デジタルリマスター (一)
ある日の朝食時にラジオを聴いていたら,年寄りなら知らぬ者とてない往年のヒット曲“Changing Partners”が流れた.
言うまでもなくパティ・ペイジの大ヒットだが,その時かけられたラジオの曲はパティ・ペイジではなく,一瞬「ん?ブレンダ・リーがカバーしてるのかな」と思ったのだが,それもちょっと違うようだ.英語の発音がネイティヴでない.
箸を休めて聞き入ると,おお,これは江利チエミじゃないか!
その昔,第二次大戦中から二十年ほどのあいだ,アメリカ,イギリス,フランスを中心にして降る星のごとくポップスの名曲が生まれた時代があった.
戦後,それらの曲を我が国に紹介したのは進駐軍の兵隊たちであった.
現在では洋楽と総称されるが,当時はジャズと呼ばれた (今とは意味が違う) 欧米のヒット曲を何人かの日本人歌手がカバーして歌った.彼らの多くは米軍キャンプのクラブで歌うことから歌手としてスタートし,やがてレコードデビューしたのだった.
当時の日本の大衆音楽は未開の荒野に等しかったから,人々は大いに喜んで彼らのカバー曲を歓迎したのであるが,その中に一人の天才的少女がいた.江利チエミである.(昭和戦後史という文脈で天才少女歌手といえば美空ひばりをおいて他にないが,美空ひばりはその独特な唱法のために,ついに洋楽カバーで成功することがなかったのである)
江利チエミが世に出たのは,朝鮮戦争のさ中の昭和二十七年である.Wikipedia【江利チエミ】から引用する.
《進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに智惠美はドリス・ディの「アゲイン」などを習得し、ジャズ歌手への志向を高めていく。進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる。芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた(以下、「チエミ」と記述)。特にチエミをかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドからその後の「運命の曲」となる「テネシーワルツ」のレコードをプレゼントされる。
この曲を自分のデビュー曲と心に決めるも、レコード会社のオーディションにことごとく失敗する。なんとか最後の頼みの綱であるキングレコードにパスし、1952年(昭和27年)1月23日に自分の意志を貫き「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューを果たす。そのときチエミは15歳だった。》
「テネシーワルツ」は,日本ではあまり知られていない歌手が1948年にヒットさせた曲であるが,パティ・ペイジが1950年にカバーしてミリオンセラーとなった.これがあまりに大ヒットだったので,1956年にテネシー州はこの曲を第四の州歌としてしまったほどである.
江利チエミの「テネシーワルツ」もレコード四十万枚を売り上げて彼女の代表曲となったのであるが,翌年にはやはりパティ・ペイジのカバーで「君慕うワルツ」をレコーディングした.「君慕うワルツ」は“Changing Partners”である.
(続く)
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