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2014年5月26日 (月)

人間臨終図巻「長谷川一夫」

 長年にわたって思い込んできた事柄が事実と異なっていると,大層驚くことになる.

 昨日,山田風太郎『人間臨終図巻 3』(徳間文庫版) を読了した.
 巻末は長谷川一夫である.

 長谷川一夫は,昭和五十九年二月十七日に繁夫人が肺ガンで亡くなったあと,同月二十九日の葬儀の陣頭指揮をとった.
 そして彼自身は,妻の死から二ヶ月も経たぬ四月六日に逝去した.
 当時,長谷川一夫の急逝は,最愛の妻を失った落胆によるところが大きいと語られ,私はそれをずっと信じていた.
 ところが長谷川一夫は,最愛の妻の死後にその遺言書を読み,妻に裏切られていたことを知ったのだという.
 それでは全く話が違うではないか.
 このことは,というより晩年のこと自体が Wikipedia【長谷川一夫】には記載されていない.なぜ?

 上の長谷川一夫のこととは全く違うのだけれど,驚いて二の句が継げないのは尾形乾山だ.
 Wikipedia【尾形乾山】にはこう書かれている.
享保16年(1731年)69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住んだ。元文2年(1737年)9月から初冬にかけて下野国佐野で陶芸の指導を行う。その後江戸に戻り、81歳で没した。

その後江戸に戻り、81歳で没した》がどのようなことかというと,『人間臨終図巻 4』(徳間文庫版) によると,乾山は江戸の長屋で誰一人看取る者なく寛保三年六月二日に死去したという.長屋の人々はこの老人が尾形光琳の弟にして光琳と並ぶ大芸術家であるとは知らず,葬式費用も長屋の人たちが工面した.

 日本史の教科書にその名が記されている人物にして,百科事典に《81歳で没した》とのみ書かれているという有様だが,これまで私は別段不思議には思わなかった.

 政治的な意味の「歴史認識」とは全く異なるが,日本の文化に関する私の歴史認識はこの程度なのだと愕然とした.

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