蘇州夜曲
『蘇州夜曲』という古い歌がある.
西條八十作詞にして服部良一の作曲.
歌うはいわずと知れた李香蘭で,彼女が主演の映画『支那の夜』(1940年公開) の劇中歌であった.
以来,映画公開直後に渡辺はま子と霧島昇の歌唱でレコードが発売されたのをはじめとして,数々の歌手がカバーしてきたことで知られる.
知られる,というのは嘘で,李香蘭とはいかなる女性であったかを知っているのは私のような年寄りだけであろう.
この『蘇州夜曲』はなかなか難しい歌で,ただ歌うだけなら私にも歌える.
では,ただ歌うだけではない『蘇州夜曲』の歌唱とはどのようなものか.
昭和歌謡史に興味ある向きは Wikipedia【1940年】をご覧あれ.
1月16日 米内内閣成立
2月2日 斎藤隆夫の反軍演説
3月7日 戦争政策批判により衆議院が民政党斎藤隆夫を除名処分
3月30日 汪兆銘、南京で親日政府樹立
4月10日 米穀強制出荷命令発動
5月18日 日本軍,重慶を大空襲
6月24日 近衛文麿が枢密院議長を辞任し新体制運動推進を決意表明
7月16日 米内内閣総辞職
8月15日 立憲民政党の解散により議会制民主主義が実質上停止
9月27日 日独伊三国軍事同盟成立
10月12日 大政翼賛会発会式
11月13日 御前会議で日華基本条約および支那事変処理要項を決定
『蘇州夜曲』は,ざっとこのような情勢下で撮影された恋愛娯楽映画『支那の夜』の劇中歌なのである.
歌う時には頭の中に,中国ではなく,かの大陸に悠久の「支那」がイメージされていなければならぬ.
「支那そば」ではだめなのである.意味不明ですか.そうですか.
とにかく,美空ひばりの才をもってしても『蘇州夜曲』は歌えず,『ひばりの蘇州夜曲』になってしまった.
あの白鳥英美子も夏川りみも,全く力及ばなかった.
白鳥英美子さんは私と同年同月の生まれだから,昭和十二年の盧溝橋事件に始まる日中戦争の歴史知識はあるだろうし,父母の世代から戦前の話を聞いているかも知れない.
しかしそれでもなお,彼女の歌唱から立ち香るのは,いまの私たちが観光にも行ける蘇州であって,戦前の支那の蘇州ではない.
「歌は世につれ」というが,まことに流行り歌というのは難しい.
(なお,この文章では「支那」が差別語であるという議論は横に置く.蘇州夜曲に歌われた蘇州とは,中華民国の蘇州でもなく中華人民共和国の蘇州でもない.それより遥か昔からある美しい街のことだからである.しかしながら「支那」が,日本人が中国人に対していわれなき差別感情を抱いていた,その時代の日本語であることに全く異論はない.時代の子である流行り歌のカバーが難しいのは,まさにその点なのである)
アン・サリーのカバーに至っては無残としかいいようのない出来で,「歌詞をなぞって歌えばいいってもんじゃないぞっ」と私はCDをゴミ箱に捨てた (うそ).
というわけで,『蘇州夜曲』は李香蘭のみ聴くに価する.
アルバムとしては『決定盤 李香蘭(山口淑子)大全集』が,『夜来香』なども入って,われら年金生活者の静かな夜のひと時にお勧めの一枚である.
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