撃ちまくる西部劇
「川上伝説 その二」(11月10日掲載)で書いた堀井憲一郎の『ホリイのずんずん調査 かつて誰も調べなかった100の謎』を,昨日読了した.
これは,1995年から2011年まで792回にわたって週刊文春で連載した『ホリイのずんずん調査』から百本を選んだ選集である.全511ページある厚い本だ.帯のコピーに「役には立たないが何故だか面白い天下の奇書、堂々完成」とある.
私は昔から週刊文春の読者だが,たまに買い損ねることもあったから,『ホリイのずんずん調査』も連載時に読み損ねて,今回初めて読んだものがいくつかあった.
その一つが「西部劇で発砲されている弾の数を数えてみる」(週刊文春2010年2月25日号)である.
これは『平原児』(1936)『駅馬車』(1939)あたりから始めて『リオ・ブラボー』(1959)まで,二十本の西部劇中で撃たれた弾の数を数えた調査であるが,発砲数が多いのは,対インディアン戦が中心の作品であったという結果である.
少し長いが以下に引用する.
《19世紀のアメリカ人にとってインディアンは明確な敵なので、とにかく派手に撃ち合っていいのだ。この、インディアン相手ならいくらでも撃つという姿勢がやがて西部劇を衰退させていくわけだけど、でもこれが19世紀から20世紀半ばにかけてのアメリカ人の偽らざる心情だろう。ここを隠蔽すると、ろくなことにならないとおもうが、今さら言っても遅いですね。ろくなことになってないです。今でも世界中でインディアンを探しまわってます。》
以下は次の週の「西部劇は対立とともに」(2010年3月4日号)からの引用.
《この、インディアン掃討の歴史と自信が (そしてその原罪意識が) 国外戦でも敵のゲリラ戦を招き、ベトナムでもアフガンでもイラクでも、状況を泥沼化させていったんじゃないだろうか。西部劇を見てると、そう思ってしまいます。》
次は『かつて誰も調べなかった100の謎』にある追記.
《アメリカ人のメンタリティを確認するには、昔の西部劇を見ればよくわかる、ということは言えると思う。ベトナム戦争がうまくいかなくなったころから、痛快単純な西部劇は作られなくなりましたね。ベトナムもたぶん、アメリカのフロンティアスピリッツの一端だったんでしょう。》
長々と引用したが,これで思い出したのは,十年前,私がブログ開設前に個人サイトに載せた次の文章である.全文を以下に再掲載する.
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2003年3月30日
アパッチ
米国陸軍に“アパッチ”という戦闘ヘリコプターがある.その名は,アパッチ・インディアンの勇猛さに因んだものだろう.初期型は正式名称 AH-64A といい,1991年の湾岸戦争で初めて実戦に投入され,数百台のイラク軍装甲車を撃破するなどして名を馳せた.私もそうだが,当時の中継映像でこれを初めて見た人は多いだろう.
その後もアメリカ映画に頻繁に登場している.最新機は AH-64D で,ロングボウ・アパッチという.すなわち長い弓を持ったアパッチ.空対空ミサイルや対戦車ミサイル,ロケット砲,毎分625発を発射可能な30ミリ機関砲を備えている.さらに,可動式テレビカメラや赤外線センサー,8キロ先にある128の標的から危険度の高い16の標的を検出できる機能を有する最新型レーダーを装備し,ハイテクの塊みたいな代物である.
この AH-64D “アパッチ”戦闘ヘリコプターが,イラク軍との戦闘で苦戦している.毎日新聞(3月26日付朝刊) によれば,米軍は3月23日夜から24日の未明にかけて,バグダッド南東カルバラ付近に布陣していたイラク共和国防衛隊メディナ師団の戦車や火砲を攻撃した.戦闘には世界最強を誇る“アパッチ”が三十数機参加したが,そのうち一機が墜落または不時着して乗員二人がイラク側の捕虜になった.
戦闘ヘリ部隊は地対空ミサイルの攻撃を避けるため低空を飛行し,イラク軍戦車や装甲兵員輸送車など計10両程度を破壊したが,突然,民家の屋根や裏庭などから対空機関砲や小銃などの集中攻撃を受けた.“アパッチ”編隊は30ミリ機関砲やロケット砲で応戦したが,被弾して負傷する乗員がでる,油圧システムを破壊されて攻撃不能に陥る,ロケット砲の発射装置に着弾して発火する,などして退避を余儀なくされた.ハイテク必ずしも無敵ならずということか.
十年ほど前のことだが,ヴェトナムのホー・チ・ミン市,すなわち旧サイゴンを訪れたことがある.ここにはヴェトナム戦争の記念館があり,その庭に米軍の小型機の残骸が展示されていた.これは民族解放戦線 (註1) の兵士が撃ち落としたものだとガイドさんが説明してくれた.当時も米軍は最新最強の軍事力を誇っていたのだが,ローテク軽火器で撃墜されることもあったらしい.私の学生時代はヴェトナム反戦運動が高揚しており,大学内で上映された記録映画で,密林から射撃されて墜落する米軍機を見た.滅多にないことだったろうが,敗退を続ける米軍を象徴するそのシーンは,その後も何度も目にする機会があった.
そのヴェトナム旅行の数年前,当時所属していたアメリカの学会の年次大会に出席するため,私はアリゾナ州の州都であり観光地として有名なフェニックス市に出かけた.現在はどうか知らないが,その旅行で到着したフェニックスは,人口は多いが,日本でいえば地方の県庁所在地のような静かな都市だった.
ガイドブックを見ると街外れにアメリカ・インディアンに関するミュージアムがあるというので,学会に出席した日本人数人と一緒に,講演の合間をみて見学に行ってみた.
そもそもフェニックスは,白人が侵略する前にこの土地に住んでいたインディアンの先史文化 (ホホカム文化) の遺跡の上に,白人開拓者が新しい都市を建設して「不死鳥」を意味する地名をつけたのが始まりである.アリゾナの州名はホホカムを先祖とするパパゴ族インディアンの言葉で「小さな泉」を意味する arizonac に由来し,現在もナバホ族などの居留地が多く,インディアン人口は全米三位であるが,フェニックス市のミュージアムは先史文化の美術館であって合衆国陸軍と戦ったアメリカ・インディアンに関するものではなかったようだ.「ようだ」というのは,当たり前だが展示品の説明が全部英語だったからである.(^^;)
現在主にアリゾナ州に居留するナバホ族と共に,北米の北方森林地帯からロッキー山脈東麓沿いに南下したのがアパッチ族であり,その名が米国陸軍の戦闘ヘリに付けられているのである.
私が小学生の頃は,テレビでも映画でも西部劇が華やかな時代で,それにはアメリカ・インディアン諸部族と戦いを繰り広げる騎兵隊がよく登場したものだ.私が覚えている騎兵隊のイメージは,次のようなものである.
西へ西へと旅を続ける幌馬車隊にインディアンが襲いかかる.馬の上から矢を放ち,あるいは降り立って斧を振るうインディアン.絶体絶命のその時,ジョン・ウェイン率いる騎兵隊が駆けつける.勇猛果敢なインディアンも武装騎兵隊の敵ではなく,乱戦ののちに引き上げて行き,危機を脱した幌馬車隊のヒロインに騎兵隊隊長が微笑みかける.
そういう映画があったわけではなく,かなりいい加減なでっち上げだが,騎兵隊なんてのは,まあそんなところである.騎兵隊は正義の味方だったのだ.
ところがある日,私の住む田舎町のデパートで「大インディアン展」みたいな催事があった.中学生の私は友達と一緒にその展示を見に出かけた.催事階の壁に掛けられたパネルに記述されていたのは,正義の味方などではない,先住民族の圧殺に活躍する騎兵隊の姿だった.そして一際大きいパネルには「リトル・ビッグホーン川の戦い」が描かれていた.
アメリカ合衆国の軍人,G.A.カスターは,南北戦争後に第七騎兵隊 (註2) 中佐として西部の対インディアン戦争に従事していた.第二次・スー戦争(1875年) が勃発した翌年,カスター中佐は A.H.テリー将軍の指揮するインディアン討伐軍の部隊長として,スー族・シャイアン族連合軍の討伐に出陣した.カスターの部隊はその年の6月25日,モンタナ州の南部,リトル・ビッグホーン川の川辺で宿営していたクレージー・ホース,シッティング・ブル両酋長率いる大軍に遭遇し,攻撃したが逆に包囲され,二百四十六名の騎兵隊は全滅した.これが「リトル・ビッグホーン川の戦い」である.
今,記憶を辿ると,この展示会の内容はアメリカ・インディアンの歴史を正確に示していたと思う.私のアメリカ合衆国観は,この展示会で観た少数民族抑圧の悪しきシンボルにして合衆国の悲劇的英雄であるカスター中佐の姿が原型になっているのかも知れない.
騎兵隊は文字通り馬に乗っていたのだが,その後の自動車,戦車の発達により,機甲部隊として再編制され,熱帯密林を舞台にしたヴェトナム戦争で馬を武装ヘリに乗り換えた航空騎兵“Air Cavalry”となった.最精鋭部隊である第一騎兵師団の部隊章には馬が描かれており,その歴史はかつてカスター中佐が所属した第七騎兵隊に遡る.
その開拓時代のアメリカ大平原を疾駆した第七騎兵隊は今どこにいるか.ロッキー山脈を越え,太平洋を渡りインド洋の彼方,砂嵐吹きすさぶ砂漠の中をバグダッド目指して進撃している.
建国以来,アメリカ人は北米大陸を西へ西へ,インディアンを抹殺しながら移動を続けた.西漸運動“Westward movement”だ.彼らの土地と,西に広がる未開の土地との境界を「フロンティア」と呼ぶ.今,彼らのフロンティアはイラクの砂漠に達したが,最前線を飛翔する戦闘ヘリの名が“アパッチ”なのは辻褄が合わないと思う.
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(註1;正しくは「解放民族戦線」で「民族解放戦線」は誤訳だが,ベトナム戦争当時は「民族解放戦線」と呼ばれていた)
(註2;このリンクは再録に当たって挿入した)
上に再録した私の文章は,ブッシュ大統領が「大量破壊兵器」の存在を求めてイラクに侵攻した戦争の時に書いたものだが,その七年後に堀井憲一郎が『ホリイのずんずん調査』に書いた事とほぼ同趣旨である.
米国陸軍が,彼らの殺戮の「フロンティア」に投入した戦闘ヘリコプターの名を「アパッチ」としたのは,堀井が《インディアン相手ならいくらでも撃つという姿勢がやがて西部劇を衰退させていくわけだけど、でもこれが19世紀から20世紀半ばにかけてのアメリカ人の偽らざる心情だろう。ここを隠蔽すると、ろくなことにならない》と書いた事と重なる.「アパッチ」という名のヘリコプターは,米国の歴史を隠蔽しているのである.
日本の海上自衛隊が艦船に「ミズーリ」と命名することがあり得ないように,米軍が自軍戦闘機を「ゼロ」と名付けることはあり得ない.しかるに湾岸戦争で登場した戦闘ヘリ「アパッチ」は,1886年に最終的な降伏をさせた敵の名である.これがアメリカ先住民掃討の歴史の隠蔽でなくてなんだろう.
昭和の終わり頃だったと記憶するが,日本の子供達に第二次大戦について訊ねると,「日本はアメリカと共にドイツやイタリアと戦った」と多くが答えたという調査結果があった.これは義務教育や高校の日本史で実際上,昭和史を教えないということがもたらした結果と思われる.
遠い将来,アメリカの子供達は,アパッチ族は米国軍と共に祖国建設を戦ったと言うのだろうか.(米国軍が一部のアパッチ族を戦闘員として使役した史実はある)
(この稿,おわり)
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