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2013年12月21日 (土)

マウスの恐怖は遺伝する

 今月の初めに,朝日新聞DIGITAL (12月4日) に《恐怖の記憶、精子で子孫に「継承」》という見出しの記事が掲載された.米国の研究チームが科学誌ネイチャー・ニューロサイエンス電子版に発表した論文の紹介記事である.
 この短い記事を読んだ多くの理系爺さん婆さん父さん母さんは「あっ」と驚いたであろう.(最先端を勉強している若者達は驚かないだろうが)
 以下,その論文の概要をわかりやすく箇条書きにしてみる.

(1) オスのマウスにアセトフェノンの匂いをかがせる.アセトフェノンは,サクラの花びらの香気成分である.
(2) アセトフェノンをかがせた直後,マウスの脚に電気ショックを与える.
(3) この訓練を繰り返すと,マウスはアセトフェノンの匂いをかぐと電気ショックが与えられることを学習し,アセトフェノンの匂いを恐れるようになる.いわゆる条件反射であり,獲得形質である.
(4) このマウスをメスとつがいにして,生まれた子どもに様々な匂いをかがせたところ,父親が恐怖を感じたアセトフェノンの匂いのときだけ強くおびえるしぐさをみせた.孫の世代でも同様であった.
(5) 父マウスと子孫の精子のDNAを調べると,嗅覚を制御する遺伝子に変化が認められ,子孫マウスの脳の嗅覚神経細胞の集まりが大きく発達していた.

 上の概要を読めば,朝日新聞の記事を読み落としていた全国の理系爺さん婆さん父さん母さんは「あっ」と驚くのではないか.ずばり言えばこの実験は「獲得形質は遺伝する」ことを示しているからである.

 獲得形質は遺伝する.これを聞くと,理系文系を問わず,爺さん婆さんの中にはスターリンとルイセンコを連想する人がいるだろう.
 我ら爺さん婆さん達が生まれたばかりの戦後,主として平野謙vs中野重治・宮本顕治らという「どっちもどっち」な人々による,いわゆる「政治と文学」論争があった.これと同様な趣旨で,私のような理系学生には「政治と科学」という関心事があった.そして学生達が「政治と科学」について言い争うときに必ずでてくるのがルイセンコだった.
 ルイセンコその学説についての詳細は,ここで紹介するには膨大なので Wikipedia に譲る.またラマルキズム(用不用説)も忘れちゃった人は Wikipedia を参照して欲しい.
 ともあれ,ルイセンコの名はスターリンとワンセットであり,ラマルキズムを極端に政治化したルイセンコの学説は,努力すれば (その結果である獲得形質は) 必ず報われる (遺伝する) という共産主義国家のスローガンとして都合のよい理論であり,スターリンが強く支持したのであった.そしてたくさんの学者や農民がその犠牲となった.
 中国でも毛沢東が大躍進政策の中でルイセンコの学説を採用して,その結果,多くの餓死者を出した.
 我が国では,ルイセンコ学説に基づくヤロビ農法を日本共産党や日本社会党が支持した.
 北朝鮮では金日成・金正日親子によってルイセンコ学説を利用した主体農法が実施されたが,これは1990年代から今に続く食糧不足につながる大失敗であった.ルイセンコ学説なかりせば,今の北朝鮮国民の悲惨はなかったかも知れない.(いわば,対空機関銃弾90発で張氏を肉の破片にした金正恩は,ルイセンコ学説の直系子孫なのである)

 このような忌まわしい事情があるために,「獲得形質は遺伝する」は二十世紀におけるタブーとなった.
 ところが今世紀に入ったころから,一見するとラマルキズムに似た学説が進展しつつある.
 どういうことかというと,Wikipedia【ネオ・ラマルキズム】にこう書かれている.
《2000年ごろまでの分子遺伝学では、専ら「遺伝における情報の流れはDNAを翻訳して形質が発現する」とされ、「一方通行である」とされていた。この説、仮説を「セントラルドグマ」という。この仮説の枠内においては「個体が獲得した形質がDNAに情報として書き戻されることはあり得ない」とされる。つまり「獲得形質の遺伝は認められない」とする。この仮説は原則的には現在も広く認められているところである。》
《ただし、この説は、すでに若干の例外となる現象、すなわち細胞レベルでの「遺伝子の後天的修飾」が知られるようにはなってきており、セントラルドグマが過大視されすぎたとして、それを修正するための研究が進行中である。このような研究は「エピジェネティックス」と呼ばれており、各国で盛んに研究が行われており、後天的修飾の起きる範囲は一体どの程度なのか(どの程度にとどまるのか)、その仕組みはどうなっているのか、といったことが日々解き明かされようとしてはいる。》

 実は先週,週刊文春の連載コラム『福岡ハカセのマンハッタンマトリクス』で,福岡伸一先生が,上に書いたマウスにアセトフェノンの匂いをかがせる実験を取り上げていた.
 コラムの末尾に《この発見のインパクトは強力で、たとえば iPS 細胞の安全性を考えるうえでも重要なので、さらに詳しく論じてみたい。つづく。》とあって,来週は福岡先生の解説が読める.来週号が待たれる.

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