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2015年1月 7日 (水)

中村真一郎の嘘

 高島俊男『漢字の慣用音って何だろう?』(お言葉ですが…別巻5;2012年7月5日 第1刷) に収載の「戦争中の軽井沢」がおもしろかった.
 これは,高島先生がある朗読会に参加されたところ,作家中村真一郎の著作がいくつか朗読されたことに端を発した話である.

 その朗読会で読まれた中村真一郎の著作に,日経新聞の連載記事『私の履歴書』欄に掲載された文章があった.

 高島先生は,『私の履歴書』の朗読を聞きながら,ところどころに疑問を持ったという.例えば中村が戦時中に軽井沢に疎開していた頃から戦後にかけての,次のような箇所である.

そのひとりの朝吹常吉氏に、敗戦直後に謦咳に接することができたことが、明治以来の旧支配階級の美点に直接、触れる機会となり、野間宏をはじめとする、あと半年もすれば日本に革命政権が出現するという楽観論に対して、私を甚だ懐疑的にしたものである。

戦争の真最中でも、常吉氏は家長として、朝、起きるとネクタイを結び、正装をした二人のお孫さんを廊下に迎えると、その少年少女が行儀よく声をそろえて、「グッド・モーニング、グランド・パ」という挨拶を受けるのを私は目撃した

 下線部分は私が引いたものだが,高島先生は「敗戦直後に謦咳に接することができた」中村が「戦争の真最中でも」「目撃した」はずがないという.そのとおりであって,これは矛盾している.
 この他にも,神戸にあった海洋気象台が長野県に疎開したとか,明らかに変なところがいくつもあったことから,高島先生は朗読会のあと,中村真一郎の『私の履歴書』が本当のことを書いているのか,中村の経歴とその周辺を調べて,それを「戦争中の軽井沢」にまとめたのである.
 結論をいうと,中村真一郎『私の履歴書』にはとんでもないデタラメが書いてあるのだが,なぜそんな嘘八百を書いたのだろうか.それが大きな疑問である.
 高島先生は,中村の嘘を自己顕示癖によるものと書いておられるが,はたしてそうだろうか.なにしろ掲載紙は日経である.読者層が偏っている上に発行部数も少ない文芸誌とは,わけが違う.中村が信州に疎開していた時期の知人や関係者の眼に『私の履歴書』が触れて,嘘がばれるおそれはかなり高いのである.嘘がばれてしまっては自己顕示にならない.
 中村の『私の履歴書』が掲載されたのは1993年である.中村は1918年生まれであるから,執筆は七十九歳で死ぬ四年前である.その頃の中村の精神が,記憶も定かでないほどに衰えていても不思議ではない.もはや老いた中村の頭の中では,海洋気象台が信州の山の中にあっても別に変ではなかったのではなかろうか.
 そのことを推測させる箇所がある.上の引用中《敗戦直後に謦咳に接することができたことが》は職業作家の文章とは思えない.「が」を重ねて,まるで小学生みたいな書きぶりである.また《その少年少女が行儀よく声をそろえて、「グッド・モーニング、グランド・パ」という挨拶を受けるのを》は主客転倒している.「挨拶をする」でなければ日本語にならぬ.七十半ばはまだ若いようだが,こんな文章を書いてしまうくらいにモウロクするのはよくあることだ.

 話変わって,中村真一郎『私の履歴書』には,中村が自分を不具廃疾であると偽って兵役を逃れたとかいてあるそうだ.戦時中の兵役逃れのあれこれは,怪しからぬことではあるが,またよくあることでもあったろう.
 しかし,だ.それを得々と自分の経歴として全国紙に書くか?
 高島先生が中村『私の履歴書』のデタラメを暴いてみせたのは,このあたりにムッとされたからではないかと私には思われる.

 Wikipedia【中村真一郎】は,中村の業績を簡単にしか記述していないが,昭和三十年代から四十年代にかけては売れっ子の作家であった.確か当時,読売新聞の文芸批評欄を担当していたのではなかったろうか.
 それが今ではすっかり忘れ去られた.特撮映画『モスラ』の原作者の一人であるといったら思い出す人がいるだろうか.

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