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2015年8月

2015年8月31日 (月)

デジタルリマスター (二)

 前稿で私は《当時の日本の大衆音楽は未開の荒野に等しかった》と書いた.庶民大衆がはやり歌を覚えて歌うためのインフラ,すなわち音楽の録音と再生の技術が未発達だったからである.
 この点では欧米がかなり先行しており,事情は Wikipedia【レコード】に詳しい.

 周波数帯域もダイナミックレンジも狭く,そして何よりシェラック盤の材質に由来するノイズが激しく,また繰り返して再生することにより音質劣化が進むSP盤から,それらの欠点を革命的に改善したLP盤へと欧米では戦後急速に転換がすすんだのであるが,我が国では戦後少しのあいだ,SP盤がまだ生き残っていた.
 この頃に江利チエミはレコードデビューしたから,彼女の初期の歌はSP盤に録音されたものである.
 海外にやや遅れて我が国にもLP盤が普及すると,レコード会社と歌手たちは録音をし直した.
 筆者はいわゆる懐メロのCDを数枚所有していて,その中に江利チエミの歌唱が何曲か入っているが,それらは1950年代初めに録音された一曲を除いて1960年以降に再録音されたものである.
 その一曲がSP盤「君慕うワルツ」である.
 どんな雰囲気の曲かは,YouTube で視聴していただきたい.

(1) 君慕うワルツ(江利チエミ)"Changing Partners" by Chiemi Eri
(2) Chiemi Eri - CHANGING PARTNERS

 上の二つは同じ盤であり,私のCDに収録されているのはこれが音源と思われる.
 さてこれを聴くと,誰もが「あれ? changing partners ではなく changing partner って歌ってるじゃないか」と思うであろう.
 そのことについて私は書こうとしているのである.
(さらに続く)

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2015年8月30日 (日)

デジタルリマスター (一)

 ある日の朝食時にラジオを聴いていたら,年寄りなら知らぬ者とてない往年のヒット曲“Changing Partners”が流れた.
 言うまでもなくパティ・ペイジの大ヒットだが,その時かけられたラジオの曲はパティ・ペイジではなく,一瞬「ん?ブレンダ・リーがカバーしてるのかな」と思ったのだが,それもちょっと違うようだ.英語の発音がネイティヴでない.
 箸を休めて聞き入ると,おお,これは江利チエミじゃないか!

 その昔,第二次大戦中から二十年ほどのあいだ,アメリカ,イギリス,フランスを中心にして降る星のごとくポップスの名曲が生まれた時代があった.
 戦後,それらの曲を我が国に紹介したのは進駐軍の兵隊たちであった.
 現在では洋楽と総称されるが,当時はジャズと呼ばれた (今とは意味が違う) 欧米のヒット曲を何人かの日本人歌手がカバーして歌った.彼らの多くは米軍キャンプのクラブで歌うことから歌手としてスタートし,やがてレコードデビューしたのだった.
 当時の日本の大衆音楽は未開の荒野に等しかったから,人々は大いに喜んで彼らのカバー曲を歓迎したのであるが,その中に一人の天才的少女がいた.江利チエミである.(昭和戦後史という文脈で天才少女歌手といえば美空ひばりをおいて他にないが,美空ひばりはその独特な唱法のために,ついに洋楽カバーで成功することがなかったのである)
 江利チエミが世に出たのは,朝鮮戦争のさ中の昭和二十七年である.Wikipedia【江利チエミ】から引用する.

進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに智惠美はドリス・ディの「アゲイン」などを習得し、ジャズ歌手への志向を高めていく。進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる。芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた(以下、「チエミ」と記述)。特にチエミをかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドからその後の「運命の曲」となる「テネシーワルツ」のレコードをプレゼントされる。
この曲を自分のデビュー曲と心に決めるも、レコード会社のオーディションにことごとく失敗する。なんとか最後の頼みの綱であるキングレコードにパスし、1952年(昭和27年)1月23日に自分の意志を貫き「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューを果たす。そのときチエミは15歳だった。

「テネシーワルツ」は,日本ではあまり知られていない歌手が1948年にヒットさせた曲であるが,パティ・ペイジが1950年にカバーしてミリオンセラーとなった.これがあまりに大ヒットだったので,1956年にテネシー州はこの曲を第四の州歌としてしまったほどである.
 江利チエミの「テネシーワルツ」もレコード四十万枚を売り上げて彼女の代表曲となったのであるが,翌年にはやはりパティ・ペイジのカバーで「君慕うワルツ」をレコーディングした.「君慕うワルツ」は“Changing Partners”である.
(続く)

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2015年8月29日 (土)

瑞獣かはたまた妖怪か (三)

 さて生き物としての九尾の狐は三浦介と上総介の連合討伐軍に敗れて息絶えたが,玉藻前の霊魂は激しい執念によって那須ヶ原の石に憑りつき,近寄る者すべてを殺すほどの毒を放散する殺生石となった.
 死してなお魂魄この世に留まりて殺生してやまぬ玉藻前の執念とは何か.

 西洋中世ファンタジーから特撮戦隊モノに至るまで,「悪」と「正義」が戦う形の伝奇物語に共通するのは,「悪」側の目的意識が判然としないことである.
「悪」は一応,世界支配の野望を持っているとか漠然と設定されるのであるが,世界支配したあとどうすんの?と訊ねられたら彼は言葉に窮するだろう.そして「正義」は,「悪」を倒すことしか考えていない.「悪」を倒したらもうやることがない.こういうお伽噺が大人の鑑賞に堪えない所以である.ファンタジーの金字塔『指輪物語』もその批判を免れ得ない.

 古くから本朝に伝えられた玉藻前伝説においても,猛毒殺生石に凝集した玉藻の執念がいかなる故のものか分明でない.
 これでは単なるお伽噺であるが,そこに NHK人形劇『玉藻前』 は新解釈を加えたのであった.人形劇ではあるが,この作品は子供番組ではなかったと資料にある.(ただし私が観たのは,1961年に放送されたリメイク版を子供時間帯に再放送したものであるらしい)
 このNHK人形劇『玉藻前』は岡本綺堂原作とされていたと思うが,私の記憶ではかなり原作と異なっている.
 どう違うかというと,妖狐が朝廷に仇なすどころか,玉藻前は鳥羽上皇を愛してしまうのである.上皇もまた玉藻を熱愛した.
 しかるにそこに登場した陰陽師安倍泰親が「玉藻前の正体は妖狐である」として呪術を行い,玉藻を宮中から追放してしまう.
 そして上皇は安倍泰親の言を容れて玉藻前討伐の命を発する.
 こうして玉藻は心から愛した鳥羽上皇と引き裂かれたのみならず,その上皇に討たれるべき身の上となってしまった.
 女としてこれほど悲しく口惜しいことがあろうか.
 こうして玉藻は憎悪に燃え上がったのである.

 いいでしょ.女の愛と,裏切られた故の悲しみと憎しみ.
 これなら立派に近代的な物語である.といっても当時の私は中学生だったわけだが.
 余談だが,近代的なファンタジーでは,「悪」あるいは「妖怪」は美しい女性として造形されることが多いように思う.原作のコミカライズに際して水玉蛍之丞がキャラ造形した『まおゆう魔王勇者』もその一つだろうか.

 NHK人形劇『玉藻前』はリメイク版の映像が残っているそうである.もしかすると鳥羽上皇を愛してしまう玉藻前というのは私の記憶違いかも知れない (人間が記憶を修正してしまうのは各位ご承知のとおり) から,再々放送されたらいいなあと思うが,デジタルリメイクしないと画質が放送には耐えられないかも.

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2015年8月28日 (金)

瑞獣かはたまた妖怪か (二)

「(続く)」と書いて四ヶ月も経ってしまったので,そのあと何を書くつもりだったのか,すっかり忘れてしまった.う~む.(困惑)

 で,三浦義明と上総広常の八万の大軍勢が攻め立てたものだから,さしもの大妖怪も最後の時を迎えるのだが,あちこちの資料を矛盾なく統合して記述するのが面倒くさいので Wikipedia【玉藻前】から引用してしまう.

そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた。
だが九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪った。そのため村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたといわれている。南北朝時代、会津・元現寺を開いた玄翁和尚が、殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝わる。

 このように書いてあるが,玉藻前伝説の初期の形と思われる能「殺生石」では,毒石と化した玉藻前の霊魂は玄翁和尚によって仏道に導かれ,もう悪事はいたしませんと誓って静かに消え去る.それでこそ高僧玄翁和尚の法力であるわけだ.
 これが一番納得できる結末なのであるが,それでは面白くないからだろう,おそらく江戸期に《破壊された殺生石は各地へと飛散した》という具合に話が変形する.
 その《各地》がどこかというと Wikipedia【殺生石】には

その後、至徳2年 (1385年) に玄翁和尚によって打ち砕かれ、そのかけらが全国3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散したという。
玄翁によって砕かれた殺生石が飛来したと伝えられる地は多くある。一般に美作国高田 (現岡山県真庭市勝山)、越後国高田 (現新潟県上越市)、安芸国高田 (現広島県安芸高田市)、または、豊後国高田 (現大分県豊後高田市) と言われている

と書かれているのだが,まず第一になぜ「高田」という名の土地に飛んで行ったのかが不明である.
 次に上の四ヶ所の「高田」に本当に殺生石があるのかが不明.そしてあろうことか,玄翁和尚は最初に砕け散った三つの破片をさらに細かく砕き,それが全国に飛び散ったという尾鰭がついた話もあるのである.
 伝説の原型では玉藻前の霊魂は玄翁和尚によって成仏し,殺生石はめでたく解毒できたのであるが,後でできた話では毒石が全国に拡散してしまったことになる.こうなってはもうお話に結末がなく収拾不能だ.だめじゃん玄翁.
(続く)

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2015年8月27日 (木)

太宰治の辞書 水仙 前橋

 北村薫は昭和二十四年 (1949年12月28日) 生まれで,私と同世代である.関川夏央も同年の生まれ (1949年11月25日) である.ほぼ一ヶ月の間に新潟県で関川夏央が,次いで埼玉県で北村薫が生まれたわけだ.
 埼玉と新潟に挟まれた群馬県が私の育った故郷ということもあって,私は私と同時代を生きてきたこの二人の作家の大ファンである.

 半年前に出版された北村薫『太宰治の辞書』には,小説新潮に掲載された「花火」「女生徒」の二作と,書下ろしの「太宰治の辞書」が収められている.
『太宰治の辞書』は,ミステリィ読者に「日常の謎」ジャンルを初めて提示した「空飛ぶ馬」に始まる「円紫さんと私シリーズ」の最新作であるが,謎が解決されるという意味でのミステリィではない.「私」シリーズの形をとって北村薫の太宰治観が語られている作品である.
 ところが私は太宰治の良い読者ではなく,北村の太宰観については特に書くべきものを持たないので,作品の本筋と離れたところの感想を二つ.

「太宰治の辞書」の中ほどに

水仙――といえば、うちを建てた冬、目隠しに植えた高い夏椿の木の脇に、水仙が咲きだした。小さな白と、少し大きな黄色の花が、寒々としたフェンス際を飾ってくれた。
 ――植えてもいないのに。
 と、嬉しかった。
 うちの子が、
 ――誰かが植えていったんじゃない?
 と、素敵なことを言った。入れた土に種があったのだろう。
 ――太宰治の辞書という種から、何か花は咲くだろうか。

という箇所がある.
 私は園芸には全く素人で,水仙は球根を植えるものとばかり思い込んでいたので,「入れた土に種があったのだろう」にびっくりした.
 あわてて調べてみると,普通は球根で株を増やすが,植えてから開花までに時間はかかるけれど種から花を咲かせても別段の支障があるわけではなく,というかむしろ,異なる園芸種を色々と交配させ,種を採取して園芸を楽しんでいる人のブログなどもみつかり,私の無知に恥じ入った.

 上の引用箇所に続く「太宰治の辞書」の結末に近いところで,主人公の「私」は前橋にある群馬県立図書館を訪れ,ここで彼女の書物探索の旅は終わることになるのだが,「私」は敷島公園,大渡橋,新前橋駅,前橋市内を流れる広瀬川など萩原朔太郎の詩にゆかりの各所を巡る.
 このあたり,前橋で生まれ育った私には大変懐かしい思いがしたのだが,しかしどうも北村薫は広瀬川を過剰に美化して書いているのではあるまいかとの印象も持った.
 それでネットにあたってみると,北村がことさらに広瀬川をヨイショしているのではなかった.この川が前橋市内を流れる流域 (といっても水路のようなもの) はきれいに整備されて,私の少年時代とはかなり様子が違っていたのである.
 広瀬川の画像をご覧頂きたい.
 往時茫々.昭和三十年代の広瀬川は変哲もない用水路のような雰囲気だったような気がするのだが,今の前橋がこんな川の流れる地方都市なら,「私」の歩いたあとを私も散策してみたい.自分の故郷だけれど観光するのだ.(笑)
 ちょうど今年は年末に,身罷って久しい父の供養がある.広瀬川の流れに沿ったあたりには洒落たレストランやバーもあるらしいから,法事のあとに姉弟と出かけてみようか.

Suisen

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2015年8月26日 (水)

読者コメントについて (四)

(tak さんのコメントに対する返信の続き)

 Wikipedia【読売新聞】には次のように書かれています.

1952年11月25日、大阪読売新聞が創刊。読売新聞は、まだ宝くじの1等が400万円だった時代に、最高500万円、総額1億~2億にものぼる「福引き」をおこない、新聞業界の常識を打ち破る熾烈な拡販競争をおこなったのである。このとき関東から送られた読売新聞の拡販団は、「人相の悪い暴力団…ヤクザ風の若者」。読売新聞は、1人住まいの女性や主婦を集中的に狙い、「お届け物です」と声をかけてドアを空けさせた後、ヤクザ風に凄んで新聞を取らせる、勝手に半年契約のハンコを押す、クレームを入れると謝罪し、今度はもみ手戦術で新聞をとらせる等々、現在でも続いている拡販団による悪名高い新聞拡販方式の原型を作った。この方式は、現在では他紙に模倣されている。ただ、拡販や読者つなぎ止めで他紙と違うのは、プラチナ・ペーパーとされた巨人戦チケットを使うことである。大阪進出当時、甲子園球場の阪神タイガースと読売ジャイアンツの試合のチケットは、ほとんど読売新聞が引きうけ、阪神にとっては「読売さまさま」だった。巨人戦チケットを使った拡販は、読売の全国進出にあたって広く使われた。巨人軍が負けてはならない、強くならなければならないのは、読売拡販のためという。

 正力松太郎が闇社会との関係を用いて築き上げた読売拡張団は,上に引用したような暴力的手口によって,関東地方における発行部数で朝日新聞を圧倒しました.そして全国紙化したのちに読売と報知の合計部数で朝日を抜いたのは昭和三十年代後半,私が中学に入った頃です.そして昭和五十二年 (1977年) に読売新聞本体の発行部数で朝日新聞を抜き去りました.
 読売新聞は発行部数第一位の全国紙ですが,これは組織暴力との協力関係のもとに達成されたのであります.

 読売新聞の暴力的拡販は,今も続けられているようです.
 二ヶ月ほど前に,消費者庁の特定商取引法専門調査会が開かれ,訪問販売の規制を強化するという議論が行われました.
 この調査会では新聞の暴力的購読勧誘の規制が焦点となっています.
 消費者庁の調査によると,国民生活センターに寄せられた新聞勧誘に関する苦情は年間一万件くらいあり,苦情件数は一位が読売新聞社(発行部数約920万),次が朝日新聞社 (同約710万),毎日新聞社 (同約330万)となっています.
 そこで調査会の議論に日本新聞協会の理事である読売新聞東京本社の山口寿一社長が招かれました.
 現在は特定商取引法で,一度断られたら再度の勧誘は違反となる規制がありますが,これについて山口社長は「一度断られても,やはり取っていただくということも現実には多々ある」と発言しました.これは新聞業界が法律違反を行っていることを,堂々と公式に認めたことを意味します.恥を知らぬとはこのことであります.
(ちなみにこの六月の調査会において山口社長の発言を嘲笑した委員がいたとして,読売新聞社はグループ本社の永原伸社長室長名で,山口俊一消費者庁担当大臣,板東久美子消費者庁長官,河上正二消費者委員会委員長に内容証明郵便で抗議書を送付しました.社会の木鐸を気取っておきながら裏で法違反をしている新聞社が,その鉄面皮を嘲笑されて逆ギレし,抗議するとは何様のつもりなのでしょう)
 消費者保護の観点からして重大なこの山口発言を報じたのは週刊誌メディアであり,新聞はだんまりを決め込みました.いかにも新聞というものの手前勝手な体質が露呈した事件でした.

 さてブログ読者のコメントへの回答としては長文になり過ぎました.
 稿を改めて書くことがあるでしょうから,いったん筆を置きますが,私が《なんとなく朝日新聞や読売新聞を全部善良な人々だという前提に立っていると思います》との tak さんのご指摘は全くの誤解だということをご理解ください.朝日や読売の人間が全員悪人だとは思っていませんが,読売については目に余るものがあるため,何度もこのブログで批判をしてきました.
 私は駅売りの新聞は毎日新聞を買います.全国紙の中では記者の質が高い方だと思うからです.ほんとにページ数の少ない新聞ですが,同じお金を払うならコスパの高い新聞がいいですね.朝日新聞とか読売を読んでいたら世の中を見誤ります.全国紙,特にこの二紙は拡張団を必要としないビジネスモデルを構築しない限り,信用してはいけないと考えるものです.

[追記]
 企業で法務関係の仕事に長年携わりますと,ピンポイントの分野,例えば食品会社の場合ですと食品衛生法とかJAS法,あるいはサプリメントに関する法令などについては会社の顧問弁護士と議論できるくらいの力がつきます.企業の人間はその上で弁護士の指導を受けるわけですね.ですから《ロースクール生顔負けの分析力》なんて言われると,貶されたに等しいのでちょっとムカッとします.この点,老婆心ながら一言.

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2015年8月25日 (火)

長い前書き

 佐野眞一というノンフィクション作家は,著作における数々の剽窃盗用が明るみに出て,すっかり信用を失って過去の人になったかと思っていたら,そうでもないらしい.週刊文春の先週号に佐野の「特別寄稿 沖縄の怪物 大田昌秀の70年」が掲載されていた.

 私の中では,平気で盗用やら剽窃をする佐野はもう全く最低の物書きであるので,書いていることに一々難癖をつけたくなる.
 で,以下に難癖を一つ.

「沖縄の怪物 大田昌秀の70年」の冒頭に近いところに次のような文章がある.
その記者は「加えて、大田は意外にも学歴コンプレックスの持ち主でもあるんです」と言って、こんな興味深いエピソードまで披瀝してくれた。
 グラビアアイドルのC.C.ガールズが知事室を訪問したとき、大田は開口一番、『君たち大学はどこ出ているの?
と聞いた。C.C.ガールズの一人が、『私たち、全員高卒で~す』と明るく答えると、大田は黙り込んでしまい、その場にいた全員がシーンとなってしまった。

 このあと佐野眞一は,戦前の沖縄に高等教育機関がなかったことに触れて,
これを聞いて、大田の学歴コンプレックスの根源的理由がわかった。
と書いている.まるで馬鹿である.
 佐野も,佐野に件の大田のエピソードを教えた記者も,大馬鹿野郎である.

 そのエピソードは,人間の中身ではなく見た目の美醜を金に換えて口に糊するグラビアアイドル (Wikipedia【C.C.ガールズ】 には「セクシー・グループ」とある) という職業に対する不快感を大田が露骨な態度で示したということを意味している.
 斟酌すれば大田の心中は「きちんと教育を受けたあとならばともかく,学校も出ずに何をしているのか君たちは!」だったと思われる.(グラドルに対するそのような見方が正当かどうかは別の問題であるし,私は不当だと考えるが)
 しかしそれはそれとして,佐野の文章についていえば,「学歴コンプレックス」はこういう場合に使う言葉ではないのである.佐野は作家と称しているが,日本語を知らぬとみえる.

 大田昌秀元沖縄県知事は,父親不在で母親の豆腐作りだけが収入という貧困家庭に育った.
 尋常高等小学校を卒業後したが進学する学費がなく,母校の用務員となった.母親はこの頃,その小学校の給食係として働いた.用務員はほとんど無給であったらしい.
 ところがこの時代の多くの教員が,優秀な子供を上級学校に進学させることを教育者の使命と心得ていたように,この尋常高等小学校の校長も大田を東京の工学院に進学できるよう手配してくれたという.全国にこの校長のような人物が大勢いたのが,この時代なのである.
 さて曲折あって大田はその後,工学院ではなく沖縄師範学校に進学したが,在学中に鉄血勤皇隊に動員され,沖縄戦の最後に摩文仁の丘 (参照 Wikipedia【沖縄戦跡国定公園】) で捕虜となった.
 やがて捕虜収容所から解放された大田は,嘉手納の米軍基地下士官クラブでバーテンダーをするなどの苦学をしつつ,早稲田大学文学部に進学した.
 早大在学中に渡米して米国シラキュース大に留学し,帰国後に琉球大学学長秘書となり、琉大タイムスを発刊する。
 やがて琉球大学教授となった大田は沖縄戦の歴史的研究に取り組んで『総史沖縄戦』(1982年,岩波書店) などの著作を刊行したのち,平成二年に琉球大学を辞職して沖縄県知事選挙に出馬し,現職西銘順治を破り当選したのであった.

 大ざっぱな紹介であるが,このように元沖縄県知事大田昌秀は戦争と貧困の中にあっても教育を受けることを望み,学問を志して自らの運命を切り開いてきた.学歴のことを云々するならば,大田ほどの学歴を有する者は希である.この生き方のどこに「学歴コンプレックス」があるのか.説明してみせよ,佐野眞一.
 どうやら佐野眞一は以前にも大田を揶揄する記事を書いたことがあるらしく,それはこの「沖縄の怪物 大田昌秀の70年」の冒頭に自分で書いている.この文春の佐野の寄稿文中にはさらに《那覇一のネオン街の高級クラブで…顰蹙を買っている》とか《大田の高級志向》とあり,つまるところ佐野眞一は大田昌秀を貶めたいのであると考えられる.

 で,前フリの佐野眞一のことはこれで終わって,話はいよいよ本題のC.C.ガールズだ.懐かしいなあ.調べてみたらまだ活躍している人もいるようだし,結婚して芸能界を引退した人もいる.よかったよかった.
 それはいいとして,何しに大田県知事を表敬訪問したのかがわからない.彼女たちは沖縄出身なんでしょうか.総理大臣なんかの場合は,各地の特産品○○娘さんたちが桃だとか芋だとかを持って総理に面会し,一緒に写真を撮って郷土の宣伝をしているが,C.C.ガールズは何を持参したのだろうか.
 沖縄の地場産業振興に無関係で,自分たちの新曲CD以外にな~んにも持ってこない意味不明の訪問だったら,多忙の知事が時間を割いて会う義理は全然ないわけであり,大田知事が不機嫌になって嫌味の一つも言ってしまうのは無理もないよなあと思った.

 あー鉄血勤皇隊や摩文仁の丘まで出してここまで引っ張っておいて,本文がたったそれだけか.はあ,すみません.

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2015年8月24日 (月)

読者コメントについて (三)

(tak さんのコメントに対する返信の続き)

 他人を責めるのは好きだが自分には大甘な人間というのは嫌われ者です.
 全国紙の新聞がこれと同じで,御存じのように新聞は他紙の不祥事を好んで報道します.
 例えば読売新聞関係者の暴力沙汰を朝日新聞が報道すると,朝日新聞関係者の盗撮事件なんてのを読売新聞が伝えて報復したりします.
 一般市民にとってはどうでもいいそんな事件を,各紙ニュースサイトのトップページに置いたりして,まことに見苦しい限りであります.
 だがしかし,両紙がお互いに触れない相手の恥部があります.それが拡張団の存在です.我が国におけるタブーの一つであるといっていいでしょう.

 私は学生時代から現在までに十数回の転居をしましたが,そのたびに読売と朝日の購読勧誘員の訪問を受けました.そして何度か読売の拡張団員に,玄関先で大声を出されたりドアを蹴られるなどの脅しを受ける目にあいました.
 毎日と日経の勧誘員がきたことはありません.日経は各戸訪問して部数拡張する必要がない新聞だからであろうし,毎日新聞はそういう部数拡張競争をやってこなかったから現在のような状態になったといえます.
 従って部数拡張競争,つまり拡張団の問題は読売と朝日の問題といえます.
 ネット上には朝日新聞拡張団員による暴力的勧誘に関する記事もありますが,私の体験に基づく印象では,暴力団構成員は読売拡張団に多いのではないかと思います.
 なぜ暴力団構成員が読売拡張団に多いのか.実は読売拡張団の問題の前に,読売新聞社そのものと闇社会との関係に注目しなければなりません.
 Wikipedia に詳しく記述されているように,読売と組織暴力との関係は,読売中興の祖と呼ばれる正力松太郎社長の時代に始まります.

 Wikipedia【正力松太郎】に以下のようにあります.
東京帝国大学法科大学卒で内務省に入り、警視庁警務部長になったが、虎の門事件の警備責任から引責辞職した。
翌年、経営難で不振の読売新聞を買い受けて社長に就任し、新聞界に転じた。以後、政財界に影響力を拡大。1940年(昭和15年)の開戦時は大政翼賛会総務であったためにA級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、巣鴨プリズン収容者の1人となった。このためしばらく公職追放処分を受けた。
戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたる中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)をおこなっていたことが、アメリカで保管されている公文書により判明している。

 また Wikipedia【読売新聞】には次のように書かれています.

社務を統括する総務局長に警視庁特高課長の小林光政、販売部長には警視庁捜査係長の武藤哲哉、のちの読売巨人軍代表の品川主計など、警視庁人脈を中枢に入れて社内の労務支配をおこない

後の法務大臣、秦野章の証言によれば、
販売にも警視庁の刑事あがりを使ったというんだな。あの当時は、“オイコラ警察”の時代だから、刑事あがりにスゴまれりゃ、新聞をとらざるをえない。そうやって片っぱしから拡張していったんだって、正力さんは自慢そうによく言っていたな。

競馬の予想記事や漫画欄を作ったりして、庶民向きの読みやすい紙面作りを進めたが、その推進役は編集局長になった柴田勝衛である。…この柴田が正力社長の下で起死回生を狙ったのが、日本各地に縄張りを持って君臨していた、素性の知れたヤクザの親分衆36人を選んだ企画であり、『人物の森』風の人物評伝に仕立てて連載すると、それが評判になり売り上げを大いに伸ばした。
連載が終わった年の正月のことである。紋付きハカマに正装した36人の親分衆が市電を止めて数寄屋橋の大通りに並び、読売新聞社の正面玄関に向かい土下座して一斉に頭を下げると、「柴田編集長にご挨拶したいので、読んで頂きたい」と申し入れた。…柴田は悠然と正面玄関に現れたのであり、その前にひれ伏した親分衆の代表が、「われわれのような日陰者を、こんな晴れがましい紙面で世間様に紹介くださり、光栄の至りに思う次第であります。このご恩は孫子末代まで忘れることはせず、…、われらの血筋が続く限り読売新聞の進展に死力を尽くすことを、ここで一同で誓約いたします」と言って、粛然と引き上げていったそうである。

田辺則雄発行名儀人(昭和27年頃)の話によると、読売新聞の社会部は大躍進を遂げ、親分衆の協力による物凄い特ダネ続きとなり、下町衆の支持を受け売り上げを伸ばした。…社会部長の田辺則雄も、読売の名物男で、戸籍にバツ印(×)が11も付いており、幾ら日本の新聞界に人材がキラ星でも、前科11犯はそうザラにある話ではない。…親分衆から一目を置かれる存在だったという。こんな伝統があることが大きく影響して、朝日を始め他社は暗黒街の取材が仲々出来ないのに、読売の社会部だけはスクープを記録し続け、新聞界では未だに一頭突出するのだそうだ

 このようにして警察出身者によって作られた読売新聞社と闇社会の関係は,関東のローカル新聞に過ぎなかった読売新聞が全国紙化するにあたって大きな戦力となりました.
(もっと続く)

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2015年8月23日 (日)

「小汚い」か「汚い」か

 娘夫婦がそろって拙宅にきたときに,雑談で私が
「日高屋は安くて盛りが多くて,味噌ラーメンなんかはトッピングのモヤシ炒めが麺が見えないくらいに山盛りで,あれは大変によろしい」
と言ったら,娘の旦那が
「ですよね,ですよね~」
と喜色満面で賛同した.
 なんでそんなに嬉しそうなのか質してみると,妻 (私の娘) が日高屋を大いに貶すからであるという.買い物のついでに昼飯を食おうと日高屋を提案したら断固拒否されたそうである.

 昨日,ネットに《【男子必見】女子を誘ってドン引きされる / 許せる外食チェーンまとめ
と題した記事があったので読んでみた.
 デートのときの食事として若い女性が嫌う店の一覧が載っていたのであるが,それは以下のお店である.

すき家
 松屋
 吉野家
 なか卯
 日高屋
 バーミヤン
 大阪王将
 餃子の王将
 ぎょうざの満州
 幸楽苑
 山岡家
 ラーメン二郎
 くるまやラーメン
 ラーメン花月
 やよい軒
 ガスト
 サイゼリヤ
 ジョイフル
 夢庵
 マクドナルド
 ロッテリア
 バーガーキング
 ファーストキッチン
 ドムドムバーガー
 CoCo壱番屋
 ゴーゴーカレー
 富士そば
 かつや
 かっぱ寿司
 はま寿司
 はなまるうどん
 丸亀製麺
 すたみな太郎
 ウエスト
 すがきや
 半田屋
 ドトール
 ベローチェ
 プロント
 和民
 白木屋
 魚民
 庄や
 さくら水産
 リンガーハット
 ステーキのどん
 ステーキ宮
 ビッグボーイ
 ステーキのくいしんぼ
 そこらへんの定食屋
 ラーメン屋全般(六本木ヒルズや表参道ヒルズ、東京ミッドタウンにある店除く)
 ショッピングセンターのフードコートにある店
 小汚いとこ

 この一覧を眺めてみると,これらの店を女性が嫌う理由がなんとなくわかるような気がしないでもないと言うにやぶさかではない.
 つまりは一番最後にある「小汚いとこ」という種類の店であり,われらが日高屋も堂々の登場である.

 ところで,日高屋という外食チェーンで気を付けなければいけないのは,「小汚いとこ」と「汚いとこ」があることである.
 おそらく店長の資質によるのであろうが,実際に衛生的な意味で汚い店があるのだ.
 例えば東京の国分寺駅南口から歩いて一分の好立地にある日高屋.
 テーブルの上面がなんとなくペタペタしており,端っこのほうは明らかにベタベタ汚れている.
 想像だが,テーブルを拭くに際して,洗濯したこともない雑巾を用いているのではないか.
 日高屋の他の店舗では箸入れに蓋付の箱を使用していることが多いが,この国分寺駅南口店では,筒形の箸立てに樹脂製の箸が突っ込んで立ててあった.
 注文した味噌ラーメンが来るのを待つあいだ,何気なくその箸立ての中を見て私は腰が抜け,席から転げ落ちた.
 綿ボコリのようなゴミだらけだったのである.
 逆さにすればゴキブリの卵が転げ出てくるやも知れぬ阿鼻叫喚の有様だったのである.
 幸運にもそのとき私はバッグの中に濡れティッシュを持っていたので,箸を周到に拭って使用した.

 しかしまあ,こういう店もあるにはあるが,店長がまともでちゃんと清掃の行き届いた店舗もあるので,勤め人の安直な飯屋としては捨てきれない.味噌ラーメンはトッピングのモヤシ炒めが山盛りだしね.
 であるが,若い男は彼女を日高屋には連れていかないほうが無難ではある.

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2015年8月22日 (土)

読者コメントについて (二)

(tak さんのコメントに対する返信の続き)

 昨日の記事で,
ですが,洗剤などの景品を使って新聞の部数を拡張することが「クロレラ以上のこと」にあたるとは私には思えません.
 クロレラなど薬効が認められない健康食品のバイブル商法は,歴とした薬事法違反でありますが,例えば朝日新聞社の購読勧誘員 (ほとんどは販売店の者) が洗剤を配って部数拡張活動をするのは (していたのは) 新聞社各社が集まって決めた取り決めに違反するに過ぎないからです

と書きました.
 読売の購読勧誘員が巨人戦のチケットを配ろうが朝日のそれが洗剤を配ろうが,それは大した問題ではないのです.
 では何が問題か.
 新聞の購読勧誘は,組織暴力団の資金源,いわゆる「シノギ」になっているのです.
 上には穏やかに「購読勧誘員」と書きましたが,一般には「拡張団員」(参照 Wikipedia【新聞拡張団】)
といいます.
 Wikipedia【新聞拡張団】にこう書かれています.
新聞拡張団(しんぶんかくちょうだん)とは日本の新聞販売において、新聞社や新聞販売店とは別の団体で新聞の訪問勧誘を行う団体をいう。「拡販団」や「新聞ヤクザ」といわれることもある。一部新聞社や新聞販売店から委託を受けているものもある。

 この新聞拡張団は,朝日・毎日・読売・日経・産経・東京の六新聞社の合計で一万人弱だといわれています.
 私が小学生だった昭和三十年代,うちに読売の拡張団員が来ると,ほんとに恐ろしかったですね.
 木造平屋のあばら家 (公務員官舎) の玄関引き戸を壊れんばかりに叩いて「読売でーす」と言う.
 応対は父親がしますが,母と子供たちは奥に避難します.奥といっても六畳と三畳と台所のネズミ小屋ですから,団員の声はそのまま聞こえます.ほとんど恐喝です.
「なにぃ,一ヶ月とりますだと~,俺をなめてるんか,新聞ってのはなぁ六ヶ月とるもんなんだよオッサン」
とまあこんな雰囲気で,当時の (現在はさすがにこれほど酷くはないでしょう) 読売新聞の購読勧誘は行われていたわけです.

 で,押し問答の末になんとか三ヶ月購読で話がまとまり,「んじゃあ三ヶ月で許してやらあ,ハンコ出しな」と言われて認めの印鑑を小さな購読契約書に押そうとすると,団員に印鑑をもぎ取られ,ペタペタと勝手に六ヶ月分を押されてしまいます.
「ありゃあ間違ったよ,六ヶ月分押しちゃった,わるいなオッサン」

 彼らの報酬は歩合制で,六ヶ月契約を一つよりも三ヶ月契約を二つの方が実入りがいいこともあるらしく,二枚の契約書に捺印されてしまうこともありました.
 相手が気の弱そうな人物である場合は,読売の拡張団員は巨人戦のチケットも洗剤もくれないわけで,いつも何ももらえない私の父は,団員が引き上げると肩を落として暫く無言でありました.
 読売新聞拡張団員の暴力的な購読強制に屈する父親の姿には哀しいものがあって,私は死んでも読売は購読しないと心に決めました.そして,どんなに脅されても,家族に読売新聞拡張団員に屈する姿は見せないと誓ったのであります.(笑)
(テンションあがって,さらに続く)

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2015年8月21日 (金)

読者コメントについて (一)

 この四ヶ月の治療中は,面倒くさくて自分のブログをチラ見もしなかったのであるが,さーてと腰を上げてココログに接続してみたら,あ~ら不思議あら不思議,書き殴り言い放しのこのブログにコメントがついているではありませんか.
 当該記事「サン・クロレラ販売に鉄槌 (2015年1月22日掲載)」のコメント欄では読みにくいだろうから,以下に転載する.

[コメント]
中身は法律家やロースクール生顔負けの分析力ですが、なんとなく朝日新聞や読売新聞を全部善良な人々だという前提に立っていると思います。
読売新聞の拡販員が問題を起こしても「あれは別会社だから」
販売所に聞いても「あれはうちがやっているところじゃない」
現実に拡販員は契約関係をもっている。なかったら報酬が受け取れませんから。
クロレラやア○リ○スは広告役が別でそれが勝手に研究者や医者の肩書きをもっている人に都合よく広告や本を書かせているだけとも言えます。
ところが、新聞社は直に近いし昔は亡きよみうりランドや巨人戦の優待券をもってきたんですから。
政治でも気にくわない政治家の時は、無茶苦茶な学者でも
「叩け」と指令したら叩く人を揃えて叩かせる。
放送法と違って責任をとらなくてよいと勘違いしてる気がします。
そういう超大手新聞社は全体としてクロレラ以上のことをやらざるを得ないのでしょう。
昨日の東京新聞だって東京新聞の1面で櫻井よしこさんの「正義の」嘘という本が広告されていました。「平和、弱者、隣国、原発・・・戦後正義の暴走が一目瞭然!」というコピーで。
あと、11面で鈴木穣という人が「先送りされた年金改革」というタイトルで社会保障切り下げを主張されてました
基本的にそういう人たちで例外的に受け狙いで違うのが出ると考えた方が良いと思うことがあるのです。

投稿: tak | 2015年4月29日 (水) 10時57分

 tak さん,コメントありがとうございます.

>中身は法律家やロースクール生顔負けの分析力ですが、なんとなく朝日新聞や読売新聞を全部善良な人々だという前提に立っていると思います。

 tak さんのお歳は存じませんが,私くらいの年齢の人間ですと,頂いた上のご意見とは逆に,《朝日新聞や読売新聞を全部善良な人々だという前提に立っている》者はほとんどいないと思います.むしろ圧倒的にアンチ朝日新聞だろうと思います.私もそうです.
 よく朝日,岩波,NHKと,三つ並べて,その権威主義的な世間の評価を嘲笑します.
 これは無理やりな語呂合わせなので岩波書店がちょっとかわいそうですが,しかし朝日新聞が好きだと公言するのは昔からいささか憚るところがありました.昔は朝日文化人という言葉もあって,知識人でそのように呼ばれるのは少々恥ずかしいことでありました.
 その理由の一つに,朝日新聞の思想的無節操ということがあります.
 先の戦争では朝日も毎日も読売も,こぞって皇国の聖戦断固遂行を主張し,日本国民一億総火の玉,ポツダム宣言なにするものぞと徹底抗戦の旗を振ったわけでありますが,朝日と毎日は敗戦直後に掌をかえしました.反省したといえば格好いいが,あまりにも鮮やかな掌返しだったので,また戦争になれば必ずや再び掌返しをするに違いないだろうとの疑いを国民に抱かせたのであります.

 余談ですが,朝日新聞社旗は旭日旗 (参照 Wikipedia【旭日旗】) です.
 戦時中の戦局報道宣伝映画では,旭日旗が翻り,軍艦マーチが流れる画面が定番中の定番でありました.もっとも有名な旭日旗は大日本帝国陸軍軍旗です.海軍軍艦旗も旭日旗でした.
 ですから,戦時中ならいざ知らず,朝日新聞社がなぜ戦後の思想的掌返しのときに社旗を新たなデザインに変えなかったのか.大変に不思議です.このような疑問を持つのは,隣国政府ならずとも,もっともなものだと思うのですが,朝日新聞社はこれについてノーコメントを貫いています.旭日旗と訣別できない事情でもあるのでしょうか.

 もう一つ余談.現在のテレビ朝日の社長は吉田慎一氏ですが,吉田氏は昨年の六月まで朝日新聞社上席執行役員として長きにわたり編集部門 (編集局) のトップでした.(編集局とは何かについては後述)
 吉田氏は小学生時代から出身地の群馬県前橋市で,いやもしかしたら群馬全県で名前の知られた神童でした.
 その彼が東大文科一類に入学した年に,東大は無期限全学ストライキに突入して多くの学部が全学共闘会議によってバリケード封鎖されたのですが,当時の前橋市内に「あの吉田さんちの慎一くんが暴力学生になったらしい」という噂が流れました.どうやら全学共闘会議の活動家になったらしかった (彼とは口もきいたことがないので本人に確認したわけではないですが) のですが,こんな噂が市民の口の端にのぼるくらいの神童だったわけです.ちなみに知名度は吉田慎一氏よりもはるかに高い糸井重里さんは同じ高校の一学年上級で,当時こちらは法政大学のバリケードの中にいたと糸井さんの同級生から聞いていますが,学生時代の糸井さんは郷里では全然有名人でなかったせいで,「糸井重里くんが暴力学生になったらしい」という噂は全く立ちませんでした (笑).
 さて東大のバリケード封鎖は翌年に解除されて,東大は元の木阿弥の日常に戻ったのですが,この時,全共闘の活動家の中には自らの意志として大学から去った人たちが少なからずいました.また,再開された講義に出席したくても民青の活動家に追求つるし上げされるために講義にでられず,おそらく留年を余儀なくされたのでしょうが,消息不明になった級友もいました.
 そのような状況のなかで吉田慎一氏は鮮やかに日常性に復帰し,法学部卒業後は朝日新聞社に入りました.掌返しの吉田氏が掌返しの朝日新聞社に就職したと聞いて,私は「なるほどなあー」といたく感心したものです.
 ただし,彼の処世に感心はしましたが,こういう人は誰にとっても友人たるべき人物ではないなあと思われ,ずっと後年,ネット上の Business Journal 誌で《朝日新聞を御役御免になった、テレビ朝日新社長のご立派な“経歴”~人望ゼロ、公私混同…》と題した記事を読んだときには,「なるほどなあー人間て変わらないものだ」と,これにもいたく感心しました.

 閑話休題.上述した朝日新聞社の編集局ですが,戦後民主主義の牙城たる新聞社といえども汚れ仕事はあるもので,発行部数拡張もその一つ.
 朝日新聞社は,会社経営者の他に「社主」が存在するなど複雑な内部事情もあって,企業としての朝日新聞社の経営責任から編集局トップを隔離するという姑息な手段により,紙面の中立性を取り繕うという体裁をとってきました.

>そういう超大手新聞社は全体としてクロレラ以上のことをやらざるを得ないのでしょう。

 ですが,新聞社が洗剤などの景品を使って新聞の部数を拡張することが「クロレラ以上のこと」にあたるとは私には思えません.
 クロレラなど薬効が認められない健康食品のバイブル商法は,歴とした薬事法違反でありますが,例えば朝日新聞社の購読勧誘員 (ほとんどは販売店の者) が洗剤を配って部数拡張活動をするのは (していたのは) 新聞社各社が集まって決めた業者間の取り決めに違反するに過ぎないからです.
(長くなるので次稿に続きます)

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2015年8月20日 (木)

復帰第一日

 人間はなかなか死なないものであるなあ.
 一時は寝たまま身動きできぬ状態であったが,脳とか内臓の重大な故障でなければ,いつかは起きあがれるわけで,ようやく不自由ない日常生活に復帰することができた.よかったよかった.長い距離を歩くのはまだ辛いのではあるけれど.

 さてそれでブログを再開することにする.
 が,四ヶ月ものあいだ,何も書かずにいたので頭がふやけてしまっている.初日はブログ再開するとだけ書いて続きは明日.

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