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2015年4月 9日 (木)

瑞獣かはたまた妖怪か (一)

 私が中学生のときのこと.
 NHKが夕方に放送した人形劇があった.番組のタイトルは記憶にないが,物語は平安朝を舞台にした九尾の狐,玉藻前のお話であった.

 万年を生きながらえた狐は,これを瑞獣とすることもあるが,おおかたは大妖怪とするであろう.
 齢古びた狐は次第に一本,二本と尾が増えていき,最終的に九本になる.これが妖狐の最高位である白面金毛九尾の狐だ.
 これは千年万年も生きた大妖怪であるから,そうあちこちにいるわけではない.平安時代の我が国に現れた九尾の狐はそもそもは中国の出身である.
 すなわち中国古代王朝である殷の時代,帝紂王の妾の体を乗っ取り,帝を誘惑して殷を滅亡させた妲己が九尾の狐であった.

 また殷を滅ぼした周王朝第十二代の王である幽王の后の褒も九尾の狐とされる.
 褒については Wikipedia【幽王 (周)】につぎのようにある.

褒ジ (ブログ筆者註;「ジ」は「女+以」) は笑うことをしなかったために、幽王はさまざまな方法で笑わせようとしたがいずれもうまくいかなかった。しかし絹を裂く音で僅かに微笑んだことで国中の絹を徴収し裂き、更には烽火を用いて諸侯を集結させると褒が笑ったことから、しばしば戯れに烽火を用いて諸侯の信頼を失い、烽火を用いても諸侯が集結することは無くなったという故事がある。また幽王は阿諛追従に長け王族でもある佞臣の虢石父を卿に任じ、国人の怒りを買っている。
これらの失政に廃后、廃太子の件もあったことから、申后の父である申侯の恨みを買い、申侯は西夷犬戎と協力して幽王を攻めた。この時、幽王は烽火を以って救援を頼んだが、すでに諸侯で幽王の下に馳せ参じる者はいなかったという。幽王は驪山で殺され、褒は捕らえられて行方不明となり、ここに西周は滅亡した。

 私はこの褒の伝説を高校の漢文教科書で読んだ記憶があるが,それは史記の一節であったかも知れない.ただしその文章は九尾の狐について触れていなかった.
 それはさておき,西周の滅亡とともに行方不明となった九尾の狐は,本邦歴天平勝宝五年 (753年),若藻という少女に化けて在唐の吉備真備に接近してこれを惑わし,阿倍仲麻呂や鑑真和尚らが乗る第十回目の遣唐使船に乗船した.

 この第十回遣唐使船は,十二月某日に出航してほどなく暴風に襲われ,遣唐使・藤原清河の乗る大使船は南方まで漂流して遂に日本に到着できなかったが,副使の大伴古麻呂が乗った船はよく持ちこたえ,当時の薩摩国川辺郡坊津の港に無事到着した.
 大伴古麻呂の船が無事であったのは妖狐の霊力によるものであったろうか,とにかくこの船に九尾の狐は乗っていたのである.

 若藻は来日後,藻女 (みずくめ) と呼ばれて子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ,美しく成長した.
 やがて十八歳で宮中に仕える身となり,のちに鳥羽上皇に仕える女官となって玉藻前 (たまものまえ) と名乗った.玉藻前はその美貌と博識から鳥羽上皇に寵愛され,契りを結ぶこととなった.あーここで契りというのは,貴君ご想像のごとくに契ることであります.たとえ帝といえど,男が,美貌と博識を備えた無敵の性悪女の手におちるのは古来本邦の慣わしであるが,契った結果,帝は衰弱してしまった.まあ,女が九尾の狐でなくても,ありがちなことではある.健康のため契りすぎに注意しましょう.

 しかしこのとき陰陽師安倍泰親が,鳥羽上皇にとり憑いて国を転覆せんと企む玉藻前の正体を九尾の狐と見破り,「泰山府君」の祭祀 (これは夢枕獏『陰陽師』にでくるので読者にはおなじみ) を行って玉藻前を宮中から追い払った.

 それから十七年後,十七年間ものあいだどこで何をしていたんだという疑問はさておき,都を追われた九尾の狐は下野国那須野原に住み着いて,その地で女子供をさらうなど悪行を働いた.
 那須の領主からこの報告を受けた帝は,妖狐討伐のために相模国三浦郡衣笠の武将三浦義明と,上総・下総二ヶ国に所領を持つ東国最大勢力の上総広常,それとこの件に発端から関わった安倍泰親が率いる八万の大軍勢を那須に派兵した.
 討伐軍と妖狐,両者激しい戦いの結末は如何に.
(続く)

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