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2003年12月

2003年12月29日 (月)

沖縄旅行ノート(3)

 南部戦跡地区の中心である摩文仁の丘のふもとに作られた平和祈念公園からバスで少し行くと『ひめゆりの塔』がある.塔と納骨堂のある場所の奥に『ひめゆり平和記念館』があり,中に入って見学順路に従って展示物を見ていくと教育勅語の謄本があった.
 教育勅語についておさらいしてみる.平凡社世界大百科事典から要約すると以下のようである.

 大日本帝国憲法発布 (1889年2月11日) によって国策の基本が建てられた後,翌1890年2月に開かれた地方長官会議で,勅諭の形式で教育方針を示してほしいとの要求が政府に出された.この要求は閣議でとりあげられ,榎本武揚の後任文相である内務官僚芳川顕正に対して天皇から徳育の基礎となるべき箴言編纂が命ぜられた.
 文部省は帝国大学教授中村正直に草案執筆を委嘱したが,完成した中村草案は哲学的,宗教論的であるとして法制局長官井上毅に批判された.次いで井上自身が草案を起草し,結局井上草案が基礎となったものが第一回帝国議会開会直前に発布された.
 発布された教育勅語の謄本の原文は次の通り.

教育ニ関スル勅語
 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我ガ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス 爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ 是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラズ又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス 朕爾臣民ト倶ニ挙挙服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 明治二十三年十月三十日
 御名御璽

 謄本では「御名御璽」となっているが,天皇が署名押印した親書では御名は「睦仁」と書かれ,「天皇御璽」が押されている.この親書 (レプリカ?) の画像は明治神宮のサイトに掲載されている.

 さて勅語発布と共に文部省はその謄本を全国の学校に下付し (下記文部省訓令) ,祝祭日の儀式などの時に校長らに奉読させたが,教育勅語の普及に最大の役割を果たしたのは小学校であり,祝祭日儀式のみならず,修身,国語,歴史,唱歌など各教科で日常的に教育勅語の精神を徹底させる指導が行われたのである.

文部省訓令     直轄學校
 今般教育ニ關シ勅語ヲ下タシタマヒタルニ付其謄本及本大臣ノ訓示各一通ヲ交付ス能ク聖意ノ在ル所ヲシテ貫徹セシムヘシ
明治二十三年十月三十一日  文部大臣 芳川顯正

 1945年8月の敗戦により,この天皇を頂点とする教育体制は占領軍の指令と日本の教育関係者自身の反省から解体を求められ衆議院で排除決議,参議院で失効確認の決議が行われた.

教育勅語等排除に関する決議 (昭和23年6月19日衆議院決議)
 民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であつたがためである。
 思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
 右決議する。

教育勅語等の失効確認に関する決議 (昭和23年6月19日参議院決議)
 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
 しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
 われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすぺきことを期する。
 右決議する。

 しかるに,衆参両議院の決議により
院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言
し,
全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力を
することになったにもかかわらず,教育勅語は死ななかった.実に文部省自身が,昭和二十六年に文相天野貞祐が『国民実践要領』を発表したがごとく,国家が国民に道徳基準を示す旧態を維持せんとしたのである.

 さらに昭和四十九年,当時の首相,闇将軍田中角栄が,教育勅語に示された徳目は古今東西に通用するものと公言し,これ以後,神社関係者のみならず学界,政界,財界に教育勅語の意義を再評価する動きが強まった.

 大勲位中曽根康弘などは政界引退してもなお教育勅語的理念の復活を策しているが,彼らの言い分は「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ」て何が悪いという点にある.
 一見もっともらしいが,これらの徳目は「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」すべきとして組み立てられたピラミッドであることを忘れてはならない.字面でなく理念の問題なのである.

 全国紙は扱わなかったようだが,共同通信が配信して YAHOO! などのポータルサイトに掲載された最近のニュースで次のようなものがあった.

YAHOO! NEWS 2003/11/4 11:55
市議が中学祝辞で教育勅語 保護者反発、大阪
 大阪市東淀川区の市立柴島中学校 (東井雅和校長) の新校舎完成式に、来賓として出席した自民党の床田正勝大阪市議 (34) が、祝辞として教育勅語を暗唱していたことが4日、分かった。
 一部の保護者は「戦前の教育勅語をなぜ持ち出すのか」と反発、校長あてに質問状を送付した。
 同校によると、完成式は今月1日、体育館で全校生徒と保護者ら計約350人が出席して行われた。床田市議は祝辞の途中で教育勅語の全文を突然暗唱し、国旗や国家の大切さについて発言。直後に、保護者の1人が「異議あり」と声を上げたという。
 床田市議は「両親、兄弟などを大切にし、社会貢献する気持ちが今は特に必要だということを説明したかった」と話している。
(共同通信)

 この報道の床田正勝大阪市議の年齢をみるがいい.三十四歳とは恐れ入るではないか.
 この男は学校の式典で勅語の一部を抜き出して暗唱したのではない.その全文を生徒に訓辞したのである.
 我が国に天皇制のある限り教育勅語は生き続けると思わざるを得ないが,ならば床田市議は沖縄の『ひめゆり平和記念館』に行くがいいと私は思う.そこに教育勅語謄本と共に,「義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」した挙げ句に天皇とその軍隊に棄てられた少女達の遺影が展示されている.その遺影に向かって,床田市議は直立不動で勅語全文を暗唱してみせよ.

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(本記事は,既に閉館した個人サイト《江分利万作の生活と意見》に掲載した文章の体裁をブログ用に整え,引用元のリンクを張ったものである)

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2003年12月23日 (火)

沖縄旅行ノート(2)

 私の中学高校時代の同級生でI君という人がいた.
 彼は今でいう軍事オタクで,彼の家に遊びに行くと,雑誌『丸』がたくさんあり,大は戦艦から小は銃器に至るまでその知識は大変なものだった.私は,なんでこの人は,こんなしょうもないことに異常な関心があるのだろうと思ったものだ.
 彼は高校に入った時から進路は防衛大学校と決めていて,その通りに進学した.今はたぶん自衛隊の幹部になっているのだろう.
 この種の人達は一般の自衛隊員と異なって最初から幹部候補生だ.専守防衛の理念を堅持している人も中にはいるだろうが,I君のような,いわば戦争好きなのも紛れ込んでいるだろうと思う.
 小泉首相や石原都知事,公明党の神崎代表 (どこが平和の党なんだか) のようなのに比べれば,I君はそれでも自ら戦場に身を置くつもりだろうから,後方から兵を動かすだけの連中よりマシだとは思うが,それでも戦場ではどう感じるだろう.実戦の砲弾,銃弾の中に身をさらす前線の一兵卒に比較すれば,恐怖感は少ないのじゃないだろうか.

 こんなことを書いたのは,ウェブ検索で元毎日新聞の岩見隆夫氏が書いたコラムを見つけたからである.
 毎日新聞と氏のサイトに掲載されている2001年7月15日付のそのコラムは高倉健主演の東映作品『ホタル』について書かれたものであるが,中に沖縄戦のことが少し出てくる.一部を下の《》に引用する.

一方の沖縄地上戦では、軍人、県民あわせて十八万八千人が死んだ。戦跡の一つである〈旧海軍司令部壕〉を案内してもらった。那覇空港から車で約十分、那覇港を見下ろす眺望のいい高台にある。
 持久戦を続けるための地下陣地で、四千人の兵士が収容されていたが、一九四五年六月十三日、玉砕した。その一週間前、大田実司令官(少将)がこの壕から最後の電報を海軍次官あてに打っていた。県民がいかに献身的に戦闘に協力したかを記したあと、
〈沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も六月一杯を支えるだけということです。県民はこのように闘いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように〉
 で電文は終わっている。
 昨年七月の沖縄サミット開催に情熱を注いだ小渕恵三元首相は、健在のころ、大田司令官の電報のことを知り、
「サミットが返答だな」
 ともらしていたという。小渕さんは政治家として〈後世のご配慮〉の一端を果たしたいと執念を燃やしたものと思われる。

 そして岩見隆夫氏は,小泉首相の靖国神社参拝の是非論について
俗世の私たちは、ひたすら鎮魂のお祈りをする、ということでいいではないか。理屈はいらない
とコラムを結んでいる.これから想像すると氏は,沖縄戦で自決した大田実海軍司令官の電報と小渕恵三元首相が取り組んだ沖縄サミットについて肯定的な評価を持っているのだろう.

 だが,沖縄サミットは,沖縄戦で亡くなった多くの人々にとって「後世特別のご配慮」になったのだろうか.
 大田司令官の電文 (一部) は次のようなものである.

沖縄県民ノ実情ニカンシテハ 県知事ヨリ報告セラレルベキモ 県ニハ既ニ通信カナク …… 本職 県知事ノ依頼ヲ受ケタルニアラザレドモ 現状ヲ看過スニ忍ビズ コレニカワッテ緊急御通知申シアグ …… 県民ハ青壮年ノ全部ガ防衛召集ニ捧ゲ …… シカモ、若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護炊事ハモトヨリ 砲弾運ビ 艇身キリ込隊スラ申シ出ルモノアリ …… 一木一草焦土ト化シ 糧食六月イッパイヲ支フルノミトイウ 沖縄県民カク戦ヘリ 後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 沖縄戦で日本軍は,海岸線で国民を守るために米軍の上陸を阻止するのではなく,上陸させてから沖縄県民を巻き込んで持久戦に持ち込もうとした.そして老若男女莫大な人的損失を出した.それが大田海軍司令官の電文にいうところの「沖縄県民カク戦エリ」の実態ではなかったか.戦場に置き去りにされ,『ひめゆりの塔』の直下の壕の中で死んで行かざるを得なかった少女達に「後世特別ノ御高配ヲ賜」ることなく,昭和天皇は昭和六十四年,遂に自らの戦争責任から逃げおおせた.
 そして我が国民は彼の死を悼んだのである.

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(本記事は,既に閉館した個人サイト《江分利万作の生活と意見》に掲載した文章の体裁をブログ用に整え,引用元のリンクを張ったものである)

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沖縄旅行ノート(1)

 沖縄に行って来た.
 昨年,会社員生活三十周年記念のつもりで,東北三大祭り観光のツアーに参加し,これがバスガイドと添乗員付き団体旅行への私のデビューだったのだが,それですっかりこの手の旅行に対する偏見が払拭されてしまい,また出かけてみたという具合である (それ以前は全旅程自由行動というツアーばかりだった).

 ガイド付きだということは旅行の前に色々と下調べをしなくてもいいということで,ガイドさんの説明してくれたキーワードを頭に入れて帰ってくれば,あとで旅の思い出を反芻するのにとても役に立つ.

 旅日記は『休日散歩』にいずれアップする予定だが,昨日夜からネットやその他の資料を漁って「旅のキーワード」を調べていると,実に勉強になることばかりである.記述が重複するだろうが,その幾つかをノートとして書いてみる.

 今回のツアーの名称は「南国のクリスマス」といって,定番ではないイベント・ツアーだった.一昨年が初めてで,今年のが二回目の催行だと添乗員君が言っていた.オフシーズンのツアーでも,名前の付け方で随分と印象が違うもんだな (^^;),と思ったが,それはそれとして,この旅行の私のメインテーマは「沖縄戦」だった.そしてその感想は,行って良かったというものである.初めて知ることも多かった.

 その一つに,沖縄守備にあたった日本軍司令官の一人である牛島満のことがある.
 戦史に詳しい人には常識かも知れない (たぶん有名な事実なのだろう) が,この軍人は南京大虐殺の時の旅団長だった.

 昭和十二年 (1937年) 七月七日,日中戦争開始の時に最初に動員された第六師団第三六旅団は鹿児島四五連隊・都城二三連隊で編成されていた.その旅団長が牛島満少将だった.
 その年の十二月十一日夜から十二日の早朝にかけて,牛島満率いる第二三連隊は南京城西南角直下に取り付き,第四五連隊は南京城に迫っていた.そこで牛島が発した攻撃命令は以下の通りであった.(読谷村史,『戦時記録 上巻』,「序章 近代日本と戦争 日中戦争」から引用)

一、旅団は十二日一六時を期し、第二三連隊をもって南京城西南角を奪取せんとす。
 一、古来、勇武をもって誇る薩隅日 (さつぐうにち) 三州健児の意気を示すは、まさにこの時にあり。各員、勇戦奮闘、先頭第一に、南京城頭に日章旗をひるがえすべし。
 チェスト行け。
 昭和十二年十二月十二日一〇時
    旅団長 牛島満

 「チェスト」は薩摩の言葉で,掛け声である.この牛島は,後に沖縄南部守備戦で自決する前に,幾多の沖縄住民を死に追いやった命令を残している.

全将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは、同慶の至りなり。然れども、今や刀折れ矢尽き、軍の命旦夕に迫る。すでに部隊間の連絡途絶せんとし、軍司令官の指揮困難となれり。爾後各部隊は局地における生存者の上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし》 (《沖縄戦を考える 》から引用)

 自分は現実逃避しておきながら,残った兵員と住民には降伏を許さず,地獄図のごとき死を強要したのであった.

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(本記事は,既に閉館した個人サイト《江分利万作の生活と意見》に掲載した文章の体裁をブログ用に整え,引用元のリンクを張ったものである)

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