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2015年4月

2015年4月11日 (土)

大丈夫か海野凪子

 書いてる途中の記事 (「マック崩壊」「瑞獣か…」) が二つあるのに,週刊文春の連載コラムに文句があるので,そのこと.

 週刊文春の新連載コラム「海野凪子の いまさら聞けない日本語」筆者の海野凪子という人の現在の肩書は日本語教師で,その前は高校の国語教師だったという.日本語,日本文学を題材にした著書が多数あり,Amazon のレビューでは高評価を得ている.
 で,この人が週刊文春今週号 (4/16号) に,次のようなことを書いている.

「その手は桑名の~」は諺や故事ではないので、教科書に載っていないし、学校で教わることもありません。ただこれは教養の一部で、知らないということは勉強不足なのかも知れません。
 でもこれ、今でいえば「トイレに行っといれ」とか「布団が吹っ飛んだ」と同じようなものですよね。駄洒落も年月が過ぎれば、教養になるんでしょうか。

「その手は桑名の~」を,「トイレに行っといれ」や「布団が吹っ飛んだ」などのいわゆるオヤジギャグと同一視する人を,私は初めて知った.自分の無知を棚に上げて《駄洒落も年月が過ぎれば、教養になるんでしょうか》とはどういう了見だ.「その手は桑名の~」は最初から教養であったし,「トイレに行っといれ」は百年経っても教養にはならないのだよ.
 書店に行くと著書がたくさん置かれているところをみると,かなり売れているのだろうが,この人の本を買って読んだ人がかわいそうである.

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2015年4月 9日 (木)

瑞獣かはたまた妖怪か (一)

 私が中学生のときのこと.
 NHKが夕方に放送した人形劇があった.番組のタイトルは記憶にないが,物語は平安朝を舞台にした九尾の狐,玉藻前のお話であった.

 万年を生きながらえた狐は,これを瑞獣とすることもあるが,おおかたは大妖怪とするであろう.
 齢古びた狐は次第に一本,二本と尾が増えていき,最終的に九本になる.これが妖狐の最高位である白面金毛九尾の狐だ.
 これは千年万年も生きた大妖怪であるから,そうあちこちにいるわけではない.平安時代の我が国に現れた九尾の狐はそもそもは中国の出身である.
 すなわち中国古代王朝である殷の時代,帝紂王の妾の体を乗っ取り,帝を誘惑して殷を滅亡させた妲己が九尾の狐であった.

 また殷を滅ぼした周王朝第十二代の王である幽王の后の褒も九尾の狐とされる.
 褒については Wikipedia【幽王 (周)】につぎのようにある.

褒ジ (ブログ筆者註;「ジ」は「女+以」) は笑うことをしなかったために、幽王はさまざまな方法で笑わせようとしたがいずれもうまくいかなかった。しかし絹を裂く音で僅かに微笑んだことで国中の絹を徴収し裂き、更には烽火を用いて諸侯を集結させると褒が笑ったことから、しばしば戯れに烽火を用いて諸侯の信頼を失い、烽火を用いても諸侯が集結することは無くなったという故事がある。また幽王は阿諛追従に長け王族でもある佞臣の虢石父を卿に任じ、国人の怒りを買っている。
これらの失政に廃后、廃太子の件もあったことから、申后の父である申侯の恨みを買い、申侯は西夷犬戎と協力して幽王を攻めた。この時、幽王は烽火を以って救援を頼んだが、すでに諸侯で幽王の下に馳せ参じる者はいなかったという。幽王は驪山で殺され、褒は捕らえられて行方不明となり、ここに西周は滅亡した。

 私はこの褒の伝説を高校の漢文教科書で読んだ記憶があるが,それは史記の一節であったかも知れない.ただしその文章は九尾の狐について触れていなかった.
 それはさておき,西周の滅亡とともに行方不明となった九尾の狐は,本邦歴天平勝宝五年 (753年),若藻という少女に化けて在唐の吉備真備に接近してこれを惑わし,阿倍仲麻呂や鑑真和尚らが乗る第十回目の遣唐使船に乗船した.

 この第十回遣唐使船は,十二月某日に出航してほどなく暴風に襲われ,遣唐使・藤原清河の乗る大使船は南方まで漂流して遂に日本に到着できなかったが,副使の大伴古麻呂が乗った船はよく持ちこたえ,当時の薩摩国川辺郡坊津の港に無事到着した.
 大伴古麻呂の船が無事であったのは妖狐の霊力によるものであったろうか,とにかくこの船に九尾の狐は乗っていたのである.

 若藻は来日後,藻女 (みずくめ) と呼ばれて子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ,美しく成長した.
 やがて十八歳で宮中に仕える身となり,のちに鳥羽上皇に仕える女官となって玉藻前 (たまものまえ) と名乗った.玉藻前はその美貌と博識から鳥羽上皇に寵愛され,契りを結ぶこととなった.あーここで契りというのは,貴君ご想像のごとくに契ることであります.たとえ帝といえど,男が,美貌と博識を備えた無敵の性悪女の手におちるのは古来本邦の慣わしであるが,契った結果,帝は衰弱してしまった.まあ,女が九尾の狐でなくても,ありがちなことではある.健康のため契りすぎに注意しましょう.

 しかしこのとき陰陽師安倍泰親が,鳥羽上皇にとり憑いて国を転覆せんと企む玉藻前の正体を九尾の狐と見破り,「泰山府君」の祭祀 (これは夢枕獏『陰陽師』にでくるので読者にはおなじみ) を行って玉藻前を宮中から追い払った.

 それから十七年後,十七年間ものあいだどこで何をしていたんだという疑問はさておき,都を追われた九尾の狐は下野国那須野原に住み着いて,その地で女子供をさらうなど悪行を働いた.
 那須の領主からこの報告を受けた帝は,妖狐討伐のために相模国三浦郡衣笠の武将三浦義明と,上総・下総二ヶ国に所領を持つ東国最大勢力の上総広常,それとこの件に発端から関わった安倍泰親が率いる八万の大軍勢を那須に派兵した.
 討伐軍と妖狐,両者激しい戦いの結末は如何に.
(続く)

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2015年4月 7日 (火)

マック崩壊 (六)

 まず Wikipedia【食品消費期限切れ問題】における記述の間違いに触れておく.
 というか,この【食品消費期限切れ問題】という百科事典項目のタイトルからして,執筆者が食品製造に関して無知であることを露呈してしまった大間違いであることから話を始める.

 つまり「消費期限」および「賞味期限」は,法に基づいて,包装された食品の包装の上に,消費者が容易に認識できる位置に表示されねばならない事項の一つである.この用語の意味は行政によって詳しく規定されている.

 従って,食品製造工場で使用する原材料については,通常はこのような用語を使用しない.その原材料は,そのまま直接に消費者の口に入るものではないからである.

 もちろんその原材料には,前工程において製造された時点から,あるいは購入して原料倉庫に入れた時点から,その工程で使用されるまでの期限が設定される.
 この期限をどう呼ぶかは,全く使う場面と意味が異なる用語である「消費期限」「賞味期限」としてはいけないのは無論であるが,それ以外なら特に決まりはなく,例えば「原材料肉管理期限」だろうが「原材料肉使用期限」であろうが,個々の食品製造事業者がそれぞれの品質マネジメントシステムの中で適当な語に定めればよい.

 それでは,仮に上に例示した「原材料肉管理期限」と,「消費期限」「賞味期限」との違いはなにか.
 具体例でいうと,ある東海地方の菓子製造業者が某月某日,一口大に整形した餅に小豆の漉し餡を塗りつけた和菓子を製造したのだが,販売店からの注文キャンセルが入り,余ってしまった.
 そこでこれを冷蔵庫に保管しておき,翌日,包装紙をはがして包装し直し,新たに消費期限を印字して出荷した.
 これは消費期限の改竄行為として厳しく取り締まられる.ところが……
(続く)

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2015年4月 4日 (土)

マック崩壊 (五)

 事件は昨年の七月に起きた.
 中国上海の中国法人「上海福喜食品」が,食品衛生的に極めて問題のあるプロセスで食肉加工品を製造し,これが日本のコンビニやファストフードに輸入されていたことが発覚したのである.輸入していた日本側企業がどこであるかについて色々と風評が流れたが,確実なのは日本マクドナルドとファミリーマートが輸入したチキン製品であった.

 この事件のことは Wikipedia【食品消費期限切れ問題】に,新聞社会面程度のレベルの解説は書かれているのだが,この解説を執筆したのは食品衛生に全く知識のない人物であるらしく,残念ながら新聞社会面の程度を一歩も出ていないし,誤りが多い.
 またこの Wikipedia【食品消費期限切れ問題】は,中国の食肉加工会社がひどいことをやっていたとだけが書かれてあり,なにゆえに日本マクドナルドとファミリーマートが上海福喜食品から輸入していたのかが分明でない.

 ファミリーマートのチキンについては不明だが,日本マクドナルドのチキンナゲットは上海福喜食品と製造委託契約を締結していたはずである.
 日本マクドナルドは消費者に対して品質保証する責務を負っているのであるから,上海福喜食品に対しては製造委託契約に基づいて,適切な品質管理の実施を要求する義務があった.
 しかるに事件後の記者会見で日本マクドナルドが明らかにしたのは,上海福喜食品に対する放置無管理であった.記者会見における釈明では,日本マクドナルドは上海福喜食品の工場を年に一度査察するだけだったという.

 およそまともな食品企業は,日本でも世界各国でも,ISO品質マネジメントシステムを作成し維持している.中国側の報道をみると,上海福喜食品にはISO品質マネジメントシステムが存在していなかったか,あるいはISO品質マネジメントシステムを形だけ作って,あたかも実行されているかのように偽装していたものとみられる.

 仮に上海福喜食品にはISO品質マネジメントシステムが存在していなかったとすると,どうしてそんな企業に,とりわけ先進国中最低の食品安全レベルであると考えられている中国の食品企業に,主力商品を製造委託していたのか.この点について日本マクドナルドは強く責められるべきである.

 またもし,上海福喜食品がISO品質マネジメントシステムの実行を偽装していたとすれば,日本マクドナルドはその品質保証担当部門の無能ぶりを世界にさらけ出したことになる.ISO品質マネジメントシステムは,工場の査察 (定期査察か抜き打ち検査であるかにかかわらない) などによってではなく,マネジメントシステムが規格に基づいて構築・維持されているかどうかを定められた手順に従って監査することにより,その種の偽装がなされていても簡単に見抜けるようにできているからである.
 品質保証部門が無能だということは,日本マクドナルド自体の品質管理ができていないことを意味する.つまり上海福喜食品の事件は,年を越してから連発した異物混入事故の伏線なのであった.

 さてもっと問題なのは,無能なのが日本マクドナルドの品質保証担当部門だけではなかったことである.
(続く)

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2015年4月 2日 (木)

女子プロレス リングネーム秘話

 突然ですが,女子プロレスのこと.

 私が大学を卒業して就職した会社 (業界再編の中で吸収合併されて消滅) は食品会社であったが,この会社には非食品部門があって,大学では植物成分の有機化学を柱とする講座の出身だった私は,その非食品を扱う部門に配属された.
 この部門というか部署というかは,有体にいえば全くの傍流であって,普段から役員の人たちと顔をあわせる機会は少なく,当時の社長とは入社面接のときに会っただけであった.
 だからその社長の人物像については全く知らないのであるが,聞いた話では女子プロレス観戦を趣味にしているとのことであった.

 昭和四十年代後半の女子プロレス団体は,昭和三十年に発足した日本女子プロレス (日女) を離脱した赤木まり子やジャンボ宮本らが結成した全日本女子プロレス (全女) のみであった.
 この当時の女子プロレスは,定期的なテレビ中継放送があるわけでもなく,その興行はいささかマニアックなものであり,観客層は暗い顔つきの中年男たちと相場がきまっていたという .
 実は私は当時の女子プロレス事情を全然知らないのだが,学生時代に親しかった友人が卒業してスポーツ夕刊紙に就職したので彼から伝聞したプロレス界の話と,あとはネットにある資料を調べながらこれを書いている.
 冒頭に書いた女子プロレスファンだという社長は,大株主の銀行から送り込まれた六十歳近い小男であったが,そのお堅い銀行マン的な風貌と,趣味の女子プロレス観戦の関係が一体どうなっているのだろうかと,当時の私は思ったものだ.

 さてそのようにマイナーな女子プロレスの世界に颯爽と登場したのがマッハ文朱であった.
 マッハ文朱はもともとは歌手志望であったが,昭和四十九年,十五歳の時に一転して全日本女子プロレスに入門した.彼女には明るいスター性があり,いわば日陰のプロスポーツであった女子プロレスを彼女が日のあたるところに引っ張りだしたのであった.
 マッハ文朱のあとに,女子プロレス界が生んだ次のスターが,言わずと知れたビューティペア (ジャッキー佐藤とマキ上田) だ.
 ビューティペアは1976年2月に結成され,WWWA世界タッグ王座戦で赤城マリ子とマッハ文朱ペアに勝利してタイトルを獲得した.
 彼女らは,それまでの選手と一線を画する容姿で多くのファンを獲得し,試合会場を女子生徒で満杯にし,中年男たちをファン層から駆逐してしまった.
 ビューティペアが試合開始前にリング上で歌う『かけめぐる青春』はレコード八十万枚を売り上げたという.
 そしてその次が元祖ビジュアル系女子プロレスラーとして大きな役割を果たしたミミ萩原.彼女はデビュー戦以降,連戦連敗を続け,八十七連敗という未踏の連敗記録をうち立てた.1984年引退.
 その二年後の1986年,盛り上がる女子プロレス人気のもとにジャパン女子プロレスが設立された.

 さて,ここまでが話の前置きで,プロレスでいえば前座試合だ.
 前置きの最後にジャパン女子プロレス (ジャパン女子) を取り上げたが,Wikipedia【ジャパン女子プロレス】に,次のように書かれている.

ジャパン女子は全女のクラッシュギャルズ人気を引き金とする女子プロレスブームを背景に、「プロレス版『おニャン子クラブ』」を当初のコンセプトとして設立された。そのため、旗揚げ時には芸能事務所「ボンド」が関わり、おニャン子クラブをプロデュースした秋元康がアドバイサーとして関与していた。
元全女のジャッキー佐藤、ナンシー久美とシュートボクシングの風間ルミ、柔道の神取忍を四天王とし、1期生としてアイドル系の尾崎魔弓、キューティー鈴木、悪役(ヒール)のイーグル沢井などを輩出した。

 他種格闘技から転向したアイドル系レスラー風間ルミについて私は知識を持たないが,さすがに人気者であったジャパン女子一期生の尾崎魔弓キューティー鈴木は知っている.
 その尾崎魔弓とキューティー鈴木のリングネームと,秋元康のことが本稿の趣旨である.

 読売新聞 (Yomiuri Onlie 2014/11/25) のインタビュー記事によれば尾崎が,秋元康が最初に彼女につけたリングネーム「尾崎魔弓」は本名を一字変えただけだから嫌だ,かっこいいのが欲しいと言ったら,秋元は次に単なる「魔弓」を提示したという.
 読売の記事から引用すると
そうしたら、新しく考えてくれたのが「魔弓」で、尾崎をとっただけなんですよ。キューティーなんて、最初は「アップル鈴木」だったのを、「嫌だ」と言ったら、考え直してくれているのに、私の場合は、上をとっただけですからね。扱いが全然違うじゃないかって。
とある.

 へえ~おもしろい話だなあとこれを記憶していたら,四ヶ月後のつい先日,同じ読売新聞 (Yomiuri Onlie 2015/3/31) に今度はキューティー鈴木の証言が掲載された.
 キューティー鈴木本人の言によると,秋元康は最初から彼女に「キューティー鈴木」と名付けた.ところがキューティ鈴木は,こんな甘ったるい名前ではなくもっと強そうなのにしてくれと秋元に言った.
 やはり読売の記事から引用すると
考え直してくれるというので期待していたら、次に提案されたのが、「アップル鈴木」でした。「え~」って言うと、「キウイもあるよ」と言われたので、「もう、どれでもいいです」ということで、キューティーになったのです。

 つまり尾崎魔弓は「私とキューティとでは秋元さんの扱いが全然ちがった」と言っているが,本当は二人とも秋元康に希望を無視されたのであった.
 尾崎魔弓はこれで三十年近い長年にわたる誤解がとけたわけであるからして,女子プロレス門外漢の私も嬉しく思ったことである.よかったよかった.

[追記]
 西洋のことわざに “Every family has a skeleton in the closet” というのがある.アイドルレスラーを輩出して華やかにみえる女子プロレス界にも暗黒面はあり,それが自民党の元参議院議員である神取忍だ.ご興味ある向きは,この凶暴な女とジャッキー佐藤の伝説的な暴力的「試合」の動画が YouTube に載っているのを検索されたい.神取に敗北して「心を折られた」ジャッキーは,この「試合」の翌年に引退した.そして十年余ののち,女子プロレス界をかけめぐった青春は四十一歳の若さで没した.
 余談だが,鬼嫁の愛称でタレントとしても人気のある北斗晶が,神取忍に勝利したとき「プロレスはプロレスを愛する者にしかできない! 柔道かぶれのお前に負けてたまるか! 」と叫んだという.北斗が勝ってほんとうによかったよかった.

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