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2013年12月25日 (水)

上州名物片原饅頭

 昨日の記事で触れた前橋市紅雲町の龍海院には,上野厩橋藩第四代藩主,酒井雅楽頭忠清の墓がある.
 酒井忠清は三河以来の譜代名門酒井氏の嫡流で,江戸幕府老中を勤め,第四代将軍徳川家綱の治世期に大老となった.
 将軍家綱を補佐して,伊達騒動などのお家騒動の裁定に関わったことで知られるが,延宝八年に家綱が死去して家綱の異母弟綱吉が将軍となるや大老職を解任された.
 酒井家の上屋敷は江戸城大手門下馬札付近にあり,下馬札より内側へは徒歩で渡る下馬の礼を取らなければならないことから,酒井雅楽頭の権勢を比喩して,忠清は下馬将軍と呼ばれたという.

 さて前橋市に「下馬将軍」という忠清の通称を冠した銘菓がある.製造元は明治十五年 (1882年) 創業の新妻屋という菓子司である.
 私が中学生の時に読売新聞に連載された記事で,全国の菓子を紹介する趣旨の囲み記事があった.その記事に「下馬将軍」は群馬からただ一つ掲載された.
 この連載記事は,のちに読売新聞社から一冊にまとめて出版され,確か『和菓子風土記』といった.記憶を確かめようと古本を探したが,残念ながらみつからなかった.(現在入手できる同名の書籍があるが,著者も出版社も異なる)
 これには各県の有名な菓子が掲載されていて,例えば言問団子や羽二重餅,日本三大銘菓の一つ「長生殿」などが載っていたと記憶している.
 つまり,かの有名な「長生殿」を「下馬将軍」と同列にしてはいけないが,県外の人からみれば昭和三十年代においては「下馬将軍」が上州を代表する菓子だとされたわけである.

 ところが,県外ではほとんど無名でありながら,「下馬将軍」よりも群馬県人にはよく知られ,好まれた菓子があった.前橋市内中心部に店を開いていた片原饅頭志満屋本店の「片原饅頭」である.
 志満屋の創業は天保三年 (1832年) らしく,これは上記の新妻屋より五十年も古い.さらに「下馬将軍」は新妻屋三代目の考案だというから,これはもう「下馬将軍」は「片原饅頭」とは比較にならないくらい最近できた菓子だということになる.
 そういうわけで前橋市民にとっては,前橋を代表する菓子といえば「片原饅頭」だったのである.
 それに,私が大学に入って上京する前の「片原饅頭」が一個いくらであったか覚えていないが,客は十個とか二十個を買い求めるという,いたって庶民的な饅頭であった.
 ところがこの志満屋本店は平成八年に閉店し,百六十四年続いた歴史に幕を下ろしてしまった.後継者がいなかったとされている.
 後継者がいなかった,ということについて地元の人があれこれと書いているブログがあるが,店の事情を詮索するのは失礼だからここには書かない.
 昨日,水沢うどんの元祖とされる清水屋は,うどん打ちの技を一子相伝にしている (店主が新聞のインタビューにそう答えて公表している) と書いたが,一子相伝にはそういうリスクがあるということである.

 ところがこの「片原饅頭」の歴史が途絶えたのをたいそう惜しんだ人物がいた.
 元競輪選手で,中野浩一が競輪界を制覇するほんの少し前が全盛期だった福島正幸である.
 前橋市出身である福島氏は「片原饅頭」の復元を決意し,酒饅頭作りの技術習得を基礎から始めて,試行錯誤を何年も繰り返したという.そのあたりのことは「群馬よもやま話」というサイトでも紹介され,地元ではよく知られている.
 ともあれ「片原饅頭」は復元され,今は商品名を「片原饅頭復元」という.
 復元のでき具合について,いやちょっと違うとかなんとか評論する人もいるが,それは「片原饅頭」がどれほど愛された菓子だったかということの裏返しで,気にすることではなかろう.

 実はこの暮れに,通販で「片原饅頭復元」を取り寄せようと思っていた.水沢うどんと同じく,娘と娘の亭主に食わせようとの算段である.
 ところが,つい最近まで取り扱っていた高島屋オンラインストアのサイトを探しても,定番から下ろされてしまったようで,見当たらない.何か事情が生じたのだろうか.帰省した折に地元の人に聞いてみなければ.

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