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2014年8月27日 (水)

貧乏物語

 いしいひさいちの『バイトくん』には,作者たちが住んでいた仲野荘という実在のアパートが出てくる.
『ひさいち文庫』(双葉文庫) の『バイトくん 3』は,仲野荘の元住人であった辻本というかたが巻末の解説「三畳一間の貧乏物語」を書いている.
 それによれば,時代は昭和四十年代後半,仲野荘の三畳一間に流しが付いているだけの部屋は,どう見ても畳が傾いていた.
 西日の差す窓の外には土手があり,ゴトンゴトンと貨物列車が通過する.
 トイレは共同.風呂は銭湯.
 電話を部屋に引く住人なんかはおらず,管理人のおばさんが書いてドアに残したメモを見て公衆電話に走る.
 冬の暖房はチャブ台を兼ねたコタツがあるのみ.
 夏は,扇風機もなく,もう耐えるしかない.
 世の中には携帯電話もコンビニもなく,行列ができるラーメン屋なんてあるわけもなかった.
 しかし時は移り,いしいひさいちや辻本氏らが仲野荘に住んでいた時代から三十数年後 (これは解説執筆時;『バイトくん 3』の初版第一刷は2004年末) の学生が,八畳間ほどのエアコン付のワンルームマンションに住んでいたりしていることをあげて,《『人生劇場』とか『青春の門』のように、時代が変わっても学生は永遠に貧乏でなければいけません。じゃないと、ダンボールハウスの住人とか、河原で暮らす人々に申し開きできないだろう》と書いている.

 岡崎武志『貧乏は幸せのはじまり』(ちくま文庫;初版第一刷2014年) には,漫画家の石坂啓さんが手塚プロに入った時に住んだアパートのことが出ている.昭和五十三年のことだ.
 彼女の部屋はこう書かれている.
民家の二階の三部屋を間貸しするタイプで、共用のトイレと流しがあった。その三畳間がイラストで描かれているが、もろ西日の窓、内側に開く不便な扉、上だけ半間の押入れと、いかにもの三畳間。そこに、敷きっぱなしのふとん、枕がわりの本、拾ってきた板なしのコタツ、友人に借りている白黒テレビ、ラジカセがあり、壁にはなぜか、インテリアがわりにインスタントラーメンの袋が貼り付けてある。絵に描いたような貧乏、というが、貧乏を絵に描いたようだ。

 昭和四十五年の四月から翌三月まで,大学三年生の私は東京都中野区の野方二丁目に住んでいた.大学に入ってから二年間は西武新宿線沼袋駅の近くの学生寮(*) に住んでいたのだが,入居年限が二年だったので追い出され,止むなく荷物を載せたリヤカーを引いて沼袋駅の隣の野方駅に近いところに引っ越したのだった.
 引っ越して次に住んだ下宿は,今も中野にある宮坂醸造 (神州一味噌) の工場の隣のボロ民家 (敷地が三角形だったので,敷地ぎりぎりに建てた二階建ての家も上からみて三角形をしていたのが笑えた) だった.
 家は三角形だったが部屋はさすがに四角く,その辻褄を合わせるために廊下が三角形だった.私は後にも先にも,三角形の廊下を見たのはこの下宿だけである.

 で,私の下宿した部屋は石坂さんの部屋と全く同じで《民家の二階の三部屋を間貸しするタイプで、共用のトイレと流しがあった。… もろ西日の窓、内側に開く不便な扉、上だけ半間の押入れと、いかにもの三畳間》だった.

 私もふとんは敷きっぱなしだった.枕は持っていたが白黒テレビもラジカセもなかった.下宿は味噌工場に隣接していた上に,私の部屋は工場側だったから,味噌の発酵臭がひどくて夏も窓を開けることができなかった.洗濯機なんてないから靴下もパンツも手洗いだったが,そういう事情で通年部屋干しだった.そして畳にはカビが生えた.
 石坂さんの部屋を《絵に描いたような貧乏、というが、貧乏を絵に描いたようだ》と言われてしまうと,私はそれ以上に貧乏だったかも知れない.ただ,赤貧だったかというと,それほどでもなかったと思う.お金はなかったけれど,多少はバイトもしたから,ぎりぎりで三度の飯は食えていたからである.(パンの耳も食事の勘定に入れる〈笑〉)

 昔と今では貧乏の意味が変わってしまったのかも,と思う.
 私たちの若い頃の貧乏は,つまり貧乏学生は,お金は不自由したが,自由な時間は持て余すくらいあった.だから年寄りの貧乏話は,どことなく貧乏だった自分を笑いながら懐かしむ気配がある.
 しかし昨今,例の牛丼屋とか居酒屋などのブラックな会社で働く青年たちは,それなりの給料は手にしているだろうが,悲しいくらいの過重労働だといわれる.仕事はあっても,その仕事が終われば部屋に帰って倒れ伏すように寝るしかない.これが今の時代の貧乏なのだろう.そしてそのような非正規労働に就いている若い人たちが将来,自分の貧乏時代を笑いながら思い出すことはないだろうと思う.

 関川夏央が『やむを得ず早起き』(小学館;初版第一刷2012年) のあとがきで書いている.
昔に帰りたいかと問われれば、「然り」とは答えず、「否」とも答えない。問いそのものが現実的ではないから、ただ笑ってやり過ごす。
 若いことを「春秋に富む」という.お金はないが春秋だけは嫌というほどあった時代に戻りたいか.そう問われれば,関川と同じく私は笑ってやり過ごすだろう.

 私と同時代の貧乏学生は,鍋はあっても丼を持っていないやつが多かった.従ってインスタントラーメンは鍋から直接食うのが結構普通であった.
 鍋すらないという友人がいた.しかし彼はお湯を沸かす電気ポット (アルミ製で昭和レトロな製品;ネットに画像あり) を持っていたので,この電気ポットにインスタントラーメンを入れて煮た.できたラーメンは,ポットの底に届くような長い菜箸で食うのであった.
 鍋でも電気ポットでも,これから直接ラーメンを食う場合は多少の問題があって,気を付けないと汁を飲むときに唇に火傷を負って,皮がはがれてしまう.この火傷に覚えがある団塊老人は多かろう.
 こういうラーメンの食い方に帰りたいかと問われれば,私は「然り」とは答えず「否」とも答えない.問いそのものが現実的ではないから,今はただ笑って麺を丼に移してから食う.

(*) この学生寮で同じ階に住んで親しかった友人に王子博夫君がいた.王子君は私と同じ大学の同学年であり,彼は後に新潮社に入社して松本清張の担当となったが,若くして東名高速の事故で亡くなった.王子君のことは,Wikipedia【松本清張】に担当編集者として名前が書かれている.王子君と,もう一人その学生寮で親しかったN君のことは,閉館した私の個人サイト『江分利万作の生活と意見』(このブログの右サイドバーにリンクあり) にも何度か交遊の思い出を書いた.私は貧乏学生だったが,あの頃を思い出せば切ないくらいに懐かしい.

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