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2014年4月28日 (月)

甘い赤飯のルーツ

 日経新聞社のサイトのコンテンツ『列島あちこち 食べるぞ!B級ご当地グルメ 第174回』を閲覧していたら,おもしろい投稿が掲載されていた.

 北海道や青森と,山梨県には甘納豆を赤飯に入れる風習があるのはよく知られている.
 このうち北海道の甘い赤飯は,1948年に創立された光塩学園女子短期大学 (札幌) 初代学長であった南部明子氏が全道に広めたものである.(このエピソードを全国に紹介したのは,現在のB級グルメブームを起こした日経新聞特別編集委員の野瀬泰申氏である)

 青森と山梨に甘い赤飯があることについては,話は鎌倉時代に遡る.

Wikipedia【南部光行】
治承4年(1180年)、石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。このときに南部姓を称したという。文治5年(1189年)、奥州合戦で戦功を挙げ陸奥国糠部郡などを与えられ、現在の青森県八戸市に上陸し、現在の同県三戸郡南部町相内地区に宿をとり、その後、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いたという

Wikipedia【南部氏】
鎌倉・南北朝時代前期まで
源義光の玄孫の光行は甲斐国南部の河内地方にあたる巨摩郡南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に住んでいたことから南部氏と称したが、平安時代末期の奥州合戦の頃に奥州糠部(現在の青森県から岩手県にかけての地域)の地に土着したという。また『奥南旧指録』によれば、承久元年(1219年)の暮れに南部光行が家族と家臣を連れて由比ヶ浜から出航し、糠部に至ったという。

 南部地方というと普通は青森県東半分と岩手・秋田にまたがる地方を指すが,この陸奥国南部は,鎌倉時代に甲斐南部氏の領地となってから南部と呼ばれるようになった.
 つまり甘い赤飯は,鎌倉時代に甲斐の国から陸奥に持ち込まれたものというわけである.

 冒頭の『食べるぞ!B級ご当地グルメ』の投稿は,北海道に甘い赤飯を広めた南部明子氏の姓が「南部」であることから,北海道の甘い赤飯のルーツも山梨 (甲斐国南部) にあるのではないかと示唆している.
 甲斐国南部と陸奥国南部の甘い赤飯と,南部明子氏を結ぶ「南部」には,野瀬氏もうっかりしていたようで,連載第174回の中で《北海道、青森、秋田の甘い赤飯については「食べ物 新日本奇行」で調べ、その後、新潮文庫「天ぷらにソースをかけますか?」で展開したので、ご存じの方も多かろう。しかしその源流が山梨にあったとすると、ちょっと興奮。
と書いている.

 野瀬氏が南部明子氏の家系を問い合わせするなどして,もしも南部明子氏が甲斐南部氏あるいは陸奥南部氏の流れだと判明したりすると,まるでミステリーの謎解きのようで,とてもおもしろい話である.

 ちなみに,Wikipedia【甘納豆】には
北海道の道央圏や山梨県には、甘納豆を赤飯に入れる風習がある。室町時代に甲斐国(山梨県)南部の人たちが移住した青森県の一部でもこの風習が残っている。 北海道・石川県には、甘納豆を用いた豆パン・北海道北見地方では、甘納豆にハッカをまぶした銘菓もある。 登山家の加藤文太郎は甘納豆を行動食として利用しており、厳冬期の山中では湯に入れ汁粉のようにして食べていた。
とあるが,《室町時代に甲斐国(山梨県)南部の人たちが移住した青森県の一部でもこの風習が残っている》は明らかな誤り.Wikipedia【南部光行】【南部氏】にあるように鎌倉時代のことである.

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