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2013年12月12日 (木)

「和食」とはなにか その三

 12月9日に書いた記事の続き.
 農水省のサイトに掲載されている『和食ガイドブック』について,少々長いが、突っ込みどころを以下に引用しながら補足しておく.《》は同ガイドブックからの引用である.

 

《「和食」には、おかずと汁と漬物でご飯を食べる「一汁三菜」という基本的な組み合わせがある。これは主食であるご飯をおいしく食べるために工夫された様式だ。またこれは、ご飯とおかずを合わせて食べて、味わうという特徴を生み出した。「和食」は、このかたちをベースにしながら継承されてきた》

 

 『和食ガイドブック』の最大の問題は,同ガイドブックが「和食」について論じる際,上の記述のように「いつの時代の」「どの階層の人々」の食事に関することかを明示せずに書かれている点である.ある時は富裕層の食事について述べ,またある時は一般庶民の食事について書き,さらには時代による変化も無視して論じている.農水省のいうところの「和食」は,鎌倉時代に成立してから今日に至るまで,上から下まで皆同じような食事をであったかのように読み取れる.ガイドブックは論文ではないから根拠とする資料を示せとまではいわないが,それならそれでガイドブック本文を読めばわかるように書くのがあたりまえであろう.

 

《日常の食事である一汁三菜に対して、江戸時代によく登場するのは二汁五菜。つまり汁が二種に菜が5つ。これが昔のおもてなし料理の基本で、お膳もふたつ出た。いいかえると一汁三菜はひとつのお膳に載る、ふだんの家庭の食事であることがわかる。》
《一汁三菜という和食の基本型がなくなったら、外国の料理と変わらなくなってしまうだろう。》

 

 これについては Wikipedia 【一汁一菜】が妥当な見解を示している.『和食ガイドブック』は「一汁三菜はふだんの家庭の食事である」としているが,実は Wikipedia 【一汁一菜】にあるように,武士でも庶民でも日常の食事は一汁一菜,またはそれどころか飯・汁・漬物が普通の構成だった.一汁三菜はハレの日の食事だったのである.『和食ガイドブック』が何を根拠に「江戸時代は一汁三菜がふだんの家庭の食事であった」としているのか理解に苦しむ.
 元国会図書館専門調査員・渡辺善次郎氏 (現在都市農村関係史研究所主宰)(*) が書かれたものによれば,飯と汁と菜の三要素からなる「和食」という食事が成立したのは江戸時代の中頃であり,武士でも町民でも一汁一菜であった.それ以前はというと,雑穀に野菜を入れて煮た雑炊を一日二回食べていた (石田三成の家来の娘が書き残した資料による).日常食には「菜」という概念がなかったのである.『和食ガイドブック』は,実際にはハレの食事であった一汁三菜を,無理矢理に日常食だと言い張っているのである.
  (*) 主著:『聞き書・東京の食事』『巨大都市江戸が和食をつくった』『近代日本都市近郊農業史』

 

《一汁三菜の献立の最大の特徴は、汁も香の物も菜も、すべてご飯を食べるために存在するという点かもしれない。ご飯が主食で、その他の3つの要素が副食という考えが一汁三菜の根底にある。少ない菜でたくさんのご飯を食べ、ご飯の量でカロリーの摂取量を調整するのが、かつての和食の基本的な食べ方だったのだ。》
《米、麦、雑穀などを炊いたご飯を主食として、これに魚介・肉類、野菜類に発酵調味料、だしを組み合わせた和食は、栄養学的にみてもバランスをとりやすい食事である。歴史的にみると、日常食では主食を大量に摂る習慣が続いた穀類偏重の食生活だったといえよう。》

 

《和食は、栄養学的にみてもバランスをとりやすい食事である》と書きながら,歴史的に日本人の食事は栄養バランスのとれない穀類偏重の食生活だったと自ら書いている.こうなるともう支離滅裂と言うしかない.飯に魚介や肉類と野菜を組み合わせた一汁三菜が日常の食事だったとすれば,歴史的に穀類偏重の食事が行われてきたはずがないではないか.この引用箇所を日本語として意味が通るようにするには「和食は,栄養学的にみればバランスをとりやすい食事の形式ではあるが,実際には,歴史的にみると、日常食では主食を大量に摂る習慣が続いた穀類偏重の食生活だったといえよう」と書かねばならない.

 

《1980年頃までは、多くの家庭で和食の基本型が続いた。主食の量がやや減り、副食が増加、とくに乳・乳製品、肉類の割合が増加した。この頃、栄養バランスをはかる一つの指標であるPFCバランスが理想的な比率を示した(左記参照)。しかし、その後、外食の日常化、家庭料理の欧米化が進み、米の摂取量が激減し、脂質摂取の過多などから、生活習慣病が問題となった。》

 

 『和食ガイドブック』作成者の「和食」賞賛の意図に反して,ここで書かれているように,1980年頃から外食の日常化と家庭料理の欧米化,すなわち「和食」離れが進行していく過程でようやく,一定の期間のことではあるが,日本人の食生活において理想的な栄養バランスが達成されたのであった.そしてそれは,『和食ガイドブック』が「和食の基本形」としている一汁三菜という形式によってではなく,食事内容の変化つまり《乳・乳製品、肉類の割合が増加した》ことによる.富裕層以外の国民にとって「和食の基本形」は《穀類偏重の食生活》であり,貧相な体格と短寿命の原因であったのである.
(続く かも知れない)

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