2019年10月13日 (日)

ドストエフスキーの臨終メモ /工事中 10/13更新

 ドストエフスキーの臨終の様子は,書物によっていくつかの食い違いがある.どうしてそのような事が起きたのか,明らかにするための資料調査の過程を下にメモしておく.
 調査開始時点での仮説は,アンナ・ドストエフスカヤの遺した原稿を編集した書籍によって,内容に大きな齟齬があるということである.従ってそれらを基にした伝記にも食い違いが発生していると考えられる.
 
(1) アンナ・ドストエフスカヤ『回想のドストエフスキー 2』(松下裕訳,みすず書房)
「解説」p.285から引用
 《アンナ・グリゴーリエヴナ・ドストエフスカヤのこの『回想』は、没後原稿のまま残されていたが、ドストエフスキー研究家レオニード・グロスマンの編集によって一九二五年にモスクワとレニングラードで出版された。また一九七一年に、あらたに編集・校訂されてより完全な形で、一九七二年から刊行された全三十巻本ドストエフスキー全集に先だって、「文学回想集」シリーズの一冊として出された。わたしの翻訳はそれにもとづいている。
 
(2) アンナ・ドストエフスカヤの略歴 (みすず書房のサイトから引用)
作家フョードル・ドストエフスキーの二番目の妻。旧姓スニートキナ。1867年2月15日にドストエフスキーと結婚。25歳の年齢差があった。ふたりのあいだにソフィヤ、リュボーフィ、フョードル、アレクセイのニ女ニ男が生まれる。速記者として夫の著者の出版に尽力。夫の没後、ドストエフスキー全集の編集出版にたずさわる。モスクワの歴史博物館にドストエフスキー記念室を設け、のちのドストエフスキー博物館の基礎をつくる。ヤルタで歿。

  生没年:1846-1918
  英語版Wikipedia
 
(3) アンナ・ドストエフスカヤの原稿 (一次資料) は所在不明
  * レオニード・グロスマン編の「回想」(二次資料) は1925年刊
     a. 羽生操訳・興風館1941年刊『夫ドストエフスキーの回想』(上・下),
     b. 羽生操訳・三一書房1957年刊『夫ドストエーフスキイ』(上・下),
        b.は,これを底本にしていると思われる.
        a.はさいたま市立図書館にあるらしい.
  * ロシアで出版された「文学回想集」シリーズの「回想」(二次資料,編集者不明) は1971年刊
    『回想のドストエフスキー』(みすず書房) はこれを底本としている.
 
(4) 山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間文庫) の第二巻 p.274から引用する.
一八八一年一月二十五日の夜、彼は執筆中ペンを落とし、それを拾うために本棚を動かしたとたん喀血した。二十六日にも血を吐いた。
 二月九日朝、二十五歳年下の妻のアンナが七時ごろ眼をさますと、ドストエフスキーはじっと彼女をみつめていた。
「アーニア、僕はもう三時間もずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」
 と、いった。そして福音書を読んでくれといった。彼女はマタイ伝第三章を読んだ。
 九時ごろ、彼は妻の手をにぎったまま眠りにおちいり、十一時ごろ目ざめた。同時にまた喀血がはじまった。
 彼の家にあるのは五千ルーブルだけであった。彼はいった。
「アーニア、君を残していくのがとても心配だ。これから生きていくのが、どんなに苦しいだろう……」
 夜八時過ぎ、ドストエフスキーはびくっとしてベッドの上に起き上った。血の細糸が彼のあごひげを伝わっていた。アンナは氷のかけらをふくませたが、血はとまらなかった。
 医者が呼ばれた。アンナと子供たちはベッドのそばにひざまずいて、涙を流した。
 八時三十八分、ドストエフスキーは息をひきとった。
 世界文学史上の最高傑作ともいうべき『カラマーゾフの兄弟』は、その三カ月前に完成していた。》(文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 この記述で注目すべきは褐色の文字の部分である.すなわち,他の評伝等の資料で記されている「聖書占い」のことが書かれていないこと.
次にドストエフスキーにアンナが氷を含ませたこと.臨終の時刻を八時三十八分としていること.アンナの『回想のドストエフスキー』(みすず書房;1971年) には八時三十六分と記されている.
 
(5) アンナ・ドストエフスカヤ翻訳作品一覧
Анна Григорьевна Достоевская (Anna Grigoryevna Dostoyevskaya),1846/9/12-1918/6/9,Russia
『回想のドストエフスキー』 Воспоминания
  Two Volumes
  translator:松下裕 (Matsushita Yutaka),Publisher:筑摩書房 (Chikuma Shobo)/筑摩叢書
    One:1973,Two:1974
『回想のドストエフスキー』 Воспоминания
  Two Volumes
  translator:松下裕 (Matsushita Yutaka),Publisher:みすず書房 (Misuzu Shobo)/みすずライブラリー
    One:1999/9 ISBN4-622-05043-9
    Two:1999/12 ISBN4-622-05048-X
『夫ドストエーフスキイ』
  Two Volumes
  translator:羽生操 (Habu Misao),Publisher:三一書房 (San-ichi Shobo)
    1957
『ドストエーフスキイ夫人アンナの日記』
  translator:木下豊房 (Kinoshita Toyofusa),Publisher:河出書房新社 (Kawade Shobo ShinSha)
    1979/9
『夫ドストエーフスキイの回想』
  Two Volumes
  translator:羽生操 (Habu Misao),Publisher:興風館 (Kofukan)
    1941
『良人の追憶』
  translator:井田孝平 (Ida Kōhei),Publisher:春秋社 (ShunjyuSha)
    1924
「ドストエフスキー」(『世界ノンフィクション全集27』)
  translator:羽生操 (Habu Misao),筑摩書房 (Chikuma Shobo)
 
(6) 小林秀雄『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫,1964年12月20日発行) のp.199から引用する.
彼は一八八一年一月二十八日に死んだ。夜八時半であった。臨終に就いては別に記すべきこともない。安らかな死であった。死ぬ二日前にリュビイモフに宛て彼の書簡集が強いられた最大の主題であった原稿料の催促を書き、死ぬ日の朝には聖書で占いをした。彼は日頃トボリスクでデカブリストの妻達から送 (ママ) られた聖書を枕頭に置き、これを出鱈目に開いては最初に目に這入った文句で危機を占う習慣があった。その朝出た文句はマタイ伝の次の文句であった。「ヨハネ之を止めんとして言う。我は汝にパブテスマを受くべき者なるに、反って我に来り給う。イエス答えて言い給う、今は許せ、我等斯く正しきことをことごとく為遂ぐるは当然なり」。「今は許せとは今日死ぬという事だ」と彼はアンナに言った。死因は明瞭には分かっていない。三日前に重い家具を動かそうとして、突然肺から出血したのだとアンナは記している。》(当ブログの筆者による註;「一月二十八日」はユリウス暦である)
 
 臨終の描写はこれだけである.本書の「解説」を書いている江藤淳によると,小林秀雄が参考にしたのはE.H.カーの『ドストエフスキー』と,イエルモリンスキーの『ドストエフスキー』(書誌事項は全く不明;国会図書館に情報なし) である.またアンナの著書としては,羽生操訳の『夫ドストエーフスキイ』(三一書房) の可能性が高い.
 
(7) 埴谷雄高『ドストエフスキイ その生涯と作品』(NHK BOOKS;1965年1月20日発行) のp.179から引用する.
「朝の七時に目を覚ますと、彼が、私の方を眺めていたので、私はその上に屈みながら訊ねた。
――いかがですの、お具合は?
――アーニャ、と、彼は低音でいった。僕はもう三時間も眠らなくて、じっと考えていたんだが、今日僕は死ぬよ、今、僕にそれがはっきりわかるんだ。」
 そして、ドストエフスキイはアンナに、蝋燭をともして、福音書をとってくれといいました。
 「この福音書は、彼が徒刑囚として出発の途についたとき、トボリスクにおいて、デカブリストの女たち――P.E.アンネンコフ、その娘のオルガ・イワノヴナ、R.D.ムラヴィヨフ・アポステル及びフォン・ヴィジーナから贈られたものであった。彼女たちは、ここへ着いた政治犯人たちとの面会を許してくれるよう、要塞司令官に願い出て、一時間だけ一緒にいることの許可を得た。で、彼らを((この新しい道程))で祝福し、十字を切って、犯人の一人一人に、要塞で許された唯一の本、福音書を、一冊ずつ贈ったのである。
 フョードル・ミハイロヴィッチは、徒刑場での四年間、少時もこの聖書を身体からはなさなかった。
 後にも、この福音書は始終テーブルの上で手にとられて、しばしば、何か疑いが起こるとか、決心のつかないことがあるとかすると、これをでたらめに開いて、出た頁を上から読んだものだ。今度もまたこれに訊ねようと思って、それを開いて、私に読んでくれるように言った。
 それはマタイ伝の第三章第十四節及び第十五節であった。《ヨハネいなみていいけるは、我は爾よりパブテスマを受くるべき者なるに、爾かえって我にきたるか。イエス答えけるは、暫し許せ、かくのごとくすべての義しきことは我等尽すべきなり。》
 聞いたろう! 暫し許せ、これは僕が死ぬことをさしているのだ!
 と良人は、本を閉じながら言った。」
 その夜の八時三十六分、血のしたたりが下顎を伝わったドストエフスキテは息をひきとりました。
 
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2019年10月11日 (金)

台風19号 (12~13日随時更新)

 台風19号が,非常に強い勢力のまま首都圏直撃しそうだと,テレビ等で繰り返し報道されている.
 
気象庁の梶原靖司・予報課長は11日午前に記者会見し、1958年に伊豆半島の狩野(かの)川が氾濫し、死者888人、行方不明者381人を出した台風に匹敵する記録的な大雨になる恐れがあり、大雨特別警報を出す可能性があることを指摘。「自分の命、大切な人の命を守るために、風雨が強まる前に、夜間暗くなる前に、市町村の避難勧告などに従って早め早めの避難、安全確保をお願いします」と呼び掛けた。》(毎日新聞 2019/10/11 11:27)
 
 今日の午前十一時頃,藤沢のダイエーに食料の買い出しに行って驚いた.
 パンの棚,カップ麺の棚がガラガラになっていたのだ.
 私のうちは食料備蓄は十分なので,パンやラーメンを買えなくても別にかまわないのであるが,みんな心配なんだろうなあ.
 
 ある情報サイトのコンテンツに,各地の停電リスクというのがあり,それによると藤沢市は停電可能性がかなり高い地域になっている.
 私の住居は横浜市であるが,藤沢市に近い.東電の電力供給網は行政区分に従っているわけではないから,湘南の海岸各地域が停電した場合,私の家も停電に見舞われる可能性が高い.実際,大昔だが,平塚市から藤沢市に至る一帯が長期停電した時,横浜市の南部も停電した.
 台風15号が千葉県を襲ったとき,強風で飛ばされた瓦が家の窓ガラスを破壊し,その窓から吹き込む強風で屋根が吹き飛ばされると言う事態が多数発生したという.私の家は,飛来した瓦が直撃したら必ず割れる (雨戸がない) という窓が一つある.困ったなあ.ベニア板で補強しておけばよかった.(後悔)
 実は瓦が当たったくらいでは破れない強度の繊維入りシートをAmazonに発注していたのだが,発送が延び延びになって,台風来襲に間に合わなかったのだ.まあ,よその家の屋根がぶっ飛んで我が家に落下衝突したら,そんなものでは無意味だけど.
 
 テレビの台風報道で,NHKほかが「セブン・イレブンが首都圏1000店休業」と報道し,解説委員みたいな人が「利益よりも従業員の安全を優先した大英断です」と語った.その一方で「ローソンとファミマは,オーナー判断にまかせる」と画面に文字だけで簡単に報じた.
 しかし,例えば読売などネット上の新聞では,
 
セブン&アイ・ホールディングスは11日、首都圏・東海地方のセブン―イレブン約1000店が12日に休業することを明らかにした。
 
休業は加盟店オーナーの判断になるため、詳細な店舗数や休業時間などは明らかにしていない。
 セブンは「顧客や従業員らの安全を第一に判断をしてもらっている」としている。
》(2019/10/11 20:10 読売に掲載)
 
と書かれている.ローソンとファミマと同じ対応なのに,セブンだけが「大英断」とほめられた.w
 これは広報の上手下手なんだろう.今年に入ってからのセブン本部とオーナーの対立で,コンビニ業界を見る市民の目は「コンビニのオーナーを苦しめるセブンvsオーナーにも配慮するローソン&ファミマ」という図式が固まっている.そこへもってきてこのメディアへのリリースはホントにうまい.その知恵をオーナーへの配慮に回せばいいのに.
 
(10/12 10:35) テレビの台風情報と tenki.jp の台風19号進路予想図をずっと見ているのだが,既に私のうちあたりは強風域にあり,やがて暴風域になりなんとしているわけだが,実際には,雨は小降り (部屋の中では雨音があまり聞こえない) で,空は明るい.風はほとんどない.風雨の激しいところと,そうでないところが著しくまだら模様になっていると思われる.
 
(10/12 15:05) 依然として雨も風もたいしたことはない.伊豆半島付近に上陸の可能性が高まっているが,そこから埼玉県方面に進むらしい.とすると私の住んでるあたりは直撃コースだ.と書いてるうちに風の音が急に大きくなってきた.
 
(10/12 18:15) 台風19号は現在,下田市の西方にあり,北北東に進んで上陸する見込み.テレビの中継を見ると,藤沢市の海岸は猛烈な暴風雨に見舞われている.川崎市では住宅への浸水が極めて激しいレベルで発生している模様.
 
(10/12 22:15) ようやく風と雨はおさまった.翌朝になってみないと何とも言えないが,私の家の周辺は被害が軽微だったと思われる.
 
 上に時系列的に記した状況は,テレビとネット情報を参照しながら書いたものだ.
 震災と異なり,台風は現在は事前に詳しい情報が入手できる災害になっている.公共交通機関は計画運休というパラダイムシフトを成し遂げた.
 その効果は著しい.今回の台風19号はあの狩野川台風を上回る規模とされたが,狩野川台風の死者 (1269人) を思えば,人命の安全という点で比較にならぬほど我が国の台風対策は進んだと言える.
 それにしても,と思う.私は貧乏大学生の時には新聞をとっておらず,テレビはもちろん持っていなかった.当時の学生で,自宅通学の学生は別だが,テレビを持っているなんてのは裕福な家庭の子女だったのだ.
 私は,中学生の時に親が買ってくれた小さなラジオ (新書くらいの大きさ) を,高校受験,大学受験勉強の時に愛用していた.大学に合格したあと,そのラジオを後生大事に持って上京した.そのラジオの電池は006Pだったから,すぐ消耗した.
 そんな情報弱者状態でも何とかやってこれたのは,昭和四十年代は実に災害の少ない時代だった (首都圏では,だが) からだとしみじみ思う.
 
 台風が関東地方を通過した十三日の朝五時以降のテレビニュースを見ていると,「昨夜,七十代の男性が○○川の様子を見てくるといって家を出たまま戻らない,と家族から警察に連絡があった」という内容の報道がいくつもあった.
 これだけテレビ各局のアナウンサーたちが口を酸っぱくして,川の様子を見に,などという外出はしないでください,と言い続けているにもかかわらず,外に出ていく高齢者の心境が理解できない.川の様子を見たら何かよいことがあるのか.不思議だ.

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2019年10月10日 (木)

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2019年10月 9日 (水)

横浜美術館と WINE STAND BASIL

 ようやく昼間の気温が下がって,外出しても汗をかかずに済む季節になったようだ.
 少し前のことだが,藤沢駅のホームに美術展などの案内掲示をするスペースがあり,そこにオランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たちがあった.今週末から来週にかけて,またまた東京湾に台風が上陸するらしいので,今のうちに出掛けてこようと思った.
 横浜市は,六十五歳以上の高齢者に「濱ともカード」という優待施設利用証を配布している.横浜美術館はこれが使えるのかと思ってネットで調べたら,月に一度だけ「コレクション展」が無料で鑑賞できるのだという.しみったれているなあ.
 ちなみにこのカードは,横浜市内の高齢者は「持っているけど使わない」ものらしい.どの施設で利用できるのか,スマホでネット検索できる高齢者以外にはわからない仕組みになっているからだと思われる.例えば横浜美術館は横浜市のお膝元でありながら,カード特典はないに等しい.美術館に限らず,横浜市の高齢者優待事業に協賛していない施設 (それがほとんど) で「ここは濱ともカードを使えますか?」と施設側に訊ねて,「いいえ」と断られるのを何度か経験すると,もう使う気になれない.カードのデザインも,デカデカと「寿」と書いてあり,こんなものを人前で出したくない.高齢者=寿というのが行政側の国語感覚なのである.w
 あ,いいことを思いついた.条例で横浜市の高齢者は,運転する車のボンネットにデッカイ「寿」ステッカーの掲示を義務付けるのだ.高齢者が運転を嫌がって事故が減るかも知れない.
 それはともかく,横浜美術館のカフェ (単なる休憩所だが) では電子マネーもQRコード決済も使えない.濱ともカードも使えない.使えるのはクレジットカードだけである.コーヒー一杯をクレカで払う高齢者がいたらお目にかかりたい.ミュージアムショップも同じだ.絵葉書一枚を買うのにクレカを使うのは勇気がいる.
 ついでに書くと,横浜市の「敬老特別乗車証」は,これを使ってバスに乗るためには,厚生年金をフルに受給している健常高齢者の場合,年額九千円を負担しなければならない.たまにバスに乗るだけで,そんな高額負担を納得する者はいない.これも,敬老精神ありますという形だけの「お飾り」だ.
 もっと書くと,林文子横浜市長は,元々がお茶くみOLから身を立てて遂には外車販売会社の社長,ダイエーの会長,東京日産自動車販売の社長に上り詰めた 立身出世伝 立志伝中の人である.だから営利事業と聞くと血が騒ぐのだと思われる. 市長は横浜の生まれではないので,ペリー以来の横浜の歴史なんか知ったことではないから,山下公園一帯を大規模再開発し,現時点で市民の大部分が反対であるとされるカジノを山下埠頭にぶっ建てることに執念を燃やしている.再開発構想をごり押しすれば,赤レンガ倉庫も馬車道も歴史の証人氷川丸も,古き良き港横浜の情緒は霧消するだろう.自民党公認を勝ち取り,晴れて故郷の東京から国政に打って出るにはそれくらいのことを
 
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 さて上の写真 (↑) にある横浜美術館の最寄駅は,みなとみらい駅で,地上に出るとすぐ近くに敷地入り口がある.
 
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 (↑) 上の写真は美術館前の広場で,掲示板の奥に玄関がある.
 
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 (↑) 玄関を入ると大きな立て看板.今回の美術展のメダマはルノワールの『ピアノを弾く少女たち』だというアピールだ.ルノワールはほぼ同じ構想とサイズで六枚の絵を描いた.下の画像はそのうちの一つで,Wikipediaに掲載されている作品.オルセー美術館蔵.
 
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(Wikipedia【ピアノに寄る少女たち】から引用;パブリックドメイン) 
 
 今回の美術展の出品作家は ここ で一覧できる.作品リストは ここ
 私はアンドレ・ドランの作品は初めて観たのだが,『座る画家の姪』(『座っている画家の姪』とも) が素敵な絵だと思った.
 平日の午前中ということで,展示室は適度な込み具合だった.ざっと見た感じ,私のような爺 σ(^^) は数人しか来ていなかった.来館者はほぼ女性ばかりで,もしかすると美大生かも知れない若い娘さんが数人,真剣な眼差しで絵を鑑賞していた.あとは高齢の婦人たちであったが,彼女らは,失礼ながら巣鴨地蔵通り商店街へ買い物にきたとでもいうような服装と髪型の皆様であった.それがセザンヌの絵の前で井戸端会議的に「パリに行ってもルーヴルしか観ないなんて人がいるから驚いちゃうよねー」とか会話しておられる.恐るべし,日本婦人の経済力とタフネス.私ゃもう欧州に行く気力も体力もない.お金もね.
 
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 (↑) は大画商ポール・ギョームの邸宅を模型化したものの一部.展示室の壁に埋め込むような形で観覧に供されている.これは撮影可.
 実は朝,バスに乗り遅れまいとして走ったときに足首をくじいたせいで,立っているのがしんどくなってきた.それで,この美術展の他に横浜美術館コレクション展が同じフロアにあるのだが,そちらは次回に,ということにして,飯を食って帰ることにした.
 会場出口の特設ショップで展示会グッズを販売していたので,マグネットを一つと来年の卓上カレンダーを買った.
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WINE STAND BASIL
 
 横浜美術館に隣接する商業施設「クイーンズ・スクエア」で,いい店はないかと少し歩き回った.商店やレストランはいくつかのブロックに分かれているが,「1st」の二階に「WINE STAND BASIL」という店を発見した.ちょっとわかりにくい場所にあるのだが,要するにビルの外に張り出したテラスがレストランになっている.
 上の写真は,遊園地「よこはまコスモワールド」の向こうに見えるランドマーク「コスモクロック21」だ.ウェイターは細身の青年で,テラスの空いているテーブルに案内してくれた.隣のテーブルには,ちょっと知的な雰囲気が漂う中年の外国人女性がいて,グラスワインの赤を飲んでいた.
 私もまねて,グライワインの赤と「本日のシャルキュトリーと前菜の盛り合わせ」を注文した.シャルキュトリーcharcuterie.いろいろな肉加工品のこと.これは千二百円なのに,量が思ったよりずっと多かったので,グラスワインを三杯も飲んでしまった.
 隣のテーブルの外国人女性は,赤の次に白のグラスワインをオーダーした.そしてそれをすっと飲み終わると,カツカツとヒールの音をさせながら去って行った.彼女は特に酒肴をつままなかったようで,それはなかなか恰好いいと思った.
 その次に隣のテーブルにきたのは,まだ二十代の前半と思われる娘さんだった.彼女はランチを注文したあと,スマホで通話をした.電話の相手はどうやら友達らしく,彼女は,クイーンズスクエアかどうかはわからないけれど,服とか雑貨のショップ店員さんのようだった.
「しゃべらなくていいから,わたしの話を聞いてほしいの」
と言った.昼飯時ではあるけれど,たぶん相手はまだ仕事中なんだろう.
 ランチに来るちょっと前に,店に外国人の客がきたという.彼女は英語での接客がうまくいかなかったらしい.店長か先輩かに叱られたのだそうだ.
「それでね,心がおれちゃったの」
と言った.そして,聞いてくれてありがとう,と言って通話を切った.
 若い時は,そんなことはよくあることだ.折れた心は食べれば治る.彼女はランチをもりもりと食べ終わると,伝票をつかんで仕事に戻って行った.私もそろそろ帰ろうと思った.
 グラスワイン三杯が千二百円,シャルキュトリー盛り合わせが千二百円.合計二千四百円に加えて消費税10%のお昼御飯であった.ごちそうさまでした.また寄ります.

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2019年10月 7日 (月)

袋ラーメンのパック

 初めてAmazonのパントリーをやってみた.
 パントリーというシステムは,要するに手数料オフになる商品を規定数買えばいいのであり,梱包ダンボール箱の使用率は気にしなくてもいい (緩衝材が空隙に詰められるから) のであるが,何となくそれはイケナイことのような気がした.
 大昔,「かっぱえびせん」とか各社のポテトチップスが世に出た頃の話だが,工場からそれらの菓子を運ぶトラックのドライバーは「張り合いがない」と嘆いたという.運転時の体感的に,空気を運んでいるような気分がするからであった.今の感覚でいえば,運輸というのは価値を運ぶ仕事であり,積載重量で評価するものではないから,スナック菓子はむしろ良い荷物なのだが,しかし当時のドライバーさんたちの気持ちはよくわかる.私は今もそういう感覚 (→空気を運ぶなんて,モッタイナイ) を捨てられない.
 そこで,パントリー箱の使用率をぎりぎり高めようと試みた.パントリー専用商品は食品ジャンルに多いし,食品はかさばるのでパントリーに適しているような気がする.
 そこで即席袋麺とスナック菓子,米菓,珍味などをカートにポイポイ放り込んだ.(下記の価格は変動する)
 袋麺は体積当たりの単価が安い.「日清のラーメン屋さん」シリーズが特に安い (スープの味が今一つだから売れていないのかも) ので,「旭川しょうゆ 5食パック 299円」を入れた.店頭でも袋ラーメンはこれが一番安い.
 次に安いのは「サッポロ一番みそラーメン 5食パック 399円」と「サッポロ一番塩ラーメン 5食パック 399円」だった.店頭でも価格はこんなもんだ.
 高いのは「日清焼そば 5食パック 499円」で ,同じ日清食品なのに,どうしてこれが「日清のラーメン屋さん」よりも200円も高いのか理解できない.できないがパントリー箱をいっぱいにするためにカートに放り込んだ.
 そうこうするうちに,手数料オフ商品を入れる余裕がなくなってきたので「明星 中華三昧 四川風味噌拉麺 手数料オフ対象品 456円」もカートに入れた.なんで「日清焼きそば」より高いんだと不思議に思ったが,このあたりでは「単価と手数料オフかどうか」にしか注意が向いておらず,何個入りであるかには注意が向かなくなっていた.パントリー箱の使用率を極限にすることと,手数料オフを両立させる組み合わせを求めて,商品をカートに入れたり出したりすることに熱中したのであった.「日清焼きそば」を買った頃には既に逆上していたと思われる.
 
 さてパントリー箱が届いて,中身を点検しながら気が付いた.「中華三昧」は三食入りだったのである.エラい高いものをつかんでしまった.ディスカウンターで買えばよかったと後悔した.
 熱くなって袋ラーメンをたくさん買ったので,しばらくは袋ラーメンを日に一食する.飽きそうだなあ.

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2019年10月 6日 (日)

ある説話の検索と発見

 昔の朧げな記憶で,時々思い出すのだが,あまりにも不確かなことなのでそのまま放ってあることがいくつもある.
 そのうちの一つのこと.
 私は前橋市立城南小学校の生徒だった.この学校は国鉄高崎線前橋駅のすぐ南にあったのだが,現在は駅からかなり南に下ったところにある.
 つまり校舎が移転したのであるが,その移転時期がわからない.Wikipedia【前橋市立城南小学校】は,これについて何の記載もない.同小学校の公式サイトの《学校のあゆみ》には,
 
1971 S46年 7月 新校舎地鎮祭
 1973 S48年 1月 プール起工式
        3月 校舎体育館落成式「伸びゆく子」の像除幕式
        7月 プール竣工式
 1974 S49年 2月 50周年記念式典
 
とあるから,なぜか明記はされていないけれど昭和四十九年の二月に「50周年記念」事業として校舎が移転したものと推察される.
 ならばとて検索語を変えて色々試みたが,移転時期についてはっきりしたことはわからなかった.
 
 私の在学時は木造二階建ての校舎で,外壁は木造炭鉱住宅の板壁のようであり,窓枠も木材で,今にして思えば旧陸軍兵舎のほうが余程立派に見えるくらいのボロ校舎だった.市内中心部の他の小中高校は立派な鉄筋校舎だったが,なぜか城南小学校だけ他とひどい格差があった.例えば梅雨時には,窓枠から廊下に雨水が漏れ,水が浸み込んて湿った廊下にはキノコが生えた.まるでサルマタケだ.
 サルマタケが生えた廊下の一番端に図書室があった.私は小学生当時から本が好きであったが,小学生の頃は親がひどい貧乏だったので本を買い与えられることはほとんどなく,それで図書室の本をよく読んだ.たぶん小さな学校図書室の蔵書はあらかた読んだと思う.どんな本を読んだかは,あらかた忘れた.ヾ(--;)
 今でも記憶しているのは,少年少女向けに書かれた白瀬矗中尉の南極探検物語と,対象年齢がわからないが,何冊ものシリーズになっていた仏教説話集であった.
 
 余談だが,NHKが今朝のニュー
スで《「日本南極探検」日本最古の記録映画 公開当時の状態に復元》(2019年10月7日5時49分) を報道した.これまで「日本南極探検」には二つの上映用プリント (東京国立近代美術館と早稲田大学が所蔵) が存在していたが,その後に発見された原形に近いフィルムを一昨年九月に東京国立近代美術館フィルムセンター がデジタル修復した. (《日本初南極探検、鮮明に 最古の記録映画修復》産経ニュース,2017年9月9日 11:37 ) 
 以上のことは既に知られていたので,今朝の報道の意味がよくわからない.一昨年に修復されていたエディションをさらに修復したということであろうか.
 いずれにせよ,日本人として初めて南極探検を試みた偉人の業績を,南極探検後援会 (会長大隈重信) が卑劣にも遊興三昧で食い物にし,白瀬中尉に巨額の借財を負わせた.帰還した白瀬中尉は返済のために奔走し,悲惨な晩年を迎えた.Wikipedia【白瀬矗】は中尉の最期を次のように記している.
 
昭和21年 (1946年) 9月4日、愛知県西加茂郡挙母町 (現・豊田市) の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。享年85。死因は腸閉塞であった。床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇を、弔問するものは少なかった。近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった。白瀬の死後、遺族はその窮状を見かねた浄覚寺の住職が引き取った。
 
 もちろん私が読んだ白瀬中尉の物語は偉人伝であるから,中尉の悲しい最期は書かれていなかった.たぶんそんなことを書いたら,少年少女はエラくなる意欲を失うからであった.私が事実を知ったのは,ウェブを検索することが容易にできるようになってからのことである.まことに当時,子供を対象にして数多く出版された偉人伝なる書物は,ある事ない事を見境なく書きなぐったひどいものだった.おかげさまで昔のの子供たち σ(--;) は,今では詐欺師,人間の屑,外道,犯罪者などと罵倒される野口英世や島崎藤村を尊敬してしまったのである.
 
 閑話休題
 白瀬中尉の南極探検物語には,小学生の私は実は感動しなかった.しかし,子供向け仏教説話の一つには,いたく心を動かされた.
 どんな話かを大雑把にいうと,ある悪人が西方浄土を目指して歩き,遂に大往生を果たすという物語であった.ディテイルは全く覚えていないのだが,その悪人の,なんというか「ひたむきさ」に胸を打たれたのである.
 以来,子供向けに書き直されたその説話が,元々は一体どんな話であったが,ずっと気になっていた.色々と説話文学について論じる書物を読んでも見つからなかったからである.
 そこでつい先日,本腰を入れてウェブを検索してみた.種々の検索語を入れて絞り込んでみたが見つからない.そこで名詞を用いての「絞り込み」をやめた.単なる状況説明として「仏教説話 × 西へ歩く」を検索窓に入力したのである.
 すると一発でヒットした.その説話は,今昔物語集巻十九「讃岐国多度郡五位聞法即出家語」であった.しかもこの説話は,芥川龍之介が材にして作品としていた.『往生絵巻』である.
『往生絵巻』は青空文庫に収められていたので早速読んでみたが,しかし面白くも何ともない話であった.駄作である.
 原文はないかと探したら,すぐに見つかった.《やたがらすナビ》というサイトのコンテンツ《攷証今昔物語集》に《巻19第14話 讃岐国多度郡五位聞法即出家語 第十四》が掲載されていた.これを読み始めるや,小学校の図書室で読んだときのことが懐かしく思い出された.これだ,これである.私が読んだのはこの説話の現代語訳なのであった.
 この原文は最終更新が2016年2月9日だと記載されている.私の検索がもっと早かったら,この説話原文に出会うことはなかった.このサイトの開設者に深く感謝する.
 この説話は割と知られているものらしく,ある人のブログに,尾崎秀樹による現代語訳が『現代語訳日本の古典〈8〉今昔物語』(1980年) に収録されていると記されていた.しかし原文が入手できたのだから,それを読む必要はない.むしろ底本が違うことによる異同があるかも,と思って池上洵一『今昔物語集 本朝部〈中〉』(岩波文庫) をAmazonで注文した.到着するのが楽しみである.

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パスポート受け取りの日に

 一週間前に切換申請したパスポートを受け取りに,神奈川県パスポートセンターに行った.
 JRで藤沢から横浜へ行き,みなとみらい線横浜駅で発車寸前の電車に飛び乗ったら,これが特急で,日本大通り駅を通過して終点の元町・中華街駅まで行ってしまった.しかしここで逆方向の電車が来るのを待つのは何だかバカみたいなので,下車して地上に出た.
 山下公園を右手の道路の向こうに見ながら散歩だ.そういえばマリンタワーを眺めるなんて何年ぶりのことだろう.
 スターホテルの前を通る.ここの一階にはカジュアルなレストラン Eggs'n Things がある.遅い朝食を摂る外国人でテラス席は一杯だった.
 その次はホテルニューグランドだ.公園通りに面して「ザ・カフェ」の窓が並んでいる.時刻は昼前の十一時過ぎ.ここでナポリタンを食べたい気分になったが,その前に用事を済ませなきゃと思って通過.それから旧英国七番館,ホテルモントレ横浜,県民ホールの前を通って産業貿易センターに到着.二階のパスポートセンターに入ると,パスポート受け取り窓口の前の長椅子には三人しかいなかった.
 そのうちの一人は若い女性で,大きいキャップを深くかぶり,濃い色のサングラスをかけ,大きなマスクをしていた.顔が全くわからない.何かわけありなんだろうか.彼女は窓口で「全部とってください」と言われた.写真と照合するのだから,そりゃそうだよね.
 私の番が来て,窓口の職員さんに名前を呼ばれた.本籍を口頭で述べて顔をよく見せれば手続き終わり.さあ昼飯だ.
 パスポート切換申請書を出しに来た前の週は,THE HOF BRAU の日替わりランチを食べてガッカリした.今日はどうしようと少し思案して,SCANDIA GARDEN に決めた.
 このレストランは,二階がちょっと改まった会食の席に使える SCANDIA で,一階がカジュアルな SCANDIA GARDEN という具合に分かれている.SCANDIA GARDEN は洋食屋さんと呼んでもいいくらいの気軽な店だが,しかし会社員が毎日の昼飯を食うにはお値段がやや高め.赤レンガ倉庫や山下公園に遊びにきた人たちが「お昼は久しぶりにスカンディヤにしましょう」と立ち寄るくらいの感じだ.若い二人連れは赤レンガ倉庫のレストランに行くせいか,この店は客の年齢層がやや高め.
 
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 ランチセットの中からハンバーグステーキ・デンマーク風をチョイス.パンかピラフのどちらにしますかと訊かれたのでピラフにした.
 飲み物は冷たいウーロン茶.
 
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 デンマーク風のハンバーグといっても別段かわったものではない.ファミレスのそれと異なる点は,フライドポテトではなく,煮たジャガイモが付け合わせになっているところである.あとはブロッコリとフライドオニオン,マッシュルームが皿に載っている.
 よくテレビの食い物番組で,何を食っても「甘い~」としか言えない頭の甘いタレントが,ハンバーグにナイフを入れると,決まって「肉汁があふれてるー」とか言うておるが,ありゃあ肉のスープではのうて牛の脂肪がとけたもんだがね.単に脂身の多い肉を挽けば,そうなるんだがね.肉の良否とはまた別の話じゃ.
 この店のハンバーグは,あの手のふわふわしたやつではなく,しっかりとした食感で満足感が高い.私はこのハンバーグが好きである.
 ではあるけれど,サイドのピラフは,いただけない.もう少しよい米を使って欲しい.米は,ランチ一人前に使う量は少しだから,原価をそれほど押し上げないはずだ.
 
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 昼飯を終えて外に出る.食事の最中は,すぐ帰宅するつもりでいたのだが,交差点の歩道を渡って横浜開港資料館の裏口 (↑画像) を通りかかって気が変わった.元々は門衛の詰所だったとかいう建屋 (↓画像) にある喫茶店"Au Jardin de Perry"に寄ってみようと思ったのだ.ついでに開港資料館の展示も見てみよう.
 
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 "Au Jardin de Perry"は片仮名だと「オゥ・ジャルダン・ドゥ・ペリー」だ.直訳は「ペリーの庭」らしいが,ペリーの庭って何だ.ていうか店名が長すぎ.「開港資料館の裏口の喫茶店」も長い.「ペリーの庭」でいいじゃないか.意味わからんけど.
 店内は昭和レトロで,戦後の銀幕のスターが,向かい合ってお茶を飲むのによさそうな雰囲気.
 下の画像の席の反対側の窓にある席 (敷地の外の広場が見える) がいいのであるが,あいにく満席だったので,ここに腰かけた.
 
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 各テーブルには「値上げの御挨拶」が書かれた手書きのメモがあった.
 ほー,十二年もの間,値上げせずに頑張ってきたのか.うんうん.
 
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 おいしいコーヒーを頂いて,会計をしたらコーヒーは税込み四百四十円だった.前に来たときは確か税込み四百円だったはずだがと思ってネットで確認したら,最近この店に来た人のブログに四百円だったと書いてある.前から外税表示だったっけ? この文面だと,値上げ前は消費税8%を,あたかも店側が負担していたように受け取れる.と思ったが,零細な喫茶店に目くじら立てるのはやめよう.
 ちなみに SCADIA GARDEN は増税前後で価格 (内税表示) を変えていない.実質値下げしたということである.
 
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 上の画像は開港資料館の中庭にある「たまくすの木」を正門から撮ったもの.「たまくす」は漢字で玉楠と書くが,タブノキと呼ぶのが普通かと思う.Wikipedia【タブノキ】には《また横浜開港資料館の中庭の木は「玉楠」と呼ばれ有名である 》とある.
 今やっている企画展示は「横浜開港160周年記念 開港前後の横浜 村びとが見た1858~1860」だ.同資料館の公式サイトには,展示されている資料の一部しか掲載されていない.たまには散歩がてら,展示を見に来るのもいいもんだと思った.

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2019年10月 5日 (土)

白花曼殊沙華

 陋屋のネズミの額ほどの土があるところに,シロバナマンジュシャゲが咲いた.
 
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 我が家は建ててから四十年経つが,これまで一度たりとも庭にヒガンバナが咲いたことはない.もちろんシロバナマンジュシャゲも初見である.
 あまりに唐突なので,驚いてウェブを検索してみた.すると,既にヒガンバナが群生している場所に,シロバナマンジュシャゲが突然に現れることは屡々あることのようであった.この現象について,日本植物生理学会のコンテンツ《植物Q&A 白色のヒガンバナについて 》には次のように説明されていた.文章がコンパクトに凝縮されているので,これ以上の要約はむずかしく,それで少々長いが全文引用する.
 
白色のヒガンバナについて
質問者: 一般 R.T.
登録番号3374 登録日:2015-09-24
ここ数年、近所で白色のヒガンバナをよく見るようになりました)。それまでずっと、赤のヒガンバナが咲いていた場所に、白色のヒガンバナが混在して咲いています。近所を中心にしか確認できていませんが、1つの場所ではなく、複数の地点でこの現象が観察されます。
インターネットでは、シロバナはショウキズイセンとの雑種なのだと書かれています。白のヒガンバナが観察されるようになった場所の1つは、わたしの親戚宅ですが、ショウキズイセンを育てたことはないそうです。これは、遠方から、ショウキズイセンの花粉が飛んで来ることを意味するのですか。
ヒガンバナと近縁種の自然交配は、比較的簡単におこるものなのでしょうか。それとも、白化には、別の理由があるのでしょうか。
どうぞよろしくお願いします。

R.T.さま
みんなのひろばへのご質問有り難うございました。頂いたご質問の回答を遺伝学がご専門の奈良女子大学の鈴木孝仁先生にお願い致しましたところ、ヒガンバナの系統や自然交配についての論文を調べて下さり、以下のような非常に詳しい回答をお寄せ下さいました。少し難しいかも知れませんが、難しいところを飛ばしても、ショウキズイセンとの自然交雑ではないとか、ヒガンバナは種子を作らないとかなどなど、ご参考になる点が多いと思います。

【鈴木先生からのご回答】
シロバナマンジュシャゲについて
シロバナマンジュシャゲLycoris x albifloraについては、ヒガンバナL. radiateとショウキズイセンL. aureaの自然交雑種と牧野富太郎が提唱しました。稲荷山資生(1951)および栗田子郎(1976)による核型をもとにした系統関係の研究から、コヒガンバナL. radiate var. pumila(2倍体)から現存のヒガンバナL. radiata var. radiata(3倍体)が染色体突然変異で生まれたと示唆されること、および祖先型マンジュシャゲからの染色体突然変異を重ねてできたショウキズイセンとコヒガンバナの自然交雑からシロバナマンジュシャゲが生まれたと記述されています。
現存のヒガンバナは11本の半数型を構成している染色体の組が3組で構成されている3倍体となっており、種ナシスイカと同じように交雑ができず、種子もできない不稔性の性質をしています。互いに異なる11本の染色体の組はすべてアクセントリック染色体といって、動原体に対して両腕の関係になる部分の長さが異なる形態をしています。祖先型マンジュシャゲはあくまで仮想の原種ですが、現存のコヒガンバナがそれを継承した種とみなすことができ、この11本のアクセントリック染色体が2本ずつ存在する2倍体であり、稔性があります。一方、祖先型から3段階の染色体突然変異によって、2倍体(2本のアクセントリック染色体、10本の動原体が末端にあるテロセントリック染色体)の核型をもつようになったショウキズイセンL. aureaができ、稔性があったためコヒガンバナと自然交雑してシロバナマンジュシャゲが生まれたとされています。ただし、ショウキズイセンとされている種には、核型では3種類が存在し、そのうちの1亜種とコヒガンバとの自然交配によって、シロバナマンジュシャゲができたと推定されています。シロバナマンジュシャゲの核型は動原体に対して両腕の長さがほぼ等しいメタセントリック染色体5本と、2本の染色体どうしが末端で結合したテロセントリック染色体が1本、および11本のアクセントリック染色体から構成されており、稔性がありません。
こうした核型と不稔性の特徴を考慮すると、現在の日本に生えているマンジュシャゲL. radiata var. radiata(3倍体)とシロバナマンジュシャゲLycoris x albifloraはそれぞれ無性的に(つまり鱗茎や地下茎で)繁殖してきたものであると結論できます。さらに3倍体であるマンジュシャゲから遺伝子突然変異でシロバナマンジュシャゲと同等なものができる可能性は極めて低いと推定できます。なぜなら、花が白色になるような遺伝子の突然変異が起きたとしても、野生型の対立遺伝子は2つ残っているので(ヘテロ接合状態なので)、白い表現型が現れることがないからです。また、減数分裂過程もないので、白い花となる対立遺伝子が子孫に分離してホモ接合状態になることも起こりません。むしろ2倍体であるコヒガンバナに白い花となる突然変異が生じた場合には、この対立遺伝子が減数分裂過程でホモ接合となった子孫種子が形成される可能性は十分にあり得ます。ただしこの場合には、コヒガンバナの開花期がヒガンバナより1ヶ月ほど早いので、白化した突然変異種がヒガンバナのように一斉に開花する時期に同じように開花するとは限りません。
(結論)ヒガンバナ(3倍体)と近縁種の自然交配は、風媒であろうと、昆虫が媒介しようと、種子形成には至りません。よって自然交配は、先ず起こりえないと結論できます。

白色のヒガンバナが混在している理由は、(1)かつてシロバナマンジュシャゲの鱗茎がヒガンバナと共に植えられおり、ヒガンバナに遅れて地上に出てきたとする可能性が最も高く、(2)次の可能性はショウキズイセンの種子が鳥の糞と共に遠方から運ばれた場合だと考えられます。なお、(1)の場合には、ヒガンバナのアレロパシー(他感作用)がはたらいて、シロバナマンジュシャゲの生育を抑制していたことも考慮する必要があるかも知れません。
また、(2)の場合にはショウキズイセンの種子に含まれる有毒のアルカロイドが鳥に影響しないという前提が必要かもしれません。

 鈴木 孝仁 (奈良女子大学)
JSPPサイエンスアドバイザー
柴岡 弘郎
回答日:2015-09-29
 
 文意からすると,回答者の奈良女子大学鈴木先生は,ヒガンバナの中にシロバナマンジュシャゲが混在しているのを実際に観察したことがないようである.そのため頓珍漢な回答になっている.
 これと異なって,実見した上での写真付き解説は,簡単だが《筑波実験植物園 植物図鑑 シロバナマンジュシャゲ 》にある.この解説ではシロバナマンジュシャゲは,ヒガンバナ二倍体とショウキラン (註;ショウキズイセンのこと) との交雑で生じると書かれている.
 少し横道に逸れるが,この《筑波実験植物園 植物図鑑》ではショウキズイセンをショウキランと書いている.ショウキランはラン科ヒガンバナ属のショウキズイセンの別名であるが,ラン科ショウキラン属の多年草の名でもあって紛らわしい.そのことを注釈せずに.単にショウキランと書いてしまう「研究者」には困ったものである.
 私の住居に近く,国道一号線が横浜市戸塚区から藤沢市に入るあたりにヒガンバナが道路沿いに群生する場所がある.この群生は三十年ほど前に発生した.それ以来の三十年間,私はそのヒガンバナ群生を季節になると目にしてきたが,去年初めてシロバナマンジュシャゲが咲いているのを発見した.上記の《植物のQ&A》の質問者と同じ状況である.
 仮にこれを,奈良女子大鈴木先生の説明《(1)かつてシロバナマンジュシャゲの鱗茎がヒガンバナと共に植えられおり、ヒガンバナに遅れて地上に出てきたとする可能性が最も高く 》によって解釈すると,誰かがシロバナマンジュシャゲを植えたことになる.筑波実験植物園でも,また《植物Q&A》の質問者の家の近所でも,誰かがシロバナマンジュシャゲを植えて回ったということになる.鎌倉にもヒガンバナとシロバナマンジュシャゲが混在しているところがあちこちにある.それもみな誰かが植えたのだ.奇特なことである.
 次に鈴木先生の説明《(2)次の可能性はショウキズイセンの種子が鳥の糞と共に遠方から運ばれた場合だ 》とすると,シロバナマンジュシャゲが咲く前年にショウキランが開花していなければならない.私はその開花を目撃していないが,見落とした可能性はある.事実としてシロバナマンジュシャゲが咲いたのであるから,この群生場所でヒガンバナとショウキズイセンとの交雑が起こったとしか考えられない.
 
 さて陋屋の片隅に咲いたシロバナマンジュシャゲのことに戻る.
 そこには今までヒガンバナが咲いたことはない.ショウキズイセンが咲いたこともない.突然シロバナマンジュシャゲが出現したのである.
 これは鈴木先生の二つの説では説明できないことだ.たった一つの可能性は「植えられた」ということである.誰が植えた?
 そう考えた時,私の頭に浮かんだことがある.その花が咲いた場所は,暫く前まで,一匹の黒い猫が昼寝のお気に入りにしていた場所なのだ.
 その猫は,隣家の御主人が食べ物の面倒をみていた猫で,食事が終わると,うちの庭に来てずっと寝ていたのである.
 彼の姿を見なくなって少し経つ.もしかしたらこのシロバナマンジュシャゲは,彼がどこかへ行ってしまう時に植えていったものかも知れない.挨拶代わりの白い花を見ながら,そんなことを考えた.

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2019年10月 4日 (金)

聖母のレプリカ

 中野京子先生の『欲望の名画』(文春新書,Kindle版) からもう一つ.下の画像はラファエロの『システィーナの聖母』である.『欲望の名画』では『サン・シストの聖母』としているが,この絵が元々は北イタリアのピアチェンツァにあるベネディクト派修道院のサン・シスト聖堂の祭壇画として制作された作品であるためにそう呼ばれている.ちなみに「システィーナ」「サン・シスト」のシストとは,古代ローマ帝国時代の教皇シクストゥス一世を意味する.
 この絵がイタリアからドイツに持ち込まれた経緯はWikipedia【システィーナの聖母】に書かれているが,ドストエフスキーとの関りについては何も触れられていない.
 しかし『欲望の絵画』には,ドストエフスキーが1867年にドレスデン美術館を訪れて『システィーナの聖母』に魅せられたことを記したあと,次のように書かれている.
 
彼はよくよくこの絵のマドンナに呪縛されたのだろう。書斎に本作のレプリカ (聖母子の顔だけを切り取ったもの) を額装して飾り、その絵の真下に置いたソファに横になった姿で亡くなった。
 
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(パブリック・ドメイン;Wikimedia:File:RAFAEL - Madonna Sixtina (Gemäldegalerie Alter Meister, Dresden, 1513-14. Óleo sobre lienzo, 265 x 196 cm).jpgから引用)

 私が興味を引かれたのは,ドストエフスキーの臨終の場所が,書斎のソファであったということである.そのことの出典を鋭意調べていったところ,とうとう関連記事を見つけた.《МУЗЕЙ Ф.М.ДОСТОЕВСКОГО》と題した個人サイトである.ここに,ドストエフスキーの書斎の写真と,次の記述がある.
 
この部屋のソファでドストエフスキーはその生涯を終えた。
 
 この記事の文脈からすると,どうやら江川卓『ドストエフスキー』(岩波新書) が出典らしい.ドストエフスキーの評伝は多いが,この岩波新書には確実にドストエフスキーの臨終が描かれているようなので,Amazonで古書を注文した.ドストエフスキーに興味はないが,ドストエフスキーの臨終には関心があるからである.
 さて山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間文庫) は,高齢者必読の書である.まだ読んでいない爺諸兄には読破をお勧めする.
 その第二巻 p.274から少し長く引用する.
 
一八八一年一月二十五日の夜、彼は執筆中ペンを落とし、それを拾うために本棚を動かしたとたん喀血した。二十六日にも血を吐いた。
 二月九日朝、二十五歳年下の妻のアンナが七時ごろ眼をさますと、ドストエフスキーはじっと彼女をみつめていた。
「アーニア、僕はもう三時間もずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」
 と、いった。そして福音書を読んでくれといった。彼女はマタイ伝第三章を読んだ。
 九時ごろ、彼は妻の手をにぎったまま眠りにおちいり、十一時ごろ目ざめた。同時にまた喀血がはじまった。
 彼の家にあるのは五千ルーブルだけであった。彼はいった。
「アーニア、君を残していくのがとても心配だ。これから生きていくのが、どんなに苦しいだろう……」
 夜八時過ぎ、ドストエフスキーはびくっとしてベッドの上に起き上った。血の細糸が彼のあごひげを伝わっていた。アンナは氷のかけらをふくませたが、血はとまらなかった。
 医者が呼ばれた。アンナと子供たちはベッドのそばにひざまずいて、涙を流した。
 八時三十八分、ドストエフスキーは息をひきとった。
 世界文学史上の最高傑作ともいうべき『カラマーゾフの兄弟』は、その三カ月前に完成していた。
 
 どうであろうか.著者山田風太郎の叙述の詳しさからみて,何かしらの資料に基づいてこの場面を描いているのは確実だ.
 山田風太郎は『人間臨終図鑑』の巻末に次のように記しているからである.
 
書物の性質上、とりあげた人物の臨終に実際に立ち会われた方々の文章を多く引用ないし参考にせざるを得ませんでした。それらの諸著書諸文章に対して深く謝意を表するものです。
 
 だとすると,かくも著名な文学者ドストエフスキーの臨終の様子に,なぜか二つの説があることになる.書斎のソファに横たわって死んだ (江川説) のか,あるいは寝室のベッドで息をひきとった (山田説) のか.
 文学史的事実関係の考証は大切である.ロシア文学者江川卓といえど自らドストエフスキーの臨終を目撃したはずがないから,必ずや誰かの書いた資料を参照しているはずだ.岩波新書に出典が書かれていれば,その資料をたぐって行き,臨終の目撃者を突き止める必要がある.
 山田風太郎説もまた真偽は明らかにされねばならない.しかし山田風太郎が参照したはずの資料なり評伝なりは,誰が書いたものか,不明だ.臨終に立ち会って「ドストエフスキーは寝室のベッドの上で死んだ」と書き遺したのは誰なのか.それを取り入れて評伝を書いたのは誰なのかを山田風太郎は記していない.私の想像では小林秀雄か埴谷雄高あたりのような気がするのだが,そちら方面も明らかにしなければいけない.相違する二説があるということは,誰かが嘘をついていることを意味しているからだ.
 ドストエフスキーが死んだのは書斎なのか,寝室なのか.これが何故重要かと言うと,ドストエフスキーが『システィーナの聖母』から受けた影響がどれほどのものであったかに関わるからである.既述のように,実際,中野京子先生は『欲望の名画』の中で次のように書いている.
 
彼はよくよくこの絵のマドンナに呪縛されたのだろう。書斎に本作のレプリカ (聖母子の顔だけを切り取ったもの) を額装して飾り、その絵の真下に置いたソファに横になった姿で亡くなった。
 
 ネット上には,同様に「ドストエフスキーは愛した『システィーナの聖母』に見守られて死んだ」という趣旨の記述がみられる.仮にドストエフスキーがベッドの上で臨終を迎えたのが事実とすれば,これらの文章は,文学史的にドストエフスキーにとっての『システィーナの聖母』を過大に表現していることになるのだ.
 実は私は,ドストエフスキーはベッドで死を待っていたが,息を引き取る最後に,『システィーナの聖母』を見たいからソファに移してくれと望み,そして暫くして死んだ,という妄想を持っている.私は,事実はどうであったかを知りたいのだが,諸兄はどうであろうか.
 最後に一つ.中野京子先生も,ブロガーたちも,ドストエフスキーの書斎の壁の『システィーナの聖母』を「レプリカ」と書いている.
 ところが,《〈あとがきのあとがき〉ドストエフスキーの中編・短編から 巨大な作品世界のテーマを覗いてみる『白夜/おかしな人間の夢』の訳者・安岡治子さんに聞く 》の中に,ドストエフスキーの書斎の写真が掲載されていて,筆者の『白夜/おかしな人間の夢』の訳者・安岡治子さんは,写真のキャプションに次のように書いている.
 
「ドストエフスキー博物館」にある、「作家の書斎」。後ろの壁にかかってるのは、ラファエロのシスティナの聖母(マドンナ)の写真複製。アンナ夫人の回想によれば、ドストエフスキーは、この絵を、絵画の中でもっとも高く評価しており、晩年、入手、よく見入っていたという。
(文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 書斎の壁にあったのは,レプリカだったのか,それとも写真だったのか.写真と複製は違う.通常,絵画を写真に撮ったものをレプリカとは言わない.これも白黒をはっきりさせるべきことだ.あ,書斎の壁の『システィーナの聖母』は白黒だ.ヾ(--;)

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2019年10月 3日 (木)

美しいバラは君の庭に

 私は外国文学に疎い.ミステリーやSF小説をいくらか読んだことはあるが,ジャンルは偏っているし,読書量も知識も出来の悪い高校生以下だと自覚している.
 そのような私であるから,「ハムレット」を通しで読んでいない.粗筋は知っているが.
 
 中野京子先生の『欲望の名画』(文春新書,Kindle版) を開いたら,ミレイ『オフィーリア』(1852年,油彩) の説明の中に《バラ (愛。オフィーリアの兄は彼女を「五月の薔薇」と呼んでいた) 》と書かれていた.
 
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(パブリック・ドメイン;Wikimedia Commons,"File:Sir John Everett Millais 003.jpg"から引用)
 
 ああそうだったなあ,と思い出して,それから暫く「五月の薔薇」を検索してみた.
 すると,五月の薔薇と呼ばれた乙女の名を冠したバラの画像がたくさんでてきた.これって,バラ園では必ずといっていいほど咲いている花じゃなかろうか.よく知らぬが.
 それから横道に逸れて,Wikipedia【五月のバラ】を読んでみた.この曲を歌った歌手の一人にブレンダ・リーが挙げられている.私がこの歌を最初に聴いたのは中学三年,高校の受験勉強をしている頃だったが,当時はブレンダ・リーの人気がすごくて,深夜放送を聴いていると,毎日必ずといっていいくらい彼女の歌が放送された.
 ブレンダは日本に何度も来て公演をしている.NHKテレビのショーに出演したのは1977年の来日の時で,この動画がたぶんその時のもの.日本では「五月のバラ」が曲名だが,ブレンダのカバーは「五月のバラ」ではなく「Omoide no Bara」(または邦題「思い出のバラ」) と呼ぶ.
「思い出のバラ」はネットにいくつか録音がアップされているが,これは比較的音がよい.ただしこのYouTubeは『この世の果てまで ブレンダ・リー』のCDジャケットが静止画になっているが,実はこのCDには「Omoide no Bara」は収録されていない.これが何かの勘違いなのか,あるいは音源を秘匿する必要があったのか,理由がわからない.
 現在のところ,日本国内で販売されているCDで,「Omoide no Bara」を収録したものはないと思われる.その意味でYouTubeにアップされている1977年のテレビ録画は貴重な音源である.しかしあちこち探したところ,海外で録音された7inchEPレコードの中古品 (骨董 w) が輸入されていて,日本のショップでも入手できるようだ.レコードプレイヤーを持っている人はそれを買うといいだろう.
 想像するに,日本国内でシングル・カットされたEP盤 (入手は極めて困難) とアメリカでリリースされたシングルEP盤はあるが,LPのアルバムには収録されなかっんじゃないかという気がする.
 ということで,私にとって「五月のバラ」はブレンダ・リーの歌なのであるが,いつの間にかラジオ番組でかけられる「五月のバラ」は塚田三喜夫のカバーがデフォになった.この歌をカバーした歌手は多いが,塚田バージョンが一番評価が高いからだろう.私もそう思う.
 ところでWikipedia【五月のバラ】には,次のように書いてある.
 
五月のバラ(ごがつのばら)は、津川晃の楽曲である。作詞:なかにし礼、作曲・編曲:川口真。1970年4月、再デビュー2枚目のシングルとしてエキスプレスより発売。規格品番はEP-1213。
1960年代、日本で活躍したカヴァーポップス歌手フランツ・フリーデルが、1969年に津川晃と改名し再デビュー。歌謡曲のジャンルでレコードリリースするようになり、そのシングル第2弾として1970年4月にリリースされた。
 
「五月のバラ」のオリジナルは津川晃 (フランツ・フリーデル) というドイツ人/日本人のハーフ歌手なのである.この人が1970年にEP盤にシングル・カットした録音が,この曲の最初のリリースだ.
 私はそれを聴いたことがなかったので,ネット上を探した.すると《五月のバラ Cover 津川 晃(フランツ・フリーデル) / 私撰・和シャンソン by Sima 》というYouTubeがトップにヒットした.
 この動画のタイトルを読むと,いかにも津川晃の歌唱のようにみえる.ところがこれは,Simaという人物が歌っているのだ."Cover津川晃"という和製英語が紛らわしくて誤解を招く.というより,アクセスを増やすためにわざと誤解を招くようなタイトルにしているのだろう.
 それはたまにあることなので,別に構わないが,驚いたのはSimaという男の歌唱である.音程外しまくり,リズム無視しまくりなのだ.明らかに音痴なのである.
 では,その奇跡のジャイアン・リサイタル《五月のバラ Cover 津川 晃(フランツ・フリーデル) / 私撰・和シャンソン by Sima 》を,どうぞお聴きください!

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