夜来香
今年の春に「蘇州夜曲」と題した記事をアップした.
記事文末に私は《というわけで,『蘇州夜曲』は李香蘭のみ聴くに価する.アルバムとしては『決定盤 李香蘭(山口淑子)大全集』が,『夜来香』なども入って,われら年金生活者の静かな夜のひと時にお勧めの一枚である》と書いた.
その山口淑子の訃報が流れたのは九月十六日.亡くなったのは七日であった.享年九十四.
昭和十二年(1937年) 生まれの美空ひばりが亡くなったのは平成元年六月二十四日.享年五十二.
同年七月二十二日に青山葬儀所で行われたひばりの葬儀には,四万二千人が訪れた.言うまでもなくこの四万人は,ひばりの一般ファンであった.葬儀に参列し,あるいは沿道にあふれたファンたちは,自分と同じ時代を歩いた同伴者の死を,一つの時代の終わりを悼むために青山に足を運んだのであった.
山口淑子は大正九年(1920年) の生まれだから,彼女が主演した映画三部作『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』をリアルタイムで観た同じ世代の同伴者たちは,ほとんどがこの世を去っている.李香蘭の死を,我がことのようにして悼む人々はもういないのである.
ただ李香蘭の歌唱は,父親や母親たちの愛唱歌として,戦後すぐに生まれた世代の記憶にも強く残った.山口淑子の訃報を聞き,その日に彼女のCDをかけてみたのは私だけではないだろう.
さて冒頭に《『夜来香』なども入って,われら年金生活者の静かな夜のひと時にお勧めの一枚である》と書いた,その『夜来香』のこと.
この『夜来香』を歌って一世を風靡したのは,李香蘭の他にもう一人いる.鄧麗君 (テレサ・テン) である.
彼女の日本におけるヒット曲は,男にひたすら尽くすだけの女をイメージしたつまらぬ歌がほとんどであるが,テレサ・テンの本領は,やはり『夜来香』ほかの中国語の歌曲だろうと思う.日本語の歌でまともなのは「ふるさとはどこですか」のみである.
戦後,歌われることもなくなろうとしていた李香蘭の『夜来香』を再び世に出したテレサ・テンが亡くなったのは,もう二十年近くも前のことである.
浜村淳が,山口淑子の訃報に際して,もう少し長生きして欲しかったと語っていた.しかし,『夜来香』のオリジナルが李香蘭であることは忘れられても,テレサ・テンのカバーのおかげで『夜来香』を歌える世代の者たちがまだ残っているうちに亡くなったのは,彼女にとってよいことであったと私は思う.
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