前の記事で述べた『和食ガイドブック』が「和食」の例としている新潟県三条市の給食献立例を以下に示す.
[月曜日]
・ごはん
・いかのかりんあげ
・なっとうあえ
・きのこけんちんじる
・のむヨーグルト
(小学校619kcal/中学校731kcal)
[火曜日]
・えだまめごはん
・さけチーズフライ
・くきわかめきんぴら
・かきたまじる
・牛乳
(小学校687kcal/中学校823kcal)
[水曜日]
・ごはん
・とりにくのぴりからやき
・いかときゅうりのあえもの
・しょうがみそスープ
・牛乳
(小学校639kcal/中学校752kcal)
[木曜日]
・ごはん
・さんまうめに
・たくあんあえ
・にくじゃがに
・牛乳
・なし
(小学校688kcal/中学校814kcal)
[金曜日]
・ごはん
・カレーふりかけ
・ほうれんそうオムレツ
・フレンチサラダ
・パンプキンスープ
・牛乳
(小学校708kcal/中学校833kcal)
『和食ガイドブック』はこれを牽強付会に「和食」であると言い張っているが,和洋中華折衷の,なかなか美味しそうな献立である.一汁二菜に乳製品が付いて,ちょっと野菜が少ないような気もするが,栄養的にもまずまずであろう.
昭和三十年代,私が小学生のときの給食は,コッペパンと脱脂粉乳を溶いたミルクと,おかずが一品だった.おかずは取り立てていうほどのものではなかったと思うが,その中で記憶にあるのは,鯨の大和煮とか竹輪の磯辺揚げ,塩味のシチューくらいのものだ.
それでも戦後すぐの時代に比べれば大したもので,今はネット上から資料が消えてしまったが,神奈川県のある小学校で,ララ物資による最初の給食は,わずかな豚の脂身が浮いているスープだけであったという.この給食を食べた児童の感想文も掲載されていたのだが,私のスクラップブックの事故 (HDD のクラッシュ) で失われてしまったのが残念だ.ある児童は,その具なしのスープを家に持って帰り,妹に飲ませてあげたいと書いていて,私は涙なくして読めなかった.
スープだけの給食から,パンとミルクとおかずの給食になるまではそう時間がかからなかった.当時の日本の児童達は,ララと,その後を引き継いだユニセフのおかげで,成長期の低栄養から幾分なりとも救われたのであった.
しかし私よりも年下の世代の中に,海外からの援助物資であった給食のミルク (脱脂粉乳) を,米国の穀物戦略に基づく陰謀であるとか悪し様にけなす風潮が現れ,これには腹立たしい思いを禁じ得なかった.その思いから書いた記事を以下に再掲する.
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2001年12月22日
僕達の脱脂粉乳
昨日の毎日新聞に「学校給食:大阪府の中学校で5年間にわたり基準下回る」という記事があった.文部科学省の基準では中学生の1食当たりの摂取基準は820kcalであるが,大阪府四条畷市の中学4校で今年の4月~12月にかけて平均摂取量が約750kcalだったという内容である.給食に対する国庫補助が減額されたことにより,財政が悪化したためだという.この市内の小学校でも基準(中学年で640kcal)を毎月,10~30kcal下回っているとのことである.
文科省学校健康教育課は,基準と同等の給食を作るようにと指摘しているらしいが,むしろヘルシーかも,という声もあるらしい.
750kcalの昼食がヘルシーなのか少し足りないのか難しいところだが,昔はどうだったのだろう.ちょっとWebを見てみたら容易に資料が見つかった.そのWebページによると1946年(昭和21年)の文部・厚生・農林次官通達「学校給食実施の普及奨励について」によれば(以下は,おそらく誤りと思われる個所を訂正してある)
1.完全給食最低基準量 1人600kcal たんぱく質25g
2.毎週授業日に5回給食を行うこと
という基準であったそうだ.熱量だけを見てみると,この基準量は何度か改定されており,小学校では以下のようである.

前記記事の大阪府の小学校では,1954年当時の基準熱量よりも少し多いくらいであることがわかるが,まあ大した差ではないだろう.
「大した差ではない」というのは,給食の熱量が少しばかり少なくても家庭の食事で十分に補えると考えられるからだ.しかしその差が大きな意味を持っていた時代が,かつてこの国にあったのである.
私くらいの年齢の,いわゆる団塊の世代の人間が集まると,昔の小学校の給食のことが話題になることがある.大抵は当時「ミルク」と呼んでいた脱脂粉乳の話になる.誰かが「あれはまずかった」と言うと「あれはアメリカの家畜の餌だったんだよね」と続く.我々は可哀想なことに牛豚の餌を食って育ったのだという意味である.
だが本当にそうだったのだろうか.
1945年の秋,国民経済は疲弊の極みに達し,都市部における食糧危機は深刻の度を増しつつあった.
当時サンフランシスコに在住の日系アメリカ人,浅野七之助氏(1900~1998年)は祖国日本の窮状を知り,この年の11月に「日本難民救済有志集会」を開き,日本救済運動を開始した.
翌1946年1月,浅野氏を中心とする「日本難民救済会」は,サンフランシスコ在住の日系人から募った浄財で救済物資を購入し日本に輸送しようとしたが,適当な窓口団体がなかった.そこで浅野氏は宗教団体に働きかけ,大統領直轄の救済統制委員会に「日本難民救済会」を公認団体とするよう陳情した.
敗戦後,日本政府はGHQに対して緊急食糧援助を要請していたが,どれほどの量が不足しているのか推計する根拠がなかった.
アメリカ陸軍省の報告によれば,日本の食糧不足量は3,000万tとされたが実態は不明であった.そのため政府はその基礎資料の作成を開始した.これは昭和22年の「暫定標準食品栄養価分析表」,次いで昭和25年に国民食糧及栄養対策審議会編「日本食品標準成分表」として公表されることになる.その前書きに
『昭和20年以来我が国においては食品分析値を用いての計算による対外交渉が増加して来たのでその必要性から、さきに厚生省、農林省協定による暫定標準食品栄養価分析表を作製し目的に沿うてきたのであるが、分析表に採録された食品の数があまりにも少なく、色々不便であったので、速やかに更に多くの食品を追加す可しとする要望切なものがあった。一方連合国最高司令部からも同じような希望があり…』
という記述があるが,文中の「対外交渉」とはGHQに対する食糧輸入要請を意味している.
この1月にはフィリピンから,3月にはアメリカから食糧輸入船が日本に到着し,またGHQは小麦や魚缶詰等を放出したが,主食の配給遅配はいよいよ著しくなった.
5月に入りGHQは食糧3374万ポンド相当の払い下げを発表し,6月には京浜地区に米麦22,000tを放出した.
この頃,浅野氏らによる祖国救援活動は,ようやく実を結びつつあった.これに大きく貢献したのが在日経験を持つクェーカー教徒,E.B.Rhoads女史(1896~1979年)であった.Rhoads女史は後年,再来日して皇族の英語教師を務められた方である.女史らの献身的な尽力により1946年9月,浅野氏の日本難民救済会は公認団体“ララ(LARA;Licensed Agencies for Relief of Asia)”として発足し,クリスマスに間に合うように衣類や脱脂粉乳などのいわゆる「ララ物資」第1便450tが日本に向けて出航した.
この月の2日には,弁当を持参できない生徒のために1日だけの給食が実施され,GHQ放出小麦粉によるコッペパンが全国の児童に配給された.また9日には生活保護法が公布されている.
11月にはGHQが学校給食用に日本陸軍の貯蔵食肉5,000tを供給すると発表,同月30日にララ物資第1便が横浜港に到着した.翌月にはララから更に210,000tもの救援物資が我が国に寄贈され,これを基に1947年(昭和22年)1月,全国の都市部児童三百万人に対し学校給食が開始された.実に我が国の学校給食は,ララ物資による一椀の脱脂粉乳から始まったのである.先に述べた大阪府の小学校の事例とは異なり,わずかに数十kcalの熱量と動物性タンパク質が大きな意味を持っている,そういう時代であった.
なぜ学校給食として脱脂粉乳が提供されたかについては,時期が手元の資料では明確でないのだが,GHQ民政局と文部省との間で相談がなされた結果であるという.
「日本食品標準成分表」編纂のところで述べたように当時我が国には国民栄養に関する基礎資料が全くなかったため,GHQは当時東北大学医学部の教授であった近藤正二博士(近藤教授は,長寿者の多い地域と短命な地域を比較調査した栄養学研究で知られる)に助言を求めた.近藤教授はGHQからの問い合わせに対し,成長期の児童には動物性タンパク質が不可欠であり,小麦粉のパンよりも脱脂粉乳が適当だと回答したとされる.
その後,1949年(昭和24年)10月にユニセフ(国際連合児童基金)から脱脂粉乳の寄贈を受けて「ユニセフ給食」が始められ,翌1950年には米国から無償提供された小麦粉でパンが給食に登場し,全国8大都市の小学校で完全給食が始められた.
しかし1952年4月28日,サンフランシスコ講和条約の発効により日本は独立国となったため,給食用物資の財源であった米国政府の「ガリオア資金」が打ち切られた.学校給食は廃止の危機にさらされたが,国庫負担による給食存続運動が全国的に展開され,翌1953年には小麦粉の半額国庫補助が実現し,この年の4月に全国すべての小学校を対象に完全給食が実施された.
そして昭和29年には学校給食を教育活動の一環として明確に位置づけた「学校給食法」が成立したのであるが,この年は前記「日本食品標準成分表」が改定された年でもあった.その「改訂日本食品標準成分表」の序文には
『現段階において、わが国の食糧事情はきわめて重大であり(中略)、栄養学の見地に立って、すべての国民が健康を維持向上し十分な社会活動をなしうるに要する食糧の確保に基盤をおかなければならない。(中略)、このためには、食物に含まれる栄養素の質と量を明らかにする必要がある』
と記され,昭和29年に至っても戦後の食糧不足が完全に解消されていなかったことが窺われる.
仔牛は生後しばらくの期間,成牛と同じ飼料を与えることができない.この時期に消化不良を起こすと,その後の成長が著しく阻害されるため,脱脂粉乳またはそれに類する組成の飼料で育てられる.
アメリカという国は工業国家であるが,また世界最大の農業国家でもある.いま我々が「家畜の餌」と言う時,それは人の食料以下のあたかも残飯のごとき物であるが,当時のアメリカにとって脱脂粉乳は重要な農産物だったはずである.また極東の小さな島国へと太平洋を越えて輸送し,すべての児童に平等に配布できる物資は,小麦粉か脱脂粉乳であったろう.私達の父母の世代は子供達のために脱脂粉乳を要請し,その希望はかなえられた.そしてその資金は初めサンフランシスコの日系アメリカ人の人々による祖国救援活動によって,続いて世界中から集められた善意に基づくものであった.だから私は,あの脱脂粉乳は決して「家畜の餌」などではなかったと思うのだ.そのララ物資の浅野七之助氏は遂にアメリカに帰化することなく1998年,98歳で亡くなられたという.
【参考資料】
日本食品標準成分表はこれまで暫定版から5度改定されている.
初期の版と現行五訂版に収載された食品数を以下に抜粋する.
暫定版でわずかに104品目であった収載食品数は五訂版で1,882に増加した.現在の我が国における国民食生活の豊かさを示すものである.

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これまで述べてきたように,農水省がどう言い張ろうと,日本の伝統食は一汁一菜あるいは一汁無菜であった.一汁三菜とか栄養バランスのよい食事なんぞは,年に数回しかないハレの日の食事であった.
また,かつての東日本内陸部の人々は食事からの食塩摂取量が多かった.少しの塩辛い漬物,梅干し,塩蔵魚で飯を食うのが一般的であった.
このような日本独自の食生活の結果として高血圧になる人が多く,これが農村部に住む人々の短命の原因であった.
これには,第二次大戦前後に陸軍関係者 (食養会) が提唱し,のちに疑似科学「マクロビオティック」となった「身土不二」思想の影響もある.
戦後,農家の女性や高齢者の生き甲斐と所得を向上させる目的に生まれた生活改良普及員が農村部の伝統的食生活の改善に取り組んだのに対して,「身土不二」説信奉者は「三里四方のものを食え」をスローガンとして,「地元の食品を食べると身体に良く,他の地域の食品を食べると身体に悪い」「伝統食は完璧だから手を加える必要がない」「生活改良普及員が伝統食を破壊して洋食を指導した結果,若者が早死にしている」と非難した.(「」は Wikipedia【身土不二】から引用 [註*])
[註*] 2014年4月18日追記.Wikipedia【身土不二】は,このブログ記事を書いたあと,誰かが編集したようで,「」の記述が削除されている.編集履歴を残さずに書き直されてしまうのが Wikipedia の最大の欠陥である)
日本の伝統食における塩分過剰摂取の解消に功あったのは生活改良普及員であるが,農村部でない地域では学校給食の寄与が大きいと考える.
パンは漬物がなくても食える.初めは米国西海岸在住の日系人による祖国救援活動によって,次いでユニセフによる学校給食支援によって,これを知った私達戦後生まれは,抵抗なく食事の欧米化を受け入れることができた.そしてこれが,行きすぎた欧米化への変化の前に過渡的に生まれた,栄養的に優れた和洋折衷の「日本型食生活」の基礎となったのであった.
【関連記事】
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永山久夫氏の主張 2013年2月5日
「和食」とはなにか 番外編の二 2014年4月30日
【参考図書】
小泉和子編『ちゃぶ台の昭和』 (河出書房新社)
アスペクト編集部・編『なつかしの給食』 (アスペクト)
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