晩年いかに生くべきか
本を読んだり,音楽を聴いたり,絵を描いたりなど,頭を使うことをするとボケにくいという説がある.
また総合的に「頭を使う」という意味で,老いても漫然と家にいるのではなく,社会に出て色んな活動をするのも良いと言われる.
その一方で,クルミの実を二つ掌に握り,カリカリとこすり合わせるとボケ防止になるとの話も聞いたことがある.これは全然頭を使わないが,指を動かすのが脳に刺激を与えるから良いのだそうである.
いずれにせよ科学的な根拠のあることではなさそうだが,かといって逆効果も考えにくいことではある.
そのデンでいくと文章を書くのも効果がありそうで,私がブログに雑文をつづっているのも,ボケ防止になるかもという気がしないでもない.
ところが,である.
次の文章を読んで頂きたい.武者小路実篤が最晩年に書いたものである.
(よく知られた文であるが,ここには山田風太郎『人間臨終図巻 4』(徳間文庫版) から転記した)
僕は人間に生まれ、いろいろの生き方をしたが、皆いろいろの生き方をし、皆てんでんにこの世を生きたものだ。自分がこの世を生きたことは、人によって実にいろいろだが、人間には実にいい人、面白い人、面白くない人がいる。人間にはいろいろの人がいる。その内には実にいい人がいる。立派に生きた人、立派に生きられない人もいた。しかし人間は立派に生きた人もいるが、中々生きられない人もいた。人間は皆、立派に生きられるだけ生きたいものと思う。この世には立派に生きた人、立派に生きられなかった人がいる。皆立派に生きてもらいたい。皆立派に生きて、この世に立派に生きられる人は、立派に生きられるだけ生きてもらいたく思う。皆、人間らしく立派に生きてもらいたい。
武者小路実篤がこれを書いたと知っているからこそ胸ふたがれる思いがするが,そうでなければ「なにいってんのかわかんねーよバカヤロー」というところである.
長編をものする職業作家ですら最後はこうなってしまうのであれば,私ごときがブログに短い文章を書き殴ってみたところで,脳にいかばかりの刺激があるのか,ほとんど望みなしなのかも知れない.
そうだとすると私も次第に意味不明のことを書くようになるかもしれず,もしそうなったら「なにいってんのかわかんねーよバカヤロー」とコメントをもらっても,なぜそう言われるのか,悲しいかな理解できなくなっているだろう.
ピンピンコロリで死にたいものだと人々は言う.
まさにその通りであって,カクシャクとしていながら,ある日突然眠るように大往生というのが理想ではあるが,多少足腰に故障があったとしても,気だけは確かでいたいと誰しもが思うだろう.
しかし問題は,自分は気が確かだと思っていても他人からみると十分にボケているということが多々あることである.
つまりカクシャクとボケの境界がはっきりしないのだ.
頭のボケ具合は人によって実にいろいろだが,老人にはボケていない人,ボケてしまった人,ボケていない人がいる.老人にはいろいろの人がいる.その内には完全にボケた人がいる.ボケずに生きた人,ボケずに生きられない人もいた.しかし人間はボケずに生きた人もいるが,中々生きられない人もいた.老人は皆,ボケずに生きられるだけ生きたいものと思う.この世にはボケずに生きた人,ボケずに生きられなかった人がいる.皆ボケずに生きてもらいたい.皆ボケずに生きて,この世にボケずに生きられる人は,ボケずに生きられるだけ生きてもらいたく思う.皆,人間らしくボケずに生きてもらいたい.
なにいってんのかわかりませんか.おかしいなあ.
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