恥ずかしながら生き永らえて 再掲
フィリピン・ルバング島で,戦後も三十年のあいだ残置諜者としての任務を完遂した元陸軍少尉,小野田寛郎さんが一昨日十六日の午後,肺炎のため都内の病院で亡くなった.
若い人は知るまいが,小野田元少尉の帰還 (昭和四十九年) の二年前には,横井庄一元伍長がグアム島から復員した.二人とも,帰国は二月の真冬であった.
この二人のことについてもう十年以上前に,閉館した私の個人サイトに書いた文章がある.ブログに再掲載しておきたい.(ただし数字表記の不統一を修正した)
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2002年1月26日
恥ずかしながら生き永らえて
将棋に先崎学という強い八段がいる.1970年生まれだから私よりも二十歳若い.この人がなかなか文章を能くし,今だと週刊文春に連載エッセイの頁を持っている.
一昨日から昨日にかけて私は岐阜・愛知を一泊で回ったのだが,移動の折に週刊文春を買って,その先崎八段の『昭和は遠くなりにけり』というエッセイを読んだら,こんな事が書いてあった.
ある日,彼は (たぶん立ち上がろうとした時に) 思わず「よっこいしょーいち」と口にしてしまった.日頃このテのおやじギャグを馬鹿にしていた彼は,内心 (しまった) と思って周囲にいた二十代前半の若者達の顔を見たのだが,どうも反応がおかしい.ここで八段は気が付いて驚いた.この連中はあの横井庄一さんを知らないのだと.
今週月曜日の日経新聞の小さいコラムに,元日本兵横井庄一氏がグアム島で発見されたのが昭和四十七年(1972年)の一月二十四日であったことが出ていて,ああそうだったな,と私は思いだしていた.先崎八段の頭の片隅にも横井氏がジャングルから出てきたのが一月の事だったという記憶があって,それであの「よっこいしょーいち」になってしまったのだろう.
もちろん彼は昭和四十五年生まれだから直接覚えているわけではなく常識として知っていたのだが,眼前にそれがもはや常識ではなくなった世代の人達を見て驚いたのだ.
日本の敗戦後もグァム島のジャングルで二十七年間耐乏生活を続けていた横井庄一伍長が発見され,二月二日に帰国して羽田東急ホテルでの記者会見で発した第一声は「私,横井庄一,恥ずかしながら生き永らえて帰ってきました.艱難辛苦して耐えてきました」だった.
(2014/1/18再掲載時の註;Wikipedia【横井庄一】には帰国第一声は「恥ずかしいけれど帰ってきました」であったとあるが,報道を聴いた私の記憶にあるのは上に書いた通りである.「艱難辛苦して耐えてきました」を覚えている人も多いだろう)
(2021/11/7の註;「恥ずかしいけれど帰ってきました」は,帰国時に搭乗した飛行機のタラップを降りたあと,出迎えた斎藤邦吉厚生大臣に対して述べた言葉である.これが厳密な意味での帰国第一声であり,Wikipedia記載の通りである)
「恥ずかしながら」は一時流行語のようになったのを思い出す.
横井伍長は敗戦を知っていたが,日本兵として「生きて虜囚の辱めを受けず」と骨の随まで叩き込まれていた彼は,捕まったら殺されるかと思い怖くて出て来れなかった,と後に語った.
その二年後の昭和四十九年(1974年)二月二十七日,新聞各紙朝刊の一面トップは冒険家の鈴木紀夫氏によって小野田寛郎元少尉がフイリピンのルバング島で発見されたという記事であった.小野田少尉は日本軍がルバング島を撤退した時に「残置諜者」として,島田伍長,小塚上等兵,赤津一等兵と共に島に残された.陸軍中野学校出身の諜報員であった小野田少尉は,任務解除の命令があるまで敵地に潜伏し情報収集活動すべしという使命を持っていた.
旧日本陸軍将校たる小野田少尉はこの使命を貫徹し,二十九年間をジャングルで生きた.
1949年,赤津一等兵が投降.1954年,残りの三人は地元の軍隊と武力衝突し,この時,島田伍長が戦死した.時は流れて,1972年に再び地元民と戦闘が起きて小塚上等兵が戦死,小野田少尉は一人となった.
鈴木紀夫氏はルバング島のジャングルで1974年2月20日に偶然小野田少尉と遭遇し,彼に戦争が終わったことを語り日本に帰ろうと説得した.しかし小野田少尉は残置諜者として残れという命令が解除されない限り帰るわけにはいかないと言った.
鈴木氏からの連絡で,小野田少尉の元上官・谷口義美少佐が急遽ルバング島に赴き,小野田少尉に面会して残置命令の解除を伝え,任務遂行の労をねぎらった.
報道陣の前に現れた小野田少尉は,つぎを当て洗いざらした軍服を着用して腰に軍刀を吊っており,姿勢正しく挙手の礼をとった.
翌日にはルバング島からマニラに行き,マラカニアン宮殿で当時のマルコス大統領に腰の指揮刀を渡し,小野田少尉の戦争は終わった.
彼の帰国後,日本政府は慰労金として百万円を渡そうとしたが,小野田氏はこれを拒否した.そして天皇や首相との会見も断って,戦闘で亡くなった部下,島田伍長と小塚上等兵の墓参りに行った.
横井庄一氏が復員した1972年7月,田中角栄が自民党総裁選で福田赳夫を破って田中内閣を成立させ,ここに怒濤のごとき『日本列島改造』が始まった.
小野田氏が帰国した年,1974年7月の参院選は空前の「金権選挙」と指弾されたが,収賄宰相田中角栄の号令のもと,もはや我が国民が染まった拝金傾向を止めるものはなく,そのままバブル経済への道を突進して行った.
しかし1989年末を頂点として株価の低落が始まり,地価は1991年以降,大都市圏から大きく下落に転じた.1985年に病に倒れるまで権勢を誇った『闇将軍』田中角栄は,バブル経済の崩壊を見届けるようにして1993年12月に死去した.
1997年9月22日,横井庄一氏は急性心筋梗塞のため八十二歳で亡くなった.その死の直前,雑誌のインタビューに答えて「帰ってくるんじゃなかった.贅沢に慣れすぎた日本人,どこか間違っとりゃせんか」と嘆いたという.
襤縷をまとって現れた横井氏も,政府の慰労金を拒絶して部下の墓参りに行った小野田氏も,この国の転換点において「それで本当にいいのか」と,過去から届けられた贈り物であったように思う.
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横井元伍長の「艱難辛苦して耐えてきました」と,報道陣を前にした小野田元少尉の挙手の礼と.二人の帰還のときのことを思い出すと,私は鼻の奥につんと熱いものを感じるのである.
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