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2013年8月

2013年8月31日 (土)

小言幸兵衛 補遺二

 書いているうちに段々腹が立ってきた.あ,「段々腹」が立ってきたのではない.「だんだんと腹が立ってきた」だ.
 瀬尾幸子氏の趣味は,全国各地の居酒屋めぐりだそうだ(NHK『あさイチ』のサイトに掲載の出演者プロフィル).それを見て,氏の著書量産手法が想像できた.つまり居酒屋や小料理屋で出された品をパクるのではないか.レシピを詳しく正確に記述できないのは,オリジナリティが他人のものだからではないだろうか.

 最悪の例をあげる.上記『あさイチ』のサイトに掲載されている「いかワタじょうゆ」のレシピである.
  【材料・つくりやすい分量】
   ・いか・・・1ぱい
   ・しょうゆ・・・適量
 案の定である.私はこの「小言幸兵衛」の本文で《「味噌」とか「醤油」とか大雑把に書いて済ませていなければよいのだが》と書いたが,情けないことに的中した.「しょうゆ・・・適量」だが,これでは何も書いていないに等しい.醤油といえば濃口醤油の地域と,醤油のデフォルトは淡口醤油である地域がある.醤油ならなんでもいいというのか.鹿児島の砂糖入りの甘い醤油でもいいのか.しかも「適量」だと.
 烏賊はなんでもいいのか.紋甲烏賊でもいいのか.いいと言うなら作ってみなさい.

 かなり前だが,「一万円で一ヶ月暮らす」とかいう趣旨のテレビ番組があり,その一ヶ月間の録画の中で,ギャル曽根ちゃんが巨大な肉まんを作って食べていた.安価であり,作り慣れているようでもあり,巨大な肉まんというオリジナリティとそれを作ってしまう腕前に,若い娘さんなのに大したもんだと私は大いに感心した.それ以来私は,ギャル曽根とは呼び捨てずギャル曽根ちゃんと呼んでいる.彼女が私のことをどう思っているか直接聞いたことがないのでよくわからないが,私は彼女を好きである.
 それに比べて瀬尾幸子はどうだ.あ,とうとう呼び捨てにしてしまったが,著書名を以下に列挙する.

『一人ぶんから作れるラクうまごはん』
『ちゃぶ台ごはん』
『おつまみ横丁―すぐにおいしい酒の肴185』
『おかず食堂―すぐにおいしい朝・晩ご飯150』
『かけごはん100』
『ひる麺100―ささ~っと作ってお昼に食べたいかんたん麺+おかず1 』
『瀬尾幸子のふだんごはん』
『めんどうなことなし! いちばん簡単なとうふレシピ』
『のっけごはん100』
『もう一軒 おつまみ横丁―さらにおいしい酒の肴185』
『みその料理帳』
『毎日、とうふ!―簡単レシピばかり121品』
『昭和ごはん 作れる思い出レシピ』
『最新版とうふレシピ』
『お料理の基本―困ったときに頼りになる!料理の「?」解消BOOK』
『みんなの大衆めし』
『ルクエで作る男子の家呑みおつまみ』
『あれにもかけたい!これにもかけたい! 食べる調味料』
『せおつまみ 今宵もうまし、たのし。簡単絶品酒の肴集帖』
『元気食堂 キリッと旨いおかずやつまみ110』
『だれでもおいしく作れる いまどきの料理の基本』
『シンプル圧力鍋おかず』
『デリつまみ・バルつまみ120』
『インスタントラーメン 瀬尾幸子さんの勝手にアレンジbook』
『10分弁当』
『フライパン1つでOK!簡単ごはん』
『シンプル鍋100』
『シンプルスープ100』
『わっ、かんたん!人気の鍋もの―煮るだけだから技いらず!』
(まだあるが,ばかばかしくなったので略)

 おわかりであろう.瀬尾幸子という女の,わっ見下してしまった,料理のコンセプトは「らく」「すぐ」「かんたん」「シンプル」「ぶっかける」「のっける」「ささ~っと」なのである.

 亡くなられて久しいが,関西の家庭料理研究の第一人者であり,「おふくろの味」というコンセプトを打ち立てた土井勝氏の料理の基礎は,海軍経理学校を経て戦艦大和の乗組員となった帝国海軍時代の経験,艦隊の料理法であるという.合理性と質実剛健を旨とする土井氏のレシピは,簡単な家庭料理でありながら瀬尾氏の対極にあるもののように思われる.
 ついでに料理研究家の元祖である江上トミ氏.
 この先生がテレビ番組で作ってみせた料理も実に質素な家庭料理であったが,今はもうおいそれとは作れなくなってしまったものがある.テレビをみて「うまそうだ」と思ったのを今でも記憶しているが,火鉢の灰の中に俵型のお握りを埋めて作る焼きお握りはその一つ.昭和の高度経済成長期に日本から失われていったものの一つであろう.ぐちぐち.ああ昔はよかった.しくしく.気持ちが全面的に後ろ向きになったので,以上補遺おわり.

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小言幸兵衛

 週刊文春の8月29日号から.
 同号巻末のグラビア料理ページ『瀬尾幸子の台所の仕事』に葱入り卵焼きの作り方が載っている.瀬尾幸子氏は料理研究家で著書多数.東京都出身.

 その葱入り卵焼きだが,【材料】として「卵3個・葱(みじん切り)20cm分・塩小さじ1/4・サラダ油小さじ2・大根適量」とある.調理手順写真を見ると,葱は刻んだ葉葱を炒め,これを溶いた卵に入れてから焼いている.

 さて私のような関東生まれ育ちの人間にとっては,単に葱といえば根深葱のことだ.葉葱を使うときは,葉葱,万能葱,小葱,ワケネギなどとして,単に葱とはいわない.これは,東海から西の地方で単に葱といえば葉葱を指すのと同じである.

 この「葱といえば根深葱」地帯と「葱といえば葉葱」地帯の境界がどこかは,日経の野瀬氏が『食べ物新日本奇行』シリーズのサイトに調査結果を掲載していたが,このシリーズはあまりにも長期連載のため,どこに葱のことが書かれていたか残念ながら思い出せない.(調べるのが億劫;汗)

 で,葉葱ではなく単に葱と【材料】に書いてあるから,著者は西日本の人かと思ったら東京出身だという.
 つまり想像するに瀬尾さんという「料理研究家」は,食材に関心がないか,いささか性格が大雑把な人なんではないか.葱は全部ひっくるめて葱の一言ですませてしまう,みたいな.著書を買って読んだことはないが,調味料を「味噌」とか「醤油」とか大雑把に書いて済ませていなければよいのだが.

 また【作り方】に「フッ素加工のフライパンを温め、サラダ油をひく。」と書いているが,「油をひく」ということの意味を知らないんだろうと思う.フッ素加工のフライパンは油をはじくから「ひく」ことができないのだ.

 それから,そのフッ素加工のフライパンを強火で熱するのが卵焼きのコツだと書いているが,フッ素加工のフライパンを強火にかけてはいけないことは常識.だからしてフッ素加工のフライパンを使う場合に,中火で卵をうまく焼くにはどうしたらいいかを読者に伝授するのが「研究家」の役目だと思うのだが.ま,その程度のことは卵焼きを作れる人なら教えてもらうまでもないことだけれど.

 書店に行くと著書がたくさん並んでいるが,週刊文春はうんちくオヤジの雑誌なのだから,私みたいな小うるさい爺に文句をいわれない連載記事が書けるよう,もう少し精進してね.

【補遺】
 瀬尾氏は文春の記事の中で葱入り卵焼きについて「そこで私なりに試作、改良を重ね、行き着いたのがこの一品です」と書いている.しかし大雑把に書かれたレシピのどこが「試作、改良を重ね」た結果なのか皆目わからない.昔から家庭で作られてきた葱入り卵焼きそのまんまではないか.
 しかも,ウェブ上に著書に書かれたレシピをコピペしたサイトがあったので読んでみたら,著書にも葱入り卵焼きのレシピが載っており(ということは文春の記事は同じネタの使い回しだ),【材料】の葱と油が「長葱」と「ごま油」になっている.「ごま油」と「サラダ油」では食味が大いに異なる.「試作、改良を重ね」た結果はどっちなんだ.性格が大雑把というより,仕事に対する姿勢がいい加減なのではないか.

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2013年8月30日 (金)

バーモントの月明かり

 TBS ラジオの早朝番組『ラジオパープル』で,水曜日担当の吉川美代子アナ(アナウンス部担当局長・解説委員)がジャズの名曲『バーモントの月』(Moonlight in Vermont)をかけた(8/28).歌手はエラ・フィッツジェラルド.

 TBS テレビのニュースで吉川アナをご存じの方はご存じのように(←同義反復),彼女は上品な美しい人である.まかり間違っても安全帽をかぶって中東の戦場から中継放送なんかはしない人のように思われる.して欲しくないし.
 しかるにこの美人はよくしゃべる.アナウンサーだから当たり前か.
 で,『バーモントの月』だが,曲の解説でちょっと気になることを言った.

 曲の歌い出しはこうだ.
  Pennies in a stream
  Falling leaves , a sycamore
  Moonlight in Vermont
 吉川アナは,しゃべった通りではないが「これを《小川の中の銅貨》なんて歌う日本の歌手がいますけど,違いますからね.なんで川の中に銅貨があるんです.川面に映る月のことに決まってます」というような意味のことを言った.実際はもっと強く非難する口調だったが,きっと吉川アナの大好きな曲だからなのだろう.

 でもなあ,“penny” じゃなくて “pennies” だから,その解釈は無理があるんじゃないだろうか.月がいくつも川面に映るわけはないから.
 歌われている情景を耳から入った通り素直に思い浮かべれば,川の底に銅貨色のものが沈んでいるのだと思う.月の光にきらめいて.

 ウェブを検索してみたら,ある質問掲示板で「この歌の “pennies” とは何か」という趣旨の質問があり,それは色からして “falling leaves , a sycamore”,つまりプラタナスの枯葉だとの回答がベストアンサーになっていた.
 枯葉が川面にびっしり落ちてるところへ月光がきらめいて,あちこちに小さな銅貨が光っているように見えるというのである.
 確かにそう取れなくはないけれど,川面の枯葉は月光に照らされても光らないのではないだろうか.

 さて私のイメージでは,“pennies” は川の底に沈んでいる銅貨色のなめらかな小石が月光にきらめいている様の比喩なのだが,どんなもんだろう.

 バーモント州の,カナダ国境に近い山裾の秋.月明かりの美しい風景.この曲が好きな吉川アナウンサーはロマンチストなのかな.よくしゃべるけど.

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2013年8月29日 (木)

一度は手放して

 年寄りになってみると,やたらと昔が懐かしい.会社を定年になる頃には,これまで生きてきた過去を振り返りながら歩いているみたいな感じであったのだが,今やもう体ごと後ろ向きである.後ろ向きで前進している.そうして天国の門には背中から元気に入っていきたいと思っている.

 昔貧乏学生だった頃に買った本で,その後で手放した本がたくさんある.理由は,結婚して子供ができて,狭いアパート暮らしだったために本をため込んでおくスペースがなくなったからである.

 そんな本のことを思い出すことが少し前にあって,いくつかのネット古書店の中をうろうろと歩いてみた.そしたら學藝書林の『全集 現代文学の発見』が何冊か出品されているのを見つけた.

 『現代文学の発見』は私が大学に入った頃,大学生協書籍部の平台に積まれて飛ぶように売れた全集である.私も乏しい持ち金をやりくりして,ほぼ全巻を買って読んだ.これを手放さざるを得ぬときにちょっと悲しかったのを思い出す.

 というような事情で,古本の『現代文学の発見』を再び手に入れることにした.
「愛情をお金であがなうことはできません けれどお金に 愛情をこめることはできます」と書いたのは谷川俊太郎だが,これを流用して「思い出をお金であがなうことはできません けれどお金に 思い出をこめることはできます」てなことを思いついた.しかしちょっと違うような気がするというか,日本語になっていないような気もするし,お金に思い出をこめるって「人生金や金やっ」みたいだ.でもまぁいいや.文句のある人は出てきなさい.

 一度手放した本をまた買う動機が,青春時代の自分はこんなものを読んでいたのだという記念みたいなものだから,一冊でよい.全巻揃えるのなら,三十数年後に再刊された愛蔵版が,高価ではあるが今も新刊書店で買えるのだが,それでは意味がない.私が欲しいのは初版第一刷の古本なのだ.

 その一冊は『別巻 孤独のたたかい』(昭和四十四年刊).ここに収められた十四作品のうちから一作をあげるならば能島廉『競輪必勝法』である.
 若いときにこれを読んだという思い出をささやかなお金であがなって,その思い出はいま私の書架にある.

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2013年8月28日 (水)

江分利万作ハイビスカスの花

 ウェブの新聞記事を読んでいたら,俵万智さんが沖縄の食べ物を紹介していたのだが,その記事に「沖縄・石垣島在住の歌人、俵万智さん(50)」とあったので腰を抜かした.
 私の脳内では俵万智さんのまわりは時間が止まっていたようで,(50)に驚いたのだ.
 そうですか.『サラダ記念日』からもうそんなに時が経ったのですか.

 俵万智さんは以前は仙台に住んでいたのだが,大震災のあと石垣島に移住したのだそうだ.
 いいなあ,沖縄.私も住んでみたい.二度しか行ったことないけど.

 たった二度の沖縄訪問のうち,二回目は会社の出張だったのだけれど,初日の夜は那覇宿泊だったから,同僚二人と私(三人とも定年間際の年寄り)の三人で夕飯を食いに国際通りに行った.
 居酒屋で沖縄っぽいものを腹に入れてから,歩道でシートを広げて細工物を売っている青年に私達は訊ねた.
「ここら辺で沖縄民謡を聴けるとこはある?」
青年は
「ああ,この向こう側に喜納さんがオーナーの店がありますよ」
と指さして親切に教えてくれた.
 喜納さんとは言わずもがな喜納昌吉のことですね.

 その店,『チャクラ』は,どういうわけかこの夜の客は私達だけで,貸切状態でチャンプルーズのライブを楽しむことができた.
 チャンプルーズの皆さんはとてもフレンドリーで,私達三人と会話しながら沖縄の言葉とかカチャーシーの踊り方を教えてくれた.ライブの最後にはフロア係のお姉さんも一緒に賑やかにカチャーシーを踊ってくれて,私はこの晩からチャンプルーズのファンになった.

 ちなみにカチャーシーについて Wikipedia は,基本的な踊り方を述べた後,こう書いている.

「なお、不慣れな本土の人間が踊ると、たいていは阿波踊りになる。」

 大きなお世話である.orz

【補遺】
チャンプルーズのライブはこんな感じ.
http://www.youtube.com/watch?v=7e5TnjixlF8

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2013年8月27日 (火)

語学力

 このブログの読者の sakai さんが紹介してくださった阿辻哲次著『近くて遠い中国語』が Amazon から届いた.

 いま導入部である第1章を読んでいるところだが,この章は阿辻教授が学生だったときの語学講義の様子が書かれていて,それを読んでいたら胸が切なくなって困った.

 私が大学に入ったのは1968年で,入学したとたんに全学ストライキに突入して授業がなくなってしまった.
 全学ストライキはほぼ一年後に解除されたが,学内はなかなか正常な(というかストライキ前の)状態に戻らなかった.私達学生の大部分は虚脱状態であったし,先生達はこの厄介な学生達を教養課程から速やかに専門学部へ送り出してしまうことを望んでいた.
 だから語学の講義はほとんど出席していなくても,とにかく試験を受ければ「可」をもらえて,私が選択した第二外国語のドイツ語はその「可」組であった.「可」というのは,ドイツ語が全く読み書きできません,という意味である.

 しかし幸か不幸か,製造業の会社に入ってみるとドイツ語が必要な場面に出くわすことはなく,英語がなんとかできれば飯は食えた.実はその英語もあやしくて,論文は読めるが新聞の記事は理解できないというレベルであったのだが.

 学部を卒業して十年余を過ぎた頃に,親しくして頂いていた地方大学の教授のご尽力で,その大学の博士課程にできた社会人枠に押し込んで頂いた.この社会人枠の入試は,社会人のハンデに配慮して,語学能力は英語しか問わないというありがたい制度だったので入れたのである.

 かくして博士課程を修了しておきながら外国語は英語しかわからぬという不思議な博士ができて,そのまま現在に至る.
 だけれども,会社を定年になるまで語学のことはずっと心の傷であり続け,今もそうである.
『近くて遠い中国語』は中国語について書かれた本ではあるが,語学の本ではない.私の古傷がうずくのは第1章だけのようなので,駆け足で第2章に進むことにする.

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2013年8月26日 (月)

無題

 私のPCは,ハードディスクの中に雑多なファイルを入れておくフォルダがあり,整理整頓しようと思って,幾つかのファイルを開いて確認していたら,昨年10月16日付の読売新聞朝刊コラム『編集手帳』をコピペしたテキストファイルがでてきた.
 そのコラムの要旨は以下◆の通り.

◆『編集手帳』筆者の竹内政明氏が三年ほど前に故丸谷才一(2012年10月13日逝去)と食事したときに訊ねた.丸谷才一が芥川賞の選考委員をしていたとき,村上春樹が候補になったが,結局選に漏れた.今これを顧みて「しくじった!」という感想を持っているか,という質問である.これに丸谷才一は怒りを顕わにして「僕が! 僕が、ですか?」といった.

 すっかり忘れていたが,何故この日の『編集手帳』を保存していたかというと,竹内氏がどうしてこんな質問をしたのか理解に苦しんだからである.だって村上春樹を強く推していたのは他ならぬ丸谷才一だからで,それは誰でも知っていることだったからだ.
 つまり「僕が! 僕が、ですか?」は,まるで言いがかりのような質問に対する「僕がしくじったと君は言うのか!」という怒りである.

 続いて丸谷才一はこうも言ったと竹内氏は書いている.
「Aが村上の才能を恐れて授賞に反対した。僕と吉行(淳之介)はAに抵抗したが、力が及ばなかった」(「」内は直接引用)

「Aが村上の才能を恐れて授賞に反対した」というのも私には理解できない。Aというのは瀧井孝作(村上春樹への授賞に強硬に反対したのは瀧井だけと思われる)だろうが,「才能を恐れ」るとどうして「授賞に反対」になるのか全く非論理的で意味不明である.才能ある新人が世に出て,それで瀧井孝作が不利益を蒙るわけもないからだ.

 しかし「才能を妬んで授賞に反対した」のなら大変わかりやすい.思うに,丸谷才一は「妬んで」に類する表現を用いたのではないだろうか.
 それでは刺激的すぎるので竹内氏が「才能を恐れて」に変えたとすれば,改竄だ.もう丸谷才一は亡くなっていて,他の誰も竹内氏のコラムが本当のことか確かめようがないからである.

 竹内氏は昨年10月16日付の文章を書くべきでなかったと思う.墓場まで持って行けばよい話だ,と思う.

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2013年8月25日 (日)

ルーとは何か

 岩石落とし.それはルー・テーズ.

 ルールールルルー.それは夜明けのスキャット.

 トゥギャザーしようぜ.それはルー大柴.

 広辞苑第六版の【ルー】の説明は
“小麦粉をバターで炒めたもの。ソースにとろみをつけるのに用いる。炒める度合によって、白色・淡黄色・茶色の3種類に分かれる。”
である.

 平凡社世界大百科事典では【ソース】の項目に
“ソースに濃度をつける〈つなぎ liaison〉には,ソースの土台になる〈ルー〉と,ソースの仕上げに加えるものとがある。ルーはバターで小麦粉をいためて作り,〈白いルー roux blanc〉およびさらにいためた〈ブロンド色のルー roux blond〉〈茶色のルー roux brun〉がある。”
とある.

 Wikipedia では【ルー(食品)】に更に詳しく
“小麦粉と油、また調味料(カレー粉、スパイス、食塩など)、スープなどを調理して水分を飛ばし固めた、カレー用の製品が市販されており、これも「カレールー」や「ルー」と呼ばれることがある。”
と書かれている.
 (筆者註;そもそもは昭和の中頃に「インスタントカレールー」という名称で発売されたものが,今では短く「カレールー」や「ルー」と呼ばれるようになってしまったのである)

 で,また『発言小町』から.
(30代後半の専業主婦 2013年3月20日投稿)
>夫は夕食時ほぼいないので、私と息子だと一度作るとしばらく食べられる、と計算しているのですが、気がつくと鍋一杯に作ったはずのルーが翌朝には半分になっていたりします。
>あー、夫が帰って来てから食べたんだなぁと思うのですが、それにしてもルーの減りが早いんです。
>食べ物の事でとやかく言うのはイヤだと思って黙っていたのですが、先ほども帰ってきた夫が私の目の前でどんぶりにルーを入れて「カレーは飲み物だから♪」と嬉しそうに飲み干していました。

 鍋一杯にルーを作ってどうする.(笑)
 この主婦の頭のなかでは「カレー」も「カレールー」も「ルー」も一緒くたなのであるが,料理好きでない人達のあいだではこの誤用は割と一般的である.例えば上記のトピ文についた,類は友を呼ぶと言うべきレスをいくつか抜粋する.

>食事の心配もなく不在が多いご主人、ルーなんかでうれしそうにしてくれるご主人、手がかからなくて羨ましいと思いますけどね。

>ルーだけ食べるのっておいしいですよね。

>どんぶりでルー、別にいいと思うよ?

 これまでこんなトピをみても「『発言小町』だから仕方ないよね」と笑って済ませていたが,そうも言っておられなくなった.
 昨日(8/24)の毎日新聞の朝刊コラム『余録』が織田作之助を取り上げて

>出世作「夫婦善哉(めおとぜんざい)」には化粧品問屋の若だんな・柳吉(りゅうきち)と売れっ子芸者・蝶子(ちょうこ)が駆け落ちし、流転の人生を歩むさまが描かれる。最初からごはんとルーを混ぜたカレー、関東煮(かんとだき=おでん)など、大阪のB級グルメが続々と出てくる。

と書いていたからである.『余録』子よお前もか,だ.
 コラム筆者の言いたいことは「最初からごはんとカレー(あるいはカレーソース)を混ぜたカレーライス」だろうから,「最初から混ぜ合わせてあるカレー」とすればいいのに何故ここに「ルー」と書くか.
 ここで,『夫婦善哉』に登場する自由軒ではカレーを「ルー」と呼んでいるのかも知れないと不安になって,自由軒のサイトを見てみた.
 しかし,自由軒は『名物カレー』の説明でカレーをちゃんとカレーと書いていて,「ルー」のルの字もない.これはもう自由軒は食い物のプロだから当然だよねと安心した.
 もちろん織田作之助も『夫婦善哉』中でカレーのことを「ルー」なんぞと書いてはいない.

 プロは大丈夫のようなので安心して,一般はどうなのかウェブを検索してみた.
 するとカレー(カレーソース)と「ルー」の混同が嫌になるくらい出てきた.もうすっかり「ルー」の誤用は定着しているみたいである.
 しかし定着しているからといっても,新聞コラムは言葉の誤用の先頭に立って欲しくないと思う.

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2013年8月24日 (土)

葬式で嘔吐する女

「言葉は生き物だから時代と共に意味が変わるのは当然だ」と主張するのは,大抵の場合,本を読まない頭の悪い人間であるといわれている.
 誰が言っているかというと私だ.

 そういう人間は耳から入ってきた言葉を誤解して,本を読まないものだから誤解を訂正する機会がなく,おまけに周囲には似たような(頭の)者が集まっているから,誤用を始め,広まっていくのである.
 昔はそのように局地的に発生した言葉の誤用が広まるには長い時間が必要であったが,現代日本ではネット掲示板が言葉の誤用の加速機となっているので,全国的な拡大がアッという間である.
 ネット掲示板のおかげで今まさに誤用が支配的になってしまった例の代表が「号泣」だ.
 文化庁の平成22年度『国語に関する世論調査』では,号泣の本来の意味である「大声をあげて泣く」で使う人が34.1パーセントであるのに対して,誤用「激しく泣く」で使う人が48.3パーセントという結果が出ている.

 読売新聞社のサイトにある女性向け掲示板『発言小町』はその誤用加速エンジンの最たるものである.
 普通のネット掲示板であれば「それは意味が違う」と指摘するレスがつく,いわば自浄作用みたいなものがあるのだが,『発言小町』には編集者がいて,誤用を指摘するレスは横レスであるとして排除されてしまう.(私は偏屈者であるので,誤用を見つけるとただちに「それは意味が違う」とのレスを投稿するのだが,今まで一度もトピに反映されたことがない)
 その結果,『発言小町』には「激しく泣く」どころか「忍び泣き」や「すすり泣き」も含めて「泣く」ことをすべて「号泣」と書くレス(私が知る限り全部女性の投稿)が現れるまでになっている.

 さて週刊文春の今週号で中村うさぎが,若い連中は「嗚咽」を「吐き気に見舞われてオエッと声を立てること」という意味で使っていると書いている.
 これは初耳だったので,『発言小町』の中を探してみたら,ありましたね.

(20代後半OL 2013年5月30日投稿)
>約10ヶ月前から原因不明の吐き気・嗚咽(※嘔吐は一切なし)、喉がつまった感じ、唾液が溜まるという症状に悩まされています。

 そのうち『発言小町』には,しめやかな葬儀の最中に泣きわめいたりオエーッとゲロしそうな声をあげる女が山のようにでてくるであろう.
 シュールな世の中である.

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2013年8月22日 (木)

PCで漢字が書ければいいじゃないの

 Wikipedia によると,中国で用いられている漢字(簡体字)の総数は2235字であるという.

 ところが YOMIURI ONLINE (8/21) の記事『中国、漢字書けない若者が急増』に「中国政府が定める、新聞や書籍などで日常的に使う漢字は6500字で、ひらがな、カタカナも使う日本の常用漢字の約3倍。」とあった.

「中国政府が定める」「新聞や書籍などで日常的に使う」のは簡体字のはずで,6500字もあるはずがない.
 これは一体どういうことか.

 一方,漢字全部というか繁体字というか正字というか,これは一説に『康熙字典』の収録文字数が約五万字といわれる.
 もう6500字どころの話ではない.

 どこからこの6500字という数が出てきたのか.不思議である.

 それでちょっと(ほんとにちょっと)調べてみたら,大修館のサイトに『WEB 国語教室』というコンテンツがあり,そこに次のようなことが書かれていた.

******************
Unicodeには漢字が大量に収録されており,収録されている文字数の約3分の2にあたる70,000字強が漢字である.
経緯を要約すると以下の通り.
U+4E00~U+9FFFに約20,000字の「CJK統合漢字」が収録された.
次にU+3400~U+4DBFに6,500字強の「CJK統合漢字拡張A」が追加された.
さらにU+20000~U+2A6DFに約42,000字の「CJK統合漢字拡張B」が追加された.
その後,U+2A700~U+2B73Fに「CJK統合漢字拡張C」が,U+2B740~U+2B81Fに「CJK統合漢字拡張D」が追加された.
******************

 ここに《6,500字強の「CJK統合漢字拡張A」》が登場する.
 (ヨコだが,CJK は中国・日本・韓国の意味)
 でもこの「CJK統合漢字拡張A」は,読売の記事がいう「中国政府が定める、新聞や書籍などで日常的に使う漢字」とは無関係である.
 無関係だがユニコードから連想すると,いま中国で使われている PC の中国語変換ソフト Input Method Editor に収録されている漢字総数が6500字なのだろうか.

 しかしそうすると,私達だって日本語 IME に収録されている漢字のうちのほんの僅かしか書けないわけだし,日常は簡体字を使っている中国人が6500字を書けなくても何の不思議もない.
 これはもう老若男女問わず以前から書けなかったのだから,どう考えれば『中国、漢字書けない若者が急増』になるのか皆目理解できない.

 むしろ日本と同じく,中国でもPCのおかげで若者の書ける漢字が簡体字の範囲を超えて飛躍的に増大したというのが実態ではないか.

 この記事,簡体字も繁体字もフォントのことも知らない記者が書いたのだろうか.
 まぁ読売新聞の記事だから,わけわかんなくても仕方ないよね~と,とりあえず納得.
 誰かほんとのところを教えてください.

この記事の続き
「PCで漢字が・・・」の補遺

そのまた続き
「PCで漢字が・・・」の補遺二

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2013年8月21日 (水)

またバビロニアの悪霊について

 先日書いた記事「バビロニアの悪霊」の続き.
 考えてみると『エクソシスト』の公開はもう四十年も前のことだ.
 これを観たときには,そこら辺のチンピラ悪霊がアメリカ人の少女リーガンに取り憑き,メリン神父が戦いを挑むも敗北して死ぬ,というストーリーだと思ったことを思い出した.

 悪霊が少女に憑依したのは,メリン神父をおびき寄せ,これを葬ることであったと理解したのである.

 しかし,後に悪霊パズズがただのチンピラ悪霊ではなく,中近東からアフリカにかけて人間を苦しめてきた大悪霊であることを知ってみると,どちらかというと下級の聖職者を一人殺害するというのは,ちょっとやることが小さくはないか,という気がする.

『指輪物語』に始まるファンタジーに登場する悪の親玉は,小説だろうがゲームだろうが,世界支配あるいは世界の荒廃を企むものなのである.

 たぶん『エクソシスト2』の製作者もそう考えたのであろう.
 なぜパズズは世界の荒廃計画とは無関係な少女にわざわざ憑依したのか.
 暇なのか.
『エクソシスト2』には伏線として,かつてメリン神父に悪魔払いを受けたアフリカの少年コクモが登場する.
 コクモこそが,パズズが少女に憑依した謎を解く鍵なのである.
 実はパズズの目的はメリン神父を倒すことではなかったのだ.
 ここからあとは,昨日みつけた

http://merci.blogzine.jp/merci/2006/06/2_6f3c.html

にうまく解説されているのでここでは書かない.なるほど~と思ったことである.

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2013年8月20日 (火)

日本地図力(勝手な造語)

 ベランダにアンテナを設置したおかげで,自宅でラジオを聴くことができるようになった.
 それで朝飯を食いながら生島ヒロシの番組を聴いていたら「高校野球で東北勢が頑張ってますね~.日大山形に花巻東に前橋育英…」と言った.
 群馬は東北ではありませぬ.
 でも群馬は東北だと思っている人はかなり多いかも知れない.

『バカ日本地図』
http://www.chakuriki.net/japan/
を見たことのある人は多いだろう.
 私の日本地図力はこれほど酷くはないが,程度の差だと言われればうなだれてしまう.
 だから鳥取と島根,佐賀と長崎あたりの地図を正確に描ける人を私は大いに尊敬する.

 以前住んでいた横浜市にあるコーヒーショップで,隣の席の中年婦人が携帯電話で「今日横浜県庁に行ってきたよ…」と話していた.
 
 静岡県にいる知人に東日本の地図を描かせたら,伊豆の東側が東京都だった.
 皆さん良い人たちばかりである.

 ところでNHK名古屋放送局は,東海・北陸地方の7県で放送している週間天気予報で,今年4月からずっと岐阜と津の表示を逆にしていたと今日のローカルニュースで謝罪した.
 昨日名古屋地方気象台から指摘があるまで気づかなかったという.
 ということは視聴者からの指摘はなかったということだろう.

 東海・北陸地方の皆さんは私や生島さんと同レベルなのかしら.ちょっと安心.これこれ.

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2013年8月19日 (月)

バビロニアの悪霊

 週刊アスキー連載『神は雲の中にあられる』(遠藤諭;9/3号)の冒頭に,アフリカで「“イナゴの大群”という言葉はあるが、おびただしい数で大地の草を食べつくすのは“バッタ”なのだそうだ」とあった.

 それで思い出したことがある.
 アメリカ映画『エクソシスト』は日本公開が1974年であるが,大学を卒業して地方に就職したある日,暇つぶしに観にいって大変感動した.

 映画の冒頭で「イラクでの遺跡発掘を調査していたメリン神父は、悪霊パズズの像を発見する。それは、十年前にアフリカで彼と死闘を交えた悪霊であった。メリン神父は「この邪悪な宿敵と再戦する日が近い」と予感する」(Wikipedia から引用)のだが,この「パズズ (Pazuzu) は、アッカドに伝わる風と熱風の悪霊であり、魔神の名である」「蝗害を具神化した存在とも考えられている」(同引用)である.
 ここでいう蝗害とは,アフリカや中東でサバクトビバッタが大発生して深刻な農業被害をもたらすことをいう.

 映画『エクソシスト』はメリン神父と悪霊パズズの戦いを描いたものであって,パズズとバッタの関係についてはふれていない(よね?).
 それで『エクソシスト2』で唐突にバッタがでてきたとき,なぜバッタなのかわけがわからず,つまらん映画だと思ったのだった.

 今でこそパズズについて上に書いたような知識をもっているが,もう一度『エクソシスト2』を観たらどうなんだろう.この映画,絶賛する向きが多いという話を聞くのだが.

【関連記事】
またバビロニアの悪霊について (2013年8月21日)

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2013年8月17日 (土)

ラジオを聴くぞ

 ラジオ深夜放送のことを書いてから,やおら古いラジオを引っ張り出してSWオンにしたが,NHKのラジオ深夜便ですら感度不足でまともに聴くことができなかった.
 今の住居は東京の西部で,しかもマンションであるため,もともとラジオ放送が快適に聴けるような環境ではないらしい.

 だがそうなると余計にラジオ深夜便を聴きたくなった.
 対策は二つ.
 1) できるだけ SN 比の高い受信機を用いる(FM チューナーの中波バンドは論外)
 2) これに外部アンテナを接続する

 ところが調べてみると,いま販売されているラジオは,内蔵アンテナと別に外部アンテナに接続できる端子がないものがほとんどらしい.
 そのような現在のラジオ事情下,選択肢が数えるほどしかない中から,選んだのは SONY ICF-EX5MK2 である.
 かつて名機と呼ばれた受信機がすべて製造終了したいま,一つ残った準名機である.
 これにやはり SONY のワイドレンジアンテナ AN-12 をベランダに設置して接続することにする.

 さて日本の家電メーカーで(実際の生産地はともかく)ラジオなんてものを未だに作っているのは SONY だけなのかしら.
 だとすると偉い.実に偉い.
 創業精神というかなんというか,ラジオだけは作り続けるぞということならば,男としてその意気に感ずる.

 たとえソニータイマーが内蔵されていて保証期間を過ぎると自動的に故障する設計であるとしても,私は ICF-EX5MK2 を買う.

 だが意気に感じて買うのはいいが,これまで幾多の SONY 製品に裏切られてきた私の歴史に新たな一ページを書き加えることになるのだろうか.
 なんとなく不安.

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2013年8月16日 (金)

DJ

 昨日の報道によれば,還暦過ぎの世代においては知らぬ者なきディスクジョッキーの高崎一郎氏が亡くなった(8月10日)という.享年八十二.
 高崎一郎といえば,のちにビジネスでも成功したようだが,関東地方で青春をすごした私にとっては何といっても深夜放送ラジオの DJ であり,『オールナイトニッポン』であり,BITTERSWEET SAMBA だ.

ちょっとヨコであるが深夜放送の歴史を Wikipedia から引用してみる.
1965年~文化放送『真夜中のリクエストコーナー』 DJ 土居まさる
1966年~ラジオ関東『オールナイトパートナー』(6月10日開始で最先発)、
1966年~朝日放送『ABCヤングリクエスト』
1966年~ラジオ大阪が『オーサカ・オールナイト 夜明けまでご一緒に』
1967年~TBSラジオ『パックインミュージック』
1967年~ニッポン放送『オールナイトニッポン』
1967年~MBSラジオ『MBSヤングタウン』
1968年~東海ラジオ『ミッドナイト東海』
1968年~文化放送『日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲』
1969年~文化放送『セイ!ヤング』
1974年~TBSラジオ『いすゞ歌うヘッドライト〜コックピットのあなたへ〜』
1990年~NHKラジオ第一放送『ラジオ深夜便』

 ラジオ深夜放送ではたくさんの「パーソナリティ」が活躍したが,音楽番組の DJ と呼んでいい人はニッポン放送の糸居五郎,高崎一郎,そして深夜放送帯ではないが TBS のケン田島くらいのものだったろう.
 番組で海外ポップスを流すときに歌手名や曲名の発音がすてきだったのは,高崎一郎とケン田島の二人.二人ともロンドン生まれ.
 邦題“内気なジョニー”がヒットしたとき,歌手の Joanie Sommers を「ジョニー・ソマーズ」と発音するアナウンサーが多い中で, Johhny をJohhny ,Joanie をちゃんと Joanie と発音していたのはこの二人だけだったと記憶している.(ネット上では今でも「内気なジョニー/ジョニー・ソマーズ」と書かれている)

 とまれこれで当時の日本の DJ を代表した糸居五郎と高崎一郎のお二人が亡くなられた. ケン田島氏は御健在であろうか.

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2013年8月15日 (木)

昭和史の前期について学びたい

 新潟の寒村に生まれ,農家の三男であったために早く家を出て海軍を志願し,南方において戦うも,病を得て新潟の病院で敗戦の日を迎えた私の父は戦後,三人の子に一切戦中のことを語らなかった.

 戦死者は語らず,生き延びた者もまた語らず.

 今はどうか知らぬが,私が高等学校のときの日本史授業は明治までで終わった.大方の教師は昭和史に触れることを恐れていたのだろうと思う.

 おかげで昭和の前期に何があったのか全く知らぬまま世に出た私は,この歳になってもまだ,今に残された昭和史の資料を拾いながらとぼとぼと歩いている.

 沖縄県知事島田叡,沖縄根拠地隊司令官大田実,最後の海軍大将井上成美・・・
 戦争末期,沖縄戦から敗戦に至るまでの間,負け戦を我が身に引き受けて戦った心高潔なたくさんの人々のことを考えながら,今日一日を過ごそうと思う.

【今月の読書予定】
梯久美子『昭和二十年夏、女たちの戦争』(角川文庫)
梯久美子『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮文庫)
梯久美子『昭和の遺書―55人の魂の記録』(文春新書)

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2013年8月14日 (水)

お祝いには白いご飯を

 たまさかに白米の飯たきたれば何の祝と子は問ひにけり
      藤原優 『昭和萬葉集巻七』(講談社)

 小学生の頃,我が家の主食は麦飯であった.
 低学年のときは配給米(死語)と押し麦を六分四分に炊いた.それが次第に米の割合が増えて,たぶん三年生のあたりで母が「今日からお米が八割だよ」と言い,いま私達がとろろ飯にして食う麦飯のレベルになったのをおぼろげに記憶している.
 ではあるが,白米の飯を炊いて食うことがなかったわけではない.

 江分利万作様ご幼少のミギリの昭和三十年代,小学校の遠足には握り飯持参が定番であった.遠足とか運動会とか,そのようなハレの食事には白飯を炊いたのである.
 池田勇人の言と伝えられる「貧乏人は麦を食え」(実際にはそこまで言っていないが)そのものの貧乏人であった江分利家なのになぜ白飯を炊いたかというと,ハレの食事ということの他に,押し麦の割合が多いと,ぱらぱらと崩れて握り飯の形が保てないということがあったからでもある.握り飯にできる麦飯は米八麦二くらいではないか.
 それでは米麦六分四分が家庭の常食であった時代(ちなみに刑務所の塀の中でも,この当時は米麦六分四分であったと,刑務官だった父から聞いた;現在は七分三分だという)に,主婦は日常食としての握り飯をどのようにして製造したのであろう.朝から晩まで雑巾を絞り洗濯板で揉み洗いして鍛えた 50kgw を超える握力で強引に握り飯を成形していたのであろうか.

 話は唐突に戦国時代へ飛ぶ.
 三河国の東端に位置する長篠城に拠る奥平貞昌は天正三年五月,武田勝頼が率いる一万五千の軍に攻囲された.
 城兵達は奮戦防衛するも,武田軍から放たれた火矢のために兵糧庫が炎上焼失した.
ために長篠城は食糧を失い,落城の窮地に立たされた.
 そこで貞昌は徳川家康の岡崎城へ使者を送り,援軍を要請せんとしたが,ここで使者の役目を買って出たのが足軽鳥居強右衛門であった.
 強右衛門は夜陰に紛れて城を抜け出すと翌日には岡崎城に着き,主君貞昌の援軍要請を家康に伝えた.このとき岡崎城には武田軍との決戦のために織田信長が三万の軍勢を率いて到着しており,織田徳川連合軍三万八千が長篠に向けて進軍することとなった.
 役目を終えた強右衛門であったが,援軍の長篠進撃の知らせを一刻も早く自軍に届けるべく長篠城にとって返した.
 しかし不運にも城の近くで強右衛門は武田の兵に捕えられてしまう.

 ここからあとは,軽輩鳥居強右衛門が五百年後の世にもその名を伝えられることになった一世一代の名場面であるからして,歴史好き諸兄ならずんば Wikipedia を参照していただくことにして中略.
 で,その鳥居強右衛門が握り飯となんの関係があるか.
 クライマックスで握り飯が登場するのである.
 強右衛門が長篠城の前に引きずり出される前に,強右衛門の監視をしているうちに親しくなった武田家の家臣落合左平次道久が強右衛門に握り飯を食わせてやるのだ.
 左平次「腹が減っては城に向かって大音声張り上げることかなわぬであろう,ささ,これを腹にいれられよ」
 強右衛門「かたじけない」
 強右衛門は握り拳二つ合わせたほどの大きさの握り飯と,味噌を添えた長ネギ一本をばりばり食いながら平らげると,堂々たる足取りで城の前に歩いて行った.

 以上,講釈師みてきたような嘘を言いというが,上で私が根拠にしたのは五十年も前に見た『太閤記』(1965年のNHK大河ドラマ)であります.つまり嘘ですね.

 戦国時代に,まして戦の最中に武士が白い飯を炊いて食うはずはなく,実際に徳川家康は白飯を嫌い,麦飯を常食していたという記録がある.
 麦飯であんな大きな握り飯は作りようがなく,今からみれば『太閤記』の演出には時代考証に誤りがあったと思われるが,昭和四十年といえば庶民の生活から麦飯が姿を消し,白飯を日常食うようになった時代だから,これはまぁ仕方がないだろう.

 さて最初の疑問に戻る.
 昭和二十年代後半から三十年代初めにかけての時代,押し麦をしこたま入れて炊いた日常の飯で,上手にお握りを作るには何か工夫があったのだろうか.
 海苔で巻けば一件落着だけれど,海苔って高かったのよね.

余談.
 読売新聞社のサイトに『発言小町』なる掲示板コンテンツがある.
 この掲示板に群れをなしている知的水準が低いといって差し支えない連中(主に女性)は,米と飯の区別がつかない.十人中の九人が「炊きたてのアツアツの白米」「お茶わんに白米をよそって」なんてことを平気で書きやがるのである.既にして我が国の米飯食文化は崩れつつある.

補遺:発言小町における白米をボリボリ食う女達
(35歳専業主婦)
>私だけで、一食で白米どんぶり2杯、パン1斤は軽く食べます。

(30代女性)
>昼は前日のおかず、白米、夜は魚か肉、野菜のおかず、味噌汁、白米

(20代女性)
>箸やお茶や白米、お茶のお代わりは全自動状態で目の前に来る。

(20代女性)
>自分だけのご飯だったら白米と野菜炒めとか麺類のみといった感じに済ませているのですが

補遺二:
 発言小町ではごく少数派であるが,飯を白米と呼ぶことに違和感を覚える女性もいる.トピ文によると,カレとやらがご飯のおかわりをするときに「白米おかわりちょうだい」と言うのだそうで,それを聞くと「イラッ」とするというのである.
 定食屋とかトンカツ屋では「ご飯おかわり自由」と書いた紙が壁に貼ってあったりすることがあるが,それでもなお,このテの馬鹿男は店員さんに「白米おかわりください~い」と頼むのであろう.
 件の女性には,そんな馬鹿野郎とはすぐ別れなさいと言ってあげたい.

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2013年8月12日 (月)

テレビ局の理想とするところ

 週刊アスキー先週号の連載記事『神は雲の中にあられる(第37回)』で遠藤諭氏が次のようなことを書いていた.

 ある民放キー局の経営幹部が遠藤氏に「テレビ局にとっては“真剣に見ていないとき”がテレビの理想なんですよ」と言ってのけた.(「」は記事から直接引用)

 私達視聴者が真剣にテレビに見入っているときはCMが邪魔である.だから見たい番組は一度録画して,再生するときにCMをスキップして見るようなことまでしたりする.
 これはCMが利益に直結するテレビ局としては困る.
  逆に,どうでもいい内容の番組であれば,わざわざ録画する人はいないからCMをスキップされることはなく,真剣にみてはいないからCMが邪魔だと嫌われることもない.
 こうして,上に書いたテレビ局幹部が言うように,(放送する側にとって)理想的なテレビ番組とは視聴者が真剣に見ないような番組だという結論が導かれるのである.

 1985年8月12日(月曜),のちに御巣鷹の尾根と呼ばれることになった,群馬と長野の県境にある高天原山の尾根(群馬県多野郡上野村楢原)に,日航機123便が墜落した.

 この時の報道は日航機が行方不明の段階から始まり,同機の航跡が次第に明らかとなって,遂に捜索が御巣鷹の尾根の悲劇的な事故現場に到達し,事故翌日の昼,私達がブラウン管の向こうに奇跡的な生存者救出を目撃するまで二日間にわたり昼夜続いた.

 Wikipedia によれば,事故のテレビ報道第一報はNHK総合テレビ19時26分だった.ニュースのあとに「NHK特集」が予定されていたが,19時35分頃に同番組を中断し,その後は事故の報道特別番組を終夜放送した.そして翌13日も朝から通常番組を休止して臨時ニュースを続けたとある.
 民放各局も同様であった.

 多くの国民が二十八年前のその二日間,真剣にテレビの事故報道を見たと私は思う.
 つまり冒頭の民放キー局の幹部によれば,民放各局は民営テレビ放送というものの理想に反した番組を,丸二日間も流し続けなければならなかったわけである.

 昭和三十年代の初めに故大宅壮一がテレビ放送を「一億白痴化運動」と喝破して以来,今日に至るまでテレビは,視聴者が真剣に見ない番組を放送するという理想を追求してきた.
 民放幹部のなんとまあ正直なことよ.遠藤氏の連載記事のタイトルは「この半年でいちばんショックを受けたテレビの話」であるが,ショッキングなまでの正直さである.

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2013年8月11日 (日)

恋愛専科

 邦題『恋愛専科』という青春映画は,還暦を過ぎた人々によく知られているんじゃないかと思う.
 この作品の不幸は,劇中挿入歌の“Al Di La”があまりにも有名になったおかげで,映画作品そのものは忘れ去られてしまったことだ.

 同じく邦題『避暑地の出来事(A Summer Place)』も,『夏の日の恋(Theme from A Summer Place)』の大ヒットのおかげで,その陰に隠れてしまった.

 両作品とも主題曲・歌はいまでもポピュラーなのに,本体の映画がこれだけ完璧に忘れられてしまうということは,きっとB級の誉れ高い作品だったのでしょう.観てないけど.

 でもそれだけに,話のタネに,観てみたいとずっと思ってきた.
 しかし,観たいのは山々であるが,そして Amazon でも楽天でも輸入盤のVHS が1万円以上だせばいつでも買えるのだけれど,1万数千円はいくらなんでもなぁ.

 と思っていたら,いつのまにか,というか昨年から,TSUTAYA が4千円というリーズナブルな価格で DVD を通販していたのである.
 おお買うぞ買うぞ買わいでかっ,と買い物かごに入れて[レジ]をポチッとして先に進んだら,TSUTAYA の通販の新規利用者は,まず購入手続きの前に Yahoo! ID を登録せにゃいけんというのである.(既に Yahoo! ID を持っていれば OK であるが生憎私は持っていない)

 Yahoo! ってのは,少し前にも ID とパスワードをダダ漏れさせて,脇甘すぎ.
『恋愛専科』も『避暑地の出来事』も,Yahoo! ID を新規に登録してまで買うほどのものか.そう思って手続き途中で引き返した.

 ああ誰かが,TSUTAYA で購入して観ちゃったやつを Amazon に中古出品してくれんかなぁ.

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2013年8月10日 (土)

糟糠の妻

 長年にわたり三菱製の19インチモニターディスプレイ RDT196V を使ってきたが,いよいよ画面の数か所に焼き付きが目立ってきたので,新調することにした.

 あ,何気なく焼き付きと書いたが,液晶でもそういうのだろうか.

 CRTディスプレイの時代はそう呼んでいたが,内面に塗られた蛍光塗料が電磁波に長期間暴露されて不可逆な変化を起こした状態はいかにも「焼き付き」という感じである.

 改めて確認してみたら,液晶でも長時間同じ画面を表示させていた場合,画面を切り替えても前の画面がうっすらと表示される(ゴーストイメージ)ことがあり,これを「焼き付き」と呼ぶことはあるようだ.
 ただしこれは不可逆変化ではなく,液晶パネルの帯電が原因であるので,帯電が解消すれば元に戻るのだそうだ.

 ということは,私の三菱製モニターは焼き付きではなく,色むらができて元にもどらない,という状態なのだろう.

 では次のモニターに何がいいかであるが,もう RDT196V のような square ディスプレイの時代は終わってしまったとみえて,19インチ square モニターは入手困難になっている.

 それで色々と検討した結果,新調するモニターの候補を,23インチのフルHD である EIZO FlexScan EV2336W,MITSUBISHI RDT234WLM-D,ASUS MX239H に絞った.価格はいずれも\30,000前後.

 EIZO FlexScan EV2336W は,EIZO としては安すぎで,ちょっと不安.

 ASUS MX239H は魅力的なのだが入力端子が HDMI x 2 であり,変換ケーブルを介してラトックシステムのPC切替機(DVI出力)と接続したときにちゃんと動作するか不安.

 それで結局,また三菱の RDT234WLM-D に決めた.

 RDT234WLM-D は今日納品なので,糟糠の妻 RDT196V はサブシステムにつないで老後をすごしてもらう.

 なんとなく,ありがとうご苦労様でした,といった感慨がある.

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2013年8月 9日 (金)

平和祈念像

 あんまりにも昔の話なので,Web上の資料に頼りつつ書く.

 かつての東宝映画で,江利チエミがサザエさんを演じたシリーズものがあった.
 粗筋をネットで調べたところ,おそらく1958年のシリーズ第四作『サザエさんの婚約旅行』ではないかと思うのだが,サザエとカツオが若松に住むマスオさんを訪ねる途中で長崎に寄る.

 そのワンシーン.
 平和公園の平和祈念像前でカツオがおどけて祈念像と同じポーズをとると,両手をあの形にしてそのまま固まってしまう.

 そこでカツオがサザエに「ごめんなさい,なんとかして~」と言ったかも知れないが,そのあとの話の進行は覚えていない.

 なにしろ1958年のことだから,喜劇映画とはいえ,わざわざ長崎にロケしておきながらカツオの振る舞いがただのギャグだったとは思われない.
 ではあるが,それなら原爆に関するメッセージがあったかというと,そうでもないような.
 あのシーンに何の意味があったのか,何かの伏線だったのか,まったく思い出せない.

 上のことはもうほんとに些細なことだが,そろそろ人生店仕舞いの私であるからして,ちょっとでも気になることがあるなら確認しようかと思ったが,AmazonでもTSUTAYAでも最早江利チエミのサザエさんものは手に入らないようだ.ネット上にこの作品の短い紹介文が見つかるのみである.

 私は長崎には三度行ったが,平和公園を最後に訪ねてからもう十年が経つ.
 サザエさんシリーズ第四作を観に私を映画館に連れて行ったのはまだ若かった父であるが,終戦時の階級は海軍兵曹長であったという父が齢九十で逝ったのは,私の最後の長崎旅行から暫くしてである.
 江利チエミのサザエさんは半世紀前,遠い遠い時代の話になってしまった.

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2013年8月 8日 (木)

kp41 syndrome on Diablo2

 昨年末頃から,MSオフィスを入れてあって仕事に使ったり,Webのブラウジングに使ったりしていたメインPC(ドスパラのBTO)が,突然ブルースクリーンになったり再起動するようになった.

 初めは理由がわからず,OSを再インストールしても状況が変わらないことから,何となくこれはハードの故障くさいと思われ,マザボの肉眼観察ではコンデンサに異常もないので,電源(550W)の老朽化が原因かもと思い,交換しようと秋葉のドスパラにでかけてブランドものの750W電源を買ってきた.
 なぜブランドものかというと,ドスパラのBTO製品は,カスタマイズしない標準の電源は安物だという定評があったから,どうせ交換するならと奮発したのである.

 さて電源を購入したまま未だ新品電源に交換していないある日,偶然にもWebに,私のマシンで発生したのと同様の症状について書かれたコンテンツを発見した.
それは主としてWindows7の64bit版に現れる症状で「kp41病」と呼ばれていることを知った.

 kp41病の原因は未だに不明のようで,希にメモリ周辺の不具合が原因の場合(メモリを交換するとすぐ治ることがある)もあるが,主に電源の省エネ設定との関連が疑われるのだという.
 具体的な処置は,いくつもの項目にわたる Windows7 の省電力設定を,とにかくすべてオフにしてしまうとよいらしい.

 そこでネット上のいくつもの体験談が勧める方法に従って,エネルギー多消費型・反エコマシンにしてみた.
 すると見事にkp41病は完治したのであるね.

 ではあるが,電源の設定変更で治癒するなら,なぜ昨年末頃に発症して,それまで何でもなかったのかが不思議だが,でも結果オーライだ.深く考えないことにする.

 ここまでが前ふり.

 このマシンには,ハック&スラッシュゲームの古典たる Diablo2 が入っている.
 このゲームは,Windows7 では,ゲームオンの状態でほったらかしに数時間,キャラを町で待機させていたりすると描画がカクカクになってしまって,ダンジョンに潜って敵と戦うどころの状態ではなくなる.
 そうなったらゲームをいったんセーブして再起動するしかなかったので,印象的にはメモリーリークが起きているように思われた.
 これが不思議なのは,Webにこの症状に関する情報が見当たらないことで,グラボを交換しても治らないので困っていた.
(最近のゲーム,例えば Skyrim ではこんなことは起きない)

 ところが,ところがである.
 kp41病が治ったら,Diabl2 の上記の症状も嘘のように消えてしまったのである.

 どうやらDiablo2 のカクカク描画はkp41病と,というか電源の省電力設定と関連があるらしい.理屈は全然わからないが.
 これについてWebに情報がないのは,Windows7 64bit でDiablo2 なんぞを未だにやっている人間がレアだからであろう.
 DirectX 9 時代の,他の古いゲームは省電力設定の影響を受けるのだろうか.ともかく kp41 と古いPCゲームに関する一つの情報として以上のことを書いておく.

 で,せっかく購入した高級ATX電源をどうしよう.
(この記事は,9/9 に補足説明があります)
http://mreveryman.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/kp41-syndrome-o.html

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2013年8月 7日 (水)

USB

 このところ立て続けにPC周辺機器がご臨終で,ちょっと頭が痛い.

 まずBUFFALO製の超小型USBメモリ(キャラメルくらいの大きさのやつ)が二個,PC側から認識できなくなった.
 これはPCゲームのセーブデータが入れてあっただけなので大した被害ではないが.

 続いて同じくBUFFALO製の外付けブルーレイ・レコーダーが逝った.
 一昨日は,奇しくも同じBUFFALO製の無線LAN中継器が死んだ.

 ここまでなら、相次ぐ故障の共通因子はBUFFALOだ,ということになるだろう.
 ところが昨日,四台のPCを切り替えるのに使っているラトックシステム製PC切替機がおかしくなり,PCがすべて起動しなくなってしまった.
 慌てて色々いじくってようやく判明したのは,原因がUSBポートの接触不良だということだった.

 さて上記のUSBメモリ,ブルーレイ・レコーダー,無線LAN中継器などは皆USBで接続するものなのである.
 それでWebを検索してみると,USBポートの接触不良によるトラブルは結構一般的なものらしい.

 笑えるのは,接触不良になったUSBポートの接触面を研磨するパーツ(サンワサプライ「USBポートクリーナー」)がちゃんと売られていることである.(笑い事ではないと早速通販で注文したが)

 思うにどうもUSBポートというのは物理的な信頼性に欠けるのではないか.
 HDDや光学ドライブのSATAコネクタもそうだけれど,USBポートも抜き差しにほとんど力がいらないことは皆様既にご案内のとおり.
 D-Sub15ピンなんかに比較してUSBは,ちゃんと入ったのかそうでないのかよくわからない.
 よしっ,接続したぞっ,という挿入の歓びが感じられぬのである.こらこら.

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2013年8月 6日 (火)

乱買

 物欲ってなんだろう.
 たとえば臨時収入(会社員ならボーナスとか)があったときに,清水の舞台から飛び降りたつもり(死語)で新潟県魚沼産コシヒカリを買い,10キロだぜ10キロっ,銀舎利を炊いてこれにナスとキュウリと大葉とミョウガを細かく刻んで醤油漬けにした山形名物「だす」をのせて食ったら美味いのなんのってナハなは那覇那覇那覇(死語)というような行動は物欲の発露とはいいにくいような気がするのである.
 コシヒカリに高級車を代入しても同じ.つまり一点豪華は物欲とは無縁である.

 数の問題か.
 しかしコレクターという存在の在り方も,物欲とは遠いように私には思われる.
 これは物欲というより情熱か.

 前振りが長いですか.そうですか.

 すこし前に Amazon を何気なく散策していたら,『犬夜叉』全巻セットが出品されていた.
途中までの三十巻セットというのはよく見かけるが,全巻セットは珍しい.
 ためらうことなく注文し,それが先日届いた.

 毎日二冊ずつ読んでいるのだが,たぶん私は二十巻くらいまで読んでいると思うから、まだ既読のところだ.
 先は長い.なのにこれが全部で六千数百円という安価な娯楽なのである.
 全巻フルセットだぜフルセット,枕元に積み上げて埼玉県川越名産芋けんぴをもぐもぐ食いながら読んだら面白いのなんのってナハなは那覇那覇那覇(死語)というような行動は物欲の発露とはいいにくいような気がする.

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2013年8月 5日 (月)

ON LONDON BRIDGE

 大人買いというのは,子供が欲しがるようなものを金にあかせて(笑)買いまくることであるが,CDとかDVDを手当たり次第購入するのはどう言えばよいのか.

 実はこの一週間で次のようなCDを通販で買った.

Connie Francis の四枚組ベストアルバムの第一集と第二集.
Joanie Sommers のアルバムを二枚.
Brenda Lee のアルバムを一枚.
Nat King Cole を同上.
Jo Stafford 同上.
福田進一『Estrellita』
夏川りみ『沖縄の風』
夏川りみ『あすという日が』
夏川りみ『ぬちぐすい みみぐすい』
沢田研二の三枚組A面コレクション
アリス『ALICE XI』
松山千春『夢破れて尚』
新沼謙治『ふるさとは今もかわらず』
一愛『雲のうつし絵』

 我ながら正気の沙汰とは思えぬ.
 で,買ってよかったよかったと思ったのは,Jo Stafford  の一枚.“On London Bridge”の懐かしさに涙しました.

 新沼謙治と一愛もよかったです.

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2013年8月 4日 (日)

心機一転

 長年勤務した会社を定年になったのは三年前だが,それからこの三月まで,一年ごとに契約更新する再雇用で居残っていた.
 
 

 一年契約更新の再雇用というのは,つまり新入社員であり,非正規雇用であり,職場で一番下っ端なのである.
 しかるにその上司は私の元部下なのである.
 元部下である現上司はよい人物であるので,私を元上司として丁寧に扱ってくれるが,それだけに私としては心苦しいし,彼も大変やりにくいだろうなあと思っていた.

 しかしありがたいことに,その会社とは別のところに紹介してくれた方がいて,おかげさまで今年三月に再雇用を辞め,それまでより気兼ねのいらない仕事にありつけたのである。

 で,これを機会にこのブログを再開しようと思った次第である.いつまたやる気がなくなるかわかったものではないが.

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