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2014年10月

2014年10月31日 (金)

揚げパン (一)

縫い物」(10/26)と「バターがない」(10/28) にコッペパンの話を書く際に,Wikipedia【コッペパン】を覗いてみた.

 すると Wikipedia【コッペパン】に [コッペパンの応用例] として次の記述があった.

揚げパン - パンを油であげてきな粉や砂糖などをまぶしたもの。学校給食にパンが登場したばかりのころは、まだ一般市民にパン食の習慣がなかったため、子どもたちにパンを残さず食べてもらう工夫として登場した。

 戦前の学校給食は,ごく一部の小学校で試みられた程度のものであり,学校給食といえば戦後の1950年頃から全国の小学校で,海外からの食糧援助物資を基に始められたものをいう.全国給食は開始当初からパン食であった.
 上の Wikipedia の記述は,だから学校給食開始の頃を指していることになる.
 だがはたして《学校給食にパンが登場したばかりのころは、まだ一般市民にパン食の習慣がなかった》のか.

 結論からいうと,これは嘘である.昨日の記事「不思議だ」に書いたウイスキー会社の,かつての代表的高級酒に関する Wikipedia の記述が歴史を曲げる大嘘であるように,この【コッペパン】中の揚げパンに関する記述も大嘘である.

 私の生まれ育った家は一般庶民というか,あからさまにいうと貧乏人であったが,私は既に幼稚園の頃から,時々は食パンのトーストを食べていた記憶がある.
 話は横道に逸れるが,貧乏人の家に電気トースター (雲母板にニクロム線を巻き,これを食パンに近接させてパンを焼く方法の電化製品) なんかあるわけもなく,オーブントースターの登場はもっと時代があとであり,ではどのようにしてパンをトーストするかというと,七輪に炭火をおこして魚焼きの網で焼くのである.炭火焼きトーストだ.いかにもうまそうだが,実際にうまい.アウトドアのBBQ道具を持っているかたはやってみられるとよい.

 この Wikipedia の記述をした者は,戦前から海軍がパン食を奨励したこともあってパン食はかなり普及 (木村屋總本店があんパンを発売して大好評を得たのは1874年のことだ) していて,戦時中には,運よく小麦粉を手に入れた人たちの自作になるパン焼き道具があったほどなのを知らぬようだ.
 これは戦時中の食生活を記した随筆によく登場する道具だが,こねたパン生地を二枚の板状電極にはさみ,これに電灯線を接続してショートさせ,その発熱でパンを焼こうという極めて乱暴な装置である.乱暴ではあるが実用になったらしく,私は昔,両国にある江戸東京博物館の常設展示室東京ゾーンで見たような記憶がある.今でも探せばどこかで実物を見ることができるのではないか.

 閑話休題.
 戦時中に生まれて戦後に就学した世代や戦後生まれの世代にとって,パンは初めて口にする珍奇な外国の食品であったわけではない.コッペパンをわざわざ油で揚げてもらわぬでも,そのままでジャムやマーガリンをつけて違和感なく食えたはずである.
 それに第一,学校給食が開始された頃,動物脂は無論のこと植物油も高価な食材であった.「油一升米一升」と言われたくらいで,戦争前後,食用油一升と米一升が同じ価格であったのだ.どうしてそんな貴重な食用油を,敗戦の痛手から立ち直らんとし,欠食児童栄養失調から救うために始められた昭和二十年代の学校給食に使えようか.
 こんなことは調べるまでもない.少し考えてからものを書けば間違わずに済むのである.

(ちなみに国内の植物油製造業が復興し,安価な植物油が庶民の食卓に出回ったのは高度経済成長期である.当時の代表的食用植物油すなわち大豆油の大量生産技術が確立したのは昭和四十年代であった.)

(続く)

【関連記事】
揚げパン (二)
揚げパン (三)

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2014年10月30日 (木)

屋台のDNA (十二)

 関西の人からは,東日本はどこもみんな同じような食文化のように見えるかも知れないが,こと蕎麦うどんの汁に関しては,東京は特異な地域である.前回の記事でテンヨ武田 (山梨県) のビミサンという麺つゆを紹介した.同社のウェブサイトに記載されているように,昔の一般家庭 (おそらく関東甲信越全域の) で作る麺つゆは,甘辛くなかった.私は群馬の生まれ育ちだが,昭和四十三年に上京し,梅もとの立食い蕎麦を食って腰を抜かした.あまりに甘辛かったからである.これではまるですき焼きの割り下だと思った.

 今の若い人は,親から料理を教わることはないだろうと思う.それが独り暮らしを始めたとか,結婚して料理の担当になったとかで必要に迫られてから,やおら料理を勉強する.
 昔なら料理本を買って読むところだが,今は誰でもクックパッドにアクセスするだろう.
 そこでクックパッド界はどうなっておるかと,「蕎麦つゆ」と「すき焼き」を調べてみると,このサイトにたむろしているお嬢さんやご婦人がたは,蕎麦つゆも割り下も一緒くたで,詳しく見ていないがクックパッド界ではたぶん天丼もカツ丼も煮魚も肉じゃがも,立食い蕎麦と同じ味なんだろう.

 かつては関東甲信越の各地に,それぞれの蕎麦つゆの作り方があったろうに,これからは東京の立食い蕎麦の甘辛味しか知らぬ人たちになっていくだろう.甲州ビミサンの健闘を祈りたいがどうなるだろう.

 以上,東京の立食い蕎麦の味は,戦後の湘南で大船軒が始めた駅蕎麦が起源だろうという話をしてきた.
 次はトッピングだ.

(続く)

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2014年10月29日 (水)

不思議だ

 NHKの朝の連続ドラマ『マッサン』の評判がいいのだそうで,物は試しで私も一度見てみた.週刊文春のコラムで能町みね子はヒロインをけなしていたが,別にけなさなくてもいいのにと思った.しかし毎日見たくなるほどの美人かというと (以下省略)

 NHKが竹鶴政孝をドラマのモデルにするのはいいが,当然,竹鶴がウイスキーの製法を伝えたとされるA社のことに触れるわけだ.というか,もう触れているようだが.

 私たちの世代の人間は,昭和五十年代の初めにA社のウイスキーBを巡っておきた事件を覚えている.
 A社の社員が,Bのブレンド処方を暴露したのである.今でいう内部告発であった.
 当時まだ高級ウイスキーの地位にあったBは,実はカラメルで着色して添加物を入れたクズ酒だったのである.ほとんど合成酒といっていいようなものであった.これは衝撃的な事件だった.

 私が東京で学生生活を過ごしたのは昭和四十三年から四十七年である.
 昭和四十三年に私が布団一つで上京し,中野にあった学生寮に入ると,新人歓迎会が行われた.先輩がブランデーグラス (酒屋がくれる販促品) にドバドバと茶色い液体をそそいでくれて,この時に私は実物を初めてみたのだがテレビCMで見たことはあり,先輩はこれがA社のウイスキー「○○○」だと言った.
 その歓迎会で「駆けつけ三杯だ,まあ飲め」と言われて三杯飲み,反吐を吐いてつぶれた.よく死ななかったものだ.
 昭和四十年代のA社は,学生や安月給会社員向けの低級酒を次から次に新製品として売り出した.それらの低級な酒はみんな今はもうないし,その名も忘れてしまったが,下宿で友達が集まって宴会するときは,もっぱらそれらのクズ酒であった.
 しかしスナックバーに行くと,客がリザーブしたボトルの棚には角瓶と白札が並んでいて,一番上の棚には数本のBが燦然と輝くように置かれていた.
 その頃からA社は既に一流企業だったが,それに比べると竹鶴が起こしたニッカは格下の会社で,「A社の○○○の方がブラックニッカよりやっぱ少しうまいなあ」なんて我々は言っていた.○○○もブラックニッカも同じクズ酒なのに,私たちは本当に馬鹿だった.
 そういう馬鹿の眼から見ると,Bは高級酒中の高級酒中であり,憧れであった.私は会社に就職して初月給でBを買い,なめるようにして飲んで,ああこれがBかと感動した.私は本当に馬鹿だったのだ.

 それから数年後,世間を震撼させた内部告発によれば,Bはただのアルコールに色と香りをつけたものだったのである.
 この告発のあと,当時の日本社会党の議員が,こういうものをウイスキーと称するのは不当であるとして国会で質問したりしたが,結局うやむやに終わった.
 不思議なのは,今のネット上を探しても,あの内部告発のことに触れた資料が見つからないことである.きれいさっぱり,まるでなかったことのようだ.
 上記の社会党議員の国会質問に関する資料は存在していて,これは簡単に見つかるのだが,その元になった事件のことが痕跡もなくなっている.どうなっているんだろう.

(ちなみに,A社はもうBを製造していない.Bをリニューアルした似た名前の酒は今も売られているが,それがクズ酒かどうかは知らない.飲む気も起きない)

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2014年10月28日 (火)

バターがない

 食料自給率は,国内で消費される食料が国産の農水産物でどの程度賄われているかを示すものだ.自給率の計算方法は複数あるが,カロリーを基に計算したものを政府は政策目標に使用している.そのため,報道で私たちの耳に入りやすいのは,このカロリーベースの自給率である.
 しかし,国内の牛豚,家禽の肉や鶏卵は,輸入農産物から製造される飼料で育てられることが大半であるため,国内で生産されたものでも国産には含めない.生乳もバター,チーズも同様である.

 その結果,これらの食品の生産事情がどうなっているかが私たちにわかりにくいのだが,最近の報道によれば,小売店の店頭からバターが払底しているという.国内で作られる生乳の生産量が減少しているためである.
 ニュースサイトの記事も,テレビのニュースショーでも生乳の生産量減少の理由の一つとして,酪農家の高齢化と経営状況の悪化により,酪農農家そのものが減少していることを挙げている.テレビも新聞も異口同音にそういっているところをみると,話の出所は農水省だろう.

 だがそれは本当か.
 酪農農家の減少は事実だが,いま問題になっている,バターが小売店の棚から消えているのは,ここ二ヶ月ほどの現象だ.酪農農家減少は,生乳生産量減少の長期的トレンドとして現れているのだが,テレビは,この夏場に酪農家が一気に老けて,急速に高齢化したとでもいうのか.

 またテレビの報道番組では,あと二つの理由を挙げていた.
 一つは,アベノミクスによる円安で,輸入に頼っている飼料原料が高騰しているからであるという.これも,アベノミクスによる円安が今夏から始まったとでもいうのだろうか.それに,飼料が値上がりしても,酪農家が牛を餓死させて生乳生産量を調整するはずがないではないか.

 もう一つ,牛が夏バテして乳がでないとも言っていた.しかしこれだって毎年のことだ.夏には生乳生産量が落ちるのである.

 では夏場に国内の生乳生産量が落ちたとき,行政的に乳製品の安定供給はどうするかというと,バターなどを輸入して調整することになっている.今の現象は,意図的か失敗か知らぬが,その調整が遅れた結果なのである.
 農畜産業振興機構は,毎年度に生乳換算で13.7万トンの乳製品を輸入しているが,生乳生産量減少トレンドを踏まえて,今年度は年末に需要が増加するバター7,000トンの追加輸入をしていた.
 ところがこれでは足りないことが判明し,さらにバター3,000トンと脱脂粉乳1万トンの追加輸入を実施することを決定した.農畜産業振興機構は10月に入札を行い,2015年3月末までに順次輸入して国内需要者へ供給する.
 つまり,需要見通しの誤りでバターが店頭からなくなっているのであるから,直接の当事者,責任者である農水省の説明を鵜呑みにして垂れ流すことに何の意味があるかということだ.農水省に需要予測を誤らせた本当の原因は何か.そこを調査報道しなくてどうするのだ.

 テレビのニュースショーを見ていたら,若い局アナがしたり顔に上記の三つの理由を説明し,それを聞いた司会者の堀尾正明がわかったような顔でふむふむと頷き,女性コメンテーターが「私も子供を産んだからよくわかるけど,ストレスで乳の出がわるくなったりするんですよ~」などと能天気なコメントをしていた.
 そこらの中学生でもヘンだと思うような説明を聞いて納得していた堀尾もコメンテーターも,みんな中学生以下だ.この連中は年収数千万円だと思うが,こんないい加減な仕事でギャラを稼いで,視聴者に申し訳ないと思わないのか.情けない.

 それはそうと,味を売り物にしている小さなベーカリーでは,パンの副原料である油脂にバターを使用することが多い.規模の大きなベーカリーではきちんと在庫を持っているが,街の小さなパン屋さんではこんな時のための在庫なんて用意していないから,業務用バターが入手困難になってあわててスーパーに走ったが,家庭用バターもなくて手に入らず,やむを得ずリッチな処方のパンの製造を控えているという.
 リッチというのはパン用語で,牛乳,卵,バターなどの油脂を多く含むパンをいう.一般的にリッチなパンは副原料の効果で甘みがあり,ふっくらと焼きあがる.リッチの反対はリーンという.リーンは貧しいという意味だが,おいしくないということではない.しかし食感の老化は大変早い.リーンなパンの代表は各種のフランスパンである.

 戦後,ララやユニセフや,その後の海外からの食糧援助でかろうじて学校給食が継続された時代,給食のパンといえばコッペパンだった.そのコッペパンは,米国産小麦粉に同じく米国から援助された脱脂粉乳を加えて焼いたものだった.
 米国からの船便で輸送されてくる小麦粉と脱脂粉乳は,分厚いボール紙でできたドラム缶に入っていた.この荷姿を記憶している人も多いだろう.そしてこの紙ドラム缶は政府からそのまま各小学校に支給された.
 政府支給品が届けられた小学校は,地域のパン屋に小麦粉と脱脂粉乳を原材料支給で,つまり加工賃を払って焼いてもらうのだった.

 なにしろ乏しい給食運営費で焼くパンだから,リッチなパンにしたくてもできない.申し訳程度にわずかなマーガリンを加えただけの給食のコッペは,リーンといえばこの上なくリーンなパンだった.だからすぐに老化した.翌日にはパン粉が作れるくらいに固くなった.

 作った食べ物は必ず食べきる.うまいとか,まずいとか言わない.残さない,捨てない.これが戦後の,昭和中期の時代精神だった.
 どれだけ乏しい材料費のリーンなパンであっても,焼いた以上は児童全員必ず食う.脱脂粉乳の嫌いな子は泣きながら一椀のミルクを飲み干した.
 風邪などで休んだ児童がいれば,おかずはクラスのみんなで分けて食べるしかないが,その児童の家庭は給食費を払っているわけだから,コッペパンは各家庭に届けるのが当然だった.
 コッペは固くなってしまうので,その日のうちに届けなければいけない.
 それで担任の先生は,休んだ子の家の近所の子に,コッペパンを持っていってあげなさいと指示する.指示された子は,パンをワラ半紙に包み,ランドセルの横に結び付けた白い袋に入れて,放課後の遊びもそこそこに下校して,友達の家まで夕日の中をとぼとぼ歩いていくのだった.

 はい,「縫い物」(10/26)と「バターがない」(10/28)を同じ話でまとめてみました.

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2014年10月27日 (月)

屋台のDNA (十一)

 私見だが,前回に挙げた「かえし」の例では,ヒゲタ醤油のサイトに掲載されているものが標準的なところではないかと思う.
 それに対して,前稿で示した料理サイト上で披露されている料理自慢たちの「かえし」は大半が甘すぎるのではないか.
 蕎麦は,香りがどうのこうのと言うものの実際のところは,ほのかな香りしかないものだ.味も然り.だから盛り蕎麦のように,たぐりあげた蕎麦の尻尾に,ちょっとだけ猪口の蕎麦つゆをつけて食う.そうしないと,鰹出汁の強い香りと甘辛い醤油と砂糖の味のために,何を食っているのか全くわからないことになる.
 盛り蕎麦はそれでいいが,かけ蕎麦は汁にどっぷりと蕎麦が浸されて供されるから,食う者の方で味の調節ができない.甘辛すぎる汁の蕎麦は,別に蕎麦でなくてもいいのである.冷麦でも食べてなさい.

 特に,例示した「かえし」では,
  【ネットから採取した例 1】
  醤油                1000cc
  味醂                1000cc
  砂糖                300g
がすごい.ほとんど関東とか,濃厚甘辛味付け地帯である静岡県中西部のすき焼きである.このレシピをみた人は目を疑うだろうが,しかし実は,湘南の大船軒を源流にする戦後の東京の立食い蕎麦の汁もこんなもんなのである.

 余談だが,鰹出汁というものは何でも鰹出汁の香りにしてしまう点でニンニクに似ている.パスタやピザにタバスコをかけると何でもタバスコ味になるが,それにも似ている.一般の蕎麦屋が「うちの汁は出汁をおごってます」みたいな蕎麦つゆを出してくるのは,見識としていかがなものかと思う.
 群馬にいる私の姉に,麺類のつゆの出汁は何を使っているか訊いたら,シイタケだという.そういえば,最近の観光客相手に繁盛している水沢うどん店のつゆは市販のめんつゆのようなものであるが,昭和の昔,水沢うどんが有名になる前の小さな店ではシイタケ系統の出汁であった.なるほどねと思う.鰹出汁の香りは邪魔になることがあるのだ.

 醤油メーカーが東日本で各社それぞれの「めんつゆ」を販売しているが,これらはみな東京風の甘辛味だ.これは割り下のようなものであって,蕎麦つゆに使うのには,私のような昔人間は今でもなじめない.
 そういう全国ブランドと違って,甲信地域と一部の関東地方の限定商品であるため東京の店頭で見かけることはほとんどないが,山梨県の企業である株式会社テンヨ武田が製造販売している「ビミサン」という出汁醤油がある.
 同社のウェブサイトの「ビミサン」の商品説明に,《「甘味」というのは、一度加えてしまうと元に戻せません》と書かれている.まことに見識である.

 同社サイトには《テンヨのビミサンは、昭和39年(1964年) の当初、そばやうどんなど、麺類のつゆとして生まれました。その頃は、つゆを作っているメーカーはほとんどなく、主婦の方々は自宅でつゆを作っていました》ともある.そのとおりであって,ビミサンは当時の関東地方の家庭で作られていた甘辛くない蕎麦つゆの味を今に伝えている.ビミサンは屋台の蕎麦屋のDNAを持っていないのである.

(続く)

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2014年10月26日 (日)

縫い物

 昨日の記事「欧文が好き」に,
委託で縫製加工をしてくれるところはないかと探したら,あった.裁縫ができなくて困っているのは還暦すぎの爺さんだけではなかったのだ.我が子が小学校に入学するはいいが,道具を入れる袋を用意しろとか,なんだかんだと学校から言われて困っている親御さんたちがいて,その全国の裁縫できないママさんパパさんをお助けする業者があるのであった.(男親は出来合いを買ってしませてしまうかも知れないが)》
と書いた.

 一人で子育てをしているお父さんは,入園や就学時に必要な袋などの布製品はどうしているのだろう.
 その時期になれば店でも売られるであろうし,通販で簡単に買えるだろうから,普通は「んなものはだ,買えばいいんだ買えば,ぬはははは」と言って済ませるであろう.

 これに対してママさんは,専業主婦はもちろんだが,ワーキングマザーでも,布地を買って自分で作ろうとするような気がする.
 買えば簡単だけど,もしお友達と同じものだったら子供がかわいそうだし,わたしも恥ずかしい.それが原因で麻里子がイジメられたらどうしよう.ほかのママさんたちだって陰でわたしのことを悪口言うにきまってる.あの人,育児放棄よ育児放棄よ,愛がないんだわって.ああもういや.死にたい.
 唐突に麻里子が登場したが,私は篠田麻里子さんのファンなのである.
 それはともかく,縫い物が原因で死にたいとまで思い詰めても誰が責めることができるだろうか.

 かくなる理由で,疲れて帰宅したワーキングマザーは夜中にミシンに向かうことになる.
 経済的事情でミシンを買えないWマザーは手縫いするしかないが,耳にするところではこれはかなり大変だという話である.よく知らないが今の学校は,作って子供に持たせてやらねばいけないものが多いのだという.
 夕食のあと,お母さんは針に糸を通すが,疲れで目がかすんで針が見えない.
 悲しい母は,唐突に出てきた麻里子を抱きしめて泣く.ママを許してママを許して.
 ママは,もうすっかり疲れ切ってしまって縫えません.三日とろろ美味しうございました.わけわかりません.

 ところで,ネットの質問掲示板に,一人のママさんから「子供の学校用品を今は手縫いしているのですが,これがかなり大変なのでミシンを買いたいです.一万円台のミシンでいいでしょうか.それ以上の値段のミシンを買いたいとは専業主婦なので言いにくいです」との趣旨の質問が寄せられた.
 これに対して,たぶん男と思われる回答者たちが寄ってたかって叩きまくっていた.
 いわく,そんなミシンはただのオモチャだ.
 いわく,ミシンの値段は耐用年数だ.一万円のミシンは一年しかもたない.五万円のミシンは五年使える.五万のミシンが買えないなら手縫いしろ.

 なにを言っておるか,おまいらは.必要なものを買うのにも遠慮する専業主婦に惻隠の情といふものがないのか,おまいらは.
 おまいらのような根性悪は,自分の妻がミシンを欲しいと言うと,実用的なミシンは高いから手縫いしろと言うに決まっている.そうに決まっているっ.子供の学校用品なんか,おまいがミシンを踏んで作れっ.あ,今のミシンは電動ですか.電動ミシンを踏んづけてはいけません.

 話はまた変わって,昨日の記事に書いた欧文プリント布地を発作的に購入した私は,実は自分で縫うことを意図して,Amazon でミシンを探したことを告白しておこう.
 検討の結果だが,売れ筋ランキング一位のミシンは「ジャノメ コンパクト電動ミシン【sew D`Lite】JA525」という製品であるが,聞いて驚けその価格は¥6,737なのである.
 なんと一万円以下でミシンが買えるのですよ奥さん.
 ただし,ユーザーレビューによると,このミシンはほんのちょっとした縫い物にしか使えないようではある.タオル地のような厚いものは歯が立たないという.

 では一万円台の製品はどうかというと,好意的レビューが増えはするが,子供が学校に持っていく雑巾を縫えないという実用性不足の点ではさして変わらない.
 しかし,二万円台の製品になるとユーザーレビューが突如高評価になるのである.「シンガー 実用電子ミシン【MONICA pixy】5710」(¥25,600) を見よ.聞いて驚けメーカーが「実用電子ミシン」と高らかに宣言しているのだ.てことは実用でないミシンもあるわけで,そういうミシンは作らないで欲しいです.

 しかも Amazon には五万円のミシンは一機種しかなく,その上の七万円クラスの機種は「プロ用」とうたわれている.アマチュア用最高機種が五万円ということですね.
 前記の質問掲示板の主婦さんだが,質問掲示板に巣食って女を叩いて喜んでいる男は,あちこちから情報をかき集めて知ったかぶりに嘘を書き込む馬鹿野郎なのだ.件のママさんは,掲示板で質問なんぞしていないで友達にたずねるのがよかったのである.

 私の母は,洋裁ができなかった.簡単な縫い物はできたが,和裁というほどのこともできなかった.
 なにしろ戦時中の育ちで尋常小学校卒だから,洋裁なんて習う機会がなかったのだろう.だからもちろん私の家にミシンはなかった.
 よくわからないのだが,昔の娘たちは上級学校に進むとミシンを習ったのだろうか.それとも洋裁をできる母親が娘を教育して,嫁入り道具にミシンを持たせるということがあったのだろうか.同じ学級の,少し裕福そうな家に遊びに行くと,和室の南側の廊下の端に足踏みミシンが置かれていて,それはちょうど小津安二郎作品に描かれる中流家庭のような雰囲気であった.

 私が小学校に上がったとき,ランドセルの横にぶら下げる白い袋を母に作ってもらった.
 その袋の本来の用途がなんだったか覚えていない.ただ級友が風邪で休んだりすると,先生がその子の給食のコッペパンを持って行ってくれというので,ワラ半紙にコッペを包み,白い袋に入れて,夕日の道をとぼとぼ歩いて届けに行った記憶はある.
 あとにも先にも,四十半ばで逝った母が私のために縫ったものは,その袋一つだけであった.

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2014年10月25日 (土)

欧文が好き

 私は欧文文字をあしらった意匠に弱くて,そのようなものを見るとつい買ってしまう.
 例えばこの画像.

20141024a

 マグカップと皿は,もう昔々のことだが,渋谷にグラン・デールという食器屋さんがあって,そこで買い求めたもの.画像のマグと中皿の他に,大皿とカフェ・オ・レ・ボウルがあって,今も愛用している.

 皿の下のシートは,サンドイッチを箱に詰めたりするときに使う紙.マクドナルドのハンバーガーが包まれているのと似た質感の使い捨て紙製品だ.

 さらにその下の布は,液晶やレンズの汚れを拭くワイパー.右下の英文プリントに心打たれて買ってしまった.

 次のボードは,看板を模したインテリア雑貨で,壁掛けにする.

20141024b

 さて,下の画像は未加工の布地だが,用途も考えずに発作で手に入れてしまった.

20141024c

 発作で購入したとはいえ,布地だからランチョンマットとかテーブルクロスとか,クッションなど色々な使い道が考えられるが,問題は私が裁縫をできないことだ.
 問題というか,それ全然だめじゃん.
 義務教育で習ったボタン付けと雑巾縫いくらいはできるが,こういうものを作る腕もミシンもない.

 だが困ったときのウェブサーチ.
 委託で縫製加工をしてくれるところはないかと探したら,あった.裁縫ができなくて困っているのは還暦すぎの爺さんだけではなかったのだ.我が子が小学校に入学するはいいが,道具を入れる袋を用意しろとか,なんだかんだと学校から言われて困っている親御さんたちがいて,その全国の裁縫できないママさんパパさんをお助けする業者があるのであった.(男親は出来合いを買ってしませてしまうかも知れないが)

 裁縫してくれるところが見つかってよかったよかった,というわけで,この布は玄関の下駄箱の上に敷く敷物にしようと思う.

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2014年10月24日 (金)

屋台のDNA (十)

 前回の「屋台のDNA (九)」に《大昔も昭和のその当時も……あらかじめ作っておいた「かえし」を出汁で薄めて蕎麦つゆにするというのは,蕎麦屋の仕事なのであった》と書いた.
 今はどうか.家庭での蕎麦つゆの作り方を分類すると,

(1) 昔ながらのやり方で,その度に蕎麦つゆをこしらえる
(2) 「かえし」を作って,出汁で薄める
(3) 市販の「めんつゆ」を使う

の三つだ.
 昨今の大多数の家庭は(3)であろう.(1)は年寄りの方法で絶滅寸前かも知れない.
 ところが,今や家庭でも本格志向というのか,料理好きの人たちのあいだでは,「かえし」を作ってこれを出汁で薄めて蕎麦つゆを作ることが行われているようだ.
 で,この「かえし」の作り方が混乱というか,食い物の味は好き好きだから,あるいはこれが正常なのかも知れないが,実に様々なのである.
 それがどんな具合か,みてみる.

【ヒゲタ醤油のサイトに掲載のレシピ】
ヒゲタ醤油本膳    360ml
味醂         36ml
砂糖         65~70g

【「NHKみんなのきょうの料理」のレシピ】
醤油         カップ 3/4
味醂         大さじ 3
砂糖         大さじ 2

【「NHK趣味悠々」で放送されたレシピ】
醤油         1000cc
味醂         180cc
砂糖         180g

 次に,ブログや料理サイトから採取した例を列記する.
 比較のために,醤油の量を1000ccにして換算した.また,単に醤油とあるのは濃口醤油である.
 以下,味醂を多用する例から順に示すことにする.

【ネットから採取した例 1】
醤油                1000cc
味醂                1000cc
砂糖                300g

【ネットから採取した例 2】
醤油                1000cc
味醂                1000cc
砂糖                100cc

【ネットから採取した例 3】
醤油                1000cc
味醂                625cc
酒                 250cc
甜菜糖               190cc

【ネットから採取した例 4】
醤油                1000㏄
味醂                300cc
砂糖                180~200g

【ネットから採取した例 5】
醤油                1000cc
味醂                270cc
砂糖                200~250g

【ネットから採取した例 6】
醤油                1000cc
味醂                270cc
砂糖                190~250g

【ネットから採取した例 7】
醤油                1000cc
味醂                200cc
砂糖                165g
  (↑蕎麦屋の店主だという人のレシピ)

【ネットから採取した例 8】
醤油                1000cc
味醂                200cc
グラニュー糖もしくはザラメ     180g

【ネットから採取した例 9】
醤油                1000cc
味醂                190cc
三温糖               180g

【ネットから採取した例 10】
醤油                1000cc
味醂                167cc
三温糖               167g

【ネットから採取した例 11】
醤油                1000cc
味醂                150cc
砂糖                150g

【ネットから採取した例 12】
薄口醤油              1000cc
味醂                100cc
氷砂糖               300cc
白砂糖またはグラニュー糖      200cc
水飴                60cc

【ネットから採取した例 13】
醤油                1000cc
味醂                100cc
ザラメ糖              200cc
黒砂糖または三温糖         300cc
水飴                60cc

【ネットから採取した例 14】
醤油                1000cc
砂糖                570cc

(続く)

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2014年10月23日 (木)

正しい昭和のちゃぶ台

 先日,今は留守宅にしている自宅 (近々引っ越して戻る予定) の和室の畳を表替えした.
 壁も,表具屋さんに頼んで塗り壁に下地処理をして,クロス貼にしてもらったら見違えるようになった.
 この部屋は普段使いにすることはないのだが,独立している息子や娘が盆暮れに帰ってきたときに寝室に使えるようにしようと思っている.
 その際に家具調度が何もなくては不愛想なので,ちゃぶ台を置こうと思う.

 ネットで「ちゃぶ台」を検索すると,《空間工房》という家具製造業者のサイトがあった.
 製品説明には,昭和のちゃぶ台を再現した,とある.細かい説明を読むと一々なるほどと思うのだが,製品の画像を見るとかなり違和感がある.現代的なデザイン感覚というか,レトロ感がない.これでは脚が折り畳みできる座卓だ.昭和のちゃぶ台は,こんなんじゃないよ~と思う.

 次に《昭和レトロ ちゃぶ台 レストア日記》というブログを見た.
 これは木工業者さんが,骨董以下のガタボロのちゃぶ台をレストアした話のようだ.
 修理し終わったちゃぶ台は,新品のようになってはいるが,雰囲気はまさに昭和のちゃぶ台そのものだ.このかたは,たぶんお若くはないはず.ちゃぶ台の修理は半分趣味だと書いておられるが,腕利きの職人であろう.

 さて,上記の二つのちゃぶ台,どこが違うかというと,天板の厚みと,縁の丸みだということに気が付いた.
 前者の天板は厚すぎるし,縁が角張っている.天板が厚すぎるのは,重量を軽くするために軟らかい桐材を使っているためであろう.これで雰囲気を駄目にしてしまっている.

 レトロ家具の販売業者サイトもみてみた.(リンクは現時点でのもの)
 天板に割れのないものも売られているので,これをサンディングしてからオイルステインで着色するなどのレストアをしてみようかしらん.それくらいならDIYできそうだ.

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2014年10月22日 (水)

進撃のスマホ (あー特に意味はないですが)

 昨日,何の気なしに Amazon でオーディオ機器カテゴリをだらだらと閲覧していて,軽いショックを受けた.
 ヤマハが現在製造販売している「デスクトップオーディオシステム TSX-B232」の商品説明にこうある.

本機は、ヤマハデスクトップオーディオ専用アプリケーション「DTA CONTROLLER」(無償)に対応。
「DTA CONTROLLER」を使えば、手元のiOS端末やAndroid端末からリモコン感覚で本体操作ができます。

 別になんてことはないような記述だが,購入者のレビューを読むと,ここで《手元のiOS端末やAndroid端末からリモコン感覚で本体操作ができます》とは,付属のリモコンではできないことがスマホを使えばできるということのようなのだ.例えばスマホを使用すれば,イコライザーの機能が使えるとかだ.
 つまり基本的に,スマホの使用を前提に商品設計がされている.スマホがないと一部の機能が使えないのだ.いうなれば,スマホを持ってない人は複雑な操作が嫌いな人でしょうから,機器本体のユーザーインターフェイスには簡単な機能だけ搭載しました,みたいな.
 しかもこの方向の商品開発は,ヤマハではもう前から行われていて,現在は製造を終了したオーディオシステム製品もとっくにスマホ対応だったようだ.

 先日の報道によれば,既に六十歳以上の30%以上がガラケーではなくスマホのユーザーになったという.これより下の世代では,言わずもがな,であろう.
 そのうち,私のようにガラケーしか持っていない情弱 (←MS IME 2012 では一発変換される普通名詞だ) 高齢者は,色んな不都合を耐えなければならぬようになるのだろう.

 例えば回転鮨を食いにスシローに行く.
 席についたら,まずコンベアの上にある端末と自分のスマホをマッチングさせる.スシロー専用アプリはあらかじめダウンロードしておく.
 あとはスマホから食いたい鮨をオーダーし,食べ終わったらレジに行き,支払いもスマホでする.そんなことになるかも知れない.
 スマホがないと一部の機能が使えない回転鮨てのはどんなんかな.各テーブルに設置された液晶端末には定番メニューのみが搭載されていて,スマホがないと安くておいしい「本日のおすすめ」がオーダーできないとかだろうか.
 例えば持ち帰り弁当屋もスマホ対応にできそうだ.意味があろうがなかろうが,あるいはかえって不便になってしまってもスマホ対応にしてしまえ,みたいなことになるのかも.

 テレビ朝日系列の番組『中居正広のミになる図書館』を見ていたら,中居正広君はどうやらガラケーもスマホも持っていないらしい.なかなか見どころある人物であると思った.

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2014年10月21日 (火)

屋台のDNA (九)

 気を取り直して「蕎麦つゆ」だ.
 前にも書いたように,蕎麦屋では醤油,砂糖,味醂,日本酒などを煮て「かえし」をつくり,これを出汁で希釈して蕎麦つゆとする.
 基本的には,盛り蕎麦や蒸籠蕎麦などのつけ蕎麦類では希釈率が低く,かけ蕎麦類では,つゆをそのまま飲めるように希釈率を高くする.
 純蕎麦屋 (普通の蕎麦屋) の場合,「かえし」のレシピは蕎麦屋ごとに工夫がなされ,それが暖簾分けによって伝承されていくのだろうが,店の系統ごとにそれほどの違いがあるわけではない.蕎麦好きの作家文人の書いたものでも,蕎麦の麺としての品質に言及しても,蕎麦つゆについて評論がされないのはそのためであろう.

 一般家庭ではどうか.古い話から始める.
 かつて私が幼少のみぎり,母親から習ったやりかたでは,まず鍋に出汁を作る.
 母は佐渡の漁師の家に生まれ育ったせいか,干した魚の出汁しか作らなかった.実家からトビウオの干したのが送られてくれば大切にそれを使うが,普段はカタクチイワシの煮干し一辺倒であった.
 理由は,安価だからである.
 昭和二十~三十年代の一般庶民の家庭において,鰹節 (本節) は盆暮れの贈答にも用いられるハレの食材であった.
 もちろん貧しい我が家に本節を贈ってくれる人がいるわけもなく,正月の朝,雑煮を拵えるために削るのは荒節だった.(鰹節削り器は刃物であるためか,削るのは父親の仕事で,私は父から削り方を教えられたが,こっちを向いた刃が怖くて,長じてから削ったことはない)
 それはともかく,日常の食事で乾麺類を食うときには,煮干しで出汁をとった.その出汁に濃口醤油を加えて,だいたいの塩加減に調整し,味醂で仕上げる.たったこれだけで,砂糖も酒も使わなかった.
 大昔も昭和のその当時も,一般家庭では食事に作ったものは食い切ってしまうのが原則であった.残ると保存に困るからである.従って,あらかじめ作っておいた「かえし」を出汁で薄めて蕎麦つゆにするというのは,蕎麦屋の仕事なのであった.

(続く)

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2014年10月20日 (月)

屋台のDNA 番外 「(七)の補遺」

「屋台のDNA (七)」では,話が蕎麦屋から逸れて集団就職のことになってしまったのだが,さらに補遺を付け足さねばならないことがある.

 Wikipedia【集団就職】を記述・編集した若い人たちにとって昭和の中頃は話に聞いただけの遠い時代のことなのであろう.これを書いたのはおそらく昭和史の専門家ではないと思われ,時代感覚が十年くらい実際とずれている.また地方と東京などの都市部とを区別せずに述べているなど,この項目には大きな問題がある.

 例えばこの項目の[概要]の節に,
特に1970年(昭和45年)頃までの地方では、生計が苦しく高等学校などに進学させる余裕がない世帯が多かったので、子供が都会の企業に就職することで経済的にも自立することを期待して、都市部の企業に積極的に就職させようとする考えが、保護者にも学校側にも存在した。こうした状況の下、中学校も企業の求人を生徒に斡旋して集団就職として送り出した
とあるが,これは事実に反する.

 というのは,昭和三十年代に義務教育を受けた子等の親たちの大半は,尋常小学校や戦時中の国民教育しか受けておらず,それがために多くの庶民大衆は,自分たちの食うものを減らしてでも子供に学校教育を受けさせたいと願っていたからである.
 行政も社会の機運もこれに応じ,団塊の世代が高校進学年齢を迎えた昭和三十七年頃から,公立高校の教員増と定員大幅拡充,私立高校の新設が相次いだ.その結果,団塊の世代の学歴は高校卒が中心となったのだ.
 日本育英会の存在も極めて大きかった.昭和三十年代の終わり頃,経済的事情で高校進学が困難な家庭に対しては,中学校側は熱心に説得をした.これからは高校卒の時代だ,奨学金をもらってなんとかしようではありませんかと.
 こうして貧しく生まれ育った姉と私は育英会奨学金を受けて高校に進学した.

 私が高校に進学した昭和四十年頃には,大学教育の一般化,大衆化が始まろうとしていた.高校の教師たちは親たちを説得した.これからは大学卒の時代です,アルバイトと奨学金があればなんとかなる,なんとかしようではありませんかと.姉は大学進学を諦めたが,私はアルバイトと育英会奨学金を受けながら,なんとか大学を卒業した.これが昭和四十七年だが,この時には既に大学院進学の一般化が目前化していた.私が出た大学 (農学部) では,同じ年の卒業生の半数が大学院に進んだ.私はこのとき,自分の食うものを減らしてでも自分の子は大学院に進ませると強く決めた.私の親が私にしてくれたのと同じことをしようと決めたのである.
(私自身も学部卒業の十年数年後に,社会人優遇制度を利用して修士課程をとばして博士課程に入り,学位を取得した.学位を得たとて,もう研究者への途は閉ざされていたのだが,それでもなにがしかの学問をしたという慰めを得ることはできたのだった)

 Wikipedia がいう《特に1970年(昭和45年)頃までの地方では、…… 都市部の企業に積極的に就職させようとする考えが、保護者にも学校側にも存在した》は大嘘だ.地方における昭和三十年代の中学教師たちは,教え子を高校に進学させたいと強く願い,親たちもそれによく応えたのである.
 貧しい家庭に生まれ,しかしのちに功成り名遂げた著名人が,教師から私的な経済援助を受けたという話を聞くことがある.ノート一冊であれ鉛筆一本であれ,昔の教師はそのようなことをしたのである.
 こうして昭和四十年代に入ると急速に集団就職は終焉に向かったのだった.

 付け加えると,集団就職の終焉と高校進学の一般化には,「団塊の世代」という条件が大きく影響した.
 団塊の世代が高校時代を終えると,そのすぐ下の世代は人数が急速に減少し,そのため公立も私立高校も定員過大の状態となった.昭和四十三年以降,私立高校の中には定員割れする学校も発生するようになり,ここに至って高校のほぼ全入が達成されたのであった.

 もう一つ,【集団就職】項目の[要因]から引用する.
教育学的要因の進学率の問題では、昭和30年代~昭和40年代(当時)では、中卒者の高校進学率は半数程度であり、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層の通う上級学校」とみなされていた。高校進学相応の学力を有していても、家庭の事情や経済的な理由で進学を諦めることも多かった時代であった。また学力の問題だけでなく、当時は兄弟数や子供数が多い農家や貧困家庭が多かった
は,昭和の高度成長期二十年間を一まとめにしているが,粗暴粗雑な議論としかいいようがない.

 ここまで真っ赤な嘘を書くから,文献の一つも示すことができないのだ.私にはこの Wikipedia【集団就職】を編集する義理はないが,職責上,この項目につきあう必要のある,そしてこれを正しく編集するに十分な資料を持っている,大学の教員養成学部の教員は何をしているのか.未だ当事者たちが存命している時代の姿が歪曲されようとしているのを黙って見ているのか.怠慢である.

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2014年10月19日 (日)

屋台のDNA (八)

 前々稿で,純蕎麦屋 (普通の蕎麦屋) と立食い蕎麦屋の営業形態上の違いは,店舗に厨房が有るか無いか (店内で蕎麦を茹でているか否か) だと書いた.
 次に,提供される蕎麦そのものについては,蕎麦つゆとトッピングに違いがある.蕎麦粉とつなぎの割合については,立食い蕎麦でも蕎麦粉の割合を高くしている店の例はあり,必ずしも「立食い蕎麦は灰色のうどんだ」とは言い切れない.

[ 蕎麦つゆ ]
 異論はあるかも知れないが,立食い蕎麦という食文化は,東海地方を東日本に含めて,東日本のものであるとして以下に考察する.JRの山陰山陽地方の駅にも蕎麦屋はあるが,食べたことがないので無視する.自分の知らないことは,なかったことにするのが正しい態度というものである.
 また東海地方は西日本なのか東日本であるのかというのはややこしい問題であるのだが,ややこしい問題は先送りにするのが私の人生であった.今回も,ごく簡単に触れるだけにしておく.

 東海地方は略して愛三岐という.小椋佳の作詞作曲になる味の素社のCMソングにして美空ひばり晩年の大ヒットであり,遺作『川の流れのように』と並んで昭和という時代に別れをつげる記念碑的名曲は『愛燦燦』である.似ているが愛三岐は愛知,三重,岐阜の三県のことだ.似てませんか.そうですか.

 では静岡県はどうなのか.愛三岐の県民に「東海地方の範囲は?」と訊ねると愛知,三重,岐阜だと答えるであろう.ところが静岡県民に同じ質問をすると静岡,愛知,三重,岐阜だと答えるだろう.愛三岐の県民は静岡県を東海地方のうちに入れていないが,ほとんどの静岡県民は静岡県は東海地方だと考えているのだ.
 しかし伊豆の,とりわけ東伊豆の人々はどうだろう.意識としては関東地方と同一化していると思われる.伊豆は東海地方だと言われると違和感を覚えるに違いない.
 浜松市を中心とする静岡県西部の人たちはごく普通に味噌カツを食うが,静岡市を中心とする静岡県中部で味噌カツのある食堂は滅多にない.それどころか静岡市民は,問い詰められれば静岡県は東海地方だというが,心底では自分たちを関東の人間だと考えているフシがあって,買い物や観劇に気軽に東京に出かける.それに,地図を描かせると東京の西に静岡県を描いたりする.神奈川県の立場はどうするのか,膝詰めで小一時間ほど説教したくなるくらいだ.

 それもこれも,江戸と尾張・三河に挟まれたところを一まとめに静岡県にした明治政府が悪いのだが,当の静岡県民は自分たちのアイデンティティに関わるこのややこしい問題を深く考えていない.ややこしいことは先送りにするのが静岡県民なのである.高校を卒業して以来,人生の半分を静岡県で暮らした私は,その県民性の影響を受けてしまったというわけなのである.
 で,蕎麦つゆのことはどうした.はあ.

(続く)

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2014年10月18日 (土)

屋台のDNA (七)

 本題を離れて昨日の余談の続きを.

 昨日の(註*)で,かつて上野駅構内の連絡通路にあった蕎麦屋のことを書いたが,ちょうど十二年前にも,閉館した個人サイト『江分利万作の生活と意見』にこの蕎麦屋のことを少し書いたのを思い出した.下に再掲する.

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2002年10月13日
上野駅

 かつて,集団就職というものがあった.始まりは1954年,東京都等の斡旋で世田谷の桜新町商店会の求人に,地方から中卒者が集団で上京したことだという.これが最も盛んだったのは1964年で,全国各地から東京,大阪などの中小企業の工員,店員として78,407人が就職した.そしてこの人々を運んだ臨時便の集団就職専用列車は3000本もあった.
 私の中学生時代はこの集団就職の最盛期にあたっていて,私の中学三年のクラスではS君という人が東京に就職していった.たしか卒業式の前に上京することになっていて,休みの日の学校の校庭で,担任の先生がみんなに呼びかけてS君を送り出す会が行われたと覚えている.会にはお母さんも見えられて,S君は,がんばります,と挨拶した.それから同級生全員で国鉄の駅に見送りに行った.

 集団就職は東京だけのことではなかったのだが,これを象徴するものといえば,やはり上野駅に到着する列車だろう.今はもう廃止されて線路も撤去された旧18番線ホームである.この18番線ホームに,井沢八郎のヒット曲「あゝ上野駅」の歌碑が建てられることになったと読売新聞が伝えている.上野駅が開業 120周年の来年7月に除幕する.読売の記事で知ったのだが,井沢八郎ももう六十五歳なのだなあ.除幕式では歌碑の前で「あゝ上野駅」を歌うことになるだろう.

 「あゝ上野駅」もそうだが,青木光一や三橋三智也などの歌謡曲にも東北地方と上野駅を結ぶ夜行列車をイメージさせるものがあったように思う.私の生まれ育ちは北関東だから,高校生時代に模擬試験に出かける時とか東京に行く用事のある時には,夜行列車ではなく朝一番の電車に乗った.当時の上野駅は時代と共に増設されたホームが無秩序に分散していて,乗り換えや出口に向かうのに連絡通路の階段を昇ったり降りたりしなければならなかった.天井が低くてコンクリート打ちっぱなしのその連絡通路には蕎麦屋があった.
 この蕎麦屋は,雑誌などで上野駅の思い出が語られる際によく登場する店で,今でも覚えている人は多いだろう.それも,もうない.

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 Wikipedia【集団就職】は次のように書いている.
教育学的要因の進学率の問題では、昭和30年代~昭和40年代(当時)では、中卒者の高校進学率は半数程度であり、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層の通う上級学校」とみなされていた。高校進学相応の学力を有していても、家庭の事情や経済的な理由で進学を諦めることも多かった時代であった。また学力の問題だけでなく、当時は兄弟数や子供数が多い農家や貧困家庭が多かった。

 私が高校に進学したのは昭和四十年であるが,この年を境に急速に集団就職は行われなくなった.中卒就職者が激減したためである.
 従って上記の引用部《昭和30年代~昭和40年代(当時)では、中卒者の高校進学率は半数程度であり、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層の通う上級学校」とみなされていた》には誤りがある.それは昭和三十年代のことである.
 例えば昭和四十年当時の群馬県前橋市の公立中学校,私の母校の例では,中卒就職者はクラスに一人いるかいないかといった数であった.日教組は「十五の春は泣かせない」(オリジナルは京都府知事だった蜷川虎三が掲げたもの) というスローガンをほぼ達成しつつあり,高校進学率はほぼ全入に近く,その三年後に高校から大学への進学率は,全体の30%程度であった.私の母校の県立高校では,大学進学率は70%を超えていたと記憶している.
 昭和三十年代に中卒就職者は「金の卵」と呼ばれた.それは求人倍率が三倍を超える状態を指していたのであるが,昭和四十年代には中卒就職者が激減したために,別の意味で「金の卵」と呼ばれるようになった.

 上に《日教組は「十五の春は泣かせない」(オリジナルは京都府知事だった蜷川虎三が掲げたもの) というスローガンをほぼ達成》と書いたが,しかしこれは日教組が勝ち取ったものではなかった.高校の事実上の義務教育化と大学教育のインフレ化は政府の方針であったのである.それは,産業界が教育水準の高い労働者を求めていたことによる.
 その結果,昭和四十一年から四十三年にかけて,地方から東京へ集団就職者ならぬ集団進学者が大量に流入した.その受け皿は日大を始めとする私学であった.

 この頃,日本社会党左派の影響下にあった日本社会主義青年同盟 (社青同) というマイナーな学生運動組織が大学を「教育工場」と位置づけていたが,まさにその通りであった.私たちはベルトコンベアに乗せられて簡単な加工をされ,産業界に歯車として送り出されていくのだが,その教育工場で最大なのが日大であり,こうした大学の教育工場化を背景に,今はもう忘れ去られたあの「日大闘争」が起きたのである.

 当時の報道映像だが,日大の学生デモの中に昭和四十三年に日大に入学したテリー伊藤の姿がある.
 テリー伊藤の生家は築地場外で商売をしていたが,そのすぐ隣に吉野家があった.テリー伊藤が高校生の頃の吉野家は個人商店にすぎなかったが,彼が日大に進学した昭和四十三年に吉野家は,牛丼屋の企業化を目指してチェーン展開を開始し,築地に続く二号店を新橋駅前に開店した.
 またこの頃,東京では国鉄の駅周辺に立食い蕎麦屋が激増した.東京における牛丼チェーンの進撃開始と立食い蕎麦屋の林立.これが教育工場から送り出された大量の薄給サラリーマンの胃袋を満たしていくことになったのである.あとから振り返ると実によくできているので感心する.
 こういうヨタ話をして,本題に戻る.

(続く)

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2014年10月17日 (金)

屋台のDNA (六)

 前稿の『世界の立食い蕎麦』は冗談だが,「純蕎麦屋」と「立食い蕎麦屋」の対比は割と真面目に思いついた概念である.ヾ(--;)思いつきかよ.

 私の思いつきに基づく「純蕎麦屋」,つまり長寿庵や大村庵とか増田屋といった屋号の大衆的な蕎麦屋は,古いものでは江戸期の創業で,それが暖簾分けで増えていったものであるが,「立食い蕎麦屋」は別の起源を持つ.その起源とは駅弁だ.

 駅弁の元祖については諸説あるが,全国に旅客鉄道網が敷設されると,長距離旅客のニーズに応えて各地に弁当調製業者が発生した.鉄道事業が工部省や内務省,逓信省などの現業であった十九世紀後半 (明治時代前半) に早くも駅弁調製業者は営業を始めている.

 これらの業者がいつ頃から駅構内で蕎麦屋を始めたかについては寡聞にして文献を承知していないが,駅弁の誕生よりずっ遅く,都市部のターミナル駅においてであるとして,Wikipedia【駅そば】は次のように記述している.
都市近郊からの電車通勤が拡大した高度成長期から、大都市ターミナル駅で駅そばが増え始めた。1960年代中頃の品川駅、荻窪駅、新宿駅がこのタイプの最初期と見られている。

 Wikipedia【駅そば】は《最初期》と書いているが,JR通勤客にはおなじみの常盤軒が品川駅で蕎麦屋を開業したのは昭和三十九年であり,前に述べた駅蕎麦のパイオニア,大船軒の立食い蕎麦に遅れること七年であった.

 さて駅蕎麦の営業形態的な特徴は何かというと,厨房がないことである(註*).自家製あるいは仕入れの茹で蕎麦と蕎麦つゆを階段裏やプラットホームの店舗に持ち込んで開業している.
 どういうわけか昔は,麺が茹で蕎麦なのに,天ぷら (かき揚げ) をホームの小さなブース内で揚げていたところがかなりあった.差別化ということだろうか.今でも小田原駅の在来線ホームの蕎麦屋は天ぷらを揚げている (ただし蕎麦うどんは冷凍麺).なくなってしまったが,以前は新橋駅の銀座口改札を入ると立食い蕎麦があって,ここも天ぷらを揚げていた.

(註*) 余談だが,JRがエキナカ事業を始めるはるか前に,コンコースで厨房のある歴とした食堂を営む例があった.東北地方あるいは新潟や北関東から上野駅に上京してくる集団就職の少年たちを題材にした井沢八郎『あゝ上野駅』(作詞関口義明,作曲荒井英一) は昭和三十九年の大ヒット曲であるが,当時の上野駅には,薄暗い通路に,一軒の蕎麦屋があったのである.
 この店は立食いではなく普通の蕎麦屋であったから,集団就職者だけでなく,何やら思案げな旅客が一人ビールを飲んでいたりした.わずかな金を財布に入れた家出青少年もいたであろう.この蕎麦屋と『あゝ上野駅』を記憶している団塊世代は多いだろう.
 

(続く)

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2014年10月16日 (木)

屋台のDNA (五)

 来月,東京の現住所を引き払って空き家にしている自宅に舞い戻るのだが,その前に薄汚れた壁紙をDIYで塗っておこうと思って,昨日,留守宅に出かけた.

 最寄りのJR藤沢駅を降りたのがちょうど昼飯時だったので,改札口を出たところにある「さがみ茶屋藤沢店」に入った.「さがみ茶屋」は NRE 日本レストランエンタプライズが経営する「椅子席で食べる立食い蕎麦屋」である.

 リンク先の画像をみるとわかるように,ここは全席が椅子席である.席数約三十の堂々たる店構え.しかも券売機で食券を買って椅子に腰かけると店員のおばさん (推定年齢四十三歳) が間髪入れずにやってきて食券を手に取り,「お蕎麦ですかうどんですか」と注文を聞き (註*),できあがった蕎麦を席まで配膳してくれた.

 このようにセルフサービスではないにもかかわらず,この店は普通の蕎麦屋ではなく,プラットホーム階段裏で営業する大船軒と並んで,屋台蕎麦屋の遺伝子を現代に伝える立食い蕎麦屋の一軒なのである.
 なぜか.答えはCM2のあとで.違います.

 一般財団法人日本駅蕎麦学会編『世界の立食い蕎麦』によれば,純蕎麦屋と立食い蕎麦屋の識別・分類は,以下の二点で行われる.

(1) 蕎麦つゆ
(2) トッピング

 なおここでは正統的な普通の蕎麦屋を純蕎麦屋,屋台系統の蕎麦屋を立食い蕎麦屋と称する.喫茶店に純喫茶とメイド喫茶があるのと同じである.違うっ.
 どこが違うのか.オオカミとフクロオオカミとで違いがあるのと似ている.違うってば.

(註*) 余談だが,一年前には,注文を受けた店員 (推定年齢三十七歳) が,かわいらしい声で「竹輪天蕎麦いただきましたあ~」と,居酒屋日本語で厨房に伝えていた.「私はあなたに竹輪天ぷら蕎麦をあげた覚えはない.正しくは『竹輪天蕎麦の注文をいただきました~』であろうが」と思ったものだが,声がかわいかったので許した.しかし今回のおばさん (推定年齢四十三歳) 店員は「ちくてんそ~」と言っていた.日本語の使い方マニュアルに改訂があったもようである.

(続く)

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2014年10月15日 (水)

屋台のDNA (四)

 私の友人で「うどんは食い物だが,蕎麦は哲学である」と言う男がいる.蕎麦屋も客の蕎麦食いも,やたらに薀蓄を垂れることを皮肉ったものである.

 もう何年も前のことであるが,自分で蕎麦を打つ趣味がはやったことがある.誰が仕掛けたことか知らぬが,会社一筋で生きてきたために何の趣味もない (主として団塊世代の) 男たちが一斉に蕎麦打ちに走った.
 蕎麦打ち道具一式と蕎麦粉がワンセットで通販されたが,もとより趣味というものは形から入るのが常道であるからして,かっぱ橋まで出かけて道具を吟味購入した者も多かった.

 道具だけではない,作務衣もよく売れた.蕎麦打ちブームが去った今 (註*) でも作務衣を着ている団塊爺さんは多い.こういう爺に会ったらさりげなく蕎麦の話題を振るといい.打ちたてがどうの,茹でたてがこうのと貯め込んだ薀蓄を垂れはじめるであろう.(こういう爺については残間里江子『それでいいのか 蕎麦打ち男』(新潮社) がある)

 この種の面倒くさい人物が蕎麦屋を始めると厄介なことになる.『注文の多い料理店』の山猫軒ではないが,いちいち客に注文をつけるのだ.
 品書きには蒸籠蕎麦しかなく,天ぷら蕎麦も鴨南蛮もない.仕方なく蒸籠を注文すると,蕎麦猪口に水を入れてもってくる.そして「蕎麦というものは香りが命ですから,まず水で味わってください」などとぬかす.

 何を言うか.あるかなきかの蕎麦の香りを楽しみたいのなら,蕎麦粉をなめるのが一番に決まっておる.むせるけど.

 その一方で,蕎麦なんてものは救荒作物であり,蕎麦切りは小腹がすいたときの食い物だから腹に入ればそれでいいのだという漢らしい (若者ぶってみました) 立場もあるわけで,それが立食い蕎麦である.

(註*) ブームが一過性に終わったのは,週末になると必ず蕎麦を食わせられる家族に疎まれ,結局自分で作って自分一人でさみしく食うしかなくなったからであるといわれる.

(続く)

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2014年10月14日 (火)

屋台のDNA (三)

 大船軒の創業者は富岡周蔵という人で,文久二年 (1862年) の生まれ.残念ながら Wikipedia に人物像の記載がなく没年不明.
 大船軒は戦時中に社屋を海軍に接収されて営業を停止したが,そのときに会社の資料が失われたという.そのため,まとめられた社史がないのかも知れないが,同社のウェブサイトには簡単な記述がある.
 これによると大船駅の「サンドウイッチ」と「鯵の押寿し」は富岡周蔵の事業だが,昭和三十二年に始められた駅蕎麦事業はどうも継子扱いで,詳細が不明である.

 そもそも Wikipedia【立ち食いそば・うどん店】は《簡単に食事をすませたい場合などに多く利用されているファーストフード店の一種でもある。簡便な食事場所としての立ち食い蕎麦の起源は、江戸時代の江戸の屋台である》としているが,江戸期に屋台の蕎麦屋があったことは確実として,しかし明治・大正期,昭和戦前期に立食い蕎麦屋があったかどうかは資料がないのではないか.
 店を構えて商いをしていた,例えば長寿庵系や増田屋系などの蕎麦屋はその歴史をたどれるようだが,超零細の立食い蕎麦屋が先の戦争を乗り切ったとはとても思えない.江戸期の移動屋台に始まって固定屋台化した立食い蕎麦を,戦前戦中の空白期を経て事業として再興したのは大船軒ではないかと私は推測している.

 その大船軒の立食い蕎麦が営業開始した昭和三十二年は,日本の高度経済成長が立ち上がってわずか三年,首都圏に集まった大量の勤め人の腹を満たすファストフードのニーズが,この辺りから発生したものとみられる.
 奇しくも吉野家が株式会社として設立されたのは昭和三十三年,チェーン展開を開始したのは設立から遅れること十年の昭和四十三年であった.
 梅もとが店舗展開を始めたのは先に述べたように昭和四十年,中野駅北口の立食い蕎麦「かさい」の創業は昭和四十八年のことであった.
 ちなみに日本マクドナルドが一号店を銀座三越店内に開店したのは昭和四十六年,日本KFCが名古屋で事業をスタートしたのは昭和四十五年である.

(続く)

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2014年10月13日 (月)

屋台のDNA (二)

 まず,Wikipedia【かえし】から引用する.
なお、つけ蕎麦用にかえしを濃く出汁で割った汁を辛汁(からつゆ)、温かい蕎麦用に薄めに出汁で割った汁を甘汁(あまつゆ)という。辛汁と甘汁で出汁を変える場合もある。

 東京の蕎麦の名店のことは横に置くとしても,関東では,駅ビルのレストラン街に入っているような変哲もない蕎麦屋でも,商店街に店を構えていてカレーライスも品書きにあるような普通の蕎麦屋でも,上に引用した辛汁と甘汁はきちんと区別されている.つまり辛汁はつけ蕎麦の調味料であるから,これを飲みたい客は蕎麦湯をもらって薄めてから飲むが,甘汁はそのまま飲めるようにしてある.
 ところが,丼の外側が蕎麦つゆでびしょびしょに濡れているような (甲) 類の立食い蕎麦では,辛汁と甘汁の区別がない.店側としては区別しているのかも知れないが,区別があっても差はわずかである.辛汁がどうのこうのと言っても,だいたい盛り蕎麦が季節メニューだったりする.(笑)
 駅のホームの階段裏で営業しているような立食い蕎麦屋では,十リットルのポリタンクに入れられた蕎麦つゆを,おばちゃんが寸胴鍋にドバドバと注いでいるのを見かけるだろう.このかけ蕎麦用のつゆを二リットルのポリ容器に移し,冷蔵庫で冷やして,つけ蕎麦のつゆにしているのが多い.
 このような普通の立食い蕎麦屋に対して,ほとんどつけ蕎麦用といっていい濃厚さのつゆを,かけ蕎麦に使っている特異な立食い蕎麦屋がある.湘南地域で知らぬ者なき大船軒だ.
 大船軒のウェブサイトを見てみよう.

大船軒の蕎麦
昭和32年から大船駅や藤沢、茅ヶ崎、鎌倉駅で親しまれてきた濃い目のつゆが特徴の大船軒の駅そば。くせになると評判のつゆの味は伝統を守って現在も皆様に喜んで頂いております。

 ほんと,くせになります.(笑)

(続く)

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2014年10月12日 (日)

屋台のDNA (一)

 私が大学に入学して上京してきたのは昭和四十三年である.
 このときは,今はもうない中野刑務所の近くに学生寮があり,そこに住むことにした.
 西武新宿線の沼袋駅がすぐ近くにあったが,群馬の田舎からのぽっと出で,かつ貧しい私は,中野駅北口まで歩くことにした.
 その途中の商店街に「梅もと」の立食い蕎麦店があった.調べると「梅もと」が立食い蕎麦の出店を開始したのは昭和四十年だというから,「梅もと中野店」はできて間もない頃だったようだ.
 当時から東京のあちこちに立食い蕎麦屋はあったけれど,それらは店舗名があるかどうかもわからぬスタンドアローンであり,屋号を掲げて多店舗展開しようとしていたのは「梅もと」くらいではなかったかと思う.

 さて上京してすぐのこと,「梅もと」に入って蕎麦を食べた私は大層びっくりした.蕎麦つゆがまっ黒で丼の底が見えなかったからである.
 しかもベラボーに甘辛い.

 昔の上州の家庭で作る蕎麦つゆ,うどんつゆは,麦茶とかウーロン茶くらいの色であり,かつ味醂は隠し味程度にしか使わないものだったから,「梅もと」のうどんのように甘辛い汁に染まって,白いうどんが茶色になってしまうのは驚天動地であった.

 もう昔のことだが,死んだ中島らもが,東京にどうやっても勝てない大阪の人間の最後の拠り所はうどんである (うどんしかない) と書いていた.あんな真っ黒い汁のうどん食えるかいなありゃ人間の食いもんとちゃう (涙目),というわけだが,立食い蕎麦屋の汁については私は全く同意する.濃口醤油を使うのだから黒くてもいいが,あのしつこい甘さだけは何とかならぬかと思う.立食い蕎麦屋のカウンターの表面を指先で触ってみるがよろしい.ぺたぺたするはずだ.そのぺたぺたは糖分である.東京のあんな甘いうどん汁は人間の食い物じゃないだんべ (涙目).
(群馬南部では「だんべに」というかも)

 ところで,Wikipedia【立ち食いそば・うどん店】に次のようにある.
簡便な食事場所としての立ち食い蕎麦の起源は、江戸時代の江戸の屋台である。

 そして東京の立食い蕎麦屋の稲荷鮨もベラボーに甘辛い.甘辛の蕎麦つゆと甘辛の稲荷鮨が同根のものであることが,一口食べれば容易に知れる.
 江戸時代末期に書かれた『守貞謾稿』に,稲荷鮨は屋台の食い物であり《 (尾張) の名古屋等、従来これあり》とある.天保年間に尾張から江戸に伝わったものらしい.
 だとすると,東京の立食い蕎麦の味のルーツはどこだ.尾張か,三河か,はたまた遠州,駿河か.
 興味ある向きは,各県別に調味料,特に味醂と砂糖の消費量を調べてみられたし.静岡愛知が全国有数の濃厚味付け地帯であることを知るだろう.

(続く)

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2014年10月11日 (土)

東海道立食蕎麦

 昨日の「蕎麦暗黒面」に (甲) 類の立食い蕎麦を暗黒麺なんて書いたが,実は (丙) もある.
 今はもうない店だが,東海道線清水駅のホームに立食い蕎麦屋があった.この店は清水駅がリフォームされたときに撤去されてしまった.
 ある朝,泊まった清水市内のビジネスホテルの朝食が高いので,パンでも買って食べようと駅に入ったが早朝のため売店は営業しておらず,しかし立食い蕎麦屋は開いていた.
 ガラスの引き戸を開けて入ると,既に三人の客がいた.私はかき揚げ蕎麦を注文し,それから周りの三人様の様子をみると,誰も蕎麦なんぞ食べておらず,しかも彼らはどうやら顔見知りであるらしく,コップで酒を飲みながら談笑しているのであった.

 後で知ったのであるがこの蕎麦屋は,「蕎麦」の暖簾は世を忍ぶ仮の姿で,実は立ち飲み屋なのであった.カウンターの中にいるおばちゃんは実は徹夜で営業するスナックのママであり,夜がすっかり明けて店を閉めたあと,ママは客を連れてこの立食い蕎麦屋を開け,更に営業を続けているとのことだった.
 あとにも先にも,蕎麦を売り物にしていない蕎麦屋,すなわち (丙) 類立食い蕎麦を見たのはこれだけである.飲み屋で自分一人が飯を食うというのはまことに居心地の悪い思いをするものである.

 ついでに書くと,実は昭和の時代に都内のJRのホームでは,酒とちょっとした酒肴を売る売店があちこちにあった.ここで帰宅するサラリーマンたちがワンカップ酒とか缶ビールを一本あけて,それから家路につくのであった.それがいつしか姿を消したのは,酔客の酒の匂いが迷惑だという女性JR利用者たちのクレームがあったからだと聞いた.

 その伝でいくと,駅のホームに漂うかつお出汁の香りも,そもそも立食い蕎麦の客層ではない女性には迷惑といえば迷惑であって,それでかしらん都市部では駅の整備と共にプラットホーム上の立食い蕎麦屋は次第に減っていった.今でも健在なのはエキナカや改札口の外にある駅蕎麦である.

 駅構内の蕎麦屋では,品川駅の東海道線ホームによく知られた立食い蕎麦があったのだが,「長年の御愛顧にお礼申し上げます」との貼り紙が出されて店を閉じたのはもうかなり以前のことである.これは新聞記事にもなって,私も若い頃からの長年の利用者であったから,閉店間近にわざわざ出かけてその店の閉店を惜しみつつ蕎麦を食ったのを覚えている.

 今度引っ越すあたりの駅では,大船軒が大船駅,茅ケ崎,藤沢駅のホームに立食い蕎麦屋を出している.大船軒は明治以来のこの地域の駅弁の雄であり,鯵の押寿しが有名であるが,サンドイッチ弁当もなかなかよろしい.このサンドイッチ弁当が基になって鎌倉ハム富岡商会が設立されたのは知る人ぞ知るである.
 で,かねてより私が疑問に思っているのは,なんで大船軒の蕎麦はあんなに甘辛い蕎麦つゆなのであるかということ.鯵の押寿しやサンドイッチ弁当とまるで趣が異なる.誰かそのわけを知らないだろうか.

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2014年10月10日 (金)

蕎麦暗黒面

 立食い蕎麦屋が二極化したのはいつのことだったろう.昭和の終わり頃か.

 私が小諸そばに初めて入ったのは秋葉原の店だった.ここがいつ開店したか知らないが,私はPCパーツや真空管漁りをするときに,昼近くに秋葉原駅に着いてそのまま小諸そばに行き,腹ごしらえしてから電気街一帯を徘徊するのである.
 今は秋葉原駅周辺は飲食店が充実しているから,二人以上で連れだって買い物するのなら飯を食う店に困らないが,私の買い物徘徊は基本的に一人なので,昔も今も立食い蕎麦で済ませる.

 立食い蕎麦の二極化というのは,「(甲) 丼におばちゃんの親指が突っ込まれている上に,その丼の外側が蕎麦つゆで濡れているので客は手が汚れる」というタイプの店と,「(乙) 品物はトレイに載せて供され,客の手は汚れず,またセットものが充実している」の二極である.
 (甲) の特性としては,カウンターに蕎麦つゆでぐしょぐしょに濡れた台布巾がまるで罠のようにして置いてあるということも忘れてはならない.濡れた丼の底を拭こうとしてこの布巾を持つと,手を洗わねばならぬ事態になるのだ.
 (乙) ではそのようなことはない.もちろん小諸そばなどの「茹でたて蕎麦を提供」型は後者だ.

 いずれこの二者の比較研究は腰を据えて行うこととするが,それはさておき,伸びきった茹でおき麺で丼びしょびしょの (甲) 類立食い蕎麦が好きだという人もいるから,話は一筋縄ではなく,立食い蕎麦の闇は深い.

 昨日,留守宅を掃除しに,JRの中央線快速電車東京行に乗って中野駅に着いたら,車窓から北口の立食い蕎麦屋「かさい」が見えた.
 この蕎麦屋は私が中野や高円寺に住んでいた学生時代にはなかったから一度も入ったことはないが,駅のホームから見るに,どう見ても昔ながらの (甲) 類の店である.

 その日の帰りに週刊文春を買って読んだら,連載『この味』に,平松洋子さんが「かさい」でかき揚げ蕎麦を食った話を書いていた.それによると「かさい」は創業昭和四十八年だという.
 で,平松洋子さんはこれが初めての立食い蕎麦体験なんだそうだが,「かさい」の蕎麦をほめている.人生最初の立食い蕎麦が (甲) で,平松さんは蕎麦の暗黒面に落ちたのかも知れない.暗黒麺か.彼女がフォースと共にあらんことを.

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2014年10月 8日 (水)

糟糠の妻たち みたいな

 昨日の記事「続・ノートについて」で,クロスのボールペンについて触れたが,誰にも思い出の品とか記念の品というものはあるんじゃないかと思う.
 私の場合は,今から三十年ほど前,会社の研究所の研究室長に昇進したときに買ったクロスの「クラシックセンチュリー #1502」だ.

20141008a

 手帳のペンシースにちょうどいい細身の軸で,替芯は回転操出式.ビジネスマンの持ち物の定番だろう.細字の替芯を何本も交換しながら三十年間使ってきたが,今も軸の摺動部に全くガタがきていない.一生ものとはこれだ.

 このボールペン以外にもクロスは二本持っている.一本は部長に昇進したときの記念の「クラシックセンチュリー #2802」で,これは太字の芯を入れて二十年使用.

20141008b

 もう一本は最近購入したもので,定年退職のときに買った「クラシックセンチュリー メダリスト #3302」である.赤インクの替芯を入れている.

20141008c

 私が思うに「#3302」は大変に安価であるが,クロスの製品中で最も美しいデザインのボールペンである.女性の普段使いの筆記具に最適だと思うのだが,これを使っている女性にであったことはない.

 あともう一つ.
 シチズン時計にアテッサというブランドがあるが,その初期のモデルで,ソーラー電波時計の走りがこれ↓.

20141008d

 今も全く故障しそうもない.私が生きている間中,動き続けるであろう.
 私は入浴時以外は四六時中腕時計をしているので,こいつとは二十年間も肌を接してきたことになる.そう思うと,なんだかとてもいとしい.むふふ.こらこら.

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2014年10月 7日 (火)

続・ノートについて

 先月「ノートについて」を書いたあと,種々検討した結果,無職年金暮らしの爺向けのダイアリーをどんなのにするかが決まった.パンパカパーン

 システム手帳のリフィルというのは,手帳そのものというかホルダーというか入れ物というか本体というか,それに比較すると二回り小さくなる.六穴のリングが大きいせいである.
 これに対して製本された綴じノート型のダイアリーは,無駄な空間がないので,システム手帳と同じサイズならずっと書き込む欄が広くなる.
 小さい字を書くのが辛くなってきた私には,綴じノート型のダイアリーがよい.

 大きさは,ダイアリーを収納するショルダーバッグが A5 対応サイズなので,余裕で収納できる B6 サイズに決めた.

 ダイアリーの中身だが,基本の形としては,開いた状態の左側ページが週間予定表で,右側がノートとして使えるタイプが綴じ型ダイアリーでは一般的なようだ.週間予定表は,一日の欄が縦長で詳しく書けるバーティカルと,大ざっぱに記入する横長のホリゾンタルがあるが,私にはもう分刻みの行動予定が発生することはないので,大きい字が書けるホリゾンタルがよい.
 それで最終的に選んだのは,キョクトウ・アソシエイツ が販売している2015年版手帳 (2014年10月始まり,ノートタイプ,B6 PBF82W15) である.中はこんな感じ↓である.

20141006b

 このダイアリーは紙の表紙が塩ビコートされてはいるが,裸のままで一年間の使用に耐えるかどうか.ここはやはりそれなりのノートカバーを着けたほうがいいだろう.
 ノートカバーで機能的に最も優れているのはコクヨのヒット商品「カバーノート システミック リングノート対応 ノ-685B-D」だと思うが,如何せん私が使うにはデザインが若向きすぎだし,サイズが A5 と B5 しかないので諦めた.
 それで悩んだ末に選択したのが,PTM 社製の本革ダイアリーカバー「グラフィア Graphia - B6サイズ用 - 8353GP」である.

20141006a

 これ,革の縫製は丁寧であるし,手触りもいい.デザインは《フィレンツェの古書店に保管されていた羊皮紙に書かれた古文書を表面にシルク印刷しました》と商品説明にある.機能的には単なるノートカバーであるが,見た目に惚れたのである.十年くらい使い込めば革がいい色合いに経年変化するものと思われるが,残念なことに私にはもうそんな時間は残っていないだろう.

 さてこのノートカバー,外観はとてもいいのであるが,ペンシースが太軸の筆記具向きに,かなりゆったりとしている.
 私は現役会社員時代に,クロスのボールペン「クラシックセンチュリー」を三十年間にわたって使い続けてきた (考えるとものすごい耐久性である) のだが,残念ながらこれは細身すぎて Graphia - 8353GP のペンシースに入れるとブラブラして不安定である.このペンシースにピッタリのボールペンはないかと探したら,三菱鉛筆製のボールペン「ピュアモルト SS2005」がうまく納まった.(本当はモンブランの万年筆やボールペン用にできているのだろうが,モンブランのペン類は装身具であって実用筆記具ではない.モンブランの経営者が自らそう言っている)
 三菱鉛筆のこのボールペンは,金属光沢部分がちょっとチープだが,まあ容認の範囲である.ただし替芯は,評判がいい同社製の「SJP-7 黒」に交換した.「SJP-7」は圧力タンク式で,ボールペンの先が紙に触れたその瞬間からスルスルとインクが出てくる.非常に優れたリフィルだ.

20141006c

 さあ,こうして手に入れた手帳とオリンパスのカメラをバッグに入れて,プチ旅行にでかけることにする.加山雄三みたいな横柄な散歩ではなく,ここはやはり地井武男の雰囲気で.

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2014年10月 6日 (月)

行商

 昨日,七味売りの行商のことを書いたが,七味売りに限らず,昭和三十年代は色んな行商が姿を消していった時代であった.
 私が覚えているところでは,七味売りのほかにポン煎餅屋,べっこう飴屋,蒸しパン屋がきて,食い物以外では包丁研ぎ屋,鍋の修理屋 (傘の修理もした) などがやってきた.
 豆腐売りは毎朝毎夕,ラッパを吹きながら必ずやってきたが,これは店舗を構えて昼間営業している豆腐屋が朝夕の時間帯を見計らって自転車の荷台に豆腐と油揚げなどを載せて売りにくるのだから,純然たる行商ではなかった.
 似たようなものだが,納豆は朝しか売れないものであったせいか,納豆売りは無店舗販売だったと記憶している.
 その他には,私が育った町内だけのことかも知れないが,八百屋の行商もリヤカーで毎日きたのが懐かしい.

 数か月に一度の不定期訪販では,新潟県から県境を越えてかつぎ屋のおばちゃんがやってきた.東京に千葉からかつぎ屋のおばちゃんが来るのと同じだ.
 このおばちゃんたちは農家の人で,農閑期になると一斗缶に味噌や笹飴,あられなどの手作り菓子を入れたのを二缶から三缶,背負子にくくりつけてやってくるのだった.私の両親は新潟県の出身だったから,新潟のかつぎ屋がくると必ず味噌を買った.もちろんその味噌は工場製品を仕入れたものではなく農家の副業製品で,大層おいしいものであった.

 上述の行商のパン屋というと「ロバのパン屋」が有名だが,うちの町内にやって来る蒸しパン屋が株式会社ビタミンパン連鎖店本部の加盟業者だったかどうかは,わからない.
 最近はあちこちで無店舗販売のパン屋が商売していて,これが本格的なパンでかなりおいしかったりする.
 来月,今まで留守にしていた自宅に引っ越すのだが,その町内にも移動販売のパン屋が週に一度回ってきた.話を聞くと,いつかは自分の店を構えたいが,それまでは移動販売で資金をためるんだという.私はこういうパン屋を好ましく思うくちである.そのパン屋ではアップルパイが抜群においしくて,あれがまた食べられるんだなあと少し嬉しい.

 行商ではないが,オリエンタルカレーの試食宣伝車がきたこともあった.
 コカコーラも,日本上陸のときは試飲宣伝車が全国を走った.あれを覚えている世代も,もうすぐ会社の定年かも.

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2014年10月 5日 (日)

女の講釈

「調教」「姦」「淫」などなどの言葉が躍る,おどろおどろしいアッチの方向に行っちゃった人々が読む小説分野があって,ひょんなことから,そのジャンルに作品を供給している作家のひとりに 黒澤はゆま というかたがいることを知った.昨日その名前を初めて聞いた.
 ひょんなこと,というのは,「男子厨房に入るべからず」を検索していたら「はゆま荘」と題した黒澤はゆまさんのブログがあり,それに《男子厨房に入るべからず? 》という記事が載っていたのである.
 どんな記事かと言うと,冒頭に《男子厨房に入るべからずという言葉があります。女性が料理し、男は食べるだけというのが、日本の伝統的家族生活であるという印象を、この出典不明な言葉は作り上げてきました》とある.
 まことにその通りであって,「男子厨房に入るべからず」と言う言葉は,実体のない「印象」にすぎない.
 逆にこれは,日本の男たちが実際には昔から,料理をしてきたことの裏返しであると思われる.
 この記事で黒澤はゆまさんが言及しているのは武士階級のことだが,そもそも厨房なんてのがある家に住んでいたのは,社会の上層に位置する一部の人々であった.
 例えば江戸期.江戸の町は独身男ばかりでウジがわいていたのであるが,彼らの住みかである長屋にはもちろん厨房なんかなかった.土間の七輪で,自分で煮炊きして飯を食っていたのだから,「男子厨房に入るべからず」なんぞは別世界の話であったわけだ.

 さて料理好きな男には,どういうわけかわからないが,薀蓄たれが多い.
 これに対して女は黙々と料理する.食い物の話が多い女は食うばかりで料理しないイメージがある.「食べログにでてたあのお店で女子会しましょ,きゃぴきゃぴ」みたいな.
 日経新聞のコンテンツ《列島あちこち 食べるぞ!B級グルメ (略称「食べB」)》は,日経の特別編集委員・野瀬泰申氏と,「食べB」同人 (常連投稿者) の皆さんの投稿でできている.
 その同人の一人に「いけずな京女」さんという,少し知られたブロガーがいる.そのいけずな京女さんが「食べB」第194回で,七味唐辛子についてこんなことを書いている.

 《京都はうすくち醤油を使うので「香り・風味」を大切にし、柚子・紫蘇・海苔など風味原料を多く使用。江戸は濃口醤油のタレとかえしでそばを食べるために、辛さを強調したパンチのあるブレンド。

 はて《江戸は濃口醤油のタレとかえしでそばを食べる》とはなんのことであろう.
 Wikipedia【かえし】から引用する.
かえしとは「煮かえし」の略された物で、蕎麦汁(そばつゆ)に使われる調味料。このかえしを出汁で割って蕎麦汁が作られる。
醤油に砂糖、味醂(場合によっては日本酒など)を加え、しばらく寝かせる事によって作られる

 いけずな京女さんによると,この「かえし」と濃口醤油のタレを合わせて蕎麦つゆを作るみたいに聞こえるが,濃口醤油を用いて作ったタレを「かえし」というんじゃないのか.《江戸は濃口醤油のタレとかえしでそばを食べる》ってどこから出てきた話なのか.『美味しんぼ』に蕎麦つゆの話があったような気もするが.

 それから,《江戸 (の七味唐辛子) は濃口醤油のタレとかえしでそばを食べるために、辛さを強調したパンチのあるブレンド》もどこからわいて出た話だ.
 狭い京都の町ではみんなが清水寺の門前に七味唐辛子を買いに行ったのかもしれないが,箱根のこちら側では江戸時代から七味唐辛子売りという行商があって,基本的に客の注文で調合して売っていたのである.
 もちろん商いの大きな有名店はあって,浅草寺門前の「やげん堀」では唐辛子,焼唐辛子,けしの実,麻の実,粉山椒,黒胡麻,陳皮を七味と称していた(*)が,行商では別にそれに限ったものではなかった.七味売りの行商は,私の郷里の群馬県では昭和三十年代中頃まで行われていて,私の記憶では道端にずらりと並べた薬味入れの箱には,紫蘇も胡麻もあったし,山椒は粒と粉を選べたものである.客はその中から七種類を選び,調合割合に希望があれば,これとこれを多めにして,などと注文をつけて作ってもらったのである.だから「江戸の七味はパンチのあるブレンド」などと抽象的なことを言われても何のことやらわからない.
 七味売りの行商みたいな古いものを,いけずな京女さんはご存じないのだろう.あるいは食い物話を書くのは好きでも,リアルな料理と食材に関心はない人なのかも知れない.
 こうして「江戸の七味は辛さを強調したパンチのあるブレンド」という,若い人の根拠のない思い付きが,いつしかネット上に流布定着していくのだろう.残念なことである.

(*)
★京都清水寺門前の七味屋では,唐辛子,山椒,黒胡麻,白胡麻,紫蘇,青海苔,麻の実の七種である.いけずな京女さんが京都の七味に入っていると書いている柚子は,この老舗では七味のうちに入れていない.
★香辛料メーカーの全国ブランドがどうなっているかというと,S&Bエスビー食品株式会社の七味の原材料表示は以下の通り.やげん堀と京都風の折衷配合になっている.
  赤唐辛子、黒ごま、ちんぴ、山椒、麻の実、けしの実、青のり
やげん堀では唐辛子は「唐辛子」と「焼唐辛子」を調合しているが,これでは原材料表示としては六味になってしまう.そのため青海苔を入れて七味にしているのだと想像される.
★同社製品には,七味唐辛子と別アイテムで「ゆず入り七味唐からし」がある.
★ハウス食品株式会社は,ウェブサイトでは原材料を公開していない (まことに不見識である).ただし,麻の実を「しょうが」に変更したとは書かれている.

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2014年10月 4日 (土)

カウボーイとアルミニウム

 先日の記事「西部開拓豆料理」に書いた,1960年代に放送された懐かしのテレビ映画『ローハイド』のことについて.

 劇場公開の西部劇映画で,登場人物の食事シーンがあるかどうかと言われると全くわからないが,テレビ映画『ローハイド』では,料理係であるウィッシュボーン爺さんが作る豆料理をカウボーイたちが食べるシーンはよくあった.
 私自身は観ていないが,『ローハイド』は最初の放送のあとも何度か再放送されたのだそうで,だから『ローハイド』に登場する豆料理について思い出をつづるブログは,探せばたくさん出てくる.そして先日は書かなかったが,それらのブログの記事のいくつかで,気になる記述がある.

 一例だが,《立ち呑み日記 》と題したブログには,次のような記述がある.
「豆が煮えたぞ」と、二、三人のカウボーイが、あつあつを各自のアルミの皿にとり、辛さと幸せが入り混じったような顔で、フハフハ口に運ぶんです。

 ここで何が「気になる記述」かというと《アルミの皿》である.

 西部劇の時代がいつだったかなんて言うまでもないのだが,Wikipedia【ローハイド】から以下に引用する.

あらすじ
南北戦争後の1870年代のアメリカ西部を舞台に、テキサス州のサンアントニオからミズーリ州のセタリアまで3000頭の牛を運ぶロングドライブを描く。

 一方,Wikipedia【アルミニウム】にはこう書かれている.

19世紀後半 - 電気精錬の手法が進歩するが、肝心の発電、送電技術が未熟であり、生産性は依然として低いままであった。
20世紀中〜後半 - 大規模で効率的な発電所の建設が可能になるとともに、送電システムが確立された。大規模な電気精錬が行えるようになり、大量生産が可能となった。

 また Wikipedia【ナポレオン3世とアルミニウム製品】にはこうある.

当時、アルミニウムは「粘土からの銀」 (silver from clay) ともいわれるほど貴重な金属で、混じりけのないアルミニウムは金よりも高価であり、ナポレオン3世はアルミニウムに魅了され、アルミニウム製品を愛好していた。自分の上着のボタンや、子供のおもちゃをアルミニウムで作ってもいた。

1855年、フランスのパリ万国博覧会において、ナポレオン3世が後押ししたアルミニウム製造会社の「アルミニウム棒」が、宝石がちりばめられた王冠に並んで、万博会場の特別陳列室に展示もされた。1867年の万国博覧会でもアルミニウム製の豪華な「扇」が展示されている (これは、のちにスミソニアン博物館に収蔵された)。

 つまりアメリカの西部開拓時代には,アルミ食器は王侯貴族の使う食器だったのである.カウボーイたちが《あつあつを各自のアルミの皿にとり、辛さと幸せが入り混じったような顔で、フハフハ口に運ぶんです》などということはあり得ないのである.

 カウボーイたちの食器をアルミ製だと書いているブロガーたちは,なぜそんな誤解をしているのか.おそらく現代の私たちにとってアルミ食器はほとんどアウトドア製品だからかも知れない.
 それにしても,と思う.《あつあつを各自のアルミの皿にとり、辛さと幸せが入り混じったような顔で、フハフハ口に運ぶんです》と書くときに「そんな昔にアルミニウムなんてあったのかしら」と,どうして疑問に思わないのだろう.アルミニウム製錬が近代工業であることは中学校で勉強する知識なのに.

 で,カウボーイの食器がアルミでなかったらなんなのよ,と言われたら私は真鍮だったと答える.「西部開拓豆料理」にも《カウボーイたちも「また豆か」と言いつつ,真鍮の皿をカチャカチャいわせながら豆を食うのであった》と書いた.

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2014年10月 3日 (金)

減塩食 (七)

 前回の記事に《政府は「和食はヘルシー」と宣伝するが,その「和食」が「一汁三菜」のことだとするなら,和食がヘルシーだというのは嘘である》と書いた.

嘘である》というのは,どんな食事がヘルシーかなんてことは,今現在は誰にもわかっていないからだ.戦後,栄養学者たちの論争で,決着のついたものがあるだろうか.ほとんどないのである.(栄養学が別名「ネズミの栄養学」といわれるように,ヒトを対象にせずネズミを使ってばかりいるのが,栄養学が発展しない大きな理由である)

 そのような状態の現在の栄養学に基づいていえることは,一言でいうと「色々なものを食べましょう」ということである.これはリスク分散の考え方である.
 ほとんどの研究者が肯定していることであるが,どんな食材・食品・料理にも健康によい点とそうでない点がある.従って,特定の食材・食品・料理に偏った食生活を行うと,健康上のリスクが顕在化しやすくなる.
 これを避けるには,特定の食材・食品・料理に偏らないようにすればよい.つまりリスクを分散させるのである.最善ではなくても決して最悪ではないようにすることが大切で,「バランスのよい食事をしましょう」というのは,このことを意味している.
 すなわちここでいう「バランス」とは,例えば主食と副食の比率がどうのとか,食事で摂る飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸の比率がどうのということではない.特定の食材を摂取しすぎないこと,あるいは特定の食材を忌避しないことを「バランスがいい」というのである.
 例をあげると,糖質制限ダイエット.その評価は横に置くとして,バランスの悪い食事であることは間違いない.

 さて政府 (と一人の御用学者) が,日本人の食生活史を捏造して勝手に定義した「和食」の普及を推進しようとしているのは,米の消費促進であることがあからさまである.
 私たちの食生活は昭和三十年代に,それまでの味噌汁と漬物と塩辛いおかずで飯をかき込む悪しき伝統食から離れて,豊かに多様化した.健康上のリスクが分散した「バランスのよい食事」が実現したのである.
 しかるに政府は「和食の基本は一汁三菜」と宣伝し,悪しき伝統食へと私たちを誘導回帰させようとしている.考えるまでもなく三度三度の食事に味噌汁がつくなんてことが,歴史的に日本人の食生活の基本であったはずがない.米朝師匠の言う通りである [←減塩食 (五)] .

 一日三食を官製定義の「和食」にして,「飯と味噌汁と漬物」を基本とする一汁三菜にすると,食塩摂取量を一日 6g に抑えるのは困難になってくる.しかし「飯と味噌汁と漬物」にこだわらず,「主食+おかず」の形で色んなものを偏らずに食べていれば,自然に食塩摂取量は減る.減塩食生活のハードルは「和食」の味噌汁だ.私たち高齢者は「和食」離れを心掛けたいものである.(了)

【関連記事】
減塩食 (一)
減塩食 (二)
減塩食 (三)
減塩食 (四)
減塩食 (五)
減塩食 (六)

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2014年10月 1日 (水)

減塩食 (六)

 前回の記事に,永谷園の『おみそ汁の大革命 野菜いきいき その2 減塩』は「20% 減塩」を標榜しており,一杯あたりの食塩量は 1.4g であると書いた.これは自社製品比であろう.減塩タイプの他社製品で,一杯あたりの食塩量が 1.2g のものもある.
 薄味の味噌汁は,どこまで食塩量を減らせるのだろうか.永谷園の『おみそ汁の大革命 野菜いきいき その2 減塩』を使って試食してみた.

【永谷園『おみそ汁の大革命 野菜いきいき その2 減塩』
の味噌を減らしたもの】
Nagatanien

 この商品は凍結乾燥野菜と小袋に包装された調合味噌がセットになっているのだが,パッケージに書かれた通りの作り方では,かなり味が濃い.そこで調合味噌の量を減らしてみたところ,2/3 の量で十分であった.すなわちこれなら一杯 1g 以下の食塩量で済む.
 なんでこんなことをしたかというと,普通に味噌を使って味噌汁を作ると,一椀に一体どのくらいの食塩が含まれているかがわからないから,インスタント味噌汁を用いて,塩味の加減と食塩量の関係を舌で覚えようというわけである.味噌汁一椀に食塩 1g 以下でいきたい.

 ここで味噌汁について,そもそもの話をしてみたい.
 京都出身の堀井憲一郎が『江戸の気分』(講談社現代新書) で次のように書いている.
当時の商家については桂米朝が説明している。「明治大正の初めくらいまでの船場あたりの商家の食事というのは、朝はあったかいご飯にお漬物ですね。(……) 味噌汁がつくなんていう家は、よっぽどそら良い家なんですな」
江戸方では、商家では味噌汁だけはついたようであるが、その辺は上方とは違う。京都人の私は、東京へ出てきたとき、何でも味噌汁がつくので、ちょっと面食らったことがある。上方では、いつも食事に味噌汁がつくという風習はなかった。

 堀井憲一郎が《東京へ出てきたとき》と書いているのは,早稲田大学に入って上京したことをいっている.
 《何でも味噌汁がつくので、ちょっと面食らったことがある》は,私にも同じ記憶があるが,東京の定食屋とか学生食堂などの外食の話だろうと思う.外食で何にでも味噌汁がついてくるのは,味噌汁をつけると食事として格好がつくということからであろう.東京ではないが,群馬県の私のうちでも毎度の食事に味噌汁をつけることはなかった.

 さて,政府は官製「和食」をユネスコ無形文化遺産に登録し,「和食ビジネス」を推進するスローガンとして「一汁三菜が和食の基本」を掲げた.ここで「一汁」とは飯と汁 (味噌汁) と漬物のことである.
 しかし「一汁三菜が和食の基本」に歴史的根拠がないことはこのブログで繰り返し述べてきた.また,政府が定義するところの「和食」はどうしても塩けの多い汁と漬物とおかずで米飯をたくさん食うことになり,これはかつて日本人が短命であった原因の一つであったといえる.政府は「和食はヘルシー」と宣伝するが,その「和食」が「一汁三菜」のことだとするなら,和食がヘルシーだというのは嘘である.
 高齢者は,健康のために「官製和食」離れをしよう.毎日の食事から汁と漬物を減らすだけで,かなり高齢者の食事の減塩が楽に実行できる.味噌汁好きの人でも,一椀の食塩 1g 以下の味噌汁を一日に一度摂るだけにして,残り二回の食事は汁なしにするのが良い.ただし汁を政府が推す味噌汁でなく,すまし汁にすれば,この限りではないこと言うまでもない.

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