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2003年3月31日 (月)

あの娘はご飯を作りにいったはずだったのに

 先週発売の週刊文春4月3日号『宮崎哲弥の新世紀教養講座』のサブタイトルは「イラク戦争を読み破る〈1〉倫理的に正しい戦争の条件」である.
 ここで宮崎氏は 加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書)を引用して次のように書いている.《》に直接引用する.

戦争観には三つの種類がある。
(A) 正しい戦争と不正な戦争が分別可能とする正戦論。
(B) 国家主権の発動たる戦争に正も不正もないとする無差別戦争観。
(C) すべての戦争が不正であるとする絶対平和主義。
 加藤は「9.11」以降、世界は(B)の無差別戦争主義に流されつつあると嘆く。国連憲章違反の疑いが濃厚な、新決議なしのイラク戦争はその現実的帰結といえよう。
 この状況に歯止めを掛けるのは、(C) の絶対平和主義ではない。それは理念としては正しいが現実的妥当性がない。(A)の正戦論こそが戦争抑止の決め手として期待できる。そうである以上、倫理的に正しい戦争はあり得る、といわねばならない。
 正戦の条件は大雑把にいって二点。(1) 急迫不正の侵略行為に対する自衛戦争か、それに準じるものであること、(2) 非戦闘員の殺傷を避けるか、最小限度に留めること、である。

 三つの戦争観を挙げて正しい戦争の条件を示した部分は『戦争倫理学』に拠っているのだが,文脈から判断すると宮崎哲弥氏はこれに同意している.
 どうもおかしい.ヘンである.例えば,明白な自衛戦争であり,かつ相手の戦闘員に限定した攻撃であれば,どんな残虐な殺し方をしてもいいのか (殺すことはすべて残虐であるという立場に私は立つ者であるが,それはさておき,宮崎氏の議論の流れに沿ってそう書く).生物兵器や化学兵器を使用しても構わないのか(技術的には可能だろう).それを正しいと認めるのか.

 加藤尚武,宮崎哲弥の両氏の議論がヘンなのは,やむを得ず必要悪として許されることに「正」の字をあてていることである.
 絶対平和主義に現実的妥当性があるかどうかは見解の相違があるだろうから,仮に絶対平和主義は現実的でないとしよう.それでもそれは「倫理的な殺し合い」を認める根拠にはならないと私は思う.必要不必要ということと,倫理的であるか否かは別次元のことである.

 イラク側が捕虜米兵の映像を公開した.許されざることである.捕らえられた五人の兵士の一人に黒人女性の陸軍炊事兵ショシャーナ・ジョンソンさんがいる.
 放送されたテレビ映像で,ショシャーナさんは負傷しており,年齢を答えるのがようやくなほどに怯えていた.読売新聞 (Yomiuri Online 3/27 01:10) によると,ショシャーナさんは二歳の娘を育てるシングルマザーで,家族のために料理を作ることと娘の世話が何よりの楽しみだったという.叔母のマーガレット・ヘンダーソンさんは「あの娘はご飯を作りにいったはずだったのに」と語っている.
 イラク戦争はアメリカによる侵略戦争である.国内政治的に極悪非道のフセイン政権であるが,彼らは今,自衛戦争を戦っている.
 非戦闘員を殺戮しているのはむしろアメリカ軍の方である.しかし,ならばイラクの戦いは正義か.
 想像したくないが,ショシャーナさんは処刑されるかも知れない.ご飯を作りにいっただけの女性が殺されるかも知れない.それが戦争の非倫理性なのだ.

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