は,沖縄の本土復帰には無関係である.沖縄の野菜は,本土復帰前から本法の適用を受けていた.ウリミバエ繁殖国 (地域) からの輸入を水際で防ぐ (本土復帰前) か,国内での野菜等の移動を禁止する (本土復帰後) かという形式的な法適用の違いがあるだけである.
 植物防疫法のことは番組のメインストーリィに関わる部分である.それが嘘では話にならぬ.
 取材した記者は農業も食糧貿易も,輸入関税も防疫も法律も,何も調べずに,関係者からのインタビューだけでこの番組をでっち上げたのであろう.そうとしか思われない.

 『プロジェクトX~挑戦者たち~』は,ほとんど観たことがないが,一時はNHKの看板番組の一つといわれていたのではなかったか.しかるにシリーズの他の放送回も,すべてこの調子なんだろうか.たぶんそうだろう.情けないことである.

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2015年9月25日 (金)

家族葬

 この連休中に息子と娘が私の住処にやってきたので,久しぶりに親子で食事に出かけた.藤沢市の湘南台にある人気店Hで焼肉だ.私のおごりである.
 彼らが中学高校の食い盛りのときは,同じこの店で一人頭のオーダーが並ロース三人前,並カルビ三人前,…という具合で,お勘定が二万円を超したものだが,今回は肉のグレードを上げたのに一万五千円ほどであった.なんだかしみじみとしてしまった.

 それはさておき,肉を焼きながら「俺が死んだら家族葬にして,骨は東京湾で散骨にして欲しい」と言ったら,二人は承知したと答えた.

 Yomiuri Online のコンテンツ『大手小町』に,「家族葬 誰を呼ぶべきか」と題した記事が掲載されている (9/24).

 葬送ジャーナリスト (なんだそれは〈笑〉) の碑文谷創氏,葬祭業界大手である公益社の葬祭研究所主任研究員,安宅秀中氏らの意見によれば,家族葬の注意点は以下の通りである.(記事から引用)

家族葬のポイント
・参列者は数人から数十人と幅広い
・故人のきょうだいには出来る限り声をかける。友人知人を呼んでもいい
・呼ばなかった人には、事後通知状や喪中はがきを送る。年賀状を受け取った相手には寒中はがきで伝える
・通知状を受け取った人が「焼香させてほしい」と訪ねてきたら、なるべく焼香してもらう (碑文谷さん、安宅さんなどの話を基に作成)

 驚いた.読売新聞が紹介するところの家族葬は,小振りな普通の葬式ではないか.
 私が子供たちに「家族葬にして,骨は散骨にしてくれ」と言ったのは,誰も葬儀に呼ばず,そして仏壇も戒名も位牌もないという意味である.
 だから誰からも花や香典を頂戴しない.
 私は死んだら千の風になって空を吹き渡るつもりなので,私のいないところで焼香なんかして頂かなくて結構である.
 無論,くだくだと説明をせずとも,子供たちは私の希望するところを即刻承知した.よい人間に育ってくれたものだ.

 死者は生者を煩わすべからず.

 昔からの名言だ.人間は,かくありたいものである.
 私の大学時代のクラスメートで,死ぬまで共産党員だった男が逝ったとき,葬式は東京の有名な寺で盛大に行われた.共産党員でも,葬式は死んだあとのことだから晩節を汚すことにはならぬのだろうか.参列した私は割り切れぬものを感じた.君は,君の思想的立場をエンディングノートに書き残さなかったのかね.
 暫くして遺族から故人の追悼文集の原稿依頼があったが,私は返答しなかった.死者は生者を煩わすべからず.

 横道に話が逸れた.
 それともあれか,私の考える家族葬ってのは普通ではないのか.
 昔,家族葬という形が世の中に知られ始めたころ,テレビで放送された,ある一般の人の家族葬は家族だけで行われていたが.
 年寄りが死ぬと,葬式にやってくるのは杖をついた老人ばかりで,どうかすると葬儀参列で寿命を縮めてしまうのではないかと心配になる.もしもそうなったらまことに申し訳なく,だから私が死んだら,たとえ私の生涯の親友に対してであっても,事後通知だけにするようエンディングノートに書いてある.

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2015年9月24日 (木)

ぼんくら校閲

 読売新聞の歴史を調べると,真っ当な記事ではなくエロ記事ヌード写真を売りものにしていた時期があったそうだ.今の夕刊紙みたいなものだ.
 そういう恥ずかしい過去があるから,記者の質も低い.それは現在の記事を読めばわかる.読売の伝統だ.
 少し前の記事に読売産經は三流紙だと私は書いたが,読売の紙面で日本語がまともなのはコラム『編集手帳』くらいなもので,どうかすると社説も日本語があやしかったりする.
 これが何を意味しているかというと,全国紙だろうが地方紙であろうが,およそ新聞社には校閲係がいて,その社の記事の表記基準に従って校閲を行うのだが,その校閲係がぼんくらだということである.

 以下にそういうぼんくら校閲の例をあげる.
 記事(Yomieri Online 8/13掲載) のタイトルは《さよなら寝台特急「北斗星」…存続できない六つの理由 (1)》である.
 読売新聞社は,法律家の見解と異なり,ブログ等から記事にリンクをはると無断引用であるとして告訴するので,リンクできない.
 告訴しても裁判では負けるのだが,告訴するぞという脅しをかけることで記事にリンクをはらせないのである.
 そこで仕方なく伏字にする.記事の在処は
○○○○://▲▲▲.yomiuri.co.jp/matome/archive/20150803-OYT8T50149.html
である.

 閑話休題.
 当該記事の冒頭に

「北斗星」の廃止を悔やむ人は多いだろう。なかには鉄道文化財的な意味合いから存続させるべきだという声もある。

とある.
 これを読んだ私は「おお,ひょっとしたらJR東日本とJR北海道の内部に北斗星の廃止を巡って内紛があり,存続派が敗れたのであるが,勝った廃止派が今は廃止したことを悔やんでいるのだろうか」と想像して読み進んだ.

 だがしかし,そうではなかった.
「北斗星」の廃止を悔やむ人》なんか一人も記事に登場しなかった.結論をいうと,これは「北斗星の廃止を惜しむ人」の意味であったのだ.

 この記事の筆者はフリーの鉄道ライターで佐藤正樹という人物.年齢は五十五歳くらいか.
 こういう「悔やむ」と「惜しむ」を取り違えるような,中学生以下の学力の人物を「ライター」と呼んでいいのかという問題は,今は横に置く.
 情けないのは,この恥ずかしい間違いを見逃した読売の校閲係である.情けない.これが我が国において発行部数最大の新聞社なのである.

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2015年9月23日 (水)

政治的墓参 (「墓参」を改題加筆)

 細々と書くのが面倒くさいので,『爆笑問題の日曜サンデー』(TBSラジオ,7/12) でTBSラジオの武田一顯放送記者がしゃべったことを引用する.

(武田一顯):まあおっしゃる通り、国会の周り、あるいは総理官邸の周りに人が集まれば集まるほど、安倍さんとしては燃えるんですね。だから、安保の後で、岸信介は当時は車で官邸を後にする時、「棺を置いて論定まる」と言ったんですね。
 (太田光):ええ
 (武田一顯):「自分が死んだ時、60年安保の評価は決まるのだ」と言った。安倍さんはおそらく今回、今週か来週かはわかりませんけれども、本会議か本会議の採決の後、翌朝にスーッとみんな引いたあとで、おそらく何か言うわけですよ。必ず何か一言言う。やっぱり、岸総理の真似をしたいわけですね。

 《岸総理の真似をしたい》のは誰の目にも明らかなのであるが,新聞各紙が伝えたように,昨日(7/22),安倍は静岡県小山町の冨士霊園に出かけ,祖父岸信介と父安倍晋太郎の墓参をした.法案成立を報告したのだという.
 どうだろう,この墓参という時代錯誤なセンスは.
 六十年安保を乗り切ったものの安保闘争の混乱の責任をとるとして七月十五日に総辞職せざるを得なかった岸信介の仇討をしたのであるね,安倍という男は.墓参りは安保法案が仇討という前時代行為であることを示しているのだ.
 岸信介無念の七月十五日に合わせて周到に日を選んだと思われる七月二十二日,墓前で「晋三が代々の無念を晴らしましたぞ」ってわけだ.安倍は政治日程の中に堂々と祖父と父への墓参という私的行為を組み込んで恥じない.政治が世襲制であることを国民に周知すること,前からこれがやりたかったんだろうなあ.仇討の場合は墓前で割腹 (辞職) するのが様式美としてはあり得るのだが,安倍に政権を手放す気は全くないので,様式美どころか実に見苦しい有様である.

 あ,政治日程の中に堂々と祖父と父への墓参という私的行為を組み込んで恥じないってのは,どこかで記憶にあるなあ.そうだ,隣の半島の北半分の世襲制王朝に,そういうことをする妙な髪型の若僧がいる.あれだあれだ.(笑)

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2015年9月22日 (火)

人類の友 (三)

(前稿末尾再掲)
これと反対に,叱られるとシュンとしてうなだれる.もしかすると,この時犬の目には涙がいつもより多く分泌され,つまり「泣く」ことがあるのではないか.そういう疑問を持ったのである.

 ここで私が「犬は泣くことがあるのではないか」と書いたのは,犬に悲しみの感情があることを前提にしている.
 しかし「そんな馬鹿なことはない」とするのが一般常識というものである.仮に私の飼い犬のトイプードルが,私に叱られて目に涙をためたとしても,それが「悲しい」からだと思うのは荒唐無稽の擬人化だと言うだろう.それは私は百も承知だ.

 動物好きの人は『ソロモンの指輪』(コンラート・ローレンツ著,日高敏隆訳;早川書房,ハヤカワ文庫NF ) を若い時に読んだことだろう.
 ローレンツは動物の擬人化を嫌ったが,動物と人間に共通する行動があることは認めていた.そしてその行動は,私たちの中にある動物的な部分,ローレンツの言い方では「前人間的」なものだと言っている.
 とすると,もし犬が目に涙をためることがあるとすれば,「悲しくて泣く」ことは私たちの中に動物的なものとして残っているものであって,逆に言うと犬にも悲しみの感情があるという仮説を立ててもよいことになりはしないだろうか.
 さあ動物の行動に関する諸科学の研究者が,涙と悲しみについて,将来どのような研究をしてくれるのか,私が生きているうちに進展するととても嬉しい.犬好きの者は必ずや「犬だって悲しいことはある」と確信していると思うのだが.

 さて私の他にも,犬にも悲しみの感情はあると信じていた人が,漫画家が,いた.白土三平である.
 白土三平という人は野生動物の物語が好きで,シートンの原作に基づいて『シートン動物記 (1~2巻)』(小学館文庫) を描き,第四回講談社児童まんが賞を受賞している.
 この『シートン動物記』の著者あとがきには
私は野生動物の物語が好きだ。それは、ひたすら己れの生きかたを生きることによって滅び、滅びることによってのみ己れの存在を主張するものの挽歌であり、その供犠を見つめる人間の心の詩(うた) でもある。
と書かれている.

 この《滅びることによってのみ己れの存在を主張するものの挽歌》を描いた彼の動物漫画最高傑作が『風魔』(白土三平選集16,秋田書店) である.
(続く)

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2015年9月21日 (月)

甘藷と馬鈴薯 (十二)

 東京農業大学の熊谷明子氏が論考に《窮乏する生活への登場で普及した経緯から、意識の上で、イモと貧困は連携する》と書いている「イモ」は甘藷のことである.馬鈴薯ではない.また戦中世代の作家などが戦後の食糧難について書き残した随筆で,馬鈴薯が窮乏生活と結びついているとしているものを私は読んだことがない.甘藷と,かぼちゃばかりである.どうしてなのだろう.

 馬鈴薯すなわちジャガイモの原産地は南米アンデス山脈といわれる.甘藷も同じと考えられているが,標高の違いがあるようだ.(ちなみに筆者が作物としての甘藷や馬鈴薯を漢字表記するのは,農水省が公文書にそう書くことが多いためで厳密な意味を持たせているわけではない.しかし救荒作物であった甘藷の伝播を薩摩藩が妨害したにもかかわらず何故にサツマイモと呼ばれにゃいかんのだという反感気分はある)

 で,馬鈴薯は十六世紀にスペイン人によってヨーロッパにもたらされた.
 Wikipedia【ジャガイモ】には次のようにある.

ジャガイモの原産は南米アンデス山脈の高地といわれる。16世紀には、スペイン人によりヨーロッパにもたらされた。このとき運搬中の船内で芽が出たものを食べて、毒にあたった為「悪魔の植物」と呼ばれた。

ジャガイモがヨーロッパにもたらされた当初、ヨーロッパには芋という概念が無かった。そのため、芋というものを食べると分かるまで、本当は有毒である葉や茎を食用とする旨が書かれた料理本がイングランドで出版され、それを真に受けたイングランド人がソラニン中毒を起こした。

 この連載記事の [馬鈴薯] 項の冒頭に

ここら辺までがコミック版『まおゆう魔王勇者』(橙乃ままれ作,石田あきら画) 第一巻の粗筋である.
 現実にあった馬鈴薯の栽培史を,作者の橙乃ままれは,うまくファンタジーに取り込んでいるといえよう.馬鈴薯が魔界の植物であるというあたりは,なるほどと感心した.

と書いたのは,馬鈴薯がヨーロッパで悪魔の植物と呼ばれたことを作者が物語の世界観に取り入れているからである.
(続く)

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2015年9月20日 (日)

琴線に触れられて激怒してどうするのか

 先ずは,日刊SPA! (2015/7/16) からの下記引用をご覧頂きたい.

ツイッターで話題の“童貞女子”。男性からは「バカにするな」と怒りの声も 

◆男性から怒りの声が出た「童貞女子」
○○女子 ひぐちさとこ氏のギャグマンガ『そういや私、女子だった!』(メディアファクトリー)から生まれた言葉で、ツイッターで1万回以上もリツイートされ、話題となったのが「童貞女子」。
女子力がなく異性にはモテないが、自分の好きなことにのめりこみ、人生を思い切り楽しんでいる女子のことを指しているんだとか。
オタクな女性からは「共感できる」「あてはまった」という声が多いのだが、「童貞」という言葉が男性の琴線に触れた。
男性からは「ただのガサツな女」「童貞をバカにしてんのか」と残念ながら怒りの言葉が……。
どうやら、「童貞」は、他の何よりもナイーブでデリケートな最後の男の「聖域」であったようだ。

 上の引用の後半に《男性の琴線に触れた》とあるが,記事中では「逆鱗に触れた」の意味で使用している.
 このように最近のネット上では,「琴線」と「逆鱗」を取り違えるという高校現代国語のレベル以下の誤用が大手を振ってまかり通っているのである.
 投稿者の年齢層が比較的高いと思われる読売新聞の『発言小町』も例外ではなく,『発言小町』の無教養な編集者は,投稿内容の改竄は平気で行うが言葉の誤用は垂れ流しにしているから,そりゃもう酷いものだ.
 新聞や出版社には校閲係がいるはずだが,この校閲係がまた不甲斐ない人間であることは,高島俊男先生が著書で何度も指摘していらっしゃるところである.
 新聞でいうと読売と産經に情けない誤用が多く,記者の教養の程度があからさまである.新聞でその有様だから,まして SPA!を出版している扶桑社のごとき三流出版社は言うにや及ぶ.

 「琴線」「逆鱗」の誤用は教養の問題だが,実は現代日本語の重大な問題として,「恐るべし」と「恐るべき」のような終止形と連体形の混乱,取り違えが進行中なのである.
 このことは私は以前から薄々感じていたが,最近酷くなっているように思われる.ネット上の文章だけでなく,紙媒体でも散見されるようになってきたのだ.
 能町みね子も,週刊文春の先週号(9/24号) で,三流紙日刊スポーツの記事を例にしてコラムを書いている.能町みね子はそのコラムの終わりにこう書いている.
この誤用はいずれ定着する。そのうち「その恐るべし実態を~」なんて言い回しまで横行しそう。新聞記者の方々はこの間違いを感覚レベルで分かる人であってほしい!
 まあしかし,日刊スポーツやそれと同程度の読売や産經の三流記者にそれを求めるのは,ちょっと無理ではないかと思われる.

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2015年9月19日 (土)

人類の友 (二)

 私のトイプードルを診察して下さった獣医師は,検査には一時間以上かかったのだが,この犬を例にして学生たちに眼科検査の講義をしていたものと思われた.というのは,獣医師が私に検査結果を説明する際に,その後ろに四人の学生たちが起立して検査結果の説明を聴いていたからである.
 獣医先生は紙に犬の眼球の縦断面図を描きながら,角膜白濁のある部位を解説してくれた.大変わかりやすく,講義もそうなんだろうなと想像された.
 主題の眼の病変はそういうことなのであったが,その他に涙の量が正常値の下限だという指摘もあった.人間でいうとドライアイである.

 私自身もドライアイの傾向があり,目薬が欠かせない.そこで帰宅してから眼と涙について諸々の知識を勉強した.
 意外に思ったのは,人間の感情と涙の関係について,十九~二十世紀にかけて立てられた仮説以上のものが現在もないという事実であった.(Wikipedia【情動】)
 しかし脳科学の分野からこの問題に取り組む研究者もきっといると思われ,将来はもう少し解明されるかも知れないのだが.

 人間についてもそういう現状だから,犬や猫は言うに及ばない.それで,ふと「犬は泣くのだろうか」という疑問が湧いた.
 猫のことは知らないが,犬が喜怒哀楽の感情を実に素直に表現するということは,犬の飼い主には周知のことである.
 食事とか散歩とか,あるいは好きな玩具で飼い主と遊ぶときとかに,特に小型犬は,もうぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶ.人間の幼児が「わーいわーい」と踊るのとほとんど同じだ.
 これと反対に,叱られるとシュンとしてうなだれる.もしかすると,この時犬の目には涙がいつもより多く分泌され,つまり「泣く」ことがあるのではないか.そういう疑問を持ったのである.
(続く)

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2015年9月18日 (金)

甘藷と馬鈴薯 (十一)

(前稿末尾再掲)
昭和三十一年の経済白書には《もはや「戦後」ではない》と記述されたが,庶民の食生活はそれからあとも五年ほどは戦後状態が続いた.
 私が覚えている最も古い頃の記憶では,食事は麦飯と芋やかぼちゃの煮物と漬物であった.魚がちゃぶ台に乗るようになったのは昭和三十年代後半であり,豚の細切れ肉の登場はもう少しあとのことである.

 ここでちょっと横に逸れる.
 古谷経衡というデマゴーグがいる.いわゆるネトウヨと同じ思想基盤に立つ若い男だ.
 この男が書いた『戦後イデオロギーは日本人を幸せにしたか 「戦後70年幻想論」』を基に,おそらく若いと思われるブログ筆者がトンデモ説を展開しているのを最近知った.
 トンデモ,というのは「先の戦争の敗戦時に日本は大した打撃を受けていなかった」と論じているからである.
 このブロガーの主張を以下に一部引用してみる.
日本の農村は戦争に敗れてもなお健全であった。
もちろん、「徴兵」によって農家の成年男子が出征しており、戦死者も数多くいた。
しかし、農村は直接の戦災を受けておらず、無傷で終戦を迎えたのだ。

「焼け野原」「ゼロかのスタート」というのは都市に限ったことである。
軍事面から見ても「ゼロからのスタート」というのはウソであるという。……武器弾薬はともかく、500万人以上の将兵がまだ存在していたのだ。

 上の《》内は,戦争を実際に経験した人々から何の知識も受け継ごうとせず,読むものといえばネット掲示板だけという世代が,ネトウヨ的デマを再生産していく図式である.
 日本の機能が農村にあったと思い込んでいるらしいこの阿呆ブロガーに一々反論するのも愚かなのでそれはせぬが,《500万人以上の将兵がまだ存在していたのだ》は古谷経衡が《終戦時に日本本土に約200万人強、日本本土以外において実に300万人以上の将兵が残存している状態であった》と書いていることを鵜呑みしており,見過ごせない.その本土外の《300万人以上の将兵》がどのような敗残状態にあったかを知らぬとみえる.そして間違いなく,このブロガー (と古谷経衡) は大岡昇平の作品を読んでいない.その名前すらも知らないであろう.戦後七十年とは,こういうことなのである.

 横道から戻る.
 ともあれ我が国の物流網は敗戦時点で大きく損耗していたので,都市部の人々は自力で農村に統制外のヤミ食糧を調達にでかけた.筆者 (江分利万作) の父親は海軍の一兵卒で,戦後は前橋刑務所看守として出発したのだが,公務員であるからこの違法な買い出しができなかった.見つかったらクビになるからである.
 従って私の両親は,配給される豆雑穀と自分で作った芋とかぼちゃで食いつないだ.母親は後に,あの頃は栄養不良で半分失明したと子供たちに述懐した.そして父親は,サツマイモとかぼちゃが嫌いになった.東京農業大学の熊谷明子氏が甘藷について《窮乏する生活への登場で普及した経緯から、意識の上で、イモと貧困は連携する》と書いていることが,江戸期から遠く経って戦後に再現されたのである.
(続く)

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2015年9月17日 (木)

人類の友 (一)

 エデンの園を追われるアダムとイヴを憐れんだ神が,二つの生き物を二人に友人として与え賜うた.
 犬と猫である.
 以来,犬は人間の狩猟を助け,猫は穀物を置いた小屋の番をして,私たちと共にあった.

 そのような歴史があるものだから,掌に載るほどの子犬や子猫が庇護を求めて私たちを見つめるとき,これを無視することができぬ遺伝子が私たちには組み込まれていると考えられる.

 先日,私のトイプードルをかかりつけの動物医院に連れていった.最近,食事のあとしきりに口の周りをなめるのが気になったからである.
 飼育環境について問診のあと,獣医先生の診断は,おそらく合成樹脂アレルギーではないかと思う,とのことだった.暫くのあいだ,食事を入れる皿はステンレスか陶器にし,おもちゃなども合成樹脂製のものは接触しないようにしてくださいと指示を受けた (結果的にそれで改善した).
 ついでに健康状態をみてもらったら,眼に所見があると言われてしまった.角膜の一部に白濁があるというのである.
 その獣医先生が,私は眼科は得意でないので大学病院を紹介しましょうかと言ってくれたので,ありがたく手配をしてもらった.診察予約してもらったのは東京の町田の方にある麻布大学である.関東地方では知られた獣医大学だ.

 麻布大学付属動物病院での診断結果は,これ (角膜の一部白濁) は過去の炎症の結果であって,これ自体が進行していく病気ではないと考えられるが,点眼薬を投与して一ヶ月の経過観察をしてみましょうとのことであった.
(続く)

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2015年9月16日 (水)

国勢調査

 前回の国勢調査は昔ながらのやり方で調査員が各家庭に調査票を届けにきたが,これでは個人情報モロバレになる可能性があるからであろうか,今回からインターネット回答もできるようになった.
 それで今各家庭に「平成27年国勢調査 インターネット回答の操作ガイド」が配付されている.
 ところがこのインターネット回答には,回答に必要な初期パスワードを記載した印刷物を入れた封筒がフルオープンであるため,封筒を配付する人間が勝手に複写して成り済まし回答できるという大きな問題があるようだ.調査妨害の防止の観点からいうと前回調査よりもずっと拙劣なやり方で実施されている.

悲報 パスワードが記載された国勢調査の利用案内が無防備にポスティングされる事案が続出

 このブログの画像に示された状況は相当に酷い.集合住宅のポストからごっそり封筒を盗むことができる.全国あちこちに,こんな状態が発生したのであろうと思われる.
 笑止千万なのは,パスワードを記載した紙に「第三者に渡らないように取扱などには十分ご注意ください」と書かれていることだ.容易に第三者の手に渡るような配付をしておきながら何をたわけたことを言っておるか.総務省統計局というお役所の間抜けぶりにへなへなと腰が砕ける.

 さて今回の国勢調査には,国勢調査の広報キャラクターに高田純次,藤原紀香,織田信成が任命された.
 高田純次は私の好きなタレントであるが,顔をみれば「テキトー」という言葉が浮かぶので,はからずも今回の国勢調査にふさわしい人選だったかも知れない.正確な調査というイメージなら水谷豊だが,警察のイメージが強いからだめなんだろうか.

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2015年9月15日 (火)

甘藷と馬鈴薯 (十)

 先日,テレビ番組で博物館網走監獄 (明治時代に建造された網走刑務所の建物を保存公開している歴史野外博物館;本物の網走刑務所から少し離れたところにある) が取り上げられていた.
 この番組で刑務所の構造を知った人が多いと思うが,昔の監獄は,看守が立つ監視室を中心にして放射状に獄舎が延びる構造であった.
 この網走刑務所と同じ様式の古い建築だったものに前橋刑務所がある.
 戦前のことは知らない (調べておけばよかったと今にして思うが,もはやその手立てがない) が,私が生まれた昭和二十五年には,煉瓦造りの前橋刑務所の西側に看守の住む公務員宿舎 (官舎とよばれていた) があり,私はそこで生まれ育った.

 映画『フラガール』には,かつて実際に人が住んでいた「炭住」の様子が描かれている.
 前橋刑務所の西側に隣接して,上に引用した炭住の画像中にあるような瓦葺板壁の四軒一棟の長屋  (この原稿を書いた時点で上の画像検索結果のトップにある「500x295 mokuu.cc」〈出典はここ〉がそっくりである;テレビで『フラガール』を観たとき,懐かしさに感動したあまり即座にDVDを Amazon に注文してしまった) が四棟あり,その西側には菜っ葉や芋,かぼちゃを植えた広い畑があった.そのまた西は利根川の河川敷である.
 畑は懲役囚が農作業し,収穫物は看守にもたまに現物支給が行われたが,さらに官舎に住む刑務所職員たちは,長屋と長屋のあいだの隙間にかぼちゃを植えたりしていた.
 昭和三十一年の経済白書には《もはや「戦後」ではない》と記述されたが,庶民の食生活はそれからあとも五年ほどは戦後状態が続いた.
 私が覚えている最も古い頃の記憶では,食事は麦飯と芋やかぼちゃの煮物と漬物であった.魚がちゃぶ台に乗るようになったのは昭和三十年代後半であり,豚の細切れ肉の登場はもう少しあとのことである.
(続く)

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2015年9月14日 (月)

甘藷と馬鈴薯 (九)

まおゆう魔王勇者』の世界では,人間界 (地上) の大陸南方諸国と,魔族の支配域との国境が戦線になっている.
 南方諸国は厳しい自然の貧しい寒冷地域であり,それでも魔族との戦争のために軍隊を維持し,戦わねばならないのだが,この南方諸国と魔族との戦争は大陸中央諸国からの莫大な戦争支援金で賄われている.すなわち,実は南方諸国は中央諸国に「安全」を売って生きているのだ.
 だが仮に戦争が終結したとすると,当然ながら中央諸国からの戦争支援金は打ち切られるため,南方諸国は,そもそも消費するだけで生産をしない軍隊を無意味に抱えることになってしまう.ところが戦争がなくなっても軍隊に食糧は必要である.つまり戦争がなくなると,ただでさえ充分な食糧生産力のない南方諸国は国家が成り立たなくなるのである.
 この南方諸国の戦争依存体質を変革するための基礎条件として,魔王は勇者に,まず農業改革の必要性を説く.
 戦争がなくなったとき,南方諸国は,中央諸国からの援助なしでも食っていけるだけの食糧自給力を持たなければ破綻するのである.
 そこで魔王は,人間界の従来農法の生産性を向上させるとともに,魔界の作物である馬鈴薯を人間界で栽培しようと試みるのであった.馬鈴薯の単位面積あたりの収穫量は,実に小麦の三倍に達するからである.

 ここら辺までがコミック版『まおゆう魔王勇者』(橙乃ままれ作,石田あきら画) 第一巻の粗筋である.
 現実にあった馬鈴薯の栽培史を,作者の橙乃ままれは,うまくファンタジーに取り込んでいるといえよう.馬鈴薯が魔界の植物であるというあたりは,なるほどと感心した.
 ただし中高生読者は,作者橙乃ままれの作り出した世界観と薀蓄よりも,石田あきらの描く魔王が好きなんだろうなという気がしないでもない.(笑)
(続く)

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2015年9月13日 (日)

甘藷と馬鈴薯 (八)

[ 馬鈴薯 ]

 かつて,2009年9月から11月にかけて掲示板 2ちゃんねる に『まおゆう魔王勇者』(橙乃ままれ作) と題したファンタジー小説作品が投稿され,ネット上で評判となった.
 この小説をほぼそのまま書籍化するという形で,2010年12月から出版が開始され,続いて複数の漫画家によるコミカライズやテレビアニメ化が行われ,今も続いている.

 最近,Amazon がしきりに私にコミック化された『まおゆう魔王勇者』(石田あきら画,角川コミックス・エース [Kindle版]) の購入を勧めるのであった.
 なにしろ Amazon が誇る消費性向解析システムが私のこれまでに購入した物品や書籍の情報に基づいて「このコミックを買いなさい,第一巻は無料にしますから」と言うのであるから,これは買うしかない.で,実際に読んでみた感想としては,対象読者層は中学生から高校生と思われるので,なんでこれを六十半ばの爺に Amazon が勧めるのかよくわからんが,まあいいや.

 さて『まおゆう魔王勇者』第一巻の冒頭,魔王が勇者に「これを見ろ」と資料を渡す.
 勇者の頭では皆目理解できないその資料を魔王は「経済的視点から見た巨大消費市場としての戦争の効用だ」と説明する.
 それから魔王は勇者に,経済的視点から見た魔族と人間とのあいだの戦争について縷々説明し,もし戦争が終わっても経済的に破綻しない世界はあるのだろうか,あるなら私はそれを見てみたいのだと語る.
 簡単にいうとこの作品は経済に関する薀蓄コミックであるわけだが,それにラブコメ風味が加わり,魔王と勇者は協力して社会変革に乗り出すのである.
(続く)

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2015年9月12日 (土)

甘藷と馬鈴薯 (七)

 前稿に示したように中国大陸からの甘藷の伝播は遅々としていた.
 中国から琉球に伝わったが,琉球の島から島へとは伝わらなかったとされる.
 それはなぜか.
 まさに甘藷が,この日本の支配制度の中で,支配される貧者が生きのびるための救荒作物であったからに他ならない.
 白土三平『はごろも』が,時代設定を誤りつつも価値を失っていないのは,鬼面山の向こうの村の男が語った次の台詞があるからである.

これは 武士たちには秘密なのだ。
よいことに これは土中に実ができるから見つからないのだ。
しかし むかしは、ひどいもんだった。
日でりがつづいたり 領主のとりたてが きびしいときは すぐに 飢え死にするものがでたものだ。
だが、このいもが南の島からつたわってきてからは そういうことはなくなった。
だがこれは ぜったいに秘密なのだ。
領主はおろか 他国の者といえども けっして知られてはならないのだ。
百姓たちだけの秘密なのだ。百姓たちだけによって守られている秘密なのだ。

 琉球から薩摩藩に甘藷が持ち込まれたのは,琉球が薩摩の支配下にあったからである.そうでなかったら,「百姓たちだけの秘密」の伝播にはもっと長い時間が必要であったに違いない.
 その薩摩は,甘藷が他国に伝播することを禁じた.島津にとって,他藩の農民が飢えて死ぬのなどは一向に構わなかった.薩摩さえ富めばそれでよかったのである.
 しかしその薩摩藩の私利我欲を打ち砕いたのが,前稿に記した下見吉十郎の《公益を図るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず》という義によって立つ志であった.

 上に《支配される貧者が生きのびるための救荒作物》と書いた.
 東京農業大学の熊谷明子氏はこれについて《救荒作物として民衆の飢えを救い、飢えによる人口減少から国家を救ったイモは、その大役にもかかわらず、窮乏する生活への登場で普及した経緯から、意識の上で、イモと貧困は連携する》と記している.(*)

(*) [PDF]新大陸原産植物サツマイモ その呼称にみる日本人の思考と表現/熊谷明子・東京農業大学

 意識の上での貧困との連携,これが実は同じ救荒作物でありながら,馬鈴薯と甘藷の歴史的な違いなのである.我が国ではジャガイモには貧困のイメージが付きまとわなかったのだ.

 甘藷の項目の終わりに参考書を一つ.
『サツマイモと日本人 忘れられた食の足跡』(伊藤章治,PHP新書)
 専門書ではないが,ここから文献をたどれる.

(続く)

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2015年9月11日 (金)

甘藷と馬鈴薯 (六)

 美しくもまた勇気ある娘の吹雪が鬼面山の向こうの地方から持ち帰った「米のかわりになる草」は甘藷であった,と聞いて諸賢はただちに「時代が違うぞっ」と思われるに違いない.
 ここで我が国における甘藷=サツマイモの歴史をまとめておこう.

[日本列島におけるサツマイモ栽培略史]
          《》は Wikipedia【サツマイモ】からの引用
1594年  フィリピンから中国に伝来した
1597年  宮古島の村役人であった長真氏旨屋が中国から宮古島へ苗を持ち帰ったのが日本最初の伝来となる.
1604年  宮古島への伝播とは独立に琉球王国沖縄本島に伝播
1612年  宮古島,沖縄本島とは独立に与那国島に伝播
1694年  宮古島,沖縄本島,与那国島とは独立に石垣島に伝播
1698年 (元禄十一年)  沖縄本島から種子島に伝わる.
領主種子島久基 (種子島氏第19代当主、栖林公) は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、琉球の尚貞王より甘藷一籠の寄贈を受けて家臣西村時乗に栽培法の研修を命じた。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したという。
1705年  薩摩山川の前田利右衛門が琉球から甘藷を持ち帰る.この甘藷がやがて薩摩藩で栽培されるようになった.
1711年 (正徳元年)   《薩摩を訪れた下見吉十郎が薩摩藩領内からの持ち出し禁止とされていたサツマイモを持ち出し、故郷の伊予国瀬戸内海の大三島での栽培を開始した。
1732年 (享保十七年)   《享保の大飢饉により瀬戸内海を中心に西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、大三島の周辺では餓死者がまったく出ず、これによりサツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。

 冒頭に《諸賢はただちに「時代が違うぞっ」と思われるに違いない》と書いたのは,白土三平『はごろも』では永禄五年 (1562年) に既に近畿北陸地方の辺りにまでサツマイモ栽培地域が拡がっていたとしているが,周知の事実として,確からしい史実では十六世紀半ばにはまだ中国にすら南方から伝来していなかったからである.
 この点に関して白土三平を批判した評者を私は寡聞にして知らない.白土三平が何を根拠に時代設定を川中島の戦いの頃にしたのか不明であるし,白土本人ももう忘れたかも知れない.古い時代の漫画家と作品なのである.

 さて上記略史に記した伊予国大三島の六部僧である下見吉十郎と,吉十郎に甘藷の種芋を分譲した薩摩国伊集院村の無名農民であった土兵衛の二人こそが,我が国のサツマイモ栽培史における最重要人物である.
 Wikipedia【下見吉十郎】から引用する.

下見吉十郎は伊予国の豪族河野氏の子孫であり、寛文13年(1673年)に大三島の瀬戸村で生まれた。4人の子供を儲けたが、幼くして皆亡くしたことから、正徳元年(1711年)6月23日に六部僧として大三島から諸国行脚に発った。広島、京都、大阪を経て九州を巡っていたところ、同年11月22日、薩摩国の伊集院村の農民である土兵衛に一夜の宿を頼み、土兵衛から甘藷(サツマイモ)を振舞われた。サツマイモがやせた土地でも簡単に栽培できることを知った吉十郎は、故郷の大三島でサツマイモを育てたいと考え、土兵衛に種芋を譲ってくれるよう頼み込んだ。瀬戸内海は、地形や気候などが独特であり、大規模な飢饉に見舞われることが多い地域であったためだ。薩摩藩は芋の持ち出しを固く禁じていたため、当初は土兵衛も吉十郎の頼みを断ったが、吉十郎が涙ながらに再三懇願したことからついに種芋を譲り渡した。吉十郎は仏像に穴を空けてそこに種芋を隠し、命懸けで薩摩国から持ち出した。このことについて吉十郎は「公益を図るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず」と記している。吉十郎は種芋を大三島へ持ち帰り、栽培に成功すると、島の農民に配って栽培法を伝授した。

 《公益を図るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず》とは,胸震えるほどの決意断言である.
 下は貧農から上は薩摩藩主に至るまで,下見吉十郎以前の者は私利我欲に囚われて甘藷の伝播を妨げてきたのであるが,ようやく下見吉十郎の手によって甘藷は救荒作物として世に顕れたのであった.まさに偉人というべきか義人というべきか.この下見吉十郎と土兵衛に比べれば,後にサツマイモの効用を説いた「蕃藷考」を著して普及に功あった青木昆陽の業績などさしたることはないのである.
(続く)

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2015年9月10日 (木)

甘藷と馬鈴薯 (五)

 鬼面山を越えた向こう側にある「米のかわりになる草」を手に入れるにはどうしたらいいのか.
 村人が相談していると通りかかった老人が「凧を使えばよい」と教えた.
 村人が名を訊ねると,老人は伊賀名張の住人百地三太夫(*) であると名乗った.

 (*) 現在の通説では,百地三太夫は伊賀流忍術の祖とされる百地丹波 (1512年 - 1581年) の孫である.この物語が1562年のことというのであるからして,時代考証としてその老人は百地三太夫ではあり得ず,百地丹波でなければならない.しかし白土三平が『はごろも』を描いた頃は百地三太夫=百地丹波というのが一般的な認識だったようだ.

 そこで村人たちは大きな凧を作り,これに乗って鬼面山の頂上に飛ばすのだが,乱気流のせいで失敗する.
 そこにまた百地三太夫が現れる.伊賀に行ってまた戻ってきたというのだが,そこで村人が「ここから伊賀は七、八十里のとこだ」と言う.今の感覚でいうと,村は伊賀から二百キロ圏内であろう.村の南側が山脈であるから,物語は飛騨地方のことなのかも知れない.

 百地は新たな策を村人たちに授けるのだが,その策を実行するには,若く勇気のある娘を三年間修業させねばならぬと言う.
 すると,村に孤児で吹雪という名の娘がいて,この娘が「あたいがやる」と申し出た.

 その後のストーリィはネタバレなので略するが,色々あったのちに吹雪は鬼面山の向こうの地方から「米のかわりになる草」を持ち帰る.すなわち甘藷であった.
(続く)

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2015年9月 9日 (水)

甘藷と馬鈴薯 (四)

 白土三平作『はごろも』は『忍法秘話 四』(小学館文庫,全六巻) に収録されている短編である.
 時は永禄五年 (1562年) すなわち川中島の戦い(*) の翌年,どことも知れぬ土地が物語の舞台である.

 (*) 戦国時代に武田信玄と上杉謙信との間で何度も戦われた合戦のうち,最大の激戦となった永禄四年の四度目の戦いが千曲川と犀川が合流する川中島を中心に行われたことから,北信濃で行われたその他のいくさも総称して川中島の戦いと呼ぶ.

 その土地の南側に,東西に連なる鬼面山という険しい山脈がそそり立っていた.
 白土三平の作画を見ると鬼面山はまるで逆断層によって生じた断崖絶壁のようであり,これが東西に走っているのは日本の地形として実際上あるのか.南北に連なるとしても支障はないと考えられるのに作者がなぜそのような土地を設定したのか,必然性が (リアリティが) よくわからない.

 ともあれ,山脈によって断絶された南北二つの地方があり,北側ではある年に旱魃が発生して大凶作になったというところから話が始まる.
 その年のある日,鬼面山の絶壁から一人の男が北側に転落した.男は手に何かの苗を持っており,「米のかわりになる草」と言い残して死んだ.
 作中の説明を引用する.
この名も知らぬ男のもたらした事実は、人々の心のなかに、いままで、たんなる憶測にしかすぎなかった「山の向こうがわには、米のかわりになる作物が、あるのではないか」ということを、確固とした真実としてうけとめさせたのである

 こうして絶壁の麓の村の人々は,鬼面山を越えた向こう側にある「米のかわりになる草」を手に入れることを試みることとなった.
(続く)

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2015年9月 8日 (火)

甘藷と馬鈴薯 (三)

 前稿で《このようなダイナミックな日本農業の変化を鑑みれば,『カムイ伝』における《百姓=農民=悲惨な生活という図式》は,一体いつの時代のどこの話だということになる》と書いたが,しかし時代小説でも漫画でも,時代背景をどのように設定するかは基本的に作者の自由である.史実と異なるとリアリティが希薄になるが,それとて「時代伝奇小説」「時代SF小説」などという枠組みを設定すればなんでもありなのだ.
 それが創作というものなのだから,昭和四十年代の学生たちが勝手に白土漫画から「史観」を読み取り,その「史観」を政治的に批判弾劾するなんてのは,お門違いもいいところなのであった.
 ついでに言うと,漫画の深読みが好きなその種の学生 (私も含めて) が当時どれくらい間抜けな阿呆であったか,今も思い出せば悔恨で胸を掻きむしりたいほどだ.その間抜け漫画世代の中でも,私が言ったわけではないが,あの声明文に「われわれは明日のジョーである」と書いた野郎こそ極北の間抜けであった.
 連中の阿呆ぶりを Wikipedia【よど号ハイジャック事件】から引用する.

身辺に捜査が及ぶことを恐れた田宮高麿をリーダーとする実行予定グループは、急遽3月27日に計画を実行に移すことを決定。しかし飛行機に乗り慣れていなかった犯人グループの一部が遅刻したために計画を変更。実行は4日後の3月31日に延期された。

よど号は北朝鮮に向かうべく板付空港を離陸。機長が福岡で受け取った地図は中学生用の地図帳のコピーのみで、航路の線も引かれていない大変に粗末なものだった。

なお犯人グループは、亡命希望先の北朝鮮の公用語である朝鮮語はおろか英語もほとんど理解できなかったため、これらのやりとりに対して疑問を呈することはなかった。

「…われわれは明日のジョーである」(原文ママ。正しいタイトルは『あしたのジョー』

 どうですか.恥ずかしいでしょう.私は彼らとは無関係ながら,上に引用した彼らの体たらくが同世代者として恥ずかしい.あの頃,一度も飛行機に乗ったことがなく,地理が不得意で,英語が全く理解できなかった私は,あの時代をなかったことにしたい.それくらいに思っているのに,彼らはそうではなかった.飛行機に乗り慣れず英語もできないない奴がなぜハイジャック実行を思いついたのか.頭が軽い.軽すぎる.
 うう.彼らと一面識もない私がこれほど恥ずかしく思っているのに,ドタバタ喜劇のように北朝鮮に行った小西隆裕,魚本公博,若林盛亮,赤木志郎の鉄面皮四人組は,今度は日本政府に無罪帰国を求めているという.たとえ木の葉が沈み石が流れようと,無罪のはずがないではないか.なめとるのか.彼らの無駄に年老いた人生が軽い.軽過ぎる.そういうのは帰ってこなくていいですから.

 閑話休題.
 物語の設定にかなり無理があるのに『カムイ伝』のようには非難されない白土作品の一つに『はごろも』がある.
(続く)

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2015年9月 7日 (月)

甘藷と馬鈴薯 (二)

 漫画作品が大人の鑑賞に耐え得るものとして人々に認識されたのは,昭和三十九年 (1939年) に『月刊漫画ガロ』で連載が始まった白土三平カムイ伝』が端緒であった.この『カムイ伝』から始まって過去の白土作品や手塚治虫など他の作家の漫画作品が文芸評論の対象となっていったのである.

 白土三平の父親はプロレタリア画家の岡本唐貴 (戦後の一時期に共産党員であった) で,白土の歴史認識 (←流行語を使ってみる ^^;) は父親の影響があるのだろう.白土自身も党員になろうとしたことがあるという.

 前稿に私が書いた《百姓=農民=悲惨な生活という図式》は『カムイ伝』の基調となっている.この図式は私たち戦後世代が受けた学校教育による「百姓」観と同質のものであったが,現在の私たちの目から見ると,いささか単純すぎるのではないかという気がする. 白土三平は漫画家であって歴史家ではなく,どこまで資料にあたって作品を描いたかはかなり疑問であると考える.

 これに対して,オリジナリティについて学問的な批判はあるにせよ,網野善彦が提示した「百姓」は,貧農から富裕な商人に至る多様な生産者像であった.
 また時間軸に沿って概観すれば,我が国の食糧生産力は基本的に右肩上がりであった (先の戦争の期間に極端な農業生産力減少をみたような例外はある).農業人口増加と農業技術の向上の結果である.
 国土を二次元でみれば,近世以前から耕作地は北に拡大を続けてきた.これも農業人口の増加が要因としてあった.
 このようなダイナミックな日本農業の変化を鑑みれば,『カムイ伝』における《百姓=農民=悲惨な生活という図式》は,一体いつの時代のどこの話だということになる.どこもかしこも常に飢饉状態にあって,農民が飢えて悲惨な境遇にあるのであれば,人口が増加し,食糧生産力が増えるはずがないからである.
(続く)

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2015年9月 6日 (日)

甘藷と馬鈴薯 (一)

[ 甘藷 ]

「百姓とはいったい何か」に関する議論は,私のような日本史の門外漢にとってはかなり難しい問題で理解しにくいところがある.
 Wikipedia【百姓】の「ノート」を読むと,
近世の百姓が農業民に限らないというのは網野説以前から近世史の通説
であるとして網野善彦の業績を否定する人と,
網野氏以前は、百姓=農民=悲惨な生活という図式が一般に広く普及し、あまつさえ学校教育でも教えられていた
として,網野善彦の果たした役割を否定すべきでないという人が議論している.
 私のように戦後すぐ生まれた世代の人間は《近世の百姓が農業民に限らないというのは網野説以前から近世史の通説》だなんていわれたら強く反感を覚えるに違いない.《網野説以前から近世史の通説》だというなら,なぜその「定説」を一般に普及させようとしなかったのだ.象牙の塔の中で,仲間内でコソコソと語り合っているだけでそれが「定説」だとは随分笑わせてくれるではないか.
 今だって,そこらの人に「お百姓さん」の意味を問えば「職業が農業の人」と答える人がほとんどだろう.網野善彦の一般向け著作を読んだ一部の国民がかろうじて《近世の百姓が農業民に限らない》と承知しているだけである.
 網野善彦の業績を否定する連中がどう事実を歪曲しようと,昭和の後半になっても《百姓=農民=悲惨な生活という図式が一般に広く普及し、あまつさえ学校教育でも教えられていた》のは事実である.いわゆる団塊の世代がそのことの生き証人だ.

 以上が前フリ.
 話は馬鈴薯のことである.
(続く)

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2015年9月 5日 (土)

連続テレビ小説

 昨日の記事に
本屋に幻冬舎文庫版の『植物図鑑』が平積みになっていて,その帯に主演の岩田剛典,高畑充希の二人の写真が載っている
と書いた.
 最近の若い女優さんについては全く知識のない私だが,高畑充希さんが来年度前期放送予定のNHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』のヒロインに決まったと少し前の新聞報道にあったのを思いだした.

『とと姉ちゃん』は,雑誌『暮しの手帖』を創刊した大橋鎭子花森安治をモデルとしたフィクションになる予定だという.
 以前から私の持っていたイメージでは,NHK連続テレビ小説のコアな視聴者層は専業主婦である.仕事をもっていると,とてもじゃないけど朝や昼飯どきの連続テレビ番組をみる時間的余裕がないからだ.
 普通の会社員が休日の時間を割いて,録画しておいた連続テレビ小説を観るものだろうかとも思っていた.
 しかし竹鶴政孝をモデルにしたドラマのおかげでニッカのウイスキーが売れに売れて,ためにフラッグシップ商品の原酒が底をつき,あろうことかこれを終売にするという情けない事件が起きたことからすると,勤め人の男たちもNHK連続テレビ小説視聴者層の大きな部分かも知れない.いつ観てるんだよ.

 とまれ,今の現役会社員たちはおそらく名前も知らないだろう大橋鎭子と花森安治がモデルとして取り上げられるのはよしとして,ただ,戦時中の自分の責任を一切の弁明もなく引き受け,良心に基づいて戦後を生きた花森安治の人生を,若い脚本家にきちんと描けるものだろうかという疑問もある.どうなるであろうか.

 余談だが,大橋鎭子といえば『すてきなあなたに』だろう.もう四十年も前のこと,当時『暮しの手帖』の定期購読者だった私は,一緒に暮らすことになった女性にこの本をプレゼントしたのを思い出す.遠い目にならざるを得ない.

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2015年9月 4日 (金)

ノビル

 有川浩さんのかなり前の作品『植物図鑑』(2009年,角川書店) が映画化されるんだそうだ.本屋に幻冬舎文庫版の『植物図鑑』が平積みになっていて,その帯に主演の岩田剛典,高畑充希の二人の写真が載っている.作品中のカップルそのままのようないい感じの二人だ.

 作中に,一緒に暮らし始めたばかりの「イツキ」と「さやか」が河川敷にノビル (野蒜) を採りに行く場面がある.

ノビルは本当に強敵だった。
 イツキですら途中で「ああ畜生!」と根を切ってしまうことがあった。特徴的な丸い球根は、細い茎で石をよけ砂利をよけながら、一体どこまでと思うほどに深く土の中に潜っている。整地されていない土手だから素直な伸び方はしていない。

 私はここの描写に少し違和感を持っている.
 というのは,私が育ったのは前橋市内の利根川河川敷に歩いていけるほどのところであるが,河川敷になんかノビルを採りに行った覚えがないからである.
 私の記憶にあるノビルは,作付けしなかった畑とか,田の畔とか,つまり石ころなんかない柔らかな土に生えるものだから,採るのに苦労したことはなかった.
『植物図鑑』のイツキはスコップを使って難儀しながらノビルを掘ったのであるが,子供の頃の私たちは大人の使う道具なんか持っていないから,そこらの木端とかあるいはせいぜい竹を割ったものでノビル採りをしたものだ.

 大学を出たあと私は長いこと静岡県に住んだが,ノビルは静岡県人にとってかなり身近な食材で,採れる季節になるとノビルの和え物は飲み屋の定番酒肴であった.
 飲み屋のおかみさんに「これ,どこで堀ったの?」と訊くと,やはり「そこら辺の畑に生えてるよ」と教えてくれるのだった.

 ただし Wikipedia【ノビル】には

葉とともに、地下にできる鱗茎が食用となる。鱗茎は地下5 - 10cmにできるため、スコップなどで掘り起こさなければならない

とあるから,地方によってノビル採りには色々なやりかたがあるのだろう.

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2015年9月 3日 (木)

デジタルリマスター (五)

[余談]
 この“Changing Partners”という歌の歌詞は大変に平易なので,普通の中学生の英語力で理解できるし,試験の答案のような英文和訳も簡単だろう.
 と思ったのだが,ネット上に爆笑ものの訳文があったので紹介する.

Changing Partners Patti Page 和訳付きバティーページ・チェンジング バートーナー
 ↑まずは動画のタイトルで爆笑.
 なるほど,いきなり「バティー」ときて,間髪入れずに「バートーナー」ですか.
 この動画の投稿者は,間違いなく日本語変換はカナ入力でタイプしているのだが,カナ入力派の人は「パ」と「バ」は打ち間違えないように気をつけているので,どうして「バティーページ」になってしまうのかが理解不能だ.「バティーベージ」ならわかるのだが.

 それはともかく投稿者が作成した訳文をみてみよう.
 この投稿者は,同じ英文に対して,二つの訳文を作ってしまっている.
 試験なら「どっちなんだ」といわれて両方とも×になるところだ.
 まあこの人は歌詞の大意はわかっているのだが,英語力が低すぎて,正しい理解ができていない.
 アップされている動画で訳文がスクロールするところを以下に引用する.

Though we danced for one moment
私たちが一緒に踊ったのは僅かな時間
and too soon we had to part
すぐに離れてしまったは
 
(↑「は」ではなく「わ」と書くべきところだ.日本語力にも問題がある)
In that wonderful moment
けれども、その素敵な時に
Somethin' happened to my heart
私のこころに素敵な囁きがあったの
So I'll keep changing partners
だから、パートナーはかえ続けるの
till you're in my arms and then
私の腕にふれるまで
Oh, my darlin' I will never
愛しいあなた、私はけっして
change partners again
パートナーを変えることはしない

 この動画の投稿者は,happen to の意味を知らないので (辞書をひけばいいと思うのだが),テキトーに《私のこころに素敵な囁きがあったの》と想像で訳してしまった.
 いったい誰が何を囁いたのであろうか.これが致命的間違いの一つ.
 もう一つの致命傷は,So I'll keep changing partners till you're in my arms and then oh, my darlin' I will never change partners again の構文がわからなかったとみえて,then を無視したことだ.だからできあがった訳文が意味不明の日本語になっている.
 英語も日本語もできないなら,こんな動画をアップして恥を晒さなくてもいいと思うのだが,おもしろい人物がいるものだ.

 もう一つの訳文例.
Changing Partners翻訳 Patti Pageチェンジング・パートナーズ

 以下に一部を引用する.

Though we danced for one moment and too soon we had to part
(私たちはほんの一瞬しか一緒に踊っていないのに、あまりにもすぐに離れなければならなかった)
In that wonderful moment somethin' happened to my heart
(けれども、その素敵な時に何かが私の元に舞い降りたの)
So I'll keep changing partners till you're in my arms and then
(だから、私はあなたが私の腕の中に来るその時まで相手を代え続ける)
Oh, my darlin' I will never change partners again
(ああ、愛しいあなた。そしてその時は、私はもう二度とあなたを放さない)

 このブログ筆者は,So I'll keep …… and then …… I will never change partners again の構文を理解している.
 だがしかし,In that wonderful moment somethin' happened to my heart を《けれども、その素敵な時に何かが私の元に舞い降りたの》とは,どうしちゃったのであろうか.いったい何が《舞い降りた》のだ.
 最初の例の《私のこころに素敵な囁きがあったの》と似たりよったりのテキトーさだ.happen to の意味がわからないなら,なぜ辞書を引かないのだろう.
 この文が「私の心の中に恋が芽生えたの」という意味であることを承知の上で,もちろんそう意訳して構わないのであるが,しかし原歌詞を尊重して「何かが私の心に起きたわ」とすればそれでいいのである.
 中学校の教室で先生に「『何か』って何ですか?」と質問されたら,「恋心です」と答えればよろしい.

 この箇所は「君慕うワルツ」でどうなっているかというと,訳詞者の音羽たかしは《胸に吹き込む甘い恋風》としている.いかにも昭和の歌謡曲調ではあるが,字数に制限がある歌詞の中できっちりと「恋」を押さえるあたり,さすがにプロの仕事であるなあ.

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2015年9月 2日 (水)

デジタルリマスター (四)

 この記事の第一回は《ある日の朝食時にラジオを聴いていたら,…… 箸を休めて聞き入ると,おお,これは江利チエミじゃないか!》と書きだしたのであるが,これはそのときにラジオから流れた江利チエミのカバーによる“Changing Partners”,つまり「君慕うワルツ」が,私の知っているSP盤のそれとは全く違う良好な音質だったからである.

 食事後すぐに Amazon で検索してみたら,2012年にリリースされたボックス版五枚組CD『江利チエミ Memories Box <洋楽編>』(KING RECORDS) に,ベスト盤の類には滅多に収録されてこなかった「君慕うワルツ」が入っているではないか.ラジオで放送されたのはきっとこれだろうと目星をつけ,早速注文した.(入荷即完売したようで,私が入手できたのは幸運だった)

 翌日配達された『江利チエミ Memories Box <洋楽編>』のディスク1に「君慕うワルツ」が入っていた.先日購入してスピーカーのエイジングが済んだばかりの YAMAHA TSX-B235 のディスクスロットに挿入し,音量大きめで聴いてみたら,結果はぴったしカンカン (死語) であった.(稿を改めて書くかも知れないけれど,この YAMAHA TSX-B235 は安価なのにかなりいい製品だと思う)

 付録の冊子をみると,この「君慕うワルツ」は1953年録音と書かれているから,SP盤からデジタルリマスターしたものに違いなく,ノイズがきれいに除去されている.
 そして驚いたことにこのCDを聴くと,SP盤音源では聞き取れなかった partners の s を,彼女はかすかに発音していたことがわかるのである.映画でも音楽でも,丁寧に行われたデジタルリマスターは実に大したものだと私は感心した.

 想像するに,進駐軍兵士たちの会話を聞いて英会話を習得した少女江利チエミは,語尾を強く発音しないようになったのではないか.会話ではそれが自然だし,ありそうなことである.
 これまでSP盤音源そのままの「君慕うワルツ」を聴いてきた私は,英語学校教育を受けていない少女時代の江利チエミは名詞の単数複数に無頓着だったのかも知れないと思ってきたのだが,そうではなかった.長年の疑問が解決して,とても嬉しい.
(もっと続く)

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2015年9月 1日 (火)

デジタルリマスター (三)

 昭和四十年代,私が通った大学には競技ダンス部があった.同好会レベルではなく多数の部員を擁する歴とした体育会系競技部だった.
 他大学にもこのようなダンス部はあり,時折それらが主催するダンスパーティが開かれていた.活動資金調達の意味合いもあったのだろうと思う.
 このような一般学生が参加できるダンスパーティは競技ダンスのレベルでは無論なく,男女交際という気分のものだった.
 私は学生ダンスパーティの経験がほとんどないのであるが,当時知ったわずかな知識でいうと,主催者側がパートナーの交替をアナウンスしたら,別の相手と踊るようにするのがマナーであった.
 "Changing Partners"の歌詞冒頭に

We were waltzin' together to a dreamy melody
When they called out "change partners"
And you waltzed away from me

とあるが,When they called out "change partners" はこのアナウンスのことを指している.
 中学校の英語であるが,和訳すれば
「『パートナーを交替してください』という声がして,そしてあなたは他の人と踊りながら私から離れていった」
である.別にフラれたわけではない.ダンスパーティはそういうものなのである.
 この change partners はダンスパーティについて用いられる慣用表現であり,ダンス以外のものすごく怪しからぬ行為で「相手を取り替える」という意味ではない (そういう文脈のときはそういう意味だが).これは試験にでるから中学生とか高校生は気をつけるように.でないですか.そうですか.

 さて本題.前稿で
これを聴くと,誰もが「あれ? changing partners ではなく changing partner って歌ってるじゃないか」と思うであろう.
 そのことについて私は書こうとしているのである.

と書いたそのこと.

 江利チエミの歌唱と

パティ・ペイジ「チェインジング・パートナー」

を比較して聴いてみる.
 パティ・ペイジは明瞭に change partners も changing partners も,複数形の s を発音している.
 これに対して江利チエミのSP盤は,最後のフレーズ Oh my darling I will never changing partners again を除いて,あとの箇所はどう聴いても change partner ,changing partner としか聞こえない.
 私はこのことについて,江利チエミの芸能活動は彼女が十二歳のときからスタートしたこと,つまり彼女が英語を,教育によってではなく進駐軍キャンプで歌いながら身に着けたことと関係があるのだろうと思ってきた.
(どんどん続く)

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