仕事の都合で東京に引っ越すまで,私は長いこと鎌倉市街に歩いていけるところに住んでいて,北鎌倉―鶴岡八幡宮―長谷―七里ヶ浜―江ノ島は散歩コースだった.
鎌倉の寺巡りもよくしたのだが,通称「ぼたもち寺」にはどういうわけか行ったことがなかった.
「ぼたもち寺」は常栄寺のことである.
鶴岡八幡宮から現在の鎌倉駅に至る一帯が,小町通りでよく知られた小町であるが,その南東の地域が大町だ.
鎌倉大町には,かつて源頼朝が桟敷をつくって由比ケ浜を遠望したという言い伝えがある.
この大町の桟敷の辺りに,桟敷の尼という老女が住んでいた.和田一族の後家であったというが,本当のところはどうかわからない.
文永八年 (1271年) 九月,念仏僧らの訴えで幕府は日蓮を捕え,大町にあった日蓮の草庵から龍口の処刑場に引っ立てて行った.
この時,日蓮の急を聞いた桟敷の尼は,最後の供養にと胡麻をつけた餅を拵え,護送されていく日蓮に差出して日蓮はこれを食べたと伝えられる.
日蓮が龍口の刑場で斬首されかかったとき,江ノ島の方角から光を発する球が飛来し,首切りの刀を持った者は倒れ,兵たちは怖れおののいて,処刑は中止となった.
これが有名な日蓮四大法難の一つ,龍口の法難である.
余談だが,昭和三十三年 (1958年),熱心な日蓮宗の信者であった大映社長永田雅一が公私混同特撮大作『日蓮と蒙古大襲来』を製作した.出演は日蓮に長谷川一夫の他,勝新太郎,淡島千景, 志村喬,市川雷蔵, 東山千栄子などの豪華俳優多数. 稀代の老け役女優浦辺粂子も出ているのが特筆される.どこが特筆なんだか知らぬが,とにかく浦辺粂子が出ている.
この時の宣伝ポスターには龍口の法難の一シーン,江ノ島からの光球から発した電撃に首切り役人が撃たれる様が描かれていた.六十年近く経った今もこんなことをよく覚えているものだと自分であきれる.
さて時代は下って慶長十一年 (1606年),桟敷の尼が住んでいた辺りに,日蓮ゆかりの妙本寺 (鎌倉市大町) 住職であった日詔が常栄寺を創建した.常栄寺の常栄は,桟敷の尼の法名「妙常日栄」から取ったものである.
そしてこの地の人々は,桟敷の尼が拵えた胡麻餅を,日蓮の斬首を防いだ「首継ぎのぼたもち」と言い伝え,常栄寺を「ぼたもち寺」と呼ぶようになった (たぶん常栄寺の寺伝にある).そして常栄寺は今も,胡麻餅を作る供養を続けている.
あー,話が長い.
要するに,普通は「ぼたもち」というと小豆餡で餅をくるんだものを思い浮かべるが,もちろん胡麻をまぶしたものも,桟敷の尼以来の「ぼたもち」だ.
和風の喫茶店なんかで「ぼたもち」を頼むと,黒文字を添えた塗の皿に載せて小豆餡,胡麻,黄粉の餅が出てくるが,あれです.
Wikipedia【ぼたもち】には「ぼたもち」と「おはぎ」の名称に関する諸説が紹介されており,また AllAbout【おはぎとぼたもち、本当の違い(執筆者:橋道裕)】は,江戸時代中期の百科事典『倭漢三才図会』(正徳二年[1712年]) に《牡丹餅および萩の花は形、色をもってこれを名づく》とあることを引っ張り出して,《ぼたもちは、牡丹の季節、春のお彼岸に食べるものの事で、あずきの粒をその季節に咲く牡丹に見立てたものなのです。一方、おはぎは、萩の季節、秋のお彼岸に食べるものの事で、あずきの粒をその季節に咲く萩にに見立てたものなのです》と述べている.
しかし,である.
どこをどう見立てれば,小豆餡の粒が牡丹の花に見えるのか教えてくれと筆者の橋道裕氏にいいたい.無理やりにも程がある.
それに,『倭漢三才図会』より遥か昔の慶長年間の人々は,桟敷の尼の胡麻餅も「ぼたもち」と呼んでいたのである.
しかも龍口の法難は秋のこと.桟敷の尼が日蓮のために作った胡麻餅を人々が「ぼたもち」と呼んだという事実は,春の彼岸の牡丹の咲く季節に作る餅だから「牡丹餅→ぼたもち」との橋道裕氏の説に反する.
これはもう橋道裕という年齢経歴身長体重不詳の人物が,『倭漢三才図会』だけを根拠にしてテキトーなことを書いているとしか思えぬ.日蓮を救った桟敷の尼の帰依信心を馬鹿にするのか君は.責任者でてきなさいっ.
というわけで,ここからが本題.
一昨日の記事「雑多感想 5/3」にこう書いた.
《しかし,実はこのサイトでは《桟敷尼はそのことを耳にし、ご供養にぼたもちを差し上げようと思い作り始めたが、間に合わず、 ありあわせの赤飯にごま塩をつけてにぎり飯を作ってなべぶたに載せて、それを大聖人に差しあげた と伝えられる》と書かれているのである.日蓮が食べたのは「きな粉と胡麻をまぶした牡丹餅」なのか「赤飯にごま塩をつけたにぎり飯」なのか.どっちなんだろう.》
この一両日で調べた結果は次のようである.
鎌倉には法源寺という寺がある.
法源寺は鎌倉市腰越 (龍口はすぐ近くだ) にある日蓮宗の寺院で,嘉元元年 (1303年) に妙音阿闍梨日行が建立したと伝える.腰越近辺ではこの寺も「ぼたもち寺」というらしい.
この寺の寺伝に曰く.
鎌倉市に源氏山という丘があり、その源氏山から和歌江浦(只今の鎌倉材木座海岸沖合にある日本最初の築港で史蹟になっております)の出船、入船を見物する人々を相手に茶店を出していた日蓮大聖人の帰依者であった老婆がありました、たまたま当小動岬の近くにある自宅に帰宅していた文永八年九月十二日、御法難にあい、竜ノ口の刑場におもむく大聖人が自宅の前を通り遊ばされたので、急ぎ差し出すにぎり飯が、つまづきころんで砂にまみれ、ごまをまぶした如くになりましたが、日蓮大聖人は老婆の心からの御供養を喜び遊ばされ、警護の武士の許しをえてこの世の最後の供養にと喜んで召し上がられました
後世に至り、当山の金子家の墓所に葬られている老婆の供養にと、毎年九月十二日に日蓮大聖人が御難を除かれ命ながらえ給いしにちなんで、『延命のぼたもち』又は『御難よけのぼたもち』とよばれて、いつしかにぎり飯がぼたもちとして皆様に差し上げる様になりました
「日蓮大聖人の帰依者であった老婆」とは誰か.
源氏山にあった茶店のお婆で,実家は小動岬にあった.その実家の菩提寺が法源寺だと伝える.
このお婆は,刑場に向かう日蓮に砂まみれの握り飯を差し出し,日蓮はそれを食べた.
大町に住む桟敷の尼は胡麻餅を日蓮に食べさせ,鎌倉山の茶店のお婆は握り飯を食べさせたわけである.
このお婆ががいつしか桟敷の尼の伝承と混同一体化して,握り飯は「ぼたもち」に変わり,法源寺も「ぼたもち寺」になってしまったのが実際のところのようである.
鎌倉観光案内のような個人サイトやブログでは,ここら辺をテキトーに書いているのが多いから注意が必要.
さらにいうと,このサイトに記載されている
《文永8(1271)年9月12日、龍口の頸の座に臨む大聖人は、市中を引き回された。桟敷尼はそのことを耳にし、ご供養にぼたもちを差し上げようと思い作り始めたが、間に合わず、ありあわせの赤飯にごま塩をつけてにぎり飯を作ってなべぶたに載せて、それを大聖人に差しあげた と伝えられる》
は,《ありあわせの赤飯にごま塩をつけてにぎり飯を作ってなべぶたに載せて》の箇所が妙に詳しいが,ネット捜索では遂に類似の記述を見つけることができなかった.これは桟敷の尼と源氏山の茶店の老女を混同しているものの一つだが,「赤飯の」握り飯ということを,一体何を根拠にして書いたのかが不明である.体裁からするとどうも何かのサブサイトのようであるが,親サイト不明の謎なサイトであるので,とりあえずこれは無視するのがよいと思われる.
また,Wikipedia【ぼたもち】に《きな粉と胡麻をまぶして牡丹餅を作り日蓮に献上したという》とあるが,資料は引用されていない.
また調べた限り,桟敷の尼と「黄粉のぼたもち」について記載した資料もネット上に見当たらない.この黄粉のぼたもちは,どこからやってきたものか.これも謎である.
さて和菓子屋さんというのは,そこら辺にたくさんあるものではない.私たちが草餅や柏餅を買うとしたら,スーパーが多いだろう.
スーパーで販売されている,和菓子をパックに二つ三つ包装した形態では,「ぼたもち」よりも最近は「おはぎ」と呼ばれていることが多いようだ.
桟敷の尼の故事からすると,昔は一年中「ぼたもち」と呼んでいたものが,やがて春には「牡丹餅」,秋には「萩の花」(女房言葉で「おはぎ」) と呼び分ける (『倭漢三才図会』) ようになり,それがまた近年では,年中「おはぎ」で通すようになったようである.これは関東での一般的な話であって,各地方にはその地方の呼び名の変遷があるだろうが.
それでは,「牡丹餅」という呼び名ができる以前にあった「ぼたもち」の「ぼた」とはなんだろうか.
鎌倉時代の食生活を調べるなんていう仕事は,まずは資料の発掘からせねばならぬと思われ,これはよほどの時間と気力がないと大変だ.女子大の生活科学科あたりの先生がやってくれないものだろうか.
昭和三十年代,私の母親は餅をついて小豆の粒餡でくるみ,これを春でも秋でも「おはぎ」と呼んでいた.
なぜ粒餡かというと,漉し餡は作るのに一手間余計にかかるからである.つまり手抜きであるが,庶民の拵える食い物はそんないい加減なところがあり,Wikipedia【ぼたもち】に書かれている「ぼたもち」と「おはぎ」の名称混乱は,手抜きのことも一要素ではないかと私は思っている.
全く無関係の話だが,記事のタイトルを「古都鎌倉 ぼたもち寺の謎」とすると,なんだか山村美紗風ではありますまいか.違いますか.そうですね.
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