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2014年4月27日 (日)

愛國の花 (二)

[二]
 前節で述べた JOBKによる「家庭で歌われる歌謡曲」誕生の背景には,渡辺はま子のことがある.
 渡辺はま子は昭和八年に武蔵野音楽学校を卒業し,横浜高等女学校の音楽教師となったが,同年十二月にビクターから『海鳴る空』でレコードデビューした.
 昭和十年の秋には教職を辞し,ビクターの流行歌手に専念することとなった.
 その翌年,『忘れちゃいやヨ』がヒットしたが,これが物議を醸した.

 Wikipedia【渡辺はま子】から以下《》に引用する.
1936年(昭和11年)、「忘れちゃいやヨ」をレコーディング。(中略) ヒットの兆しが見えた発売から3ヵ月後、政府の内務省から『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』とステージでの上演禁止とレコードの発売を禁止する統制指令が下る。
ヒットを惜しんだビクターは、改訂版として「月が鏡であったなら」とタイトルを変更し歌詞の一部分を削除してレコードを発売、大人気を得る。しかし、このヒットによりこの種の曲『ネエ小唄』ブームが起こり、「ああそれなのに」「ふんなのないわ」「憎いわね」などの類似曲を続々と生み出す結果となる。この状況を憂えた軍部が主導になり、日本における流行歌を浄化する目的として「国民歌謡」を誕生させるキッカケとなる。

 当時録音された『忘れちゃいやヨ』をCDで聴いてみると,SPレコード時代の録音の周波数帯域 (50Hz - 8kHz 程度) とダイナミックレンジの狭さを割り引いても,渡辺の歌唱は,お世辞にもうまいとはいいがたい.
 内務省の《あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる》との評言は,いったい渡辺のどこをみていたのであろうか.いくら戦前の人々でも,これでエロを満喫できるとは,とても思えない.

 昭和十二年四月,コロムビアに移籍し,その年に始まる流行歌統制下の国民歌謡『愛国の花』が,コロムビア移籍後のヒット曲第一号となった.盧溝橋事件の勃発は,三ヶ月後の年の七月七日である.

『愛国の花』大ヒットの理由は,おそらくこの『愛国の花』が,渡辺のキャラクター (音大卒の音楽教師) に合っていたからであろう.渡辺の『愛国の花』は,『忘れちゃいやヨ』と同じ歌手とは思えない歌いぶりなのであった.(戦後,『愛国の花』をカバーした歌手は多いが,渡辺はま子と同じような歌い方をする歌手はいなかった.それについては後述する)
 そしてこれ以後,渡辺の歌唱は,スターと呼ぶにふさわしいものとなっていった.今も入手可能なディスクで彼女の『ブンガワン・ソロ』以降の,戦後のヒット曲を聴かれたい.

 戦時中に渡辺はま子は戦地慰問を積極的に行い,同時に『支那の夜』『何日君再来』をヒットさせ,チャイナ・メロディーの女王と呼ばれて大衆の支持を得た.
『支那の夜』は,昭和十三年から十四年にかけての渡辺のヒット曲であるが,昭和十五年に満洲映画協会の看板女優である李香蘭の『大陸三部作』(『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』) の二作目の劇中歌に使われたものである.
 映画『支那の夜』の劇中歌『蘇州夜曲』も李香蘭と渡辺はま子両者の持ち歌として大ヒットとなった.
 昭和二十六年の第一回紅白歌合戦では紅組のトリを務めるなどして活躍,昭和四十八年に紫綬褒章を受章した.渡辺は特別出演も含めてNHK紅白歌合戦に計九回出場している.
 平成十一年没.享年八十九であった.

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愛國の花 (一)

[ 追記 ]
0426hamako

 渡辺はま子については,これがお勧めのアルバム.二枚組のディスク1には戦時中の音源が入っているが,SPレコードのスクラッチノイズは収録に際して処理されているようである.
 ディスク2は昭和二十年代のヒット曲を収録しているが,円熟期の歌唱も混在.聴くと戦後の録音の音質向上に驚く.

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