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2014年8月

2014年8月30日 (土)

猫の短い命

 関川夏央『やむをえず早起き2 夏目さんちの黒いネコ』(小学館) の表紙写真は,石の階段にたむろするたくさんの猫たちだ.どうやら関川は猫好きらしい.
 関川が,自分の家に迷い込んできた猫を飼ったことがあるという話は,他の本にも書いていた.ある時その猫が四か月ほど家出し,それが帰ってきたときに,痩せこけたその姿を見て関川は少し泣いたと書いている.

 この本の中の一節『やる気あるネコは修行に出る』の書き出しに《近所に、かわいそうなネコがいる》とある.そのネコは元々内猫だったのであるが,何があったのかわからないが,ある時から庭に置かれたダンボール箱に住まねばならぬ外猫の待遇に落とされてしまったらしい.
 猫によっては外猫であることを好む猫もいるだろうが,いつもその猫は閉じられたガラス戸に鼻をつけて家の中に入れてもらいたそうにしていたという.犬も猫も未来のことは考えないと思うが,過去のしあわせだったときのことは忘れないのだろう.
 その状態が三年ほど続いて,外猫には厳しい東京の冬が過ぎてもうすぐ春が来るかという三月の初旬,庭のダンボールが片づけられていたのに関川は気が付いた.

もうネコはいないのだ。春はもうすぐそこというのに、彼女は力尽きたのだ。関係ない立場ではあっても、無念であった。

 ダンボールのねぐらをもらえても,外猫はそれほど長生きできないのではあるまいか.
 いわんや地域猫や野良猫においてをや.
 自治体のサイトに「野良猫はねずみ算式に増えます」と書いて (殺処分の言い訳をして) いることがあるが,実際にはそんなに増えない.計算上は爆発的に増えるが,現実にそうならないのは,仔猫はもちろん親猫も短命で死んでいくからである.それ以外に理由はない.ここら辺りのことはハルノ宵子『それでも猫は出かけていく』(幻冬舎) の記述からも推察される.地域の猫に不妊手術を施すとテキメンに数が減少するのは,実に家の外で暮らす猫たちがハムスター並に短命だからであろう.

 私が現在住んでいるマンションの周辺では,昨年初めに引っ越してきて以来,一匹の猫も見かけたことがない.不思議である.よほど猫の生きにくい環境なのであろうか.

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2014年8月29日 (金)

懐かしのDiablo2 (5)

 我らがヒロインは難易度ノーマルを終えて,いよいよ難易度ナイトメアを旅する.

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 Act1 のこの廃墟から始まって,今は Act4 のディアブロ宮殿前のウェイポイントに到達したところだ.

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 ここでヒロインのスペックはどうかというと,次のようになっている.上が能力値,下が装備一覧である.

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 パッシィブ・スキルツリーは以下の通り.
 天上の戦乙女バルキリーの召喚はレベル22で Max だ.

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 防具はレアアイテムだが,武器の弓は先行キャラが拾って保存していたユニークアイテムの WITCHWILD STRING である.これは元々はソケットが二個あいているのだが,パーフェクト・スカルを二つ埋め込んで,マナ吸いとライフ吸いの一助にしている.

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 戦闘スタイルは,まず敵をフリージング・アローで凍らせ,そこをタンク役の傭兵と戦乙女が攻撃するという形.
 このフリージング・アローは,外れるとマナの無駄遣いになるので,その時は弓の物理ダメージ連射でマナを回復する.
 当初の目論見は,弓は連射せず,毒ダメージを主たるダメージ源にするつもりだったのだが,結局,氷弓アマゾンの一変形のビルドになってしまったという次第.
 それでもまあ,これで先に進みましょうと思う.

 さて,これから先は傭兵の装備が重要になってくる.

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 傭兵に持たせている武器は,対ボス戦武器の定番の一つともいえる WOESTAVE だ.
 もう一つは KELPIE SNARE だが,いずれも強力なアイテムなので,もし手に入ったら売らずに保管しておくことが大切.

 さあ遂にディアブロ戦だ.負ける気はしないけど,さてどうなるか.

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2014年8月28日 (木)

貧乏物語 (補遺)

 昨日の記事「貧乏物語」の末尾の註に,若くして亡くなったが新潮社の編集者であった王子博夫君のことを書いた.王子君のことを書いたきっかけは,一昨日,Wikipedia【松本清張】に彼の名前が書かれていることを発見したからである.
 王子君との交遊については,ブログ開始前に個人サイト『江分利万作の生活と意見』(右サイドバーにリンクあり) をやっていたとき何度も書いた.
 そのうちの一つを再掲載する.ただし,今見直して著作権的に適法かどうか明らかでないところは修正した.また以下の文中で「O君」とあるのが王子君のことである.

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2002年4月23日
高円寺駅南口青春賦・さらば青春編

 高円寺の私のアパートは古い木造で玄関に三和土があり,そこで靴を脱いでスリッパに履き替えて部屋まで行くという造作だった.
 そして私以外の全員が半同棲状態と思われ,玄関を入って上がったところの床には女物のスリッパがたくさんあった.他の部屋の前を通りかかる時に,楽しそうな女の笑い声が聞こえることもあった.
 私自身はその頃彼女などいなかったし,また欲しいとも思わず,たまには女子学生と映画やコンサートに出かける事はあったものの,休みの日はほとんど部屋で読書に明け暮れていた.だがそんな生活が淋しくないわけではなかった.

 その年の夏休みは二,三日しか帰省しなかった.私は既に就職が内々定しており,その会社から研究所でアルバイトをしてみないかと言われていたので,家庭教師の方の休みをもらった期間はそちらのバイトをしたのである.
 夏休みが終わって学校の講義や卒業実験が再開したある日,夜遅くアパートに戻ってくると,扉に電報が貼り付けてあった.それは田舎の父からで,母親が危篤だという知らせだった.
 翌朝,財布だけ持って私は上野駅に急いだ.
 郷里の駅で下車し,実家に着いてみると鍵がかかっていて,誰もいないようだった.親しくしていた隣家を訪ねると,伝言の書いてある一枚の紙を渡してくれた.父から聞いていなかったのだが,母は市立病院からやはり市内にある大学病院に転院していたようで,そこにすぐ向かうようにと書かれていた.大学病院への道筋がよく分からないので,いったん駅に戻り,そこからタクシーに乗った.
 大学病院の受付で母の病室のある棟を教えてもらい,病室に入ると父と姉がベッドの脇に立っていた.私も静かに二人の横に立った.
医師は何も語ろうとはせず時々脈をはかり,父も姉も私も,無言のまま長い時間が経過した.
 夏に帰宅した折りに姉から,母の病状が思わしくないことは知らされていた.だがこんなに早く死期が迫るとは思ってもいなかった.
 そんなことをぼんやりと考えながら,ふと気が付くと医師が看護婦に何か言い,注射の用意をさせていた.彼は,私が見たこともないくらい長い針を注射器に装着し,それを母の心臓の辺りに深々と,ゆっくりと刺し込んだ.それから心臓マッサージを始めた.随分と長時間,それを続けたように思えたのだが,実際はどれほどの時間だったのだろう.やがてマッサージを止め,医師は父に母の臨終と死亡時刻を告げた.
 人の記憶というのは頼りにならないものだ.三十年以上も経つと細部は曖昧になってしまっているが,葬儀の日がとても暑かった事は今も覚えている.

 秋が来た.ある日,近くのスーパーへ食料を買い出しに行くと,その外で男が何やら売っていた.男の前には箱が置いてあり,その中で人の親指ほどの小さなものがたくさんゴソゴソと動いていた.
 男の後ろの壁に貼ってある紙片を読むと,それはハムスターというものらしかった.
 たしか一匹二百円ではなかったか.茶色と,白茶ブチのがいて,私がブチのを一匹くれと言うと男はそいつをボール紙の箱に入れてくれた.ネズミみたいなもんだから囓られないようなものに入れて飼うようにと教えてくれた.部屋に戻り,何か適当なものはないかと探したが,結局小さいポリバケツで飼うことにした.
 そいつはヒマワリの種を好んだが,雑食で野菜等も食い,そしてみるみる大きくなった.よく分からないが,たぶん雌のようだった.
 どうも夜行性のようで,私の相棒に格好の生き物だった.私の部屋にはほとんど家具らしいものがなかったから,ポリバケツから出し,そこら辺で遊ばせておいても,何処かに潜りこんで行方不明になることはなかった.そして私が布団に腹這いになって本を読んでいる時など,稲荷寿司ほどの大きさの彼女が視界の端で身繕いなどしていると妙に心和むようで,こうして私と彼女の同棲が始まった.

 ところでN君の下宿には,私と同じ大学のO君という人がいた.
 私とN君とO君の三人はよく連れだって酒をのんだ.部屋で飲み,居酒屋で飲み,少し金のある時には当時「コンパ」と呼ばれていたパブにも行った.
 私がハムスターと一緒に暮らし始めた頃だと思うが,その三人で高円寺南口商店街の通りから少し入ったところにあるスナックバーに行くようになった.そこのマスターは学生のバイトで,私達より年上だったが四年生のまま留年しており,同学年なので気が合ったからである.彼は廃校になることが決まっていた東京教育大の学生だった.
 その店には女の子が二人いて,そのうちの一人はマスターの恋人だった.昼間はデパートに勤めているといっていた.
 私達三人がある夜そのスナックに行くと,彼女が「すごくいい曲があるの.聞いてみる?」と言った.そのレコードを聞いてみると,アップテンポのなかなかいいメロディだった.

 「すごくいい歌だね.僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に.歌詞が詩のようだ」
そう言うと,彼女は嬉しそうに微笑んだ.
 「この歌はね,さらば青春.歌ってるのは小椋佳っていう人なの.作詞も作曲も.でもジャケットに自分の写真は載せないんだって.だからどんな顔なのかわかんない」

 私達はその晩,何度も何度も『さらば青春』を歌い,そして二番までしかない短い歌詞を暗記してしまった.

 そのスナックのある細い通りには,ビリヤード場もあった.私とN君,O君の三人は,それまで三人とも一度も玉撞きをしたことがなかったのだが,ある日おそるおそる,その撞球場に入ってみた.
 店の主人は,アパートの近くの飲み屋の老婦人よりも少し年下かと思われる上品な女性で,和服を着ていた.
 私達が全くの初心者であると知ると,その女主人は四ツ玉の撞き方を丁寧に教えてくれた.数時間後には,私達はもの凄い下手くそであるが一応撞けるようになり,そしてそれ以来,玉撞きにハマってしまった.三人一緒に,週に一度くらいは通ったように思う.誰か一人金がないと,あとの二人が「俺達が料金を払うから行こうぜ」と言って撞きに行ったから,かなりの熱中具合だった.母の死後,なんとなく気持ちに空洞ができたような私には,先生役の女主人が優しい人だったからということもあったように思う.

 しかしこんな具合に遊んでばかりいたわけではなく,私達は各自それぞれの勉強もちゃんとしてはいたのだ.年末には,文科系系学部のN君とO君は既に卒論を書き上げ,私は卒業実験がほぼ終わって,あとは論文にして提出すればよいところまできていた.
 私は家庭教師のアルバイトを十二月一杯でやめ,年の暮れはヒマを持て余した.いよいよ押し詰まった三十日は徹夜で麻雀をして,そのあとN君等とボーリングをやりに行き,眠気で意識朦朧として皆やたらガーターばかり出し,全員二桁スコアだったので大笑いをして,それから部屋に帰って眠った.
 大晦日の夜に起きると今度は三人で例によって玉を撞きに行った.
 女主人が,今夜は特別に深夜まで撞いていてもいいと言ってくれたので,私達は明け方近く疲れるまで玉を撞き,そしてそこらで仮眠をとった.朝起きると,親切な女主人が汁粉をご馳走してくれた.
 お汁粉で腹ごしらえしてから私達は初詣のハシゴに行くことにした.
 新宿の花園神社,神田明神,湯島天神,浅草寺をまわった.浅草で友人達と別れて,それから私は上野駅に行き高崎線に乗った.元旦の電車は空いていた.
 四年前の春,上京して大学に入るとすぐ全学ストライキになった.
 校舎にバリケードを築き,何日もその中で寝た.デモにも行った.
 色んなことがあった長い休暇のような日々の終わりはもうすぐそこにきていた.

 正月休みが終わり,また高円寺に戻った私達はいつものスナックに行った.マスターが店を止めると聞いたからだ.
 「いつまでもこんな商売やってられないからね.卒論を提出して卒業することにした」
 卒業してどうするのか訊ねると,田舎に帰って教師の口を探すとマスターは言った.彼の恋人の娘は,一緒に付いていくと言った.
 私達は彼らの前途を祝して角瓶を一本出してもらい,『さらば青春』を歌い,明け方まで飲んだ.

 ぼろ雑巾のように疲れ,よろよろと店のドアを開けて外にでると高円寺駅南口商店街の方角が薄明るくなっていた.昭和四十七年の一月の,寒い朝だった.

 やがて二月になるとN君もO君も帰省して,私もアパートを引き払う日が近づいてきた.
 ある朝,ポリバケツの中を覗いてみると,ハムスターが元気なくうずくまっていた.なんとなく震えているように見えた.手のひらに乗せてみると,両目は目ヤニでふさがり,明らかに病気だった.
 暖房は炬燵しかない寒い部屋だったから,風邪を引かせてしまったのだろうか.
 彼女を炬燵布団の端に置いて暖め,ずっと見守っていたのだが,その日のうちに死んでしまった.冷たくなった彼女は,かちかちのただの塊になっていた.
 私は部屋を出て,アパートの建家と塀の隙間の狭いところに穴を掘って彼女を埋めた.そして部屋に戻って,引っ越しの支度に取りかかった.

 その年の五月の連休の時に,N君と再会した.
 彼は就職した会社が嫌になっていて,新宿の深夜喫茶でその話を聞いた.朝になり,新宿駅まで歩きながら,どちらからともなく旅に出ようという話になった.
 金の持ち合わせがあまりなかったので,安い「四国金比羅参り」の周遊券を買い,その足で大阪へ行った.
 大阪の彼の実家で夜まで寝させてもらった.彼のお袋さんは私達に握り飯を作ってくれた.それを持ってその夜,大阪から船に乗り,神戸沖を通過して明け方,高松に着いた.
 金比羅宮に着いて,だらだらとした石段を昇って行くと,途中に広場がある.そこで私達は握り飯を食い,ベンチに横になって,昼まで眠った.目がさめた時に,彼は会社を辞める決心をしていた.
 やっぱり,自分のしたい出版関係の仕事に就きたいのだと言う.N君は参道の下の公衆電話から,今日で辞めると会社に連絡した.

 そんな事があってから何年も経ったあるとき,大阪に戻っていたN君から電話があった.それはO君の訃報だった.週刊誌の記者になったO君は,睡眠不足ででもあったのか,取材の帰りに高速道路の分離帯に激突横転して即死したらしかった.N君の話を呆然と聞きながら,私は高円寺の南口で過ごした,あの頃の日々を思い浮かべた.呼びかけても遠く過ぎ去る者達のことを.

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2014年8月27日 (水)

貧乏物語

 いしいひさいちの『バイトくん』には,作者たちが住んでいた仲野荘という実在のアパートが出てくる.
『ひさいち文庫』(双葉文庫) の『バイトくん 3』は,仲野荘の元住人であった辻本というかたが巻末の解説「三畳一間の貧乏物語」を書いている.
 それによれば,時代は昭和四十年代後半,仲野荘の三畳一間に流しが付いているだけの部屋は,どう見ても畳が傾いていた.
 西日の差す窓の外には土手があり,ゴトンゴトンと貨物列車が通過する.
 トイレは共同.風呂は銭湯.
 電話を部屋に引く住人なんかはおらず,管理人のおばさんが書いてドアに残したメモを見て公衆電話に走る.
 冬の暖房はチャブ台を兼ねたコタツがあるのみ.
 夏は,扇風機もなく,もう耐えるしかない.
 世の中には携帯電話もコンビニもなく,行列ができるラーメン屋なんてあるわけもなかった.
 しかし時は移り,いしいひさいちや辻本氏らが仲野荘に住んでいた時代から三十数年後 (これは解説執筆時;『バイトくん 3』の初版第一刷は2004年末) の学生が,八畳間ほどのエアコン付のワンルームマンションに住んでいたりしていることをあげて,《『人生劇場』とか『青春の門』のように、時代が変わっても学生は永遠に貧乏でなければいけません。じゃないと、ダンボールハウスの住人とか、河原で暮らす人々に申し開きできないだろう》と書いている.

 岡崎武志『貧乏は幸せのはじまり』(ちくま文庫;初版第一刷2014年) には,漫画家の石坂啓さんが手塚プロに入った時に住んだアパートのことが出ている.昭和五十三年のことだ.
 彼女の部屋はこう書かれている.
民家の二階の三部屋を間貸しするタイプで、共用のトイレと流しがあった。その三畳間がイラストで描かれているが、もろ西日の窓、内側に開く不便な扉、上だけ半間の押入れと、いかにもの三畳間。そこに、敷きっぱなしのふとん、枕がわりの本、拾ってきた板なしのコタツ、友人に借りている白黒テレビ、ラジカセがあり、壁にはなぜか、インテリアがわりにインスタントラーメンの袋が貼り付けてある。絵に描いたような貧乏、というが、貧乏を絵に描いたようだ。

 昭和四十五年の四月から翌三月まで,大学三年生の私は東京都中野区の野方二丁目に住んでいた.大学に入ってから二年間は西武新宿線沼袋駅の近くの学生寮(*) に住んでいたのだが,入居年限が二年だったので追い出され,止むなく荷物を載せたリヤカーを引いて沼袋駅の隣の野方駅に近いところに引っ越したのだった.
 引っ越して次に住んだ下宿は,今も中野にある宮坂醸造 (神州一味噌) の工場の隣のボロ民家 (敷地が三角形だったので,敷地ぎりぎりに建てた二階建ての家も上からみて三角形をしていたのが笑えた) だった.
 家は三角形だったが部屋はさすがに四角く,その辻褄を合わせるために廊下が三角形だった.私は後にも先にも,三角形の廊下を見たのはこの下宿だけである.

 で,私の下宿した部屋は石坂さんの部屋と全く同じで《民家の二階の三部屋を間貸しするタイプで、共用のトイレと流しがあった。… もろ西日の窓、内側に開く不便な扉、上だけ半間の押入れと、いかにもの三畳間》だった.

 私もふとんは敷きっぱなしだった.枕は持っていたが白黒テレビもラジカセもなかった.下宿は味噌工場に隣接していた上に,私の部屋は工場側だったから,味噌の発酵臭がひどくて夏も窓を開けることができなかった.洗濯機なんてないから靴下もパンツも手洗いだったが,そういう事情で通年部屋干しだった.そして畳にはカビが生えた.
 石坂さんの部屋を《絵に描いたような貧乏、というが、貧乏を絵に描いたようだ》と言われてしまうと,私はそれ以上に貧乏だったかも知れない.ただ,赤貧だったかというと,それほどでもなかったと思う.お金はなかったけれど,多少はバイトもしたから,ぎりぎりで三度の飯は食えていたからである.(パンの耳も食事の勘定に入れる〈笑〉)

 昔と今では貧乏の意味が変わってしまったのかも,と思う.
 私たちの若い頃の貧乏は,つまり貧乏学生は,お金は不自由したが,自由な時間は持て余すくらいあった.だから年寄りの貧乏話は,どことなく貧乏だった自分を笑いながら懐かしむ気配がある.
 しかし昨今,例の牛丼屋とか居酒屋などのブラックな会社で働く青年たちは,それなりの給料は手にしているだろうが,悲しいくらいの過重労働だといわれる.仕事はあっても,その仕事が終われば部屋に帰って倒れ伏すように寝るしかない.これが今の時代の貧乏なのだろう.そしてそのような非正規労働に就いている若い人たちが将来,自分の貧乏時代を笑いながら思い出すことはないだろうと思う.

 関川夏央が『やむを得ず早起き』(小学館;初版第一刷2012年) のあとがきで書いている.
昔に帰りたいかと問われれば、「然り」とは答えず、「否」とも答えない。問いそのものが現実的ではないから、ただ笑ってやり過ごす。
 若いことを「春秋に富む」という.お金はないが春秋だけは嫌というほどあった時代に戻りたいか.そう問われれば,関川と同じく私は笑ってやり過ごすだろう.

 私と同時代の貧乏学生は,鍋はあっても丼を持っていないやつが多かった.従ってインスタントラーメンは鍋から直接食うのが結構普通であった.
 鍋すらないという友人がいた.しかし彼はお湯を沸かす電気ポット (アルミ製で昭和レトロな製品;ネットに画像あり) を持っていたので,この電気ポットにインスタントラーメンを入れて煮た.できたラーメンは,ポットの底に届くような長い菜箸で食うのであった.
 鍋でも電気ポットでも,これから直接ラーメンを食う場合は多少の問題があって,気を付けないと汁を飲むときに唇に火傷を負って,皮がはがれてしまう.この火傷に覚えがある団塊老人は多かろう.
 こういうラーメンの食い方に帰りたいかと問われれば,私は「然り」とは答えず「否」とも答えない.問いそのものが現実的ではないから,今はただ笑って麺を丼に移してから食う.

(*) この学生寮で同じ階に住んで親しかった友人に王子博夫君がいた.王子君は私と同じ大学の同学年であり,彼は後に新潮社に入社して松本清張の担当となったが,若くして東名高速の事故で亡くなった.王子君のことは,Wikipedia【松本清張】に担当編集者として名前が書かれている.王子君と,もう一人その学生寮で親しかったN君のことは,閉館した私の個人サイト『江分利万作の生活と意見』(このブログの右サイドバーにリンクあり) にも何度か交遊の思い出を書いた.私は貧乏学生だったが,あの頃を思い出せば切ないくらいに懐かしい.

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2014年8月26日 (火)

@ビリングの登録で驚いた

 先日,NTT 東日本から「料金支払い方法等の変更に関するお願い」という文書が郵送されてきた.
 フレッツ光の料金を口座振替で支払いしている顧客に対して,これまで印刷物の「口座振替のお知らせ」を発行してきたが,今後はネット上のコンテンツである「@ビリング」で料金請求内容の通知を行うとのことである.つまり顧客は自分の支払額を知りたければ@ビリングにアクセスしなければならなくなる.
 ただし紙媒体による通知を全廃するのではなく希望者には発行するが,月額百円の別料金を徴収するという.
 なんでこうするかというと,「ペーパーレスはエコ」だからというのだが,そういわれれば道理は向こうにある.サービスの低下には違いないが,黙って甘受すべきであろう.(ただし高齢者のかなりの部分はネットアクセス環境を持っていないから,そのような人たちは電話料金支払い額を知りたければ,実質的に毎月百円の値上げを受け入れねばならなくなる)

 それで早速「@ビリング」登録の手続きをするために,当該手続きサイトにログインしたら「@ビリングは現在メンテナンス中のために登録できません」と書かれていた.
 出鼻をくじかれた私は,そんなタイミングで「お願い」文書を送ってくるんじゃねーよと思ったが,なにしろエコの御旗は向こうにあるので,メンテ明けを待って,「@ビリング」に登録するためログインした.

 ところが,ここで驚くべきことが判明した.
 登録に必要な個人情報を入力する画面で,顧客番号にヒモづけされて既に入力済の私の氏名の「読み」が間違っているのである.
 しかも,ご丁寧に「氏名はシステム登録済のため変更できません」と,その画面の註記に書いてある.
 私の氏名は,ありふれてはいないが,さりとて難読というほどでもない.この間違いの原因は,NTT 東日本のフレッツ光の契約をしたとき,頭が悪いか知識がなくて人の名前を正しく読めず,しかも無責任な NTT 東日本の社員がテキトーにシステムに誤入力したとしか思えない.わざわざ「氏名はシステム登録済のため変更できません」と明示しているのは,氏名またはその読みが間違っているというトラブルが,私の場合の他にもある一般的なものであることを意味している.
 「名前の読みが間違っているから正しく訂正せよ」とネジ込むのが筋であるが,きっとシステム的には不可能であり,正論を主張すれば大ごとになるだろう.
 これまでも NTT 東日本の無責任には煮え湯を飲まされたことがあり,どうしようか思案している.たぶん泣き寝入りだが.

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2014年8月25日 (月)

死語「マル」

 先日 (8/22),平松洋子さんの週刊文春連載コラム『この味』について少し書いた.そのコラムの「朝顔とドライカレー」と題した文章中で,新刊の岡崎武志『貧乏は幸せのはじまり』(ちくま文庫) が紹介されている.これは著名な人々の貧乏話を集めたものだ.さっそく読んでみた.
 感想はいずれ書くが,一番最初のほうに稲垣足穂のことが書かれていて,その p.50 に次のような記述がある.

飯塚酒場のことを富永はこう書く。
「ゴッタ煮とドブロク、焼酎の旨かったこと。マルのある時は日本酒かビール。そこには吹きだまりの人生と高貴とがシンホニーを奏していた」
「マル」とはひとケタ多い金額のことか。最底辺の生活を送りながら、足穂との思い出を書くとき、富永の筆は生き生きとし、人生を満喫しているように見えてくるのだ。

「マル」というのは死語だが,「お金」の隠語である.岡崎武志は「マル」を知らなかったとみえて《「マル」とはひとケタ多い金額のことか》と意味を推測しているが,違う.「マル」には別に「多い」という意味はなく,単にお金を隠語で「マル」と昔は呼んだのだが,しかしどちらかというと,「マル」は学生や労働者が日常持っている程度のお金をいうのであり,むしろ多額の現金になると「マル」とはいわなかった.当たり前だが,それはもう隠語を使うようなものではないからである.
 私の世代はもう「マル」という言葉を使わなかったが,焼跡闇市派の作家の書いたものに時折見かけることがある.マルは漢字で書けば「円」だと,これは確か阿佐田哲也の書いたものにあった.
 従って上の引用箇所を書き直せば「お金のある時は日本酒かビール」ということ.

 岡崎武志という人は私より七歳下の人.もう五十七歳だから若くはない.だから「マル」の意味を知らないのは不思議である.プロの物書きに面と向かってそんなことを指摘する人もなかろうから書いておく.

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2014年8月24日 (日)

キーボードを掃除した

 思い立って,キーボードの掃除をした.私は PC-AT 互換機とか DOS-V などという言葉があった頃からの PC ユーザーだが,キーボードの掃除は初めてである.(そういえばドスブイパラダイスが店名をドスパラに変えたのはいつだったか …ドスパラは時代に抗わずすっぱりと「ドスブイ」を捨てたのだが, 私の書架には未だに DOS コマンドの解説書があって,どういうわけかこれを捨てきれない〈笑〉)
 雑誌の記事で「一年に一度はキーボードをお掃除しましょう」などとあって,その手順も丁寧に図解されていたりするが,まぁつまりは億劫だというわけなのだった.

 西方浄土からのお迎えが遠い先の話だと思っているときには,そんな気にはならなかったのだが,先日心臓の手術をして,いよいよ自分は長生きできない (老化した血管はもう元にはもどらない) のだと覚悟を決めたあと,いつ死んでもいいように身の回りをきれいにしておこうという殊勝な心構えが突如として湧き上がってきたのである.それでキーボードを掃除しようと思い立ったのだ.
 人間いつ交通事故にあって病院にかつぎ込まれるかも知れぬ.その時に恥をかかぬよう,パンツはいつもきれいなものを身に着け,同じパンツを二日続けてはいていたりしてはいけないのだが,それと同じことだ.違いますか.そうですか.

 そんな動機はともかくとして,私のキーボードは,いつ購入したのかも覚えていないほど古い Topre の REALFORCE である.ファンクションキー類がグレーで文字キー類がホワイトの 108キーボード,現在でも日本語キーボードでは最高の打鍵感と耐久性を誇る一番人気の機種だ.
 これが,時折キートップを拭いてはいるのだが,なんとなく薄汚れていて,よし,これを掃除してやろうと思い立ったのである.

 というわけだから,キートップを取り外す工具も持っていない.Amazon で探してみると,アイネックス キートップ引き抜き工具 TL-012 (\210) という道具があった.キートップを挟んで引き抜く樹脂製のものである.
 これを使ってみたのだが,うまく抜けない.というか,そもそもセットして引っ張ると簡単にすっぽ抜けてしまう.どうやらこの道具でキートップを引き抜くには,原理的にキートップの大きさに厳密な条件があるようだ.それに,Enter key は適用外だ.これじゃ使えない.というわけで,これは役立たずと呼ぶことにした.

[ 役立たず ]
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 次にダイヤテック KeyPuller FKP01 (\494) を入手した.

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 FILCO の製品で,これが大当たりだった.引き抜けるキートップの大きさと形に制限がないのが素晴らしいし,絶対にすっぽ抜けない.すぽんすぽんと,どんどん抜いていくことができる.さすがキーボードのメーカーの製品である.

 さてキートップを抜いたあとの状態写真が下.

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 使用開始以来,初めてのお掃除にしては,それほど酷い状態ではなかったが,掃除用のウェット・クリーニング・ティッシュ↓を小さくちぎり,ピンセットを使って丁寧に汚れを落とした.

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 外したキートップは,洗濯機用のネットに入れて,洗濯機で洗った.ついでに,いつ交通事故で病院にかつぎ込まれても恥ずかしくないように,パンツもはきかえて,このネットに入れて洗った.うそ.
 洗い終わったキートップはネットに入れたまま物干し竿からぶら下げて,時々カシャカシャとシャッフルしながら小一時間干して乾かした.

 再度キートップをセット (*) したら,あ~らまあ何てきれいなキーボード.
 せっかく工具も買ったことだし,来年の夏にでも,生きていたらまたお掃除してあげることにしよう.

(*) キーボードの掃除方法に関するネット記事に「キートップを外す前にカメラで写真を撮っておきましょう」などと書いてあったりするが,特殊な規格外配列ではないスタンダードなメカニカルキーボードであれば,写真なんぞ撮るまでもない.日本語キーボードのキー配列図は,親切な印刷用の画像がネットにある.

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2014年8月23日 (土)

無糖炭酸飲料

 無糖炭酸飲料のマーケットが伸びているらしい.とりわけ,微着香のみで外観は普通の炭酸水と同じものだ.一過性の単なる売る側の仕掛けかも知れないが,店頭で見かけることが多くなっている.
 今はもう定年退職したが,長きにわたって食品会社に在籍していたから,こういうトレンドには無駄に関心が高いのである.

 それで,レモン風味の炭酸水を一本購入してみた.こいつでハイボールを作ってみようというのである.
 ウイスキーは,オースティン・ニコルズのワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットがボトル底に少し残っていたのを使用したが,結論からいうと失敗だった.まったくうまくなかった.バーボン,それも独特の香りのワイルドターキーとレモン風味炭酸水は合わない.余計なものを加えてしまったという印象だった.

 残り僅少だったせっかくのケンタッキー・スピリットが,これで払底してしまって,在庫の購入順序でいうと次は八年ものである.
 さて昨日はそのターキー八年ボトルでハイボールを作って夕飯にした.炭酸水はもちろん無香料のもの.

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 余談だが,酒肴のサラダは,セブンイレブンで買った「彩ミックス野菜サラダ」に同じくセブンイレブンにあった「タン・スモーク」を載せたもの.これ,安価お手軽でかなりよい酒肴になった.おすすめしたい.

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2014年8月22日 (金)

ドライカレー

 週刊文春 (8/28号) 連載コラム『この味』に,平松洋子さんがドライカレーのことを書いている.この回のタイトルは「朝顔とドライカレー」だ.
 平松さんが作るドライカレーはカレー風味の炒飯のことで,玉ねぎとピーマンのみじん切りを炒め,これに冷ご飯を投入して更にほぐし炒めて,仕上げにカレー粉を振ると書かれている.どこかで塩で調味するはずであるが,それは書いていない.

 私が最初にドライカレーを食べたのは,たぶん大学生の時だ.喫茶店の軽食メニューだったと思う.当時の喫茶店のメニューは,スパゲッティならナポリタンかミートソースであり,ご飯ものならカニピラフ,エビピラフ,ドライカレーといったところであった.
 で,喫茶店とか大衆洋食屋のドライカレーだが,まず例外なくカレー風味の炒飯だった.といっても関西でのことは知らず,これは東京での話だが,挽肉をカレールーと共に炒めて白飯に載せたタイプのドライカレーは,レストランのメニューだったのではないか.このようなタイプの,つまり今私たちがキーマカレーと呼んでいるもののもっと汁気の少ないタイプのカレーを家庭でも作るようになったのは,随分とあとのことだと思う.私は,三十歳前後の頃だと思うが,妻が作るこの種のドライカレーを口にして「これがドライカレー? 別にドライじゃないじゃん」と思ったものだ.

 カレー風味の炒飯は,平松流もそうだが,肉なしで作れる.場合によってはピーマンなしでもよい.玉ねぎと飯をカレー粉で炒めればできてしまう,一種の貧乏ご飯だ.平松さんも文中で《ほんとうはハムがあれば上出来だけれど、贅沢は腐裕の始まり》と書いている.腐裕は,いたずらに豊かなことの意味の造語ですね.
 私は大学四年生の時,東京は高円寺駅の南口にあった木造アパートに住んで自炊していたのであるが,家庭教師のバイト代が入る寸前,いよいよ懐がさみしいときにはよく玉ねぎだけのカレー風味炒飯を作った.平松洋子さんのコラムを読んでそんなことを思い出した.

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2014年8月21日 (木)

戦争の夏

 昭和の頃は,八月ともなれば新聞は文字通りの連日,紙面は終戦特集記事で一杯になった.
 テレビも似たようなものだった.NHKの朝ドラは昔から娯楽番組の時代設定として戦争中のお話が多かったが,八月はそのようなエンタメとは一線を画す特別な月だった.八月にはNHKも民法各局も,先の戦争をシリアスに取り上げたドラマやドキュメンタリ番組を特別枠として放送した.一年に一度の機会だというわけで気合の入った番組が多かったように思い出す.

 TBSラジオの永六輔『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』には,永六輔のロレツがまわらぬことに関するリスナークレームがあるという.しかしロレツのまわらぬくらいが何だと言うのか.話が不自由でも永六輔でなければ話せないことがまだあるのだ.これが嫌な野郎は放送を聴かなければいい.
 この番組の中では,いつも野坂昭如の近況が取り上げられる.野坂昭如は今も脳梗塞のリハビリを続けながら,毎日新聞の隔週連載『七転び八起き』を執筆しているが,戦時中のことを繰り返し繰り返し書いている.
 週刊文春で長年にわたって連載されている小林信彦のコラムもそうだ.私のような戦後生まれが戦時中のことを知るのに,小林信彦の書くものはありがたい資料である.

 これらの皆さんにはまだまだ頑張って頂きたいと,この八月に思う.
 関川夏央は「年寄りが死ぬということは図書館が一つなくなるのと同じだ」と書いた.その通りだと私も思う.

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2014年8月20日 (水)

いかうどん

 昨日,酒肴にと思ってRF1で購入した蛸のサラダを,他に色々おいしいものがあったので,食いそびれた.
 RF1のサラダは衛生管理が万全だから買った翌日でも大丈夫,とRF1は言っている.
 それで,残り物を今日の朝飯にしてみた.

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 画像の量で二百グラムなので,一日の緑黄色野菜のおすすめ量には少し足りない.昼飯とかにもう少し野菜を摂るようにしよう.
 手前の皿は,卵入りの「一杯の贅沢 完熟トマトスープ」(MCフードスペシャリティーズ ;旧協和発酵キリン) だ.
 皿にフリーズドライのスープを入れておき,鍋でポーチドエッグを作り,鍋の湯と卵を皿に移せばよいので簡単.なかなかいける.
 パンは雑穀入りのロールパンで,買い置きしてあるポンパドウルのもの.ポーチドエッグを作っているときにトースターで温める.

 しかし朝から蛸とは何事であるか.それでよいと思っているのか.そうお叱りを受けそうな気がする.確かにこの蛸サラダは,酒肴にちょうどいいと思って買ったものではある.
 では朝の蛸がだめなら烏賊はどうか.
 スルメイカのそうめんなどは,つい冷蔵庫から冷やした日本酒を出してきてしまいそうで,朝食の膳には不謹慎の極みと言われるかも.

 しかしそう書いたら,小学校の夏休みのときに母方の親戚にお邪魔したことを思いだした.
 親戚というのは母の実家で,一家は佐渡島の尖閣湾の近くで,勤め人兼漁師を営んでいた.
 さて昔日の夏,この家では朝からイカそうめんがでた.なにしろ漁師だから,肉屋には無縁で,時季の魚が朝昼晩三食にでてくるのである.
 上にイカそうめんと書いたが,実は違う.家庭の飯のおかずだから上品に細く切ったりなんかしないで,讃岐うどんほどの太さにするのだ.
 この,うどんみたいなスルメイカを丼に山盛りにして,大家族用の大きな卓袱台の真ん中にデンと置き,各自は自分の椀にこれを分け取り,醤油をかけまわして飯のおかずにするのである.
 ああ,そのイカのうまいことといったら.
 思い出は最高の調味料とはいうものの,しかしこれは今の時代でも「輝け! 飽食の日本の朝ご飯大賞」にノミネートされるものと私には思われる.
 蛸は朝にふさわしくないとのお叱りは甘受するが,イカは違う.そう断じてよろしいのである.

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2014年8月19日 (火)

懐かしのDiablo2 (4)

 メフィストを倒してそのソウルストーンを手に入れたヒロインの旅は続く.

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 ここは,人間界ではない.かつて天界と冥界の戦争の舞台となったところである.
 この門を出て,いよいよディアブロと戦うのだが,その途中で昔大天使ティラエルの部下であったが今は魔王たちの手に落ちて堕天使となったイズアルに引導を渡してくれとティラエルに依頼された.

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 これ↑がイズアル君だが,ヒロインの毒矢に被毒して緑色となってはいるものの,いわゆる体力馬鹿であり,倒すのに一苦労する.
 イズアルを倒したら,先に進み,そこから地底に潜る.すると地獄の鍛冶屋モンスターが出てくるので,これを倒すとクエストアイテムであるヘルフォージというハンマーをドロップする.

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 このハンマーを手に持ち,インベントリに入れておいたメフィストのソウルストーンを砕くと,メフィストは一巻の終わりとなる.

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 次はディアブロとの戦いだ.
 ディアブロの宮殿の入口にはウェイポイントがあり,そこに天使ハドリエルがいて,ディアブロの動向を見張っている.

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 ここから先はスクリーンショットをとるどころではないので,省いてディアブロとの戦闘シーンのみあげておく.

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 プレイヤーのキャラは,装備が整わず能力値も低い状態でディアブロと戦うことになるため,ここが正念場である.
 ディアブロを倒したら,最後の魔王バールのいるアリート山に向かう.

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 アリート山は古来よりバーバリアン種族の聖地だが,今はバールに占領,汚染されている.
 ヒロインは,バーバリアンが絶望的な戦いを続けるアリート山麓,山腹を走り抜け,山頂に到達した.

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 このアリート山頂はバーバリアン種族の三守護神が守っていて,これと戦って勝たないと山頂宮殿に入れてくれないのだが,この三守護神がかなり強いので大変.

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 でもなんとか勝利をおさめて,いよいよバールのダンジョンに突入する.

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 で,バール戦だが,これは傭兵にある特別な武器を持たせていると,楽に倒せる.
 その装備の紹介は次回にまわすとして,バール戦のショットと難易度ノーマルのエンディング画像を下に掲げる.

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 めでたく序盤戦を終えたヒロインは,スレイヤーの称号を得て次の難易度へと進む.

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2014年8月18日 (月)

年寄りのくせになんだそれは

 これも夏枯れというのだろうか,何か書きたくなるような新聞ネタがない.
 いや実はエボラ出血熱のこととか重大な問題はあるのだけれど,重すぎて私の気力が足りない.
 それで,どうでもいいようなことを書く.

 昨日のmsnニュース (産経新聞) に,自民党・高村正彦副総裁 (七十二歳) へのインタビュー記事が掲載されていた.政界内幕ものの記事だが,それは横に置く.
 このインタビューは,東京・新橋の小料理屋「はなわ」で行われた.数人しか腰かけられないカウンターと個室が一室という小さな店だそうだ.

 その折の高村副総裁の様子を写した一枚の写真が記事に添付されているのだが,実にこれが情けない.すぐリンクが切れるだろうが,あまりにも情けないので本日から数日の限定でリンクを張っておく.
 この男の父親も政治家であり,本人は元弁護士で,上流階級に属しているはずであるが,その割にはよほど程度の低い家庭の育ちであったのだろう.色んな箸の持ち方を見たことがあるが,これほど酷いのは初めてだ.

 箸は,少し練習すれば美しく自在な遣い方をできるようになる.胡麻粒とか山椒の実を一枚の皿から他の皿に一粒ずつ移すなんて簡単だ.
 しかしこの高村副総裁は,料理屋でどんなうまい料理が出てきても,箸遣いがでたらめだから食べるときの姿勢がどうしても前かがみになり,つまり横で見てみて恥ずかしい食い方しかできないはずだ.(おまけに上の記事の写真では左肘を卓についているし)

 それから余談だが,箸の遣い方がでたらめな男は,まずほとんど,いわゆるクチャラーだと思って差し支えない.そういう育ちだからである.
 またこれは記事にも書かれているが,高村副総裁はコンソメを「すすった」そうである.総理大臣はこういう男と会食しなければいけないのだが,気の毒である.

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2014年8月17日 (日)

コンビニで野菜を買う

 食い物に関する最近の話題がいくつかある.
 市販の甘酒のひそかな流行が一つだが,もう一つはカット野菜.

 RF1などデパートの地下食品街でサラダや惣菜を買い求めるのもいいが,その価格設定はいかがなものかと思うことがある.
 これについては,この記事『もしデパ地下のお惣菜が100円均一だったら』が参考になる.写真も文も,面白い.

 デパ地下のサラダは高すぎる.みんなそう感じているせいかも知れないが,スーパーの野菜売り場とかコンビニでカット野菜の売れ行きが最近好調だと聞く.
 私の住みかの近辺には三軒のコンビニがあるのだが,中ではセブンイレブンのカット野菜が質的に優れていると思う.
 これは各種の野菜を取り混ぜて,洗わずに食べられるようにしたサラダ用の野菜だが,プチトマト入りのものと大根主体のものとがある.(他にカットしただけのレタスとかもある) これに好みの市販ドレッシングをかければ,たちどころに健康イメージの食卓が,RF1の半額でできあがる塩梅である.

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 上の画像は日曜日の朝ごはん.
 セブンの大根サラダに,冷蔵庫常備のブロッコリとプチトマトを載せてみた (下にカリフラワーも隠れている).これで一日に必要な緑黄色野菜は十分である.
 ドレッシングは,リケンなどの数種のドレッシングがビン底にわずかに残っていたので,こいつらをキューピーのイタリアン・ドレッシングのビンに流し込んでシェイクしたものである.
 無国籍だがとてもおいしいドレッシングができた.再現性がないのが残念である.

 写真にある四角いパックは,もずくの酢の物.あと,クノールの冷たい牛乳で作るポタージュをグラス一杯とトースト一枚である.
 食パンは,耳のところにちょっと黒カビが生えてきたのを切り捨てて焼いてみた.おうちカフェ朝ごはんのつもりだったのに.
 もずくの酢の物も,おうちカフェ朝ごはんとも思われぬが,期限切れになるのでやむを得ないのである.以上,いかがであろうか.

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2014年8月15日 (金)

懐かしのDiablo2 (3)

 ACT3 に進出した我がヒロインはどうなったか.
 この Kurast という国は,わずかに残された船着き場の周辺を除いて,封じ込めから解放されたメフィストのために全土が制圧されていた.
 そのメフィストの地下ダンジョンに行って倒すためには,ジャングルや集落に散逸しているパーツを集めて,Khalim's Will (カリムの遺志) というメイスを作製し,これでダンジョン入口の封印を解く必要がある.
 そこでまず,船着き場からひたすら北上し,とりあえず最終目的地手前までのウェイポイントをすべて見つけておくのがいい.

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 北上して行く途中のジャングルで,集団で襲ってくる小人族が大変やっかいで,ものすごく足が速い.
 こちらが毒弓を撃ちこんでからヒラリヒラリと蝶のように舞おうとしても,こいつらは必ず速やかに追随してくるので,見た目,単に追いかけられて逃げ惑っているようにしか見えない.
 地下の下水道とかにいる通称「骨チビ」は足がもっと速くて,本来は遠隔攻撃武器である弓なのに,近接して応撃せざるを得ないことがほとんどだ.
 こうなると,強力な毒弓を用いて蝶のように舞い蜂のように刺す,というコンセプトにそもそも間違いがあったと思わざるを得ない.
 出発点でもう間違っていたなんで,誰が予想したであろうか.みんな予想してたですか.そうですか.すみません.

 で,ACT3 でのクエストは「カリムの遺志」のパーツである「カリムの眼」「カリムの脳」「カリムの心臓」を集めることだが,その他に進行に必須でないクエストもある.例えばこれ↓.

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 それらのクエストは,やらなくてもいいが,メリットが大きいのでやったほうがいいだろう.

「蜘蛛の森」の蜘蛛の巣穴で「カリムの眼」を手に入れるのは簡単だが,脳と心臓のあるダンジョンはうっかりすると即死する可能性がないわけではないので,慎重に進む.

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「カリムの眼」「カリムの脳」「カリムの心臓」が集まったら,最北の「黒き寺院」でメフィストの地下ダンジョンの入口を守っているモンスターを一掃して Khalim's Flail を手に入れる.

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 これに「眼」「脳」「心臓」をくっつけて Khalim's Will を作製したら寺院の中にある封印を打ち砕く.するとダンジョンの入口が開く.

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 ダンジョンの地下二階には,ACT3 最後のウェイポイントがあるのでしっかり確保する.

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 このダンジョンでの注意点は,前記の「骨チビ」に接近自爆テロをされるとライフを三分の一くらい持っていかれるので,ライフはポーションを用いて常にフルに満たしておかねばならないこと.

 メフィストと戦う前のヒロインのスペックは以下の通り.

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 メフィストはライフが大きいので,蝶のように舞い蜂のように刺すのでは時間がかかってしょうがない.それで突っ立ったままポーションをガブ飲みしつつ戦う.

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 メフィストを倒して地獄送りにすると,ソウルストーンが残る.こいつを地獄の鍛冶場で打ち砕けばメフィストはもう復活できなくなるのである.とりあえず勝ってよかったよかった.

 というわけで,最初の目論見と全然違う方向に我がヒロインは育成されつつある.あ~あ.
 次の ACT4 では華麗な蝶の舞を踊ることができるのであろうか.
 
 

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2014年8月13日 (水)

懐かしのDiablo2 (2)

 毒ダメ弓アマゾンを育成せんという目論見の続き.

 このディアブロ・シリーズのゲームの世界観は,天界と冥界の戦争というなかなか壮大なものが背景になっているのだが,それはネット上の資料で調べて頂くとして,ゲーム進行は一本道で分岐はしない.
 NPC との会話の具合によってクエストが発生せずに詰んでしまうなどということもない.
 ディアブロ・シリーズは,ただもうひたすらに敵のモンスターを倒して前に進むハック&スラッシュゲームの金字塔なのである.

 さて,復活した Diablo の手下であるアンダリエルを倒したヒロインは,教団のローグたちに別れを告げて東方の砂漠の町 LUT GHOLEIN に着いた.これが ACT2 である.

 まず,この街の地下にある下水道に棲む下級悪魔 Radament に亭主を殺された宿屋の女主人からクエストを受けて,これを倒す.

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 こいつは大したことないのでさっさと倒して,それから街の外の砂漠に行く.
 この ACT2 のクエストとストーリーはここを参照して頂きたい.
 魔物うごめく遺跡とか毒虫の巣穴とかでパーツを集め,古代の秘所への通路を開ける鍵となるアイテム Horadric Staff (ホラドリムの杖) を復活させるのである.
 下の画像は,その毒虫の巣穴にいる巨大うじ虫だ.

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 Horadric Staff (ホラドリムの杖) を復活させたら,これを持って Tal Rasha's Tomb (タル・ラシャの墓所) へと進む.
 街の地下下水道にいたモンスターと同じタイプの敵と戦うのだが,こいつはライフは小さいが魔法属性の攻撃がいささかきつくて,複数いっぺんに出てくるとちょっと難儀する.

 ともかく敵モンスを全滅させて,Orifice (台座) を発見したら,ここにHoradric Staff を置く.するとビームが発射されて,壁が崩れ,その奥に ACT2 中ボスの Duriel (ドゥリエル) がいるので,これと戦うわけだ.

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 しかし,私はここでハタと困った.
 というのは,この壁の穴の向こうは狭い洞窟なのである.
 しかるに私が育成を思い立った毒ダメ弓アマゾンは,敵に強力な毒矢を一本打ち込んだら,毒が効くまで蝶のように舞い,また次の毒矢を蜂のように刺すという戦闘スタイルなのである.
 それが狭い穴倉の中で華麗に戦えるわけがない.
 早くもここで挫折しようとは誰が予想したであろうか.みんな予想してたですか.そうですか.すみません.

 とにかく,ACT1 で雇った遠隔戦闘職であるローグ傭兵は役に立たないので解雇し,新たにしぶとい近接戦闘職のACT2 傭兵を雇って,適当な武器防具を持たせて,Duriel の棲みかに突入した.
 突っ立ったままポーションを十個もがぶ飲みするという無様な戦いぶりであったが,勝つには勝った.傭兵は死んだけど,これは傭兵隊長が有料復活させてくれるので無問題.

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 戦利品はレアアイテムが三つとセットアイテム (緑色) が二つ.
 頭飾り (circlet) が初期装備として少しいいかなという程度で,あとは全部ゴミ.

 この穴倉の向こうに行くと,そこには大天使 Tyrael (ティラエル) が幽閉されており,「既にディアブロとバール (Baal;英語の発音はベールだが,日本ではバールと呼ばれている) は魔王三兄弟の長兄メフィストを解放しに向かった」とヒロインに告げる.

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こうして舞台は東の帝国 Kurast (クラスト) へ移るのである.

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 さて ACT3 で我らがヒロインは蝶のように舞い,蜂のように刺すことができるのであろうか.

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2014年8月12日 (火)

映画鑑賞用に買いました

 普通にテレビ番組を見たり録画したりするには,シャープのアクオス32型にソニーのBDレコーダーを接続している.
 普通に,と書いたが実はほとんどテレビ放送を見ない.リアルタイムでは地震情報とか台風情報を見るだけであるし,あと録画して見るのは「ナニコレ珍百景」くらいか.

 で,このアクオス32型が最近不調だ.時々,パワースイッチが入らなくなるのである.
 物理的にスイッチが接触不良かと思ったらそうではなく,いったんテレビのACプラグをコンセントから抜いてまた差すと,オンできるようになる.PCのフリーズのようなもんだろう.
 なにしろもう八年前に買ったやつだからなあ.シャープがまだ元気で,亀山クオリティがどうたらこうたらと吉永小百合さまが仰るので,一も二もなく飛びつくように買った.小さいテレビながら三十万円近い価格だったと思う.

 で,近くの駅ビルのノジマにテレビを買いにでかけた.
 アマゾンで液晶テレビを検索すると,40型が売れ筋らしく他はほとんどない.しかしノジマの店頭にはもっと小さいものから超大型4Kまで各種陳列されていて,やはりテレビは小売店で買うのがいいなあと思った.
 さて店員のお嬢さん (推定年齢三十一歳) をつかまえて,映画鑑賞用に,レグザの40インチとレグザのBD再生専用機を購入したい旨を申し出た.もとより,おっさん店員とか兄ちゃん店員に声がけするつもりはなかった.せっかくリアル店頭に買い物に来たのだ.若い女性 (ただし推定年齢三十一歳) とお話をして生気を吸い取るのだ.違う.レグザが今の売れ筋とみえ,「他店 (ヤマダですな) と勝負!」とポップに書いて気合の入った価格設定 (Amazon で買うよりも安かった) だったし,長時間観るのに色合いが適当だと思ったからである.

 こちらが機種決め打ちなので話は早い.商談テーブルで早速伝票作成してもらう.ノジマではポイントカードにスマホを使う.お嬢さんがガラケーでもOKだというので私のガラケーを出すと,彼女は「わあ」と驚いた.
 訊けば彼女は若い頃はドコモショップに勤めていて「これってその頃に出た機種なんです.懐かしいなあ (遠い目)」と言った.若い生気 (推定年齢三十一歳ではあるが) を吸い取ろうとしたのだが,遠い目をされたので,もうこの携帯を買ってからかなり経つよなあと,しみじみしてしまった.

 さてレグザ40インチだが,画質は自然でとてもよろしい.テレビもBDプレイヤーも,リモコンの有効な角度が少し狭いという感じがするが,まぁこんなもんかと思う.

(補遺:昨日12日にこの記事をアップしたときには,レグザのことをブラビアと書いてしまったので,13日に訂正した.なんでだろ.きっと若い生気を吸い損ねたせいだと思う)

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2014年8月11日 (月)

懐かしのDiablo2 (1)

 知っている人は知っているが,TPP交渉で,著作権法違反が非親告罪化するかも知れない.
 この非親告罪化のことは今のところ余り騒がれていないが,この種の分野で日本警察が活躍する機会を増やすのは好ましくないと私は思う.
 諸外国では非親告罪なのが普通であるが,正当な引用や二次利用が明確に認められているので,警察行政が不当に著作権法を振りかざす事態にはなっていないという.
 ところが我が国では著作物の正当な引用ということの意味するところが曖昧であり,例えば日本音楽著作権協会は正当な引用であっても認めないという立場をとっている.すなわち歌詞は片言隻句であっても著作権者の許諾の対象であるとしている.従って,例えばあるド演歌の歌詞が他の歌の歌詞を切り貼りした盗用剽窃であると批判しようとしても,歌詞の引用ができないので,実際上は文章で批判することができない.他者からの一切の批評を許さない職業作詞家というのは楽な商売であって,創造性皆無の職業作詞家が存在する演歌というジャンルがもはや風前の灯状態であるのは,歌詞の正当な引用でも認めないという傲慢な姿勢の当然の結果なのである.
 また,読売新聞など一部の新聞社も記事の正当な引用を認めていない.国民が記事を批評することを認めない日本の新聞が今後どうなるか言うまでもない.

 話が大き過ぎた.
 ここで取り上げたいのは,従来は著作権者が引用を認めてきたような場合でも,非親告罪化すると,今後は警察が不当な引用だとして訴訟に持ち込むことが可能となるということで,その一例として,ゲームのスクリーンショットが取り締まりの対象になるだろうということである.
 スクリーンショットはもちろんゲームの著作権者に著作権があるのだが,ゲーム業界はファンサイトにスクリーンショットが掲載されることを黙認してきた歴史的経緯がある.ファンサイトがそのゲームの広告宣伝の役割を担うからである.しかし非親告罪化したら,「正当な引用」が確立していない我が国では,もう危なくてスクリーンショットをブログに載せることはできなくなる.警察は,ゲームの著作権者の都合などお構いなく,違反の摘発をするだろうからである.

 さて,本題.
 どんなゲームでも,文字だけのプレイ日記なんて面白くもないし,画像でないと説明しきれないこともある.
 例えばの例だが,“Path of Exile”のプレイが作業化してしまって,つまり飽きてしまって,昨日とつぜん Blizzard 社の名作“Diablo2”を再び始めたので,それをスクリーンショット入りで書いてみる.
 この古典的ゲームが未だに根強い人気があるのは,突拍子もない趣味キャラを育成する楽しみかたがあるからだと思う.
 今回は毒ダメ弓アマゾンを育成することにした.どういうキャラかというと,スキルによる攻撃力で戦うのではなく,インベントリに毒ダメージのチャームを満載して敵を倒そうというのである.たぶんこんなキャラは攻略サイトで見当たらないと思う.
 毒攻撃の欠点は,時間がかかるということである.つまり毒というものは連打しては逆効果であって,一度攻撃がヒットとしたら,敵に毒が効くまで次の打撃をしないほうがいい.
 このことから,通常のヒット&アウェイより,もっと逃げまくるアマゾンを育てることになる.はたしてうまくいくであろうか.

まずはキャラ作成.

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ゲームのスタートは,下級悪魔アンダリエルに修道院を追われて野営している教団のキャンプからだ.

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先行キャラが蓄積した武器防具の資産があればレベル15くらいで,資産なしの場合はレベル17くらいで ACT1 の中ボスのアンダリエルと戦うことになる.下の画像はその少し前のスペックだ.

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アンダリエルに毒矢を打ち込んで,アンダリエルが緑色に染まったところ.
毒チャームは,これまで育成したキャラが拾って貯めていたものを使用.

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アンダリエルを倒したあと,最初に会ったときは上から目線だった教団の戦闘指揮者 Kashya がヒロインを「我が友」と呼んだ場面.
Diablo2 全編の中でも屈指の名台詞だと思う.声も色っぽいし.

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次 ACT2 は砂漠の町だ.

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2014年8月 9日 (土)

警察のイ○

 中野区の「まんだらけ」で,二十五万円もする鉄人28号のブリキ製玩具が盗まれた事件のこと.
 店側は同店のサイト上で窃盗犯のモザイク処理した顔写真を公開し,「返さなければ顔を公開する」と警告したのであるが,これが問題になっている.
 例えば毎日新聞(8/8  18:38) は《法律の専門家は「犯罪行為を不特定多数に公開することになる。プライバシーや名誉の侵害の恐れがあり、やりすぎだ」と指摘している》としている.
 この記事は《法律の専門家は》として出所不明の意見を書いているが,これは要するに毎日新聞社の見解だということである.そうでない場合は,複数の識者の意見を紹介し,またコメントした人の氏名を書くのが普通である.
 それは余談として,一般に《犯罪行為を不特定多数に公開することになる。プライバシーや名誉の侵害の恐れがあり、やりすぎ》なのであろうか.
 もしその論が正当なら,週刊誌が犯罪のスクープ記事を掲載するのは「やりすぎ」ということになる.確かに,新聞社は犯罪をスクープしない (警察発表しか記事にしない) が,犯罪のスクープは「やりすぎ」だとの考えがあるのかも知れないので,一貫してはいるが.
 また最近は落ち着いているようだが,少し前に,飲食店でバイトや客が不潔な行為に及び,それを自らネットに公開する事件が多発した.その際にネットワーカーたちが,その行為をした人間を特定して顔写真や個人情報を晒すのが常であったが,あの当時,晒すことについて《犯罪行為を不特定多数に公開することになる。プライバシーや名誉の侵害の恐れがあり、やりすぎだ》と主張した新聞社があったとは,記憶にない.今回のまんだらけの件を取り上げて,急に不心得者の人権を主張するのはいかがなものか.

 ついでに書くが,自殺した理研の笹井芳樹発生・再生科学総合研究センター副センター長が残した遺書のうち,小保方研究員宛のものの詳細内容を警察がリークし,産経新聞が記事にしている.他紙も遺書の概要を掲載した.これは明らかに通信の秘密に反する行為であるが,各紙は警察のリークと,この新聞報道の犯罪性について何もコメントしていない.まんだらけが《犯罪行為を不特定多数に公開する》のはいけないが,警察が笹井氏の遺書をリークするのはよいというのか.ご都合主義もここに極まれり.
(註:《通信の秘密とは、個人間の通信(信書・電話・電子メールなど)の内容及びこれに関連した一切の事項に関して、公権力がこれを把握すること、および知り得たことを第三者に漏らすなどを禁止すること》;Wikipedia【通信の秘密】から引用)

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2014年8月 8日 (金)

ジャンクにも節度というものが

 ハンバーガーが舶来ジャンクフードの代表であるとすれば,これを迎え撃つ国産ジャンクフードは立ち食い蕎麦と牛丼であるだろう.

 吉野家が築地の個人商店から昭和四十三年にチェーン展開を開始したとき,その二号店が新橋駅前であったのはよく知られている.私は,就職した年の昭和四十七年に,会社の先輩に誘われて,この新橋店で牛丼を初めて食った.
 食ってはみたものの,あまり感心しなかった.私には立ち食い蕎麦のほうが好ましく思われ,以来牛丼屋に入ったことがない.

 私は牛丼が好きでないということもあるけれど,あれは若い人の食い物であるね.
 年を取ると昼飯なんぞは握り飯一つでいいのであり,カウンターで牛丼をかっ込む爺いの姿は精力みなぎり過ぎだと思う.実は精力みなぎり過ぎ状態であるとしても,世間体というものがあるではないか.「いやぁこの歳になりますと,いつお迎えが来るのか,そればかり考えておりましてな,ふぉっふぉっふぉっ」などと言うくらいでいいのではあるまいか.

 ちなみに各牛丼屋のメニューを調べてみると,以下の通りである.
すき家  並盛 673kcal
吉野家  並盛 702kcal
松屋   並盛 743kcal (味噌汁込み)

 特別に筋肉質で基礎代謝量の大きい老人もいないわけではないが,一般論として,基礎代謝量に見合う食事摂取エネルギーの話をするとすれば,年寄りは一日に 1500kcal でよろしい.というような観点からしても,老人は牛丼を遠ざけたほうがよい.

 老人はそれでいいとして,現役ばりばりの会社員の諸君はどうか.
 やはり牛丼離れをお勧めしたい.もっといえば,すき家離れ.
 というのは,いまが正念場だからである.

 読売新聞(Yomiuri Online 8/6 21:58) によれば,すき家を運営するゼンショーホールディングスは6日,2015年3月期の連結税引き後利益が13億円の赤字に転落する見通しだと発表した.
 その前の前月末,同社の第三者委員会は,すき家の過酷な労働環境を報告書で明らかにした.
 すき家の今回の赤字は,人材を人間として眼中に置かぬ姿勢で拡大路線を続けた異常な経営方針がほころびた結果といえる.
 これについてゼンショーホールディングスの小川賢太郎会長兼社長は会見で《「経営幹部が拡大路線の成功体験を引きずっており、意識が変わらなかった」と語った。ただ「従業員に過重な負担をかけ、経営としても遺憾」と言いながら、最後まで明確な謝罪の言葉はなかった》という.(毎日新聞 8/1 1:14)

 毎日新聞の記事にあるように,ブラック企業の経営者が,たかが13億円くらいの赤字で性根を入れ替えるとも思われぬ.すき家の過酷な労働環境を改善させるためには,もっともっと三期四期の連続で赤字に追い込む必要がある.すき家で過重労働に苦しみ,あるいは強盗のリスクに怯えながら一人深夜勤する若者たちを助けると思って,現役の会社員諸君は,もし牛丼を食うしか懐に余裕がないのであれば,すき家でなく吉牛に行ってもらいたいものである.

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2014年8月 6日 (水)

金商売 あ違う錦松梅だ

 朝日新聞DIGITAL (8/5) に《ふりかけで知る、近代の歴史「旅行の友 復刻版」》と題した記事が掲載されていた.
 この記事によると,第一次世界大戦の最中に日本軍は,広島県広島市の田中食品に,日持ちして栄養価の高い携行可能な食品の開発を要請した.これに応えて田中食品が作った製品が「旅行の友」であり,いまも「旅行の友 復刻版」が販売されているというわけだ.

 田中食品のサイトでは,会社沿革の中で次のように書いている.
1916 (大正5) 年 呉海軍御用達 海軍需要部納入
          ふりかけ「旅行の友」発売

 ところが Wikipedia【ふりかけ】には次のように記載されている.
ふりかけの起源については、美味滋養を目的として大正時代から昭和初期にかけて数ヶ所で考案されたといわれており、業界団体の全国ふりかけ協会では、熊本県で売り出された「御飯の友」という商品を、ふりかけの元祖として認定している。小魚を尻尾も内臓も問わず粉砕して、一種の栄養補助食品と成したことで軍隊でも重宝された。子供のための食べ物になったのは、戦後しばらくしてのことである。

 その熊本県の「御飯の友」についてはこう書かれている.
大正時代の初期、日本人にカルシウムが不足していた最中、熊本の薬剤師吉丸末吉が、カルシウムを補うため、魚の骨を粉にして御飯にかけて食べるという、まったく単純な発想にたどりつき「御飯の友」を開発した。その後、1934年(昭和9年)に「御飯の友」の製造販売を二葉商事(現在のフタバ)が引き継いでいる。業界団体「全国ふりかけ協会」がふりかけのルーツとして公認している商品であり、主原料がいりこであるところが一般のふりかけと異なっている。

 ついでにフタバのサイトも挙げておく.同社は「御飯の友」がふりかけの元祖であると明記している.

 さて,「ふりかけの商品名を一つ挙げてください」と言われたら,私たち爺いや婆あの九割は丸美屋の「のりたま」と答えるんではあるまいか.
 同社サイトでは以下のように素っ気なく書いてある.
昭和35年1月 「のりたま」を発売
 昭和39年2月 エイトマンシールを封入した「のりたま」「すきやき」が大ヒット

 団塊の爺い婆あが小学生の頃,一般論として,ふりかけは貧しいおかずを補完する食品だった.ふりかけだけでご飯を食べることもあった.色も地味な茶色で,ビンボーという言葉がちらりと脳裏に浮かぶ,そんなアイテムであった.
 ところが,この暗い暗いふりかけ界に突如現れて大好評を博し,ふりかけ界を明るい黄色のイメージに塗り替え,その後も長らくふりかけのドンとして君臨したのが「のりたま」だった.その「のりたま」に対して,これではあまりにも簡単に過ぎるのではないか.
 と思ったら特設ページがあった.
 これを見ると昭和三十五年の発売以来,パッケージに描かれたニワトリの絵柄は変遷を続け,現在は四年前からのもので,親鶏とヒヨコたちが,更にかわいくなっているのである.超ロングラン商品にしてなお改善を怠らぬ企業姿勢がすばらしい.どうだ.驚いたか.驚きました.感心しました.

 しかしながら,である.
 茶色なのに暗くないふりかけがある.言わずと知れた錦松梅だ.
 株式会社錦松梅のサイトに書かれているが,錦松梅の発売は昭和七年.商売の始まりは丸美屋と大差ない.なのにその価格は桁が違う.なぜか.わざわざ答えるまでもなく,要するに株式会社錦松梅は食品を販売しているのではない.高級感という空気のようなものを売っているのである.
 ざっと計算してみると,本体価格五千円 (260g) の錦松梅は,中身は千五百円以下である.つまり容器の有田焼が三千五百円以上もするのである.こんな食品は他にないと断言していい.
 その三千五百円以上もする有田焼の仕入れ価格はいくらか.これはデータがないからわからない.しかしあの,中身を食べ終わったら使い道のない陶製容器だけを何千円も出して購入する阿呆がいるとも思われぬ.その程度の品位の容器である.

 実は中元に到来した有田焼容器入りの錦松梅が私の食卓に鎮座している.あ~あ,無駄遣いってこのことだよな,袋入り本体価格五百円のものを三つ頂ければそれでいいのにと,これを贈ってくれたかたには申し訳ないが,そう思ったので以上つらつらと書いてみた次第である.

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2014年8月 5日 (火)

フラガールの風景

 昨日,関川夏央『昭和時代回想』を再読.

 まえがきにあたる「溶明する民主主義」で関川は次のように書いている.
父は母と結婚すると古い小さな家を買った。それを少し離れた自分の小さな土地に、コロを何本も差し込んで引いてきた。おかげで家はさらに古びた。納屋同然の家で台所もなかったから父が自分で台所を建て増した。裏手にゴミを埋めるための穴を深々と掘り、行水用のかこいをつくった。月に一枚ずつ畳を買った。私はその四枚めか五枚めで生まれた。

 いま五十歳以下の人たちは,これを読んでも関川が何をいっているのか理解できないかもしれない.昭和二十年代の低所得下層庶民の一般的な住宅は,現在のように土地上に設置された土台に固定されておらず,柱の下端は漬物石のような石の上に載っていた.また完全木造で,トタン屋根の家屋も多く,また瓦ぶきであっても瓦をはずせばコロで移動できるくらいに軽かったのである.
 ところが経済成長期に日本の住宅事情は急速に向上した.上水道が整備され,上に引用した関川家のような住宅は昭和三十年代には都市部では見られなくなった.

 関川と同学年である私が生まれたのは昭和二十年代の公務員宿舎 (当時は官舎といっていた) で,まさに関川家のような安普請の,しかも長屋であった.
 これがどんな家屋かというと,実物は山間の廃村にでもいかないと見られないだろうが,映画には出てくる.
 時代劇では撮影用のセットだからリアリティがないが,炭住つまり炭鉱周辺に作られた炭鉱労働者用の住宅はまだ実際に残っていて,映画『フラガール』のロケに使われた.
『フラガール』のオープニングから十五分あたりで,東京からやってきた平山まどか先生が二日酔いで目覚め,寝かされていた家の玄関を開けて外に出るシーンがある.
 そこに映っているのが炭住であるが,昭和二十年代の官舎や関川家の住宅は似たり寄ったりであっただろう.

 映画『フラガール』に描かれた時代は昭和四十年 (常磐ハワイアンセンター開業は昭和四十一年) だが,石炭産業が既に久しく斜陽であったために炭住は古びる一方であり,一般世間では少なくなっていた工法の木造家屋が依然として住居として使われていた.経済成長に置き去りにされた炭住一帯は,当時の一般世間からみると十年前の風景であり,昭和二十~三十年代の雰囲気がするのだが,これが実に平成の現在も残っているというから驚く.ロケに使われたあたりに一度出かけてみたいものだが,行くならついでにスパリゾートハワイアンズでフラガールの皆さんのダンスを見ないわけにはいかない.そんなことを思いつつ『フラガール』を再鑑賞し,挿入曲『虹を』を音源をとっかえひっかえして何度も聴いたりしたものだから,『昭和時代回想』を読むのに一日かかってしまった.

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2014年8月 2日 (土)

愉快でない啖呵売

 昨日『男はつらいよ』から第八作『寅次郎恋歌』を再鑑賞.
『男はつらいよ』全編の中からベストスリーを選べといわれたら,多くのファンは『寅次郎恋歌』をその一つに入れるだろう.
 この作品あたりから寅次郎は,それまでのフラレ役から,マドンナから思いを寄せられる人物に変貌していくのであるが,その転換点の大役を池内淳子がつとめたことに,還暦過ぎの爺たちはさもありなんと納得するのである.
 第十一作『寅次郎忘れな草』で,とらやの面々とリリーが,茶の間でこれまでの寅の恋の数々について盛り上がる.そのとき,ただ一人だけ寅次郎が遠い目をするのが,池内淳子演じた六波羅貴子であることは周知のことである.

 ただ,『寅次郎恋歌』の記念すべきマドンナを演じた池内淳子がかわいそうであったのは,脇役 (博の父親) に志村喬が配されたことであったろう.
 俳優としての格が違うとはいえ,志村喬が「安曇野の農家の庭先に竜胆が咲き,家族が夕飯を食っているのを見た」と訥々と話すシーンが『寅次郎恋歌』のハイライトになってしまったからで,これでそのあとの寅次郎と貴子が庭先で語り合うシーンがぶっ飛んでしまったのであった.

 で,ここから全く別のことに話は飛ぶ.
 物語の結末に近く,寅次郎が道端で啖呵売をしているときに「助平の始まりは小平の義雄」と定番の啖呵を語る.
 小平義雄は「小平事件」の犯人であるが,以下に Wikipedia《小平事件》 から一部抜粋する.
太平洋戦争末期から敗戦直後の東京において、言葉巧みに若い女性に食糧の提供や就職口の斡旋を持ちかけ、山林に誘い出したうえで強姦して殺害するという手口で行われた連続事件である。

 戦争中の小平の行為については小平自身の証言がある.同じく Wikipedia《小平事件》から引く.
「新評」1971年(昭和46年)1月号、予審調書:「上海事変当時、太沽では強姦のちょっとすごいことをやりました。仲間4、5人で支那人の民家へ行って父親を縛りあげて、戸棚の中へ入れちまって、姑娘を出せといって出させます。それから関係して真珠を取ってきてしまうんです。強盗強姦は日本軍隊のつきものですよ。銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で刺して子供を出したりしました。私も5、6人はやっています。わしも相当残酷なことをしたもんです。」

 寅次郎の啖呵売はシリーズの他の作品にもいくつも出てくるが,「助平の始まりは小平の義雄」は,猟奇殺人を連想させて嫌な思いがするのを禁じ得ない.

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