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2014年10月18日 (土)

屋台のDNA (七)

 本題を離れて昨日の余談の続きを.

 昨日の(註*)で,かつて上野駅構内の連絡通路にあった蕎麦屋のことを書いたが,ちょうど十二年前にも,閉館した個人サイト『江分利万作の生活と意見』にこの蕎麦屋のことを少し書いたのを思い出した.下に再掲する.

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2002年10月13日
上野駅

 かつて,集団就職というものがあった.始まりは1954年,東京都等の斡旋で世田谷の桜新町商店会の求人に,地方から中卒者が集団で上京したことだという.これが最も盛んだったのは1964年で,全国各地から東京,大阪などの中小企業の工員,店員として78,407人が就職した.そしてこの人々を運んだ臨時便の集団就職専用列車は3000本もあった.
 私の中学生時代はこの集団就職の最盛期にあたっていて,私の中学三年のクラスではS君という人が東京に就職していった.たしか卒業式の前に上京することになっていて,休みの日の学校の校庭で,担任の先生がみんなに呼びかけてS君を送り出す会が行われたと覚えている.会にはお母さんも見えられて,S君は,がんばります,と挨拶した.それから同級生全員で国鉄の駅に見送りに行った.

 集団就職は東京だけのことではなかったのだが,これを象徴するものといえば,やはり上野駅に到着する列車だろう.今はもう廃止されて線路も撤去された旧18番線ホームである.この18番線ホームに,井沢八郎のヒット曲「あゝ上野駅」の歌碑が建てられることになったと読売新聞が伝えている.上野駅が開業 120周年の来年7月に除幕する.読売の記事で知ったのだが,井沢八郎ももう六十五歳なのだなあ.除幕式では歌碑の前で「あゝ上野駅」を歌うことになるだろう.

 「あゝ上野駅」もそうだが,青木光一や三橋三智也などの歌謡曲にも東北地方と上野駅を結ぶ夜行列車をイメージさせるものがあったように思う.私の生まれ育ちは北関東だから,高校生時代に模擬試験に出かける時とか東京に行く用事のある時には,夜行列車ではなく朝一番の電車に乗った.当時の上野駅は時代と共に増設されたホームが無秩序に分散していて,乗り換えや出口に向かうのに連絡通路の階段を昇ったり降りたりしなければならなかった.天井が低くてコンクリート打ちっぱなしのその連絡通路には蕎麦屋があった.
 この蕎麦屋は,雑誌などで上野駅の思い出が語られる際によく登場する店で,今でも覚えている人は多いだろう.それも,もうない.

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 Wikipedia【集団就職】は次のように書いている.
教育学的要因の進学率の問題では、昭和30年代~昭和40年代(当時)では、中卒者の高校進学率は半数程度であり、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層の通う上級学校」とみなされていた。高校進学相応の学力を有していても、家庭の事情や経済的な理由で進学を諦めることも多かった時代であった。また学力の問題だけでなく、当時は兄弟数や子供数が多い農家や貧困家庭が多かった。

 私が高校に進学したのは昭和四十年であるが,この年を境に急速に集団就職は行われなくなった.中卒就職者が激減したためである.
 従って上記の引用部《昭和30年代~昭和40年代(当時)では、中卒者の高校進学率は半数程度であり、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層の通う上級学校」とみなされていた》には誤りがある.それは昭和三十年代のことである.
 例えば昭和四十年当時の群馬県前橋市の公立中学校,私の母校の例では,中卒就職者はクラスに一人いるかいないかといった数であった.日教組は「十五の春は泣かせない」(オリジナルは京都府知事だった蜷川虎三が掲げたもの) というスローガンをほぼ達成しつつあり,高校進学率はほぼ全入に近く,その三年後に高校から大学への進学率は,全体の30%程度であった.私の母校の県立高校では,大学進学率は70%を超えていたと記憶している.
 昭和三十年代に中卒就職者は「金の卵」と呼ばれた.それは求人倍率が三倍を超える状態を指していたのであるが,昭和四十年代には中卒就職者が激減したために,別の意味で「金の卵」と呼ばれるようになった.

 上に《日教組は「十五の春は泣かせない」(オリジナルは京都府知事だった蜷川虎三が掲げたもの) というスローガンをほぼ達成》と書いたが,しかしこれは日教組が勝ち取ったものではなかった.高校の事実上の義務教育化と大学教育のインフレ化は政府の方針であったのである.それは,産業界が教育水準の高い労働者を求めていたことによる.
 その結果,昭和四十一年から四十三年にかけて,地方から東京へ集団就職者ならぬ集団進学者が大量に流入した.その受け皿は日大を始めとする私学であった.

 この頃,日本社会党左派の影響下にあった日本社会主義青年同盟 (社青同) というマイナーな学生運動組織が大学を「教育工場」と位置づけていたが,まさにその通りであった.私たちはベルトコンベアに乗せられて簡単な加工をされ,産業界に歯車として送り出されていくのだが,その教育工場で最大なのが日大であり,こうした大学の教育工場化を背景に,今はもう忘れ去られたあの「日大闘争」が起きたのである.

 当時の報道映像だが,日大の学生デモの中に昭和四十三年に日大に入学したテリー伊藤の姿がある.
 テリー伊藤の生家は築地場外で商売をしていたが,そのすぐ隣に吉野家があった.テリー伊藤が高校生の頃の吉野家は個人商店にすぎなかったが,彼が日大に進学した昭和四十三年に吉野家は,牛丼屋の企業化を目指してチェーン展開を開始し,築地に続く二号店を新橋駅前に開店した.
 またこの頃,東京では国鉄の駅周辺に立食い蕎麦屋が激増した.東京における牛丼チェーンの進撃開始と立食い蕎麦屋の林立.これが教育工場から送り出された大量の薄給サラリーマンの胃袋を満たしていくことになったのである.あとから振り返ると実によくできているので感心する.
 こういうヨタ話をして,本題に戻る.

(続く)

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