沖縄旅行ノート(1)
沖縄に行って来た.
昨年,会社員生活三十周年記念のつもりで,東北三大祭り観光のツアーに参加し,これがバスガイドと添乗員付き団体旅行への私のデビューだったのだが,それですっかりこの手の旅行に対する偏見が払拭されてしまい,また出かけてみたという具合である (それ以前は全旅程自由行動というツアーばかりだった).
ガイド付きだということは旅行の前に色々と下調べをしなくてもいいということで,ガイドさんの説明してくれたキーワードを頭に入れて帰ってくれば,あとで旅の思い出を反芻するのにとても役に立つ.
旅日記は『休日散歩』にいずれアップする予定だが,昨日夜からネットやその他の資料を漁って「旅のキーワード」を調べていると,実に勉強になることばかりである.記述が重複するだろうが,その幾つかをノートとして書いてみる.
今回のツアーの名称は「南国のクリスマス」といって,定番ではないイベント・ツアーだった.一昨年が初めてで,今年のが二回目の催行だと添乗員君が言っていた.オフシーズンのツアーでも,名前の付け方で随分と印象が違うもんだな (^^;),と思ったが,それはそれとして,この旅行の私のメインテーマは「沖縄戦」だった.そしてその感想は,行って良かったというものである.初めて知ることも多かった.
その一つに,沖縄守備にあたった日本軍司令官の一人である牛島満のことがある.
戦史に詳しい人には常識かも知れない (たぶん有名な事実なのだろう) が,この軍人は南京大虐殺の時の旅団長だった.
昭和十二年 (1937年) 七月七日,日中戦争開始の時に最初に動員された第六師団第三六旅団は鹿児島四五連隊・都城二三連隊で編成されていた.その旅団長が牛島満少将だった.
その年の十二月十一日夜から十二日の早朝にかけて,牛島満率いる第二三連隊は南京城西南角直下に取り付き,第四五連隊は南京城に迫っていた.そこで牛島が発した攻撃命令は以下の通りであった.(読谷村史,『戦時記録 上巻』,「序章 近代日本と戦争 日中戦争」から引用)
《一、旅団は十二日一六時を期し、第二三連隊をもって南京城西南角を奪取せんとす。
一、古来、勇武をもって誇る薩隅日 (さつぐうにち) 三州健児の意気を示すは、まさにこの時にあり。各員、勇戦奮闘、先頭第一に、南京城頭に日章旗をひるがえすべし。
チェスト行け。
昭和十二年十二月十二日一〇時
旅団長 牛島満》
「チェスト」は薩摩の言葉で,掛け声である.この牛島は,後に沖縄南部守備戦で自決する前に,幾多の沖縄住民を死に追いやった命令を残している.
《全将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは、同慶の至りなり。然れども、今や刀折れ矢尽き、軍の命旦夕に迫る。すでに部隊間の連絡途絶せんとし、軍司令官の指揮困難となれり。爾後各部隊は局地における生存者の上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし》 (《沖縄戦を考える 》から引用)
自分は現実逃避しておきながら,残った兵員と住民には降伏を許さず,地獄図のごとき死を強要したのであった.
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(本記事は,既に閉館した個人サイト《江分利万作の生活と意見》に掲載した文章の体裁をブログ用に整え,引用元のリンクを張ったものである)
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