昨日の記事「貧乏物語」の末尾の註に,若くして亡くなったが新潮社の編集者であった王子博夫君のことを書いた.王子君のことを書いたきっかけは,一昨日,Wikipedia【松本清張】に彼の名前が書かれていることを発見したからである.
王子君との交遊については,ブログ開始前に個人サイト『江分利万作の生活と意見』(右サイドバーにリンクあり) をやっていたとき何度も書いた.
そのうちの一つを再掲載する.ただし,今見直して著作権的に適法かどうか明らかでないところは修正した.また以下の文中で「O君」とあるのが王子君のことである.
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2002年4月23日
高円寺駅南口青春賦・さらば青春編
高円寺の私のアパートは古い木造で玄関に三和土があり,そこで靴を脱いでスリッパに履き替えて部屋まで行くという造作だった.
そして私以外の全員が半同棲状態と思われ,玄関を入って上がったところの床には女物のスリッパがたくさんあった.他の部屋の前を通りかかる時に,楽しそうな女の笑い声が聞こえることもあった.
私自身はその頃彼女などいなかったし,また欲しいとも思わず,たまには女子学生と映画やコンサートに出かける事はあったものの,休みの日はほとんど部屋で読書に明け暮れていた.だがそんな生活が淋しくないわけではなかった.
その年の夏休みは二,三日しか帰省しなかった.私は既に就職が内々定しており,その会社から研究所でアルバイトをしてみないかと言われていたので,家庭教師の方の休みをもらった期間はそちらのバイトをしたのである.
夏休みが終わって学校の講義や卒業実験が再開したある日,夜遅くアパートに戻ってくると,扉に電報が貼り付けてあった.それは田舎の父からで,母親が危篤だという知らせだった.
翌朝,財布だけ持って私は上野駅に急いだ.
郷里の駅で下車し,実家に着いてみると鍵がかかっていて,誰もいないようだった.親しくしていた隣家を訪ねると,伝言の書いてある一枚の紙を渡してくれた.父から聞いていなかったのだが,母は市立病院からやはり市内にある大学病院に転院していたようで,そこにすぐ向かうようにと書かれていた.大学病院への道筋がよく分からないので,いったん駅に戻り,そこからタクシーに乗った.
大学病院の受付で母の病室のある棟を教えてもらい,病室に入ると父と姉がベッドの脇に立っていた.私も静かに二人の横に立った.
医師は何も語ろうとはせず時々脈をはかり,父も姉も私も,無言のまま長い時間が経過した.
夏に帰宅した折りに姉から,母の病状が思わしくないことは知らされていた.だがこんなに早く死期が迫るとは思ってもいなかった.
そんなことをぼんやりと考えながら,ふと気が付くと医師が看護婦に何か言い,注射の用意をさせていた.彼は,私が見たこともないくらい長い針を注射器に装着し,それを母の心臓の辺りに深々と,ゆっくりと刺し込んだ.それから心臓マッサージを始めた.随分と長時間,それを続けたように思えたのだが,実際はどれほどの時間だったのだろう.やがてマッサージを止め,医師は父に母の臨終と死亡時刻を告げた.
人の記憶というのは頼りにならないものだ.三十年以上も経つと細部は曖昧になってしまっているが,葬儀の日がとても暑かった事は今も覚えている.
秋が来た.ある日,近くのスーパーへ食料を買い出しに行くと,その外で男が何やら売っていた.男の前には箱が置いてあり,その中で人の親指ほどの小さなものがたくさんゴソゴソと動いていた.
男の後ろの壁に貼ってある紙片を読むと,それはハムスターというものらしかった.
たしか一匹二百円ではなかったか.茶色と,白茶ブチのがいて,私がブチのを一匹くれと言うと男はそいつをボール紙の箱に入れてくれた.ネズミみたいなもんだから囓られないようなものに入れて飼うようにと教えてくれた.部屋に戻り,何か適当なものはないかと探したが,結局小さいポリバケツで飼うことにした.
そいつはヒマワリの種を好んだが,雑食で野菜等も食い,そしてみるみる大きくなった.よく分からないが,たぶん雌のようだった.
どうも夜行性のようで,私の相棒に格好の生き物だった.私の部屋にはほとんど家具らしいものがなかったから,ポリバケツから出し,そこら辺で遊ばせておいても,何処かに潜りこんで行方不明になることはなかった.そして私が布団に腹這いになって本を読んでいる時など,稲荷寿司ほどの大きさの彼女が視界の端で身繕いなどしていると妙に心和むようで,こうして私と彼女の同棲が始まった.
ところでN君の下宿には,私と同じ大学のO君という人がいた.
私とN君とO君の三人はよく連れだって酒をのんだ.部屋で飲み,居酒屋で飲み,少し金のある時には当時「コンパ」と呼ばれていたパブにも行った.
私がハムスターと一緒に暮らし始めた頃だと思うが,その三人で高円寺南口商店街の通りから少し入ったところにあるスナックバーに行くようになった.そこのマスターは学生のバイトで,私達より年上だったが四年生のまま留年しており,同学年なので気が合ったからである.彼は廃校になることが決まっていた東京教育大の学生だった.
その店には女の子が二人いて,そのうちの一人はマスターの恋人だった.昼間はデパートに勤めているといっていた.
私達三人がある夜そのスナックに行くと,彼女が「すごくいい曲があるの.聞いてみる?」と言った.そのレコードを聞いてみると,アップテンポのなかなかいいメロディだった.
「すごくいい歌だね.僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に.歌詞が詩のようだ」
そう言うと,彼女は嬉しそうに微笑んだ.
「この歌はね,さらば青春.歌ってるのは小椋佳っていう人なの.作詞も作曲も.でもジャケットに自分の写真は載せないんだって.だからどんな顔なのかわかんない」
私達はその晩,何度も何度も『さらば青春』を歌い,そして二番までしかない短い歌詞を暗記してしまった.
そのスナックのある細い通りには,ビリヤード場もあった.私とN君,O君の三人は,それまで三人とも一度も玉撞きをしたことがなかったのだが,ある日おそるおそる,その撞球場に入ってみた.
店の主人は,アパートの近くの飲み屋の老婦人よりも少し年下かと思われる上品な女性で,和服を着ていた.
私達が全くの初心者であると知ると,その女主人は四ツ玉の撞き方を丁寧に教えてくれた.数時間後には,私達はもの凄い下手くそであるが一応撞けるようになり,そしてそれ以来,玉撞きにハマってしまった.三人一緒に,週に一度くらいは通ったように思う.誰か一人金がないと,あとの二人が「俺達が料金を払うから行こうぜ」と言って撞きに行ったから,かなりの熱中具合だった.母の死後,なんとなく気持ちに空洞ができたような私には,先生役の女主人が優しい人だったからということもあったように思う.
しかしこんな具合に遊んでばかりいたわけではなく,私達は各自それぞれの勉強もちゃんとしてはいたのだ.年末には,文科系系学部のN君とO君は既に卒論を書き上げ,私は卒業実験がほぼ終わって,あとは論文にして提出すればよいところまできていた.
私は家庭教師のアルバイトを十二月一杯でやめ,年の暮れはヒマを持て余した.いよいよ押し詰まった三十日は徹夜で麻雀をして,そのあとN君等とボーリングをやりに行き,眠気で意識朦朧として皆やたらガーターばかり出し,全員二桁スコアだったので大笑いをして,それから部屋に帰って眠った.
大晦日の夜に起きると今度は三人で例によって玉を撞きに行った.
女主人が,今夜は特別に深夜まで撞いていてもいいと言ってくれたので,私達は明け方近く疲れるまで玉を撞き,そしてそこらで仮眠をとった.朝起きると,親切な女主人が汁粉をご馳走してくれた.
お汁粉で腹ごしらえしてから私達は初詣のハシゴに行くことにした.
新宿の花園神社,神田明神,湯島天神,浅草寺をまわった.浅草で友人達と別れて,それから私は上野駅に行き高崎線に乗った.元旦の電車は空いていた.
四年前の春,上京して大学に入るとすぐ全学ストライキになった.
校舎にバリケードを築き,何日もその中で寝た.デモにも行った.
色んなことがあった長い休暇のような日々の終わりはもうすぐそこにきていた.
正月休みが終わり,また高円寺に戻った私達はいつものスナックに行った.マスターが店を止めると聞いたからだ.
「いつまでもこんな商売やってられないからね.卒論を提出して卒業することにした」
卒業してどうするのか訊ねると,田舎に帰って教師の口を探すとマスターは言った.彼の恋人の娘は,一緒に付いていくと言った.
私達は彼らの前途を祝して角瓶を一本出してもらい,『さらば青春』を歌い,明け方まで飲んだ.
ぼろ雑巾のように疲れ,よろよろと店のドアを開けて外にでると高円寺駅南口商店街の方角が薄明るくなっていた.昭和四十七年の一月の,寒い朝だった.
やがて二月になるとN君もO君も帰省して,私もアパートを引き払う日が近づいてきた.
ある朝,ポリバケツの中を覗いてみると,ハムスターが元気なくうずくまっていた.なんとなく震えているように見えた.手のひらに乗せてみると,両目は目ヤニでふさがり,明らかに病気だった.
暖房は炬燵しかない寒い部屋だったから,風邪を引かせてしまったのだろうか.
彼女を炬燵布団の端に置いて暖め,ずっと見守っていたのだが,その日のうちに死んでしまった.冷たくなった彼女は,かちかちのただの塊になっていた.
私は部屋を出て,アパートの建家と塀の隙間の狭いところに穴を掘って彼女を埋めた.そして部屋に戻って,引っ越しの支度に取りかかった.
その年の五月の連休の時に,N君と再会した.
彼は就職した会社が嫌になっていて,新宿の深夜喫茶でその話を聞いた.朝になり,新宿駅まで歩きながら,どちらからともなく旅に出ようという話になった.
金の持ち合わせがあまりなかったので,安い「四国金比羅参り」の周遊券を買い,その足で大阪へ行った.
大阪の彼の実家で夜まで寝させてもらった.彼のお袋さんは私達に握り飯を作ってくれた.それを持ってその夜,大阪から船に乗り,神戸沖を通過して明け方,高松に着いた.
金比羅宮に着いて,だらだらとした石段を昇って行くと,途中に広場がある.そこで私達は握り飯を食い,ベンチに横になって,昼まで眠った.目がさめた時に,彼は会社を辞める決心をしていた.
やっぱり,自分のしたい出版関係の仕事に就きたいのだと言う.N君は参道の下の公衆電話から,今日で辞めると会社に連絡した.
そんな事があってから何年も経ったあるとき,大阪に戻っていたN君から電話があった.それはO君の訃報だった.週刊誌の記者になったO君は,睡眠不足ででもあったのか,取材の帰りに高速道路の分離帯に激突横転して即死したらしかった.N君の話を呆然と聞きながら,私は高円寺の南口で過ごした,あの頃の日々を思い浮かべた.呼びかけても遠く過ぎ去る者達のことを.
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