カレーの歌 ふたたび
もう十年も前のこと,閉館した私の個人サイトに,次のような文章を書いた.
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2003年6月7日
カレーの歌
十年近く前の六月のことである.仕事で出かけたある地方都市の寂れた繁華街で酒を飲んだ.寂れて繁華というのも妙な日本語だが,昔は繁華街だったが今はすっかり寂れている,というほどの意味である.
人通りのない裏通りにはまばらに赤提灯が灯っていた.そのうちの一軒の磨りガラスの引き戸を開けて入ると,左に五,六人は腰掛けられるカウンタァがあって,右は小上がりになっていた.そしてたぶん私と同年代のように思われる女主人が一人で店を守っていた.守っていたというか,守りきれないというか,早くない時刻なのに客は私一人であった.
このテの飲み屋には大抵カラオケがあるとしたものだが,その店の中を見渡すとディスプレイはあるが,それはただのテレビのようだった.
「何にしましょう」
「とりあえずビールを」
感心なことに,出てきたビールは大瓶であった.ただし,グラスはビール会社の名入りの,いわゆるコップだった.グラスで味が変わるわけじゃないから,変わるかも知れないが,まぁいいや.
カウンタァの向こうには食器棚と,酒瓶を置く棚と,チョークで本日の酒肴を書いた小さな黒板があった.干物を注文してビールを一口.突きだしはソラマメだった.まだソラマメの季節であるからして,ビールを一気に流し込んで「ぷはあーっ」というわけには行かない.静かに飲む.
「お客さんは,どこから」
「いちおう東京」
嘘である.こういう場面ではとりあえず東京だと言うのが無難なだけで,地元の人間ではありませんという意味だ.
女主人は口数が少ないようだった.一見の客だから遠慮しているのかも知れなかったが,うるさいよりはずっといい.それでも手酌でビールを注ぎながらポツポツと会話をかわす.相変わらず誰も次の客は入ってこない.
「カラオケは置いてないんだね」
「あたしが,あまり歌は好きでないもんで」
歌が嫌いな理由は,音痴だからだという.ずっと前にカラオケを入れたこともあったらしいが,酔客が歌を強要するのが嫌になって撤去したと女主人は言った.なにしろ,彼女がちゃんと歌えるのは一曲しかないのだそうだ.
「一曲だけって,それは美空ひばりとか,そういうやつ?」
「お客さんは知らないと思うけど,カレーの歌」
「へんな名前の歌だね」
「君知るや,君知るや,っていうのよ」
「ああ,それなら知ってる.オリエンタルカレーの歌だ」
「そうそう,オリエンタルカレーの歌」
「エキゾチックなこの香り,だよね」
「そうそう」
まだ六月では大瓶のビールは飲みでがあって,私には一本で充分だった.次は焼酎のロックにしてもらい,オリエンタルカレーの歌の話を続けた.
「カラオケにはオリエンタルカレーの歌なんかないだろ」
「そ.だから店にカラオケがあっても,あたしは一曲も歌えない」
他に客がいないのをいいことに,私はカレーの歌を小さく歌い始めた.
「なつかし~い なつかし~い あのリズム」
アカペラで古いCMソングを歌う中年サラリーマンにつられて,彼女もたった一曲の持ち歌を口ずさんだ.
「エキゾチックな あの調べ~」
話す時の地声と歌声が違う人がいる.この女主人の場合もそうで, 歌う声は見た目の歳よりずっと若かった.
私は一番の歌詞は覚えていたのだが,二番の出だしでつまずいた. 彼女の方は二番も覚えていて,それを一人で歌った.別に音痴ではなく,彼女が歌を嫌いなのは他の理由があるのだろうと思った.
「こういうのもデュエットっていうのかね」
「色気がないのはたしかだわ」
それから私達は,今はもう大昔といってもよい昭和三十年代に,テレビではオリエンタルカレーのCMソングがよく流れていたね,なんてことを話した.
彼女が育った町に,オリエンタルカレーの宣伝カーがやってきたこともあったそうだ.トラックの荷台にバンドを乗せて,オリエンタルカレーの歌を演奏しながら,試食やカレー・ルーの即売をしていたのだという.その宣伝カーの実物を私は知らないが,CMの画面に登場していたのは覚えている.
「あの歌をうたっていたのは誰かしら」
「知らないなあ.コマーシャルで見たのは西部劇みたいな格好した女の人だったけど」
オリエンタルカレーの話はそこまでで,私達はそれから昔の人気テレビ番組とか,流行った遊びのことなどを,まるで古い知り合い のように語り合った.
そんなことがあってから一昔ほど月日が流れた今年の1月,再びその地方都市に一泊で行く用事ができた.またあの店に行って夕飯がわりの酒を飲んでみようかと思ったら,ふいに,オリエンタルカレーの歌を歌っていたのは誰だったかしらと彼女が言ったのを思い出した.当時そんなことはとても調べようがなかった筈だが,今ではネット検索という方法がある.
検索は簡単で,すぐに株式会社オリエンタルのサイトにヒットし,トップページで,あのカレーの歌を聴くこともできるようになっていた.私は,いい歳こいたおっさんが何やってんだか多少恥ずかしくもあったが,同社サイトの問い合わせフォームを使って管理者宛にカレーの歌について質問を送ってみた.
すぐサイト管理者の人から丁重な返信がきた.それによるとあのCMソングは正しくは『オリエンタルカレーの唄』といい,同社の社歌だそうだ.歌手は「山路智子(トミー藤山)」とあったので,それもネットで調べてみた.すると,私は全然知らなかったのだが,その歌手は昔,かなりメジャーなカントリィ&ウエスタンの歌い手だったらしい.それで西部劇みたいな衣装を着ていたのだなと,腑に落ちた.この人は初めは少女歌手として東海地方で有名となったが,やがて昭和28年にテイチクレコードからデビューし芸名を「山路智子」と変え,昭和34年にコロムビアに移籍して「トミー藤山」で再デビューしたという記事が見つかった.この人のLPで伴奏を勤めたミュージシャンに田辺昭知,寺内タケシ,ジャイアント吉田,いかりや長介などの,後にビッグになった人達がいるそうだ.ものは調べてみるものである.
さてそんな雑知識を仕入れてから,私はあの飲み屋のある地方都市に出張した.仕事が終わってホテルにチェックインし,酒を飲みに出かけたのだが,寂れた繁華街はいっそう寂れていた.確かこの裏通りだったが,と記憶を辿って歩いてみたが,赤提灯のその店は見つからなかった.きっと店を畳んでしまったのだろう.カレーの歌を歌ってくれた女主人の顔を思い浮かべながら私は,まぁいいや,ラーメンでも食って戻ろうと道を引き返した.
泉麻人が,ある日,東京都内を歩いていたらオリエンタルカレーの宣伝車を見つけた,と週刊アスキーに連載のコラムに書いていた.なぜそんなものが保存されていたのか,いきさつは不明だが普通の民家の庭に置かれていたという.その記述からすると,どうも私が覚えているあの生バンドを乗せた宣伝車とは違って,もっと小型の車のようだった.泉麻人は私よりもずっと若い人で,オリエンタルのCMでいうと『オリエンタルカレーの唄』ではなく,例の「ハヤシもあるでよ」の時代に少年時代を過ごした筈であるから,その頃まで都内ではオリエンタルカレーの宣伝車が走っていたとみえる.オリエンタルカレーのCMソングと宣伝車は,団塊の世代とその下の人達に共通の郷愁アイテムなのかも知れないなあと思った.
【補足】
株式会社オリエンタルの許可を得て,同社の社歌『オリエンタルカレーの唄』歌詞全文を掲載する.曲は同社のサイトで聴くことができる.
オリエンタルカレーの唄
作詞:大高ひさを
作曲:平川浪竜
編曲:長津義司
唄 :山路智子(トミー藤山)
なつかしい なつかしい あのリズム
エキゾチックな あの調べ
オリエンタルの 謎を秘め
香るカレーよ 夢の味
あゝ 夢のひと時 即席カレー
君知るや 君知るや
オリエンタルカレー
ガンジスの ガンジスの 岸に咲く
ピンクシャワーの 花の影
南の国の 情熱に
香るカレーよ 恋の味
あゝ 恋の二人の 嬉しいカレー
忘られぬ 忘られぬ
オリエンタルカレー
あこがれの あこがれの 青い海
越えて来るくる 白い船
知らない国の お米にも
香るカレーよ 愛の味
あゝ 愛の灯かげを 彩るカレー
今宵また 今宵また
オリエンタルカレー
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(筆者註;十年前のオリエンタル社からの返信メールには“トミー藤山”とあったので歌手のところにそう書いたが,現在の同社のコンテンツでは“トミ藤山”と記載されている)
以上であるが,上記の飲み屋を私が訪れたのは,もう二十年も前の話になる.渺々たる時の流れを思わざるを得ない.
この記事を「オリエンタルカレーの唄」で検索すると上位にヒットするところをみると,読んでくれた人がいるようだ.
この雑文を書いた当時は,株式会社オリエンタルのサイト上には「オリエンタルカレーの唄を聞けます」と書いた小さなボタンが一つあるだけであったが,今は随分と充実して,「もっとオリエンタル」というコンテンツが設けられている.そしてそこのタブの一つに「オリエンタルカレーの唄」がある.
ここには「オリエンタルカレーの唄」のレコードB面に入っていた「カレー召しませ」もあって,聴けば「昭和」が香り立つ.
このタブで聞ける「オリエンタルカレーの唄」は,ラジオCMで流れていたトミ藤山のオリジナルだが,タブ「オリエンタルCM集」には,キーの低い別歌手の歌うテレビCM版「オリエンタルカレーの唄」が入っていて,これは昭和三十年代半ばのものだそうだ.
トミ藤山のオリジナルは戦後すぐの歌謡曲を思わせる曲調であるが,別歌手のものはアップテンポになっている.
さあ,この歌手は誰なんだろう.キーを下げて,よい状態で録音しなおしただけで,やはりトミ藤山なのだろうか.気になって夜も寝られない.私ゃ鳳啓助か.
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